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先日、tanzou2様が悪についての御回答をなされ、興味深く読ませて頂きました。
その御回答に触発されて(誤解もあるとは思いますが)、東洋・西洋における善悪の違いについて次のような考えを持ちました。

東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られておるようですね。
一方、西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されているようですね。

質問は、洋の東西により善悪に差がでるのは、何故でしょうか?
(ただし、宗教に要因を求めることはご遠慮願います)

A 回答 (15件中11~15件)

道徳、モラル=他者と共有するルールとエシックス=倫理=自己裁量による生き方、ルールで自己内省する習慣とそれを促す教育を受ける地域の人々は、善悪の判断はどうあれ、「規律ある行動」が取れますね。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2022/02/24 17:47

日本は、原始的な社会主義じゃないかと思うんですが、どうでしょうね。

小さな村が並立していて、その中で波風が立たなければ、善悪は関係ない。お隣の村と諍いが起こると、なるべく争いにならないような形で解決を図る。先の戦争のせいかどうか、争いを極端に嫌う国だという、強い印象があります。間違っているかもしれません。

比べると、お隣の中国・ロシアは、党是が国是であって、党が決めたことは善、それに反すれば悪です。香港の様子、ウクライナ騒動をみれば、それがよくわかります。

欧米は近代のエンライトメント時代以降、個人の権利・自由・平等・博愛を侵害するものが悪です。

中南米も、欧米に準じているように見えます。ただ、かなり緩い。博愛先行かもしれない。情が先に来る。家族の幸せが善。

問題の中近東は、普遍的な善悪よりも、スンニ・シーアの対立が善悪を決める。自分の属する派閥が善です。

アフリカとインドに関しては、植民地だった関係か、建前と本音が全く違うと思う。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
細かいところはさておき、総論として
「東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られておるようですね。
一方、西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されているようですね。」は成り立たない、というお考えですね。

お礼日時:2022/02/24 17:45

良く分かりませんが、単純な話ではないか、と思います。



「善悪の基準」は、絶対的では無いのではないか、と思います。

「西洋では、絶対普遍のものが善であり悪と規定されている」とは、
キリスト教的唯一神教の存在が、前提でしょう。

神は絶対で、「善」なので、それに対抗するものを「悪」と
する考え方でしょう。

西欧の合理主義の根源は、この「勧善懲悪」、「白黒主義」に
あります。

東洋には、「唯一神教」は存在しないので、「善悪」の判断基準も
曖昧で十分です。

詰まり「善悪の判断基準」自体が、異なっているということです。

判断基準が「相対的」と考えれば、不思議ではありません。
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この回答へのお礼

宗教に要因を求めることはご遠慮願います、とお願いした理由は、
宗教の成立が善悪の規定に左右されていれば、回答が循環論に陥ること危惧したからです。

お礼日時:2022/02/24 09:32

その地域の人間ににとって「大切なもの・役に立つこと」は善であるのに対して「不要なもの・役に立たないもの」は悪となる傾向にあります。

日本では「太陽」は善ですが、漠地帯では「太陽を善」とするより「月や星」の方が「役に立つ」として、受け入れられやすいと言うことです。その結果「善悪」が生まれます。具体的な事物から派生するイメージで善悪が生まれるわけで、そこには「絶対善」や「絶対悪」と言ったものはないわけです。全ては相対的評価の中で生まれるものなので、善悪に地域差が出るのだろう思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
総論的には<全ては相対的評価の中で生まれるものなので、善悪に地域差が出る>ですね。
具体的には、東西の差は何でしょうか?

お礼日時:2022/02/23 17:48

№1です。

コメントをありがとうございます。


★ (№1お礼欄) 西洋では、パスカルが、<絶対普遍への傾きと えも言われぬ言葉のあやの世界との両面を指摘してい>るのですね。

☆ そうですね。では アジアでは 幾何学の精神が 希薄なのか?

日本では どうか? 絶対普遍を問い求める文化は なかったのか?



わたしはやっぱり ガミガミ役に対してお相手するアース役・あるいはまた失意の人の心に寄り添うアース役 こういった或る種の社会的な役割を担って振る舞うというのは 普遍性を――あるいは《おほやけ》性を――問い求める文化ではないかと思う。


ガミガミ役は 怒りにまかせて社会的な共生からややもすると逸脱するかも知れない。これを受け留めてやる。好きなだけガミガミ言わせる。

あるいは 失意の場合というのは 往々にして公共性や人びとの和をみだす行為をこうむって 普遍的な理念がそこなわれたことを嘆く場合なはず。


そこで 昔のことかも知れないけれど お母さんが アース役になる。

幾何学の精神なる真理観のもとなる至高善や正義感をも超えて 母は 失意の人を無条件に受け容れその心をじゅうぶんに受け留めている。

これは 普遍絶対の倫理をあらわしていないだろうか。




▲ (人麻呂) 
おほきみは かみにしませば 
天雲の いかづちのうへに 
いほらせるかも

☆ ~~~
《おほやけ》の極致として人びと共生を象徴する普遍性。

神ゆえ 神鳴りの上にお住まいなのかも。そうかもね。

だって 普遍絶対性は 目に見えるわけないよね。
~~~

☆ クウキも隠れた《権威の徳》をあらわすと言えば そうなのかもですが その隠れた心の世界からも見えないところに追いやられた失意の心を 元気づける《幾何学の精神X(掛ける)繊細の精神》なる文化の実践は 西欧に負けてはいない。か?

理論は 足りないか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<普遍絶対>の例としてパスカル・お母さん・人麻呂をあげて頂きました。
したがって、東洋では、人間関係・社会関係の良し悪しが善・悪として採られている、とはいえないのですか(細かく見れば異論はありましょうが総体では)?

お礼日時:2022/02/24 12:23

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