
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
街道を宿場から宿場へとリレー方式で2人1組で引き継いで走る「継飛脚」で、「無刻」(むこく)といわれる最速便になると、東海道の江戸から京都間約493㎞を60時間足らずで走り抜いた(時速は8㎞以上)といいます。
これは宿場の問屋場に待機している飛脚が、リレー方式で昼夜関係なく順次送るシステム(伝馬町から品川宿を含めて52ヶ所を中継していく)になっています。ゆえに飛脚が走る区間は宿場から宿場までの2~3里(約8~12㎞)程度でした。
町飛脚(定飛脚)の場合ですが、安永2年(1773)になって東海道に28ヶ所の取次所が設けられていますので、それ以前の飛脚1人の走行距離は継飛脚の2~3倍でした。
参考として、江戸~大坂間550㎞の「四日限仕立飛脚」という特急便は、足の速い専門の飛脚人足がリレー方式で96時間で走り抜けました。
1日目 97㎞(江戸~箱根間)
2日目 114㎞(箱根~大井川間)
3日目 180㎞(大井川~桑名)
4日目 159㎞(桑名~大坂)
勿論、各々の区間には取次所があります。通常は宰領(監督者)が付き添い、宿駅で馬を乗り継ぎながら目的地の問屋まで届けました。人足や馬は問屋場ごとに交代します。通常の便である並便は昼間だけの運送で、宿場では荷物の積み替えに手間がかかりましたので、江戸~大坂間の配達日数は20~30日かかったといいます。
また出発地点から目的地まで1人の飛脚が運ぶ「通飛脚」(とおしびきゃく)もありました。
この回答へのお礼
お礼日時:2021/10/26 16:20
これはまた、随分と詳しいご説明でありがとうございます。
継飛脚が2人1組で走っているのは、北斎の富嶽百景にありますね。幕府の大切な書面などを運ぶのですから、用心のため2人にしたものと思われます。
町飛脚は安永2年(1773)になって東海道に28ヶ所の取次所が設けられていますということですが、それでも平均で17~18Kmは走らねばなりません。
江戸時代でも民間は仕事が厳しいようですね(笑)。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
江戸時代の牢屋って?
-
篆書体 (判子文字) を読んでく...
-
昔は川を利用して物資を運んだ...
-
江戸時代の民事訴訟、刑事訴訟...
-
伊東四朗は江戸弁ですか?
-
なぜ飛脚は馬ではなく人力で走...
-
江戸時代の女流作家を教えてく...
-
SNSについて 孤立したボッチの...
-
江戸っ子は何故せっかちな性格...
-
どうして江戸っ子は短気だった...
-
東海道五十七次の距離
-
アホにも分かるように訳を教え...
-
家族の呼び方
-
江戸十里四方所払い
-
文楽と歌舞伎
-
江戸時代の銭湯は
-
江戸時代のギャル文化、平安時...
-
江戸時代家一軒の値段は?
-
42両は今の貨幣価値でいくら...
-
江戸時代までの庶民は貴重品の...
おすすめ情報