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哲学ほど何の役にも立たなくて時間の無駄な教科はあるのでしょうか?単に何かの物事に対して考えるだけでそれによって自己満足を得るだけじゃないのでしょうか?

A 回答 (42件中1~10件)

心が豊かになりますね。

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かなり前の質問のようですが、気になったので私の意見を述べたいと思います。


哲学は楽しいですよ。
でもそれは人それぞれ。
あなたが無意味だと思うなら無意味です。
私はというと、哲学を生きがいにしています。
それが支えになっている人もいるのです。
人間、支えがなければ生きていけないものなのです。
ただし、あなたの考えも一理ありますね。
これは自己満足と言えば自己満足です。
でもそれもいいんじゃないでしょうか。
自己満して支えになるならば、これも立派な生きる知恵だと思います。
けれどせっかくならば、あなたも哲学というものについて考えてみてはいかがでしょうか。
哲学はけして自己満だけではない、理にかなったものがあります。
私は数学などの学問よりも遥かに役立つものだと思います。
人生はツラいことのほうが多いもの。
だから人は考え、乗り越えてゆくものなのではないでしょうか。
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哲学は無意味と申されますが、人は考えることで生きているのでは


と思います。物事について、ひとは真剣に考えられるからこそ
なぜ生きているのか分かったりします。
自己満足を得る、それだけでは終わりではありません。
これからどうするべきかを考え、実現するまでが「哲学」
なのではないでしょうか

あくまでもさんこうまでに
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カナダでコンピューター+人工知能を専攻している大学二年生です。



私も今まであなたのように哲学や心理学といったものを馬鹿にしていました。

大学一年の時に認知科学というクラスをとったのですが、それから意見が変わりましたね。認知科学とは簡単にいえば、人間と全く同じように行動できる人工知能を作り上げることを研究する学問です。科学と呼ばれてますが中身はほぼ哲学と心理学です。

例えば椅子を椅子と「人間と全く同じように」認知できるロボットを作りたいとします。人間と同じようにですので、見た瞬間にそれが椅子であるかないか判断できなければいけません。コンピューターで計算してそれが椅子にあてはまるかどうかデータを照合するなどはダメです。人間はそんなことしないからです。

この仕組みについては哲学では色々な理論がありますが、結局これを完全に説明する理論は未だありません。

しかし科学者達は哲学者らとうまく連携がとれてなかったために、人工知能研究者は哲学者がすでにやって説明できなかったことを0からやるという膨大な時間を無駄にしました。

また、ある哲学者が「人間の認知システム=チェスのルール」とした場合、チェスの駒=脳が何でできているかを調べることは、全く意味のないことであるというのです。確かに「人間の認知システム=チェスのルール」であればこれは正しいですよね。哲学ではこういった考えを出すこともできます。

哲学も捨てたもんじゃないですよ。私は完全なる人工知能を研究する物にとって哲学や心理学また言語学などは不可欠だと思います。
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日常的に、人間が意志の疎通を図ろうとするならばそこには絶えず必ず哲学的な問題な発生します。



なぜ自分の考えや思いが上手く伝わらないのか、なぜ自分の実知識を共有できないのか?

哲学は基本的な問題について、間接的にしか答えません。 人間は「習うより慣れろ」とばかりに実練習を多くこなし、多くの事例に慣れ、用語・語彙を大きく多彩にすることで不正確な相互理解を補おうと、日常的な切磋琢磨をしていると思います。 これって実は犬・猫でもしている気がする。

あるいはスキンシップで同じ動物としての感覚を確かめ合う事で相互の無理解をカバーしようとする。

統治権力は、人間については哲学的理解を進めるより「動物園の猿」の管理・育成と割り切って政策実践をした方が、文化育成の妨げにならないかもしれません。 あるいは愚衆政治によって、嘘をつき人を騙し、煙に巻く事が自分の利益になるという考えが習慣化した人々もいます。

宗教者や信者にとって”科学的分析手法を持つ哲学”は嫌味・冷やかしが割り込んできたような物で迷惑この上無い。

最悪は「あなたの主観の有り様こそを問うべきである」という・・・哲学の安易な帰結・・・を投げつける暴挙が日常的に行われる現実があるなら、「無意味だ」という仮決定は通俗的・日常的に有効性があるのではないでしょうか。 本質論では無く。

だからこそ回答が多く付いた。 個人の日常は実験ではなく実践です、しかも時間的空間的に不可塑です。 実践習得中に実験結果の分析解釈は無責任この上無い。 権力と結託した哲学は、個人の日常性に無責任なダメージと刷り込みを与える場合が良くあります。

課題と疑問をもつ日常性に慣れない個別の特性にとって、哲学をする、という事には無理がある様です。
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この質問者は、回答を誘導しておられるフシがあります。


つまり哲学に対してもっておられるご自身の蔑見に対して
周囲の同意を回答のかたちで誘導されていると感じます。

それ自体は、ご自由にという事なのですがこの「教えて!goo」と
いうサービスの精神からすると、ややフェアな利用の仕方ではない
という気がします。

実は、この質問者の態度そのものがひとつの哲学的な
立場の表明となります。哲学を大学でならう教科と
いうような対象として考えることは意味がありません。

実は、そのような対象化を生じることがすでにひとつの
哲学であるという存在論的な逃れ難さが哲学の前提に
存在します。言葉の遊びと決めつけられることも、まさ
しく哲学の立場として枚挙されるものです。

従って、「無意味だ」という仮定は、早晩ご自身の立場に
ついてもあやうくするものとなりかねません。
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「哲学は無意味」・・・無意味とは何だろうか?意味が無いということである。

では、意味とは何だろうか?物事の価値のことなのか?だとしたら、人によって価値観が違うので無意味と考える人もいれば、その逆もまたいる。なぜ人によって価値観が違うのであろうか?我々は宇宙に存在する有限個のアトムの有限個の組み合わせで構成されている存在である。したがって限られた範囲内で、つまり無限大とは相対的に狭い範囲でしかない拡がりで散在しているにすぎず、価値観の個々は無限にあるわけでもない。しかし、アトムの組み合わせ次第でこれほどにまで価値観その他に差が生じるものであろうか?オートメーション製品のマテリアルは定量的に等価であり、定性的にも等価である。一体どこに、決定的な裏づけがあり、なにを基準に相違が生成されているのであろうか?そもそも、絶対的な基準など存在し得ないのだろうか?では、「哲学は無意味」というテーゼは、何を基準に生成されたのであろうか?このことはアウフヘーベンによって高次元の命題として導きなおす必要がありそうである。
とまあ、この質問を哲学してみましたが、時間を無駄にしました。
ですが、私にとってこの質問を考えることは「自己満足を得る」という点では「意味」があったと思います。価値観によって世界が違うということです。良くも悪くも。
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論理的思考法や理知を得るのに役立ちます。

お奨めします。人間の普遍的な命題を解決するのには役立ちません。しかし、それは他の宗教や学問においても同じことです。
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哲学って別にもともと学問として有ったわけじゃないよ。

心の実相、人間の悩み、真実の生き方、生死観、
イデアの世界観、
日々の社会問題や、政治のあり方、理想社会建設、などなど、本来、生活に非常に密着したものだったんだ。
そして同時に、自分を磨き、練り上げ、人間の器を素晴らしいものにする作業、精神活動だったんだ。
大学の一教科としては、ホント つまらないだろうけど、ほんとご苦労様です。

人間は考えている事が自分自身である。
自分自身とは考えている存在そのものである。

と言われてます。まったくそのとうりと思います。
あなたは何を考えていますか?心はどういう事をいつも思っていますか?いつも気づくと考えている事はどういった事でしょうか?

何事も自分本位でやりたい事をやってやれとお思いですか?人にばれなきゃなにやっても良いとお考えでしょうか?自分だけがよければ後はどうでもいい、こんな思いが浮かんでないでしょうか?
はたまた、
人様の幸福を祈って暮らしてますでしょうか?
社会の役に立って頑張ろうと決意し、日々明るくさわやかに生きようと考えてますでしょうか?
今日も他の人に愛を与えて生きていこうと力強思いが湧き上がってますでしょうか?

あなたは、どちらをお考えですか?どちらを選んでますか?
心は知らず知らずいろんな選択をしているのです。
それは知らず知らずに自分の責任において、自分の人生は自分自身で選択した結果であるのです。何も考えない人が間違った方向に突き進んでいく場合がかなり多いです。大変な荒波、嵐の中、海図も磁石も明かりも食料も無線も無い状態、の中で、向かい来る大波に打ち砕かれながらもしかし、これに打ち勝つには、考えることです。倒されても倒されても考え抜くことです。考えることを放棄した場合、もはや自分の人生を歩んでるとは言えない。それは根無し草のようにただ波にゆられて身を任してるだけ、ですね。

愛に活きよ!
真実に活きよ!
美しく活きよ!
善く活きよ!
さわやかに活きよ!
優しく活きよ!
いろいろありますが、
武士道に活きよ!
騎士道精神に活きよ!
光と共に活きよ!
まあ、何でもありかなと思いますが、男の美学を追及することだって、リッパな哲学です。奥は果てしないです。

心は考える力によって変える事が出来ます。
考える力によって人生を変えていけます。私も変わりました。善き方向へ、善き方向へ、個人の考えが善き方向へ変わって行く事が、集合想念となって全体が良くなっていく、世界が善くなっていく。と信じています。

もし今わからなくても、長い人生、どっかで気づくチャンスが必ずきますよ。
一点に集約すれば、真実の哲学はめちゃ面白い!
あなたも頑張ってください!心よりエールを送ります
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たしかに哲学を頭の中だけのものとして考えることは無意味だと思います。


哲学とは実践(日常化であり行動であり)によって、変化していくものであり、閉じた中においてその発展はありえないでしょう。
「哲学」として勉強するとき、どうしても哲学史的な方向へ偏りがちになりますが、それはあくまで先人の知性を知識として知ることであるので、自らの知性(すなわち哲学の実践によるそれの発展)とはいえません。
哲学とは自らの実践によって体感し、変化させていくことによって得られる知性であると思います。
すなわち、哲学が無意味であるとするのは、知性を放棄することにつながりはしないでしょうか。
無意味なのは頭の中だけで考えている哲学であって、それをもとに実践することが有意義な哲学といえるのではないでしょうか。
哲学を哲学として考えることは無意味であり、自らの接している日常に哲学を見出すことこそが知性というものではないかと思います。
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