これ何て呼びますか

山形県の真宗大谷派関係の住職で安政年間に髙倉学校寮司になったとの記録があるのですが、どんな立場ですか。
カッコして、大学教授とメモがありました。今で言えば大学教授のような立場でしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 溝邊大熹師のことです

    39歳(安政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となる。とあります。




    溝邊大熹師の履歴(明治31年9月18日現在)
    文政4年3月25日北村山郡冨並村西淨寺に生まれる。
    2歳 父が亡くなる。
    10歳 願善寺寮司蒼溟師の門に入る。井澤穆軒翁に従い論孟及五経を素讀する。
    14歳 生母病死。以後蒼溟師に養われる。
    19歳 4月天童藩野呂藻川翁に入門し漢籍及び詩作の指南をうける。
    26歳 蒼溟師に從い京都髙倉に入り宗学研究。以来度々上京。
    37歳 養父蒼溟師病死。新庄藩主より願善寺住職に充てられる。
    39歳(安政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となる。
    53歳(明治6年) 7月11日教部省より教導職13級試補を申付けられる。8月14日第2中学区第7番小学区大久保学校一等假教師を申付けられる。

      補足日時:2021/10/03 20:47

A 回答 (1件)

こちらの記載には、髙倉学校寮に学んだという記載がありますが、


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.nisikatanomukasikatari.mokuren.ne.jp/ …
廿六歳上京得度、入髙倉寮修宗学
(安政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となる
33才(文政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となり、東本願寺法主嚴如上人から奥羽両國法門取締を命ぜられる。
39歳(安政6年) 髙倉学校寮司(大学教授)となる。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

髙倉学校寮司の「司」は、髙倉学寮のトップのことでしょうかね?

安政6年は1859年だとすると、当時の学寮の講師は

高倉学寮
1755年(宝暦5年)、講師・恵然の時に高倉通魚棚に移り、これ以降は「高倉学寮」と呼ばれるようになる[3]。この移転を機に恵然は学寮諸制度の整備に着手し、講師職については学寮内に居住し、職務に専念するものとすると同時に、1人終身制で学寮全般を管理し、夏安居の講師をも務める東本願寺最高の権威を持った学匠へと改めたのであった。この新制講師の初代には、恵然の後継者の恵琳が就任した。
1757年(宝暦7年)、夏安居に加えて春・秋の講義が新設され、これと共に、講師・嗣講・擬講のヒエラルキーが形成された。1794年(寛政6年)には香月院深励が講師となり、宗学を大成した。
学寮期の歴代講師
光遠院恵空(1715年 - 1721年)
香厳院恵然(1728年 - 1764年)
理綱院慧琳(1765年 - 1789年)
寂定院慧敞(1791年 - 1793年)
香月院深励(1794年 - 1817年)
円乗院宣明(1811年 - 1821年)
五乗院宝景(1821年 - 1828年)
易行院法海(1828年 - 1834年)
雲華院大含(1834年 - 1850年)
香樹院徳龍(1845年 - 1858年)
開悟院霊?(1849年 - 1851年)
本法院義譲(1852年 - 1858年)
皆遵院宜成(1858年 - 1861年)
賢殊院得住(1861年 - 1870年)
香山院 樋口龍温(1865年 - 1885年)
開華院 渡辺法住(1871年 - 1874年)
雲澍院 南条神興(1883年 - 1887年)
香華院 宮地義天(1889年 - 1889年)
香涼院 武田行忠(1889年 - 1890年)
因明院 雲英晃耀(1893年 - 1895年)
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この回答へのお礼

わざわざ調べていただきありがとうございます。このような質問にはどなたからも回答は無いだろうと思っておりましたので、うれしいです。私の先祖はこの方に若い頃学んだ記録があったので調べています。ありがとうございました。

お礼日時:2021/10/07 11:05

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