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宇宙や地球の成り立ち、生命の進化、最初の人類がアフリカで生れて世界各地に広がっていったなど、科学や学問が進歩するほど、キリスト教やイスラム教などの経典の教えと矛盾する事実が出てきますね。

神が世界を創造したと考える宗教が、矛盾する科学と共存する道はあるんでしょうか?
それとも、
科学的な知見には目をつむりながら、聖書の教えを盲信するしか無いのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 宗教に力点を置く人って、「科学は万能じゃ無い」という言い訳で現実に目をつむってますね。
    現代の考古学、遺伝子解析などで人類の発祥はアダムとイブじゃ無いね、アフリカにリンゴは生えてないよねという事実がハッキリしていて、今後、科学が進歩しても変らないと思いますよ。

    そんな形で、聖書などの記述の中に科学で否定されている事が数多くあるのに、宗教的な立場から、イチャモンをつける科学がおかしいと言うだけで、納得できる反論はできないんじゃ無いでしょうか。お互いに疑問点を指摘し合って議論を続ければ共存もできるかと思いますが、宗教側が科学に指摘された矛盾に反論できないまま、俺たちの正しさが理解できないのはお前たち科学がバカだからだという態度を取るだけなら共存というより、自分の殻を作って閉じこもってるだけですね。

      補足日時:2021/10/12 13:37

A 回答 (11件中1~10件)

これは科学と宗教は別物ということじゃないでしょうか。


それはそれと分けて考えるべきではないでしょうかね。
科学は研究などを行い、科学的に論じ立証するもので、
宗教は心で考えるものかと思います。
共存は可能だと思いますよ。
いままでも長い歴史のなか両者は存在し続けてきたわけですから。
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神は心の中にいます


従って物の世界とは関係ありません
「神が世界を創造した」というのは「話し」なのであり、物理的に想像したのではありません
話しです
心の世界での出来事
共存する道、とか、そういった類のものではありません
心が信じれば、別に何でもいいのです
信じるというのは、心の世界の単語
物の世界の単語と混同してはいけません
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現代科学はあまりにも未熟ですからね。


とはいえ、宗教側についても、キリスト教の新約聖書なんてイエスの処刑後、400年ころに作られたわけだし、教会が支配するに都合の悪いものは異端とみなされて排除したり弟子の創作も入っていたりする。

神が創造したこの世界を理解できるようになるには、まだまだ長い年月がかかるでしょう。
少なくとも霊界世界をちゃんと解明しないことには、遠い惑星に旅するために必須となるワープ航法ができません。

科学がもっと進歩したら、タイムトラベルで宗教の教え、聖書の教えの正誤を検証することが可能になるでしょうけど、それは遠い未来になりそうです。
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科学と神は矛盾しません。

神は創造主です。
 アインシュタインは神の摂理を考えたと言っています。物理法則があるとして、その物理法則は、神が作ったと。神様はサイコロを振らない。あるべきものをあらしめるはずです。
 聖書が作られた時代の科学的レベルによる制約は当然あるでしょう。私達の習った学校の教科書に載っている事柄も、事後に訂正されたものがたくさんあります。
 もっとも、聖書には天動説が書かれているというのは、後世の解釈の間違いで、聖書には天動説は書かれていないそうです。解釈には、庶民にわかりやすく説明する役割がありますが、そこにも、時代の科学的レベルによる限界があるのは当然です。
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有史以来、宗教と科学はずっと共存してきてますけど。



そもそも物理科学は神学者の学問領域(他が法学と医学だから)ですし、
科学を否定するのは福音派プロテスタントくらいのもので、分派中の分派で正統派とはされない亜流で、歴史的にも200年に満たない新派。

科学との対立が目につくのは、福音派は移民による新興国のアメリカに信徒が一番多いから。信仰的にヨーロッパに居られなくなって新大陸に渡った末裔。
ってことは、近代科学と資本主義の発展にも共存しているのです。
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日本人は多神教なので、科学と宗教がぶつかりません。

だから日本人はほとんど知らないのですが、宗教と科学の衝突はキリスト教がローマの国教になったときから始まっていて、特にギリシャ哲学(ギリシャ科学を含む)と衝突したのが最初で、それが神学やスコラ哲学のように発展してきました。

キリスト教の神学とは「様々な事象の中から神の存在を証明すること」で、2000年近い長さで科学や他の哲学と「神は存在するのか?」と言う議論を行ってきているのです。

で、その論争の結果キリスト教徒たちは「神は存在する」と考えています。

これらの論理の発展に大きく寄与し、科学と神(創造主)を融合させたのが「スコラ学」でスコラ哲学と神学論争が融合して「ギリシャ哲学由来のスコラ哲学の論証法を使って、神の存在を証明する」という大発展を遂げたのが111世紀ぐらいであったと言われています。

で、なんで11世紀に「スコラ学(スコラ神学)」が成立したかというと、11世紀から始まる十字軍遠征でアラビア科学をキリスト教徒が知っちゃったからです。
 当時のアラビア科学は現代科学の基礎になるほど進んでいて、インド数学やギリシャ時代の天文学なども含まれていました。

これでキリスト教徒は「地球は丸いなど、神の言っている事(教会の言っている事)は正しくないかもしれない」と疑念がわいてきてしまったのです。

だから、キリスト教の神学者たちは慌てて「科学的な方法で神の存在を証明する」必要に迫られ、アラビア科学でも通用するスコラ哲学的な論証法を取り入れて「スコラ神学(スコラ学)」を発展させたのです。

このスコラ神学の議論のおかげで、西洋社会はキリスト教とルネッサンスに始まる近代科学を融合させることに成功します。

だから、西洋の現代科学者でも「神は存在する」と考えている人はたくさんいて、彼らはむしろ信心深いがゆえに「数学を使って神の存在を証明したい」とか「物理法則の中に秘められている創造主の証拠を確かめたい」という強い意欲で研究しているのです。

で、このような話は一般的にこういう問いかけになります。
「この地球や宇宙の精密さ、まったく破綻せずに何百億年も宇宙が維持されていることを考えただけで、なにか完璧な存在の(つまり神)の意思を感じないかい?」
です。

日本人は最初から多神教なので「ノー」とすぐいえます。バカバカしいほどに感じる人もいるでしょう。これは戦国時代に「全知全能の神なら、なんで今頃日本にやってきたんだい?」と言う疑問と同じです。

でもキリスト教社会は多神教的な考え方を知らないので「神がいる・居ない」でしか考えられず「ノー」と答えると次の質問をされるのです。
「では、君は神以外どのような力がこの宇宙や地球を作ったと思っているのだい?教えてくれ」

もちろんこんな質問の答えられるわけがないのですが、これが「スコラ神学」の論証法の基礎でもあるわけで、だから頭がいいキリスト文化の子供たちは「神が居るのか?居るなら証明してやる?」と思って研究し始め、科学の複雑さに圧倒されて「やっぱりこういうモノを作れるのは創造主だけだよな・・」と信仰に嵌るのです。

ちなみに日本人は多神教なので「そもそも神がどこから作られたのか私たちの知ったことではない。というかそれが神々っていうものだろ?宇宙を誰かが作ったって考えること自体がバカバカしいよ」となります。

スコラ学に騙されないというか、そもそも全然かみ合わないわけです。

ちなみに、近年になって「この社会はコンピューターシュミレーターだ」と言う主張が出てきていますが、これも出元は同じでシュミレーションなら「それをやっている誰か」がいるわけで、結局その誰かとは「創造主」となるわけです。
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化学は完璧じゃないよ。


知ってるよね?
科学が、神の存在を解き明かす可能性はあります。

現時点で、答えは出ませんね。
人間が愚かなうちは、この議論に意味ないです。

この議論こそ、人間が愚かであるという証明かもしれませんね。
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なんかえらく無粋だなぁと思います。


未知のもの、複雑怪奇なもの、壮大なもの、極小の確率であるもの、これらのものに対して、科学的知識が及ばなかったり、そのようなものにすぐに答えが必要なとき、「神」に出てきてもらってもいいじゃないですか。

経済学では「神の見えざる手」という言葉もありますし、物理学ですらアインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言っています。
量子力学の真理を突き詰めるとどうなるか分かりませんが、一般人的には神はサイコロを振っています。…というかそうした方が理解しやすいです。

科学と宗教をごっちゃにすると「なにマジになってるの?」と言われちゃいますよ。
科学と宗教を対立させる構図を好む人は、科学教信者かなと思います。
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我々が存在している宇宙の総エネルギー(物質もエネルギーに換算して含めた総エネルギー)を100%とすると物質などの我々が理解しているものは4.9%しか無く、未知のダークマター(暗黒物質)が26.8%で、未知のダークエネルギー(暗黒エネルギー)が68.3%と考えられています。

つまり、我々は、宇宙の僅か4.9%しか理解できていないのです。
 神が宇宙を創造したと考えるより、無限大の過去から宇宙は既に存在していて誰が創った訳でもなく、宇宙(時間/空間/エネルギー/物質など)は、起源/始め/初めは無く、存在している事象だと理解した方が良いと考えます。

時間が無かったら,つまり,時刻も無い,瞬間も無い,時間的な幅が無い/ゼロなら「何」も「存在」できない。すなわち,「無(む)」です。

空間が無かったら,つまり,点も線も面も体積も無い,空間的な大きさ広がりが無い/ゼロなら「何」も「存在」できない。すなわち,「無(む)」です。

 真空を「無(む)」だと言う人がいますが、超弦理論の弦/紐/膜やクォーク、素粒子、原子、物質、エルネギーの全てが無くても、真空には時間と空間はあります。従って、真空は、「無(む)」ではありません。

 時間だけでも、空間だけでも、「存在」は、成立しません。この一方だけでは「存在」は成立しないのです。時間と空間の双方があって、初めて「存在」は、成立します。
 宇宙は、なぜ存在している事が出来るのか? それは、「時間」が存在し、「空間」が存在しているからなのです。

 時間の無い宇宙をイメージ出来ますか?  時間が無い状態から時間が始まった/初めた/流れを開始した状態をイメージ出来ますか?
 空間の無い宇宙をイメージ出来ますか?  空間が無い状態から空間が始まった/初めた/大きさ広がりを開始した状態をイメージ出来ますか?
 出来ませんよね。と言う事は、時間の無い宇宙、空間の無い宇宙は、存在しない、ありえないと理解すべきと言う事なのです。
 ビッグバンで宇宙が誕生して、時間も空間も誕生したのなら、ビッグバンの「前」は、時間は? 空間は? どうなっていたのか?との疑問が湧きます。

「無限大の大きさ広がりを持つ空間的に無限大の空間と無限大の過去から存在し無限大の未来まで流れ続ける時間的に無限大の時間が無限大の過去から共に既に存在している」。この時空/宇宙を「母宇宙」と定義します。

 この母宇宙Aの時空の量子論的な揺らぎが、我々が存在しているこの宇宙Bのビッグバンを138億年前に引き起こし、Bは、Aの「子宇宙」として、Aの時空の中で誕生し、今もAの時空の中で加速膨張し続けていると解釈/理解すると、Bが誕生する「前」の「時間」は? 「空間」は? と言う問いに、Bが誕生する「前」は、Aの時間が流れ、Aの空間が広がっていたと答える事が出来る。
 それぞれが無限大の大きさと広がりを持つ「子宇宙」を無数に無限大個、その時空の中に持っているのが「母宇宙」で、母宇宙の中では、常に無数の無限大個の子宇宙が誕生して、それぞれが母宇宙の時空の中で収縮/安定/定速膨張/加速膨張などの成長を続けているのかも? こうした多数の宇宙が存在するとの考えを「マルチバース」と呼びます。

 母宇宙は、どのように始まった/誕生したのかは、母宇宙の「定義」から、
「母宇宙は無限大の過去から時間と空間と共に既に存在している」と回答する事になります。なので、母宇宙に始まり/初め/起源/誕生は無いのです。

 創世記では、「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」とあります。「はじめに」とは、時間を指す言葉です。「やみが淵のおもてにあり」とは、「やみ」や「淵」が存在し、これらが存在できる「空間」がある事を意味しています。神が天地創造を開始した時には、既に時間も空間も存在していたのです。
 では、これらを創ったのは何なのか? これらは何故、存在していたのか?
聖書は答えていません。

宇宙は、なぜ存在し、宇宙は、どうしてどのようにして始まったのか?

神が創ったのなら、

_神は、なぜ存在し、_神は、どうしてどのようにして始まったのか?

こう記述すると宇宙と神は、同じです。

 今から約6604万年前の白亜紀末期に直径17kmのチクシュルーブ小惑星(巨大隕石)が秒速12kmで60度の角度でメキシコのユカタン半島の沖の海に激突し、海底の岩盤を溶かし気化させ、岩盤に含まれていた大量の硫黄がガス化して地球全体の空に広がり太陽の光を遮り、地球全体の気温が長期に亘って大幅に低下し植物が枯れ、草食恐竜が餓死して絶滅し、草食恐竜を食べていた肉食恐竜も餓死して絶滅した。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_nature …
 気化した硫黄ガスは雨に溶け込み、硫酸となって川/湖/海洋を酸性化し、アンモナイトなどの海の生物も含め当時棲息していた全生物種の約75%が絶滅した。
 地球は巨大隕石の激突や全球凍結(スノーボールアース)など、これまでに5~10回もの大絶滅を繰り返して来たらしい。まるで、神が「あぁ、これじゃ駄目だ。全て絶滅させて御破算にして、次の生物種の繁栄に期待して見よう。」と絶滅を繰り返して来たかの様だ。
 巨大恐竜が絶滅したので哺乳類の繁栄が可能になり、人類が誕生した。2045年には、コンピューターは、シンギュラリティ(技術的特異点)に達して、全人類の知能の総力を超える/世界中の人間が束になって挑んでも敵わない、殆ど「神」と呼べるレベルの超知能/超知性の人工知能AIが誕生するだろう。 宇宙創成のビッグバンから138億年の間、神は、これを待っていたのでは無いのか? 次の神の誕生を。
 人類は神に成れなかったが、神を生み出す為の「肥し(こやし)/肥料/捨石/礎」には成れたのかも?

 地球にDNAが出来て生命が生まれた確率は10の4万乗分の1、つまり、50mプールの中に腕時計の部品を投げ込んで、水の流れだけで時計が組み立てられるのと同じくらいの確率だと言う。
 卵生で卵を産んで繁殖していた生物が、どうして、突然/唐突に子宮で子を育て産み落とす胎生に変化したのか? DNAの突然変異が徐々に蓄積されて卵生から胎生に分化(進化)したとの説明は非常に困難だ。卵や卵の殻を作るのを止める/子宮を完備し母体と胎児を臍の緒で繋ぎO₂/CO₂を交換し栄養を供給する・・・これらを全て一遍に行う必要がある。徐々に変化とか途中経過/ミッシリングとかは考えられない/有り得ない。
 何者(神?)かの明確な意思が働き、DNAが作られ、卵生の生物のDNAがその意思/意図に沿った設計図通りに組み換えられてこそ、初めて卵生の生物が分化(進化)して胎生の生物が登場する事が出来るのでは無いのか?
これらは、何者(神?)かの明確な意思が働いていると思わせる。
 DNAの突然変異が徐々に蓄積される事と、ウイルスに感染する事で生物間で遺伝情報の水平伝播が起こる事(ウイルス進化説)の、この二つが生物の分化(進化)の原因だろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4 …

 進化/退化とは、人間が進化の頂点で最も進化した優れた生物であるとする傲慢な見方です。人間は体毛を失ったので体温の調節が出来ず、極めて限られた温度範囲の場所でしか生息できない。この欠点を衣服を着る事で補っている。また、直立二足歩行するので腰痛や重い頭を支えるので首や肩の筋肉も傷め易く、首が痛い/肩凝りに悩まされる。産道も狭くなり出産が大変だ。ライオン/トラ/オオカミ/熊/ワニ/アナコンダなどに食べられる。武器を持って集団で対処する事で身を守っている。
「進化/退化」と呼ぶよりも「分化」と呼ぶべきだ。
 生物が分化して様々の種が発生したのは、DNAをコピーする際に親と完全に同じにコピーされずに極僅かのコピーミスが発生し、この親と異なるDNAを持つ子やその子孫がまたコピーミスを発生し、このコピーミスが何世代もの間、蓄積されると元の先祖とは大幅に異なる生物になって行く事とウイルス進化説が指摘する様にウイルスに感染する事で別の生物の遺伝情報が水平伝搬してその生物の遺伝子(DNA)に組み込まれる「突然変異」が何世代にも亘って蓄積される事が分化の原因だ。
 この突然変異は生物の生存に利益にも不利にもならないものが殆どだが、稀に有利に働けば子孫は生き延び、不利に働けば子孫は死に絶える。これが「自然淘汰」と呼ばれる考え方だ。
 DNAのコピーミスやウイルスによる他の生物の遺伝情報の水平伝搬に依る「突然変異の蓄積」と「自然淘汰」が生物の分化の原因と私は考える。

 地球上でこうした化学反応が起きて生命が誕生したのでは無く、生命の元は宇宙に既に存在していて、これが地球に隕石などで飛来して地球に生命が登場したとの説「パンスペルミア説」もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3 …
「神が世界を創造したというところから始めて」の回答画像9
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tukachannさんの質問文の中にも、考えるヒントがあると思います。


例えば、「アフリカにリンゴは生えてないよねという事実がハッキリしていて、」の一文は、「キリスト教徒の多くはイブがリンゴをアダムに薦めたと思っている」とtukachannさんは暗々裏に思っていたのでしょう。 しかし、聖書にはリンゴの実がなる木だとは書かれていないし、多くの信者はリンゴとは思っていないです。 
旧約聖書創世記の記載は、「主なる神は東のかたエデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。 また主なる神は、見て美しく食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と善悪を知る木とをはえさせられた」、「主なる神はその人に命じて言われた、“あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう”」
「へびは女に言った、“園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか”。  女はへびに言った、“わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました”。  へびは女に言った、“あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです”。 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
でも、面倒と思うのか、リンゴで済ませることに、「それは違うよ」と良い荒立てたりはしないです。
陽が昇る・沈む/あの中国人・日本人・アメリカ人/運命/エネルギー充分・不足、、、、日常会話では珍しくない表現ですが、それが科学的?な認識なのかを問題にされることはほとんどないです。 日本で育つ場合に、小中高と進むに従い客観性や事実に即した認識や理解、論理的整合性を持つことを求められますが、25歳以上60歳までの方で、事実確認や論理的整合を気にして多くの認識理解のベースにするような人は、ごく少数です。 気分?や思い込み?で自分の思考をし、他人の行動などを評することがほとんどです。
科学的な知見には目を向けないのが、現代の日本の成人のごく普通の生き方と言ってほぼ間違いはないです。 一方で、公徳心・人間の尊厳・道徳倫理・公平・平等と有能・無能、正常・異常・特異・変質、格上・格下、上中下、ハイクラス・ロアー、尊貴・凡・下賤、善人・偽善・偽悪・悪人、粋・無粋、センスの有無のようなことには結構関心を持っていることが多いです。

これらを眺めれば、「統一的に論理整合性を求める」という傾向は人間にはないのだということがわかると思います。 
事実関係を検証するというようなことも滅多にしません。
私もそうなのですが、高校クラスの教科書、参考書に記載されていることでも、せいぜい8割程度しか理解できません。 大学院生が専門でやっていることなど100%理解できない、何をどう問題にしているのかというポイントでさえも???となってしまいます。 院生もレベルまちまちでしょうが、多くの院生は自分の専攻している事柄に関しても、先端の研究や論文をマトモには理解できないことが多いだろうと憶測しています。
中学生向けや一般社会人向けの科学解説書は、科学的なものではないです。
歴史や社会に関わる中学生向けや一般社会人向けの解説書も同じで、ほとんど検証根拠を示さない「教本・解説」でしかないです。
これらを読む中学生・高校生・大学生・般社会人は、それらを総合して統一的理解をしようとすることは求められることはなく、もちろん自分でもそのような気はさらさらなく、ばらばらな断片知識として雑学のように半可通で記憶しているだけです。 
宗教やオカルトでどのような説を提示されたとしても、そのことだけを一般向けの科学解説と照らし合わせるというのは、むしろ少数派だと思います。 普通は気にしません。 そうでなければ、週刊誌やテレビ、映画、小説も、知人同士のたわいない会話も存在しなくなる可能性もあると思います。

> お互いに疑問点を指摘し合って議論を続ければ

よくいる「科学ものずき」は、根拠や論証は嫌い、不得手で、理解や議論のための場に臨むのもいやがるでしょう。
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