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他人の幸せを常に考えている方が、
やはり幸せになれるのでしょうか。

私は自分をまず幸せにしないと、という考え方で生きてきました。しかし「他人を幸せに〜」というのをよく聞くので、このままではダメなのかなと思ってきました。

「他人の幸せ」or「自分の幸せ」という件について、皆さんの考えや経験をお聞かせ願います。

A 回答 (11件中1~10件)

人の幸せを願える人は幸せってことでしょうね。

逆は恐ろしい。人が不幸になることを願う人間なら、いろんな人から嫌がられませんかね?例えその人が幸せになっても、不幸を願われた人達がいる訳で。そういう自分の背景を考えると、そう嫌な人間にもなれませんよ。自分は嫌ですね。まあ、世の中には、自分のための世と考える人もいますが。そういう人はそういう人なのです。
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宗教団体「幸福の科学」の大川総裁による教えによると、地球での「あの世」は階層構造になっていると教えています。


階層構造を分かりやすく言えば「格差社会」ともいえるでしょうか?
その格差がどこからくるか?というと、各個人の「魂のレベル差」あるいは「魂の進化度」の差なんだそうです。

・八次元世界(如来界)
・七次元世界(菩薩界)
・六次元世界(光明界)
・五次元世界(善人界)
・四次元世界(地獄界・幽界)

「自分の幸せ」を願うなら、まずは金銭とか能力・地位が欲しいところでしょうね。それがあれば、素敵な異性を得るのも容易になりますし。
この価値観で生きていると、四次元世界に還ることになります。

でも、「世界の偉人伝」みたいな本を読むと、大富豪といわれるレベルになった人は、そういう「自分の為にお金が欲しい!」なんて欲望は十分に満たされているので、「他人の幸せのために」って考え方で仕事しているようです。

ただ、「他人の幸せのために」といっても、以下の2つでは違うそうです。

A:他人を幸せにしてあげて、彼らから感謝の気持ちが欲しい。
B:他人が幸せになれば、それでいい。感謝の気持ちが無くてもいい。

Aのレベルだと五次元世界だそうです。Bのレベルは、かなり難しくて、2段階上がって、七次元世界になります。

いわゆる「天国」ってのは、五次元世界から上でしょうね。
「悪いことはやってないけど、良いこともやってない。そして、他人のために生きるなんて考えてもいない」って感じだと、四次元世界の幽界でしょうか?

ちなみに、六次元世界(光明世界)ってのは、何らかの専門家たちの世界です。数学者とか技術者、芸術家さんたちですね。
陰陽師など、霊能力や魔法の力を拡大する修行をされた方もこのレベルに分類されるようです。
そして、「他人を幸せにできる」となれば、それなりの専門性を持っていることが必要です。
たとえば、数Ⅲの問題が分からなくて苦しんでいる学生を救うには、自分が数Ⅲが分かってないと、救えませんからね。
溺れている人を救うには、泳ぎの達人でないとダメなのと同じ。

上記の視点からみたら、「他人の幸せ」を常に考えているのは、わりと還るのが困難な七次元世界、菩薩の心境に近いともいえるので、すばらしいですね。
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エネルギーや摂取のバランスをとるため


他人に与えてばかりの人は自分の幸せを考えた方がバランスがいいし

自分の損得や欲ばかりやずるい人は
他人の幸せを考えることをする生き方をしてこなかったわけだから
やってもらうことに対して感謝するとか
他人の幸せを考えて幸せになる気持ちを味わう経験も必要なのかなと思います。

優しさの経験値も個人差あるので人によってアドバイスも変わると思ってます。
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そんな事を意識する方が邪道ですわ。


左翼政党の女性議員のような発想だから気持ちが悪いですわ。
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人間ってその人相応の幸せってありますよ。

そう難しく考えなさんな。自分で幸せになろうとしないと、人ってあなたのためにあなたの幸せのために、力を貸そうなんてしないから。そういうのも嫌ですよね。今度は人間不信ってやつになります。

まあ、程々がよいのですよ。
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分けて考えているから混乱するのかな…と思いました。



個人的には、どっちかではなく、幸せと感じる事のひとつに「他人の幸せを願う」のと「自分の幸せを考える」のと、それぞれにそーいう時があるように思います。

例えば、
自分のご褒美のためにケーキを買ってくるのと、他人と一緒に楽しむためにケーキを買ってくるのと、他人に喜んでもらうため、それが自分の喜びと感じるためケーキを買ってくる…ようなものかと。

それぞれに楽しみ方や幸せの感じ方があるだけで、
自分中心過ぎると孤独になりますし、自分を疎かにして他人ばかりだと続きませんし…何にしても偏りすぎるとどちらも良くはないのかと思います。

なので、どちらかではなく、それぞれの楽しさをもっていたら良いのかなぁとは思いました。

利己と利他という言葉もありますが、これも利己よりも利他…というよりも、状況によって変わるものかとは思います。どちらか片方しか幸せを感じないとそれだけ、その人の世の中が狭くなるように思います。
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貴方が「相手の幸せ」と考えてした行為は、本当に相手の為になっていますか?


独りよがりの自己満足で、自分の「価値観」「正義」を押し付けていませんか?
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この問題は簡単ではない。



①まずは「自分の幸せ」の内容が問題だ。「幸せ」が他者との競合状態にあるならば、他人の幸せを蹴落としてでも自分の幸せを優先させなければならない。例えばコンテストで、他人の優勝(幸せ)のために自分がわざと悪い点を取るなどということは本質的にあり得ない。

②しかし、自分の幸せと他者の幸せが連動することもあるだろう。他者をサポートすることでその人が幸せになれば自分もウレシイという感覚だ。

①が勝ち取る幸せであるとすれば、②は与える幸せだ。

①も②も「自分の幸せ」であることは間違いない。
①だけでも幸せになれるかもしれないが、そのためには勝ち取る姿勢と勝つという結果が必要だが、すべてのヒトがその目的を達成できるわけではない。
しかし②の幸せならば誰でも幸せになれる。普遍的な幸せと云う意味では、他者の幸せを願い、実行することが自分の幸せにもつながりやすいだろう。

別の視点で云えば、これは、最終的には、あなた自身が①の世界と②の世界のどちらが望ましいと感じるかと云う問題でもある。
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自分が幸せになるために、他人の幸せを願うというのでは


邪道だと思います。
意識して人のために何かしようじゃなく、気が付いたら
やってたという人が理想かな

でもねえ、みんなが幸せでないと自分の本当の幸せは
ないと思うよ
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目的が自分が幸せになりたいから


他人の幸せを・・
と言う発想が不純ですよね。
普通は他人のために
なにかいいことをしてあげる。
幸せになんかおこがましいですよ。
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