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哲学ほど何の役にも立たなくて時間の無駄な教科はあるのでしょうか?単に何かの物事に対して考えるだけでそれによって自己満足を得るだけじゃないのでしょうか?

A 回答 (42件中21~30件)

理で神を知ろうとする



亀を追い越せないアキレス.



”哲学とは”などと言った哲学の評論家.


君にはそんなものにだけはなって欲しくない.

なんちゃって.
 



 


 
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今通信大学で学問としての哲学や心理学を専攻しています。

心理学は別としても哲学…まったくなんと難しいことか。まるで知的マスターベイションではないか、とテキストを放り投げてしまいました。いえ、これは少しでも哲学を噛もうとする自分の読解力のなさの言い訳ですが…。

ソクラテスさんやデカルトさん達が「無知の知」「我思うゆえに我あり」…などとオリジナルな言葉でひとつの概念を解説なさっていますが、まず「言葉」から訳してよ、といいたくなるくらい難しいのです。で、今度は高校の「倫理」のテキストや「哲学は本当は難しくない」と説く哲学ガイドなる本をひっぱりだしてきましたが、今度は「なあんだ、そんなこと」と拍子抜けしました。

そのガイドによると

「哲学の言葉はどうして理解を拒むような言葉で書かれているのか、実はこのことこそ、哲学がどんなものであるかを明らかにしている…」

「例えればそれは抽象画のようなものです。独特の手法で混ぜ合わせた絵の具、独特の構図、独特の視点で描かれた観念の絵なのです。
 観念の絵でありながら、そこに描かれているのは、具象画が対象としている自然や人間だったりするのです。ただ一目ではなかなか理解しにくい。そのため、難しい印象を与えるというわけです。
 では、なぜ哲学書は、具象画のように目に見えたままに描くことをしないのでしょう。
具象画ではギリシア風の家の白い壁は白く描き、人間を 描くときは、頭があり、胴体があり(略)犬や猫には尻尾があり(略)、このように、対象を具体的に表現するので、具象画と呼ぶわけです。
 ところが、哲学者達は『これではまだ不十分だ』と考えるのです。白い壁ならば、その素材は何かとか、どこで産出された石を使っているのかとか、塗料の成分は何かとかまでを描こうとするのです。
 スペイン生まれの高名な画家パブロ・ピカソは、人間の正面の顔と横顔を同時に表現しようと考えた結果、あのような奇妙な顔の人間、すまわち、顔が二つある人間を描きました。すると、その絵は具像画ではなく、抽象画になってしまうのです。つまり、見る側からすれば、ちょっとわかりにくい絵です。
 哲学者は画家ではありませんから自分で考えたことを言葉や文章で表現しようとします。しかもとても厳密にです。絵に例えれば、たいへん複雑でこみいった抽象画のようなものです」

そしてまた

「『わかりにくさ』のカラクリさえ知れば、自分の考えを哲学にすることもできるのです」

と解説されています。

このように、「ことば」を取得した者がアカデミックな哲学者として、流れ出す思考を「ことば」で固め、後世に遺すことができる。「なあんだ、そんなこと」と思うのは日常的に当たり前のこととして追いやっているからです。しかし「考える人」はその「あたり前のこと」を真摯に受け止める。デカルトさんたちのようなその道にかけての「プロ」が「ことば」を駆使してパズルのように組み立てる。それは一見難解ゆえに、その暗号の解読を必要とする「学問」として成立するのだと思います。

現代、哲学がマイナーなものになってしまったのは先人達に語りつくされたからではないでしょうか。何故ならば科学は進歩しても、森羅万象の反映としての概念というのは文化や時代が代わっても普遍(不変)のものだからです。つまり「先取り勝ち」で、語れることはすでに語りつくされてしまったのかもしれません。
しかしまた、森羅万象や同等に、いやそれ以上に深淵で複雑怪奇な「こころ」の世界は学問が追いつこうとしてもまだ到達できない深い森の姿であり続けるその意義とは、「ことば」を必要とし続ける人の存在意義と平行して位置しつづけなければならないからでしょう。

たとえイデアの世界を知ったとしても「ことば」なくしてはその美を語れません。物理や数学の世界ならば「方程式」がその代わりです。詩人や作家や哲学者達は「ロゴス」で表します。方程式が几帳面な方だとしたら、哲学用語はちょっと気取った洒落者というイメージです。でもその気取り屋のイメージのためでしょうか、時には攻撃の的になってしまいます。

確かに哲学は常に万人に開かれています。身体と心が不可分できないように、自己や環境や世界や物質やどのような現象の細部に至るまで「哲学」とは分離できないのです。いずれの要素の主体が進歩し続け表現し続けるのは「哲学」というアイデンティティに支えられているからでしょう。それでも地球は回り続ける」ように、思考も回転し続けるのです。

「十の書物も一つの経験に勝てない」とおっしゃる方もいます。でも「読書は体験や経験の先取り」とこのガイドの先導者もおっしゃってます。「書物」は人の体験や思考の果実なのです。もしくは人によっては「経験」の方が乏しくなるやもしれません。だとしたらそのときこそ「書」に疑似体験を求め、思考や想像力を培うことは妥当なことではありませんか。
私のような凡人の「言葉にできない思い」を賢人達が上手に解説してくれるのであれば一度放棄した「書」に埃を被せてしまうのはあまりにももったいない。今度は翻訳の力を借りてもういちど挑戦しようと思うしだいです。
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現世の世俗的な世界の枠内で、普通に生きているあいだ


は、あるいはその価値観の中で考えているあいだは、哲
学は無意味なものではないのでしょうか。

ただ、今、普通に生きている世界には「限界」があり、
その「外側」を考えはじめるときには、誰もが哲学に向き
あわざるを得ません。
生の外側にある死、宇宙とその果て、論理と「語り得ぬ
もの」・・・といったものに直面してしまった人にとって
は、哲学はもはや、するとかしないとかいう問題ではな
くて、それなしではありえない全てになってしまう。
例えば死に直面した人にとって、生の外側を考え始める
のは、ごく自然なことでしょう。もし、哲学が無意味だ、
と思うならば、その人は今の段階で、哲学を必要として
いないのでしょうね。


・・・とはいえ、本当にそのような「外部」に直面して
哲学をしている人など、ごく少数でしょう。実際は、
大学で哲学の講義をして「飯の種を得るため」に哲学?
と関わっていたり、社会の中でうまく自己実現をでき
ない自分から逃避するために、何かもったいぶったこと
を言っている哲学をやって自己のプライドを保っている
・・・・ということも、往々にしてあるでしょうね。

私の定義では、哲学とは「外部」について考えること、
あるいは「外部」から考えること。
ある人の定義によれば、「哲学とは、星を見ること」
・・・・だそうです。
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趣味程度で良いんじゃないの

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その上徹すれば,自身の生命の維持の危機に陥ったりする事もあったりで



好き好んでやることでも無いだろう.
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哲学も宗教性も無意味かどうかはわからないが



お金にならないことだけは確かだ.

 
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今の時代はやはり今の時代の哲学に影響されて生きていると思います。

「知は力なり」ととなえた時代から「自然との共存」へと変わり、中世の神学の絶対的な時代から異文化を認めた相対的な時代になり、「考える葦」から始った理性中心から構造主義へと変化し、時間と空間に作用しうる個の存在に目覚めたポスト構造主義へと変容しました。また、世界はヨーロッパ中心の歴史観から脱却を図ろうとしています。現在の資本主義もカントの時代からの流れを考えれば、自然淘汰や競争原理など、自国の文化文明を正当化する理屈にすぎないことに気がつきます。そして第二次世界大戦も・・・。哲学ほど時代や社会に大きな影響を与えている学問はないと思います。自己の満足にとどまらないのではないでしょうか。
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 学問や芸術は、本来は何等かの実践を伴なって進展して


人類の共有財産となるべきである。
 机上の空論を行うような余暇は、少なくとも現代の日本
国には無い。 但し、哲理究明は必要であり(例えば
石油や核の代替システムとして、自然破壊を極小にした「新エネルギー」、「新発電」などのシステム開発が急務
です。) 哲学とは、何も哲学者だけの領域ではなく、あ
りとあらゆる「創意」を伴なう仕事こそが「哲理究明」の
必要を要求し、その結果「先人の知恵」として「哲学」となって「遺物化」しているのです。 「哲学」を築く者は
人類の創意工夫であり、「一握の砂」等に限ったものでは
有りません。
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#8さんの意見に近いですが



哲学が嫌われるのは
今の哲学が 哲学史の学問になっているからだと思います

哲学で、物事の本質を考えて行くと、細分化して行き化学、物理学、数学などに行き着く場合も多く。
過去の哲学者にはこの分野で活躍された方も多いです

私は、量子論を専攻しましたが、今でも十分哲学だと思います
あなたは素粒子で出来ていて、そこに居る事は確率でしか表せない、これが真実らしいですから
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学問として考えるとつまんないかもしれないですね。



物事を捉える視点を鍛えるトレーニングだと思えば
楽しいと思います。

無意味といってしまったら、世の中いろいろ無意味だし、誰にとって何が意味を持つのか、これまた哲学的で論じ甲斐がありますね。

一言でまとめるなんて恐れ多い難題ですが、哲学って数字や図形を使わない、理屈のパズルじゃないかなーと。
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