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三上章は、こう主張していたようですが三上は「主語」をどのように定義していましたか?

ご存知の方おられましたらお願いします。

因みに大辞泉の語釈は以下。
「主語」
(1)文の成分の一。文において、述語の示す動作・作用・属性などの主体を表す部分。「鳥が鳴く」「山が高い」「彼は学生だ」という文で、「何が」に当たる部分をいう。
(2)論理学で、ある対象について何らかの主張をする判断(命題)において、主張がなされる当の対象。例えば、「犬は哺乳類である」における犬。(大辞泉)
https://sakura-paris.org/dict/%E5%A4%A7%E8%BE%9E …

質問者からの補足コメント

  • おかげさまで、三上の主語不要論は、【「ガ格」で示されるところの主格を主語とする説】を前提にしたものであり、そういった意味での主語は日本語に存在しない、と言っていることがわかりました。
    一方、
    ・主語とは「知られることがらの直接的な中核,即ち知られることがらの対象的な中心」「判断にあっては知ることの志向的な対象,一つのことがらの中核として在るところの対象に対応するもの」

    ・主語とは「描写対象としての事態の解釈において中心的な地位を与えられる要素である。」

    ・一つの文の内容を認識の側面で言えば,事態認識の中核項目,認識の対象が主語であり,その対象について認識する内容が述語である。

    といった記述もあり、

    ・このような「主語」了解に立てば,日本語にも主語はあるということになる(ただし,日本語の主語は「が」格項目のみではないであろう。)

    といった著者見解なども興味深いところです。

      補足日時:2022/01/21 23:12

A 回答 (4件)

https://www.bus.nihon-u.ac.jp/wp-content/themes/ …

私もしばしば「主題」という言葉を使っていますが、三上章について詳しく知っているわけではありません。三上の書いたものを直接読んだこともなく、言っているに過ぎません。また「日本語に主語はいらない」(金谷武洋)の本は読みましたが、直接三上の書を読んだ事も無いので一度は読んで見たいと思っていました。探してみれば相当な書物が出版されていいるので、読後に発言するのがふさわしいのでしょうが、今回表記のサイトを紹介するにとどめます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

期せずして#3さんと同じ論文をご紹介いただきましたね。
大変有用な論文で、主語を語る際に欠かせない内容と感じました。
なかなか興味深い内容ですが全理解にまでは至っておりません。
誠に失礼ではありますが、#3お礼欄をご参照いただければ幸いです。

お礼日時:2022/01/21 23:02

【論 文】主語・題目語をめぐる三上章の論竹 林 一 志


https://www.bus.nihon-u.ac.jp/wp-content/themes/ …

によると、以下のようです。

4 「主語」の概念規定
 三上説をめぐって考えるべきこととして「主語」の概念規定の問題がある。
 三上は,〈構文上,特別な振る舞い(動詞支配など)をして,述語と二項対立をなす主
格項目〉こそが「主語」なのだとする。そして,〈日本語の主格項目(「が」格項目)は,
この意味での主語ではないのだから,日本語には主語がない〉と主張する。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

非常に興味深い論文をありがとうございます。
つまり、「が」格が主語であるという前提に基づいて、それは無い、と言っているわけですね。
たとえば、

「何がどうする」「何がどんなだ」「何が何だ」における「何が」を示す文節をいう。(大辞林)

といった語釈を前提にしていると言えるのでしょう。
個人的には、

②〔論〕命題(判断)において、それについて何か(述語)が述べられている当の項辞。(広辞苑)

あるいは、

「何がどうする」「何はどうである」の「何」に当たる語。(新明解)

という理解・・と言いますか印象を持っていますので、三上には、その立場での見解も聞いてみたい気がしますね。
サイトの中では、以下のような記述に着目した次第。

※主語とは「知られることがらの直接的な中核,即ち知られることがらの対象的な中心」「判断にあっては知ることの志向的な対象,一つのことがらの中核として在るところの対象に対応するもの」(川端1958,1976, 1982-83, 2004)である。また,認知言語学のラネカーによれば,主語とは「描写対象としての事態の解釈において中心的な地位を与えられる要素(the trajector(=primary figure)within the profiled relationship)」(Langacker 1991)である。
一つの文の内容を認識の側面で言えば,事態認識の中核項目,認識の対象が主語であり,その対象について認識する内容が述語である。存在の側面で言えば,状況の中にその中核として存在するものが主語であり,その在り方(運動も含めて)が述語である。認識の側面と存在の側面と,このように二面に言い分けることもできる一文の内容は,しかし当然のこととして,実質的には一つのことである。 このような「主語」了解に立てば,日本語にも主語はあるということになる(ただし,日本語の主語は「が」格項目のみではないであろう。)

お礼日時:2022/01/21 22:59

自己の主張があまり無いということじゃないでしょうか。



「私は嫌う」、「私は良いとは思わない」、どちらも日本語としてはあるのですが、文章になるとまず使わない。

「そういう方法でやると、(会社は)嫌うと思うよ」とか、「(私はともかく)上司や同僚は良いとは思わないだろうね」という表現の方が多い。

主語が無いではなく、主語が曖昧、やたらと主語がでかい、自分の意見ではなく集団の意見をたまたま自分が代弁している、そんなところじゃないのかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>自己の主張があまり無いということじゃないでしょうか。

主題の場合だと思いますが、外国語と比べてそういって性質を持っていると言う人もいるようですね。
本来自問自答の形なのだが日本の場合は他問自答なのだと。

お礼日時:2022/01/21 22:37

そういう事ではなく、


日本語はあいまい表現を認める/聞き取る側の解釈に任せる、
という風潮があるので、
主語が無くても伝わる言語だ、と言う言い方が正しいでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>主語が無くても伝わる言語だ、
:
と言っていたのですね。
わかりました。
そのように言う場合の「主語」を三上はどのように定義していたかご存知でしたらご教授いただけますか?

お礼日時:2022/01/21 16:54

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