出産前後の痔にはご注意!

若山牧水の歌です。
あなたはこの白鳥に何を見ますか?
安心、満足、信頼、自由。または高潔、畏敬、憧憬。それとも悲しみ、恐怖、絶望。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    この顕現により、彼の満ち足りるという感覚においても変革があったのかもしれません。
    つまり「寂しさの終てなむ国」を見いだしたのだと言えます。だから、地上において体感的に味わう、富む飽く飢えるという感覚にも達観が加えられたのかもしれません。

    ともあれ、牧水は幸いを探し求めながら結果的に到達できなかった。パウロは真理を得て火だるまのごとく前進した。両者の間には相当の開きがありますが、共通点は真理を求める鋭敏な感受性だと私は思いました。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/04/09 09:01

A 回答 (11件中1~10件)

もし、この白鳥を、若山牧水自身とみた場合。



哀しい、というのは、愛しいということでしょう。他の方もおっしゃっているように、どうしても、世間に迎合できず、うまく生きられず、丸くなれずに、不器用に、孤高の生き方を貫いている自分。海の上を飛んでいるので、宿る木もなく、つがいになれる仲間もいない、羽を休めることもできない。

そんな自分の姿、ひいては、そうして生きてゆくしかない命を、愛しいと吐露しているようです。
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この回答へのお礼

われの本質を白鳥に託して、「愛しい」と彼は歌ったのですね。
深い真実が内包されているような気がします。真実は常に言葉を伴っていると思います。
日本は今、桜が満開ですよ。

お礼日時:2019/04/08 17:45

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」



牧水は毎日一升酒を飲んでいたと言われていますね。

稀に、酒に飲まれない人がいます。いくら酔っても崩れないんです。
いかにも楽しそうに飲みます。それで、仕事に遅刻したとか、休んだり
とかがないのです。

これぞ、「真の酒飲み」(笑)。

「川は流れて」は女性の心を歌ったものであると思います。
「ささやかな望み破れて」「ある人は好きで別れて」などの言葉からそう
解釈しています。

女性のそういう心の底の強さには、「酔う」ということが少ないと思います。
女々しく泣いたり、愚痴を言ったりしますが、それを乗り越えた「強さ」が
好きです。

一方、男性の場合は「酔う」ことがよくできる精神性を持っていると思って
います。才能と言っていいと思います。
しかし、この才能を上手く使っている人はとても少なく、「自己愛」に向かっ
てしまっているケースがとても多いだろうと思います。つまり、「慢心」とい
うやつです。

ま、経験上私はこのような人を見る一つの基準を持っています。

自己愛に向かう慢心を持つ人を私は信用しません、また、自分にもそれを許さ
ないつもりでいます。

№6さんの「哀しいとは愛しいこと」という言葉にはハッとさせられました。
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この回答へのお礼

仲宗根美樹、意志的な顔立ちの美人さんですよね。職場にも似た感じの人いますよ。どちらかというと、男まさりであっけらかんとしたタイプですけど。
そうですか。牧水と酒は切り離せないようで、酒を愛でながら牧水の歌を語る集いもあります。
酒に飲まれない人っていますよね(笑)私はダメです。お酒と言えば、一度つぶれて大失敗したことがあり、それ以来、自重しています。今はもっぱら薬用酒を作って健康のために飲んでいます。

お礼日時:2019/04/09 14:13

№10の補足欄が 《どう思う?》となっていますので ひと言のべます。




文句ありません。そして お粗末でした。



あと:
★(補足欄) パウロは真理を得て火だるまのごとく前進した。
☆ のですね。まなびました。
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哲学のカテですから 執拗にそのしかるべき問い求めをつづけます。



こちらの言おうとしていることは 次のようです。

1. 
★(№9お礼欄) 空の青い色にも、海の深い色にも染まらない、自身の心
の矜持

☆ これは 移ろいゆかざるを得ない存在である人間たるわれが それでも
その人間たることの誇りとそして知性や良心のもとに おのが信念を表現し
たものです。


2.
★ 寂しさが終わりになるという幸いな国があるに違いない。・・・人間に
は誰しもそのような渇望があると思います。

☆ これは――ほとんど同じことですが―― 有限なる存在の人間たるわた
しが すでにそのあり方のままで無限で永遠なる存在であることをのぞむと
言っています。


3.
★ 牧水は
▲ 「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」
★ と詠みました。

☆ これは:
▲ 寂しさの終てなむ国
☆ というふうに 《-む》という推量法(推量の判断)で表わしているか
らには なおまだ《渇望・のぞみ・問い求め》の途中であると言っています。

▼ 「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」
☆ と同じく 《寂しさから自由なあり方》には なおほど遠いと言ってい
ます。



4. パウロがピリピ書で言っていることは ヘーゲルの次の命題と同じよ
うな内容であると考えます。つまり すでにこのいま 無限が有限なるわれ
の中にあたかもやどるのだと。(2)と微妙な違いがあると思います。

△ (ヘーゲル:無限と有限) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
ないしはこれを 我慢できないであろうが 

この矛盾を持ちこたえることができるのが
人格(☆ ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。

    (『法の哲学』§35追加(講義録)藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


5. 《かなしみ と よろこび》あるいは《さびしさ と さいわい》と
いった心のウゴキの起きるこの人生にあって しかもそれらから離れるので
はなく(つまり それらが《終てなむ》状態をのぞむ問題としてではなく)
それらをそのまま受け留めつつ しかもわが本体たる存在は あたかもその
社会という縁起共生のうちに起こり得るもろもろの心性を超えて 満ち足り
ているのだと。


6.
★★(趣旨説明欄) 安心、満足、信頼、自由。または高潔、畏敬、憧憬。
それとも悲しみ、恐怖、絶望。

☆ これらそれぞれの中に 相手や情況に応じつつ そのまま自由にわれ・
われは――いま――生きているのだと。


7. 過去は記憶として・未来は期待としてこのいまわが現在におさめつ
つ その永遠の現在に われ・われは いま生きている。よき仕合わせも
あしき仕合わせをも そのまま受け留めつつ超えて生きるいまのしあわせ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

執拗に、怖いですね。お手柔らかにお願いします。

牧水もまた、真理を求めて漂泊していたのでしょう。既存のものは彼の関心を引かず、空の青、海の青という視覚的にも美しい嘱目にも目を留めることなく漂泊をつづけた。日常には自然に対する細やかな観察もあるが、あくまで彼の探求の姿勢をこの歌は表していると思います。
作歌をすることで彼の思索は深められていきますが、酒をこよなく愛し、それがもとで早死にします。真理を訪ね求めながら到達することができなかった。

ヘーゲルの無限と有限については、ネットで少し調べました。付け焼き刃ですが。
有限な存在者が信仰の対象との関係を通じて自らを意識すること、キリスト教では、この「自由」と「自己意識」の獲得が顕著だとされます。
ヘーゲルからすれば「真理を知る」ということは、真理に拘束されたり従属するのを意味せず、むしろ真理によって自由を獲得することを意味します。パウロも真理は人を自由にすると語っています。
ユダヤ教では、人間が守り行うべき事柄は神が与えた律法という形をとります。何が善かは神によって定められ遵守しなければならない。彼は熱心なユダヤ教徒でしたから、これは体験的に知っていました。

『大論理学』の「本質論」における本質、並びに仮象についての議論があります。
有限な存在者が「存在する」といっても、真の意味で存在するのではなく、あくまでも「止揚されたもの」として存在するにすぎない。つまり有限な存在者は「仮象」としてのみ成り立つにすぎないとされます。
この「仮象」に特有な否定的性格を「仮象の存在は、存在が止揚されていることのうちにのみあり、存在が取るにたりないものとされていることのうちにのみある」この場合、仮象がまさしく「仮象」として存在するのは、本質が真の意味での存在として示されることによる。本質には「自らを顕現する」というはたらきが帰属します。

パウロは神の働きかけにより、一時的に目を見えなくされました。
これは聖霊なる神が有限な存在者である人間に働き、具体的に人間に引き起こされた人間側の反応です。つまり、神に触れられた瞬間に、パウロは無限の存在である神の前にまったくひれ伏さざるを得なくなりました。これは一時的ではありますが、無限と有限の一体だと思います。(補足欄につづきます)

お礼日時:2019/04/09 08:53

あなたが先回の質問で取り上げた趣旨――パウロの生き方――にくらべると


総じて 弱い印象を受けます。

★★ 【Q:足ることを知る】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ピリピ人への手紙に、こうあります。

私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知ってい
ます。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




☆ なぜなら うたの趣旨は 次のようなのではないでしょうか?

▲(1) 空や海の色に染まずに飛んでいる白鳥よ わたしにはそれは哀
しいと映るが おまえはそうではないのか?

☆ というのも 哀しからずや の《や》という疑問詞は――《か?》と
違って―― ふつう問う側の思いを すでに相手のこたえの中にも予期し
ていると言われるからです。

また 《ただよふ》と言っているのは 《環境や背景の色に染まない》こ
とが かろうじてそうなのだと――うたい手の心象風景としては――みと
めていることになるようだからです。





つまり・要するに 牧水は次のように いくらか情けない状態でうたって
いないであろうか?

▲(2) 自分を取り巻く周囲の人びとの迫って来るようなその色合いに 
わたしはかろうじて染められずにいる。これは かなしいことだ。いつま
で そうしていられるだろうか。

☆ つまり・ありていに言えば:

▲(3) 私はどんな境遇にあっても満ち足りるということを まだまな
んではいない。ああ。

☆ あるいは 《自分よ まなべ!》と言って 勇気を奮い起こそうとし
ているでしょうか? どうでしょう。
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この回答へのお礼

私はパウロと牧水の心象は似ていると思います。
パウロは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していました。健康的に恵まれず容貌も冴えず、人間的欠陥もあったといいます。しかし、回心し宣教者へと大転換します。回心してからのパウロは信仰の豊かさにより人間的欠陥が解決され、もともと備わっていた真理を求める内面の力が増幅されて、福音を伝える伝道旅行に生涯を費やしました。
牧水は「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」と詠みました。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」カール・ブッセの詩がモチーフにあるといいます。遠い山の向こうにはきっと
寂しさが終わりになるという幸いな国があるに違いない。そうして、彼も旅をつづけました。
パウロにも牧水にも、いいえ、人間には誰しもそのような渇望があると思います。
空の青い色にも、海の深い色にも染まらない、自身の心の矜持というか。そういうものが。

お礼日時:2019/04/08 20:55

歌人、若山牧水という人を“知る”と、白鳥は牧水自身であったのでしょう。


No.6、ciaopolpoさんの回答が具体的で良かったです。

其れでも私は「牧水」の想いから離れ、歌そのものから受ける印象を大事にしたいと思います。

芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」も好きですね。
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この回答へのお礼

確かに歌は、ほんとうは作者とは関係なく読者のものです。
この歌は愛誦性があるゆえに、さまざまな読みがあると思いますが、それでも、牧水と白鳥は不可分であると感じてしまいます。

お礼日時:2019/04/08 18:04

均質化を拒むかのような


毅然とした個性の
自然な表出。
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この回答へのお礼

哲学的な表現です。
毅然とした個性の自然な表出。個性をこのように表現できたら素晴らしいでしょうね。

お礼日時:2019/04/07 21:33

孤高です


高潔ですかね
なにものにも 染まらない
染まることのできない
牧水の 高潔を貫くが故の
哀しみ、孤独も 感じます
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この回答へのお礼

白鳥に牧水の高潔、孤高、そして哀しみ、孤独をみられたのですね。
浸蝕するような深い青の中で、染まらないという矜持を感じられたのですね。

お礼日時:2019/04/07 21:22

詩ごころや文才はありませんが、其れでも何となくの感じは心に現れるので、言葉探しはよくします。


この短歌は好きですね。だからこの歌に接するたびに言葉探しをしてしまいます。
自分は今、どんな気持ちになっているのだろうかと。

実際、目にしなくても情景が浮かびます。
もしかしたら、その情景を歌という形で捉える事が出来るから、心が“反応”するのかも知れません。

私がこの白鳥に見るのは、やはり命、生命というものです。対するは空と海という自然、ですね。

どう云ったらいいのでしょう。
ありきたりの言葉ですが、いのちというものへの哀れみの心、とでも云っておきましょうか。
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この回答へのお礼

いのちというものへの哀れみの心、がこの歌には満ちているんですね。
私も共感いたしました。

お礼日時:2019/04/07 21:16



私はこの大好きな歌を連想しました。
吉永小百合主演の映画「愛と死を見つめて」の中で、ミコとマコが二人でこの歌を歌う
場面があります。(古い映画ですが)

悲しみ、恐怖、絶望はもちろんあるでしょうが、淡々と歌うんですね。それは、単に悲
しんでいるだけでもない、感傷的でもない…

運命の水の上に漂いながら、「私は私」という意地を捨てない…

そんな心を感じます。
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この回答へのお礼

素敵な歌ですね。ラ行のビブラートがきらりと光っています。
「人の世の塵にまみれて なお生きる 水をみつめて 嘆くまい 明日は明るく」というところ、塵にまみれているけれども、決して私は汚れまいという気概を感じます。
「われ」の強さを感じられたのですね。

お礼日時:2019/04/07 21:11

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タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
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Q地球と人間はどちらが大切なのでしょうか?

愛は地球を救うと言う夏のチャリティ番組もありますが

人間が救われないと 地球を救っても何かおかしい様な?

確かに地球環境を守るか改善しないと人間も生きて行けなくなるかもしれませんが

人間が滅びてもまた進化した知的生命体が生まれるでしょう。

しかし僕らは人間だから人間が滅びたら何になるんだろうか?

この悲惨な世界で人間が大事か 地球が大事か?

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こういう問題は、極論すると
わかりやすくなると思います。

科学技術が発達して、人間が宇宙に住めるように
なった場合を想定してください。

地球が無くなっても、人間は宇宙で生き続ける
ことが出来ます。

つまり、人間にとって、地球の存在は必須では
ないのです。

人間の方が大切です。

Q人の強さとは何ですか?

人の強さとは何ですか?

Aベストアンサー

人の強さとは、いざという時に小異を捨てて大同に付けること。

過去の歴史を振り返ると、どうやら民族にはそれができる民族と、いざという時に内部で喧嘩が始まり、足の引っ張り合いを始めてしまう民族があるようです。

例えばアメリカを見ていると、平時には内部で喧嘩ばかりしている。ところが、いざという国難に会うと、彼らは一気に纏まるんですね。これがアメリカの強さなんだと思いました。そういえば、前回の東京オリンピックの時にあれって思ったのは、普段政府の邪魔ばかりしていた当時の野党の旧社会党が、オリンピックが開催されると決まったら、挙国一致で政府に協力し始めた。なるほど、これが日本の底力の強さなんだと思いました。

それと対照的だったのが、ソウルオリンピックの前夜でした。彼らはオリンピックの開催が決まると、これ幸いと野党勢力が外国に向かって国の与党の非をまくし立てていました。オリンピックが近づいてくると、本当に開催できるのか、世界中の人々をやきもきさせていたのを覚えています。

中国もしかり、平時の時は威勢が良くて一見まとまっているように見えるのですが、いざという時には人々は国を信用せずに、纏まらずにてんでバラバラに逃げ惑って、張子の虎と揶揄されてきた歴史があります。

なるほど、民族の中には指導者的な地位につける民族と、いつまでたってもそのような地位につけない民族があるのだと思いました。

明治維新前夜、日本の存亡の危機に晒されたとき、勝海舟と西郷隆盛の合意で、国が分裂することなく一気に纏まった。これが日本を欧米の列強から救いましたね。

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これまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事ですか?

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政治や経済、そして社会の利益から考えれば、天才外科医1人の命のほうが大事です。

でも、人道的にはどちらも大事、と云うしかありません。

宗教的には、ニート50人の命のほうが大事です。
本質的には、数は関係ありませんが、あえて選択するならと云う事です。
なぜかと云えば、天才はニートよりは理性という点において、数段神に近いという立場を確保しているからです。

だから神は、神にとっての遠い存在である“弱者”への想いが強いのです。

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q国家とは?

国家とは?

Aベストアンサー

二階建ての構造に成っていると捉えるとよいでしょう。

《一階:スサノヲ市民社会 ‐ 二階:アマテラス公民圏》連関として。

・ アマテラス公民圏:アマテラス公務員+アマテラシテ(元首)

・ アマテラシテ(元首):国王・象徴・大統領

・ 主権在民にもとづき 二階の権力は やがて一階に大政奉還す
るようになるでしょう。

・ 一階である世界のムラ・ムラ(市町村)が互いに連帯して 第
二階としての・狭義の国家を主導する世界的な共同自治のシステム
に移って行くことでしょう。
(インタナショナルなインタムライズムと言います)。

Q名言・格言 シェイクスピア

名言・格言集、“癒しツアー”での拾い読みしています。

賢明に、
そしてゆっくりと。
速く走るやつは転ぶ。(シェイクスピア)

私のつぶやき。
☆ 嗚呼、あの時はわずか2センチ程の出っ張りにつまずいて、思いっきり前につんのめって膝を打ち、膝がしらを骨折させてしまった。走っていたからだ。

問い。
シェイクスピアはこういう事もあるから、急いでいる時でも走るべきではない、と忠告しているのでしょうか?
そんな事はないはず。
でも、私の頭では、、、
トホホ、です。

Aベストアンサー

速く走る必要がないのは、時期を知っているから。時期があるので、速くても遅くてもダメ。ぴったりじゃないと。早く着く事に意味はない。遅く着けば逸する。
つまりは、歩いて行こうぜって事で。
車でもええけど、安全を保てるスピードでって事で。
急ぐ奴は損する。
のろまは得られない。
何事も、ぴったりがええんやで。

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

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Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

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ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

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おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q「陰謀と戦略、沈黙の兵器」とは

あなたが考える「陰謀と戦略、沈黙の兵器」とは、何でしょうか。
自由な発想でご回答ください。

Aベストアンサー

スイス政府が一般家庭に配った『民間防衛』という小冊子によると「武力を使わない情報戦争」は次の手順で行われるとのことです。  

《第1段階》工作員を政府中枢に送り込む。

《第2段階》宣伝工作。メディアを掌握し、大衆の意識を操作する。

《第3段階》教育現場に入り込み、国民の「国家意識」を破壊する。

《第4段階》抵抗意志を徐々に破壊し、「平和」や「人類愛」をプロパガンダに利用する。

《第5段階》テレビなどの宣伝メディアを利用し、「自分で考える力」を国民から奪ってゆく。

《最終段階》ターゲット国の民衆が無抵抗で腑抜けになったとき、大量植民で国を乗っ取る。

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む


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