初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

1. 次の情報について批判しつつ問い求めます。

2. ◆ 道徳と倫理の違い ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://kuriggen.hatenablog.com/entry/20060312/p1

3.
ドゥルーズがスピノザについてまとめたレジュメによればこういうことになるだろう。

道徳→命令によって善し悪しを確保する 超越的な要因による
倫理→認識によって良し悪しに到達する 内在的な要因による

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

4. おそろしく断片的な命題について問うのですが ドゥルーズってこんなことを言ってるんですか? (『アンチ・オイディプス』には往生しましたが)。

5. ◆ 超越的な要因
☆ を持ちだすのなら 道徳ひとりに限らず人間のわざはみな そうだとなるはずです。絶対性のもとにある相対存在のなすことでしかないからには。

6. 道徳だって もともとは倫理と同じく:
◆ 内在的な要因による
☆ ものとして考えられみんなで――黙契のごとくとしても――取り決められたのであろう。

7. 道徳は 社会におけるナラハシにもとづき規範の要素を持つ命題を それに当てたに過ぎないはずだ。なんで:
◆ 命令によって〔善し悪しを確保する〕
☆ と言えるのか? みんなで罰則規定をともなって取り決めた法律にしても 別に《命令によって秩序を確保する》とも限らない。なぜなら 人間の自由意志には 違反する自由度がある。

8. ◆ 倫理→認識によって良し悪しに到達する
☆ なんていうふうに結論づけてよいのだろうか。認識によって・あるいは思考すれば 倫理的人間に成るのか? と乱暴に問い返さなければ気が済まないではないか。

A 回答 (1件)

道徳は他者と共有される社会的ルールです。

一方、倫理は、自己の資本、教養を持ってする、「自己裁量」の他者への判断と関わり方ですね。自由を大切にする地域では、道徳より倫理が大切なんでしょうね。
スピノザのエチカ(倫理)は、道徳ではなく、スピノザの見識、信仰、信念、生き方、世界観で、道徳ではありませんね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 道徳は他者と共有される社会的ルールです。
☆ 一定の単位社会あるいは一定の時代に限るとしても です。


★ 一方、倫理は、自己の資本、教養を持ってする、「自己裁量」の他者への判断と関わり方ですね。
☆ 道徳は その内容が或る程度(または かなりの程度)固定されて来ます。社会ないし集団にとっての――まもるべきナラハシとして――規範にもなり得ています。

倫理は 思考し行動する主体ごとに・その主観ごとに動態を成していて その――思考内容もむろんそうですが――じっさいの過程が重んじられるようです。

《他者》は 倫理においてその時その場でその都度 特定の相手などとして考慮に入って来ます。道徳だと ややもすると他者は人びと一般として十把一絡げであつかわれがちです。



★ 自由を大切にする地域では、道徳より倫理が大切なんでしょうね。
☆ ナラハシでしかないとしても どこかには生活の知恵が当てられていてみんなで考えたその結果であるという成り立ちでは――道徳も――あるはずなんですが。



★ スピノザのエチカ(倫理)は、道徳ではなく、スピノザの見識、信仰、信念、生き方、世界観で、道徳ではありませんね。
☆ ひとつに ただそれでも 成り立ちとしては道徳も 倫理と重なる要素を持つとは考えられます。


ひとつに スピノザのばあい 例の《神即自然》なる大前提のもとに すべては 神の――意志の・摂理としての――必然であるといった見方にもなっているように思います。

神即自然の自然にもとづき 身と心なるひとの自然本性が成り立っており これに従うなら 神の必然なる過程が実現され得ると見ていると思います。

ヤマシサ反応を持ち出すまでもなく その《自然》にさからうなら 何でしたか《無知》とか《隷属状態》だとかの――つまり《やまひ》という――状態に落ち入るとか何とか・・・。

神の必然なる過程は ひとの生きる過程にあって様態 affectus と言いましたか? この様態が 不自然になると 感情 affectio がさまざまに生まれるとか何とか。


・・・

お礼日時:2022/02/14 08:44

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