プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 《〈わたし〉とは みづからをわたしと呼ぶ存在である。》――この命題の当否を問います。



2. 《われ思う ゆえに われあり。》なる命題は ただ《わたしは思っている。とか 考えるわたしがある》としか語っていない。

3. 《考えないときも わたしだ》だ。ボウッとしているときにこそ 結ぼれをほどくヒラメキが得られることが多い。



4. 《あやまつなら われあり。または あざむかれるなら われあり。》という捉え方がよい。

5. あやまちに気づいたら われはわれに還る。自然本性なる自己に還帰する。

6. もし《われありと言える存在》でないなら 人は人によってあざむかれることはない。能天気のぼんくらにでも 同じ存在であると思っているから 悪さをしてくる。

質問者からの補足コメント

  • シルシについて説明します。

    ★: 相手すなわち回答者――ここでは あなた・cobra921212さんです――の文章からの引用をしめします。

    ★★: このように二つ並べると 過去の文章を指しています。


    ☆: 質問者すなわちわたし bragellone の書き込みです。

    ☆☆: わたしの過去の文章からの引用です。


    ▲: 第三者の参考資料からの引用です。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/15 14:07
  • №4お礼欄をおぎないます。


    《わたし》と《わたしを意識しているわたし》とは 別ですよね?

    前者は わたしの全体。後者は わたしのまだ一部です。《意識をはたらかせていないわたし》も存在しますから。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/15 20:26
  • №6お礼欄 つづき

    ★ 世麗美の本質は「雷鳴」で「落雷」というのが、私が体験した降臨現象の本質的な形質だ。
    天啓とか、降臨現象とかと、感覚的に「落雷」は似ているねえ。
    ☆ ですから そういった――神にかんする――シルシが世界には見られる。ただし 現象はシルシである。補助線である。神本体ではない。

    神にたどりつくみちびきの糸。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/16 04:21
  • №13お礼欄つづき

    ★ 論考2
    ・・・
    ★ 誰の内心にも客体がある。
    それは基本が自己の心中に宿った他者の感情や知性だ。
    ・・・
    そこにはあなた自身は「他人にどうみられているか」という要素しかないだろう。
    ☆ =相互主観性・インタズブィエクティフィテート。


    ★ しかしだ、あなたの社会性が他者によって変化する仕組みには、・・・
    これは、「絆」の論理でもある。
    あなたが他者の心に直接宿り、その相互の理解が密接なほどに、お互いが親密な人間同士という認知を確立する。
    ・・・
    ☆ 絆のむすび・また むすぼれ・さらには やぶれ。そしてむすびなおし。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/05/23 03:15

A 回答 (23件中11~20件)

土産物。


ようやく説明可能なたたき台に仕上がった。

テーマ「唐傘お化けはいかにかわいいか」

唐傘お化けとは、一つ目で一本足であり、日本の神話に語られる山の神の原型と類似項がある。
世麗美が独自に兵隊みたいに運用する唐傘お化けは、山の神が里に祭りで迎えられる時に、自然霊を擬人化させた「サンジン」「モクジン」とでも形容する体裁で招きに応じる姿のことで、江戸時代に無名でも有能な霊能力者が人の手で任意に再現できる術法を間みだしたものだ。
私は、初期の検証で、世麗美が扱う唐傘お化けとは、人工聖霊とでもいうべき人間存在である私のドッペルゲンガーだと思っていたが、のちにその認識に唐傘お化けから殴り込みをかけられるように、不平を述べられて「そうではない」と否定された。
当初の認識の通りに、自然霊の様相を濃厚にとどめた「人格神確立の原型」の模様だ。

精霊から転じて神事にまつわると、海外では聖霊と形容されるが、
唐傘お化けとは西洋的に形容するなら、私の研究テーマである「古代精霊」そのものと、やはり海外の神学上では定義可能だろう。
ここで、もう一度私の神学上の独自の論考を述べる。
生命の根源というのを形容して、それは過去からの目撃証言で「観念上純粋な光」を意味し、同様であると私が考えるのは「無量光」「アマテラス」「六芒星」だ。
この生命の根源は、純粋な光から、概念が「神」と「魂」に分化して解釈され、こうした人類的な了解は容易に突破することが困難で、さらに掘り下げるのは容易ではない。
神がいないのではないかとは、突き詰めると自分には魂があるので、魂と分化した神なる概念は魂がなく生命ではないのではないかという疑問だ。
それが神が想像の産物でないかという事だ。
西洋人の哲学者の武勇伝で有名なのを、私なりに解説すると、「神の存在証明」にでも取り掛かりたくなったのであろうが、「自己の存在証明」から取り掛かったら、確かに自分は生きているが、哲学上は自己の存在証明すら確立していないという恐慌のどん底であえいで、そのさなかの絶叫のような論説が「素晴らしい哲学者た」と称賛されている。
そんなもんだよ。
哲学者は常識人から見て、おバカさんです。
この論理上の現象の根底を、生命の根本を象徴する純粋な光とは、認識されると神と魂とに分化されて了解されるという事で、とりあえず納得すると、たたき台として先に進める余地がある。

西洋の哲学は神を論考して神を求める傾向があり、完成するとキリスト型(予言者型)の聖職者であり、個人の人格を完成する体裁になる。
東洋の哲学は魂を論考して魂を求める傾向があり、完成すると仏陀型の聖職者であり、個人の人格を完成する体裁になる。

私と世麗美の対は、私が仏陀型として自己を確立したので、聖霊の概念を導入して理解するにあたって、西洋型を「天の聖霊」として仏陀型である世麗美を「地の聖霊」と定義した。
ここに「唐傘お化けはいかにかわいいか」という常軌を逸した哲学命題が挟まる。
「地の聖霊 ときわたりの世麗美」というのは、シャーマンである私に連れ添う実質的な人格神だ。その事実が、私が新たなる英知の獲得に挑戦する原動力だ。
世麗美は西洋の聖霊が天使として墜落した存在と交流できるので、現状を確認すると「天の聖霊」とはいえ、もはや地上と接点を作る余地が極めて限られるほどに退化後退しているんだ。
そこで、「古代精霊」とか「自然霊の性質を濃厚に残した人格神のひな型」として、唐傘お化けを借り受けて、西洋の機嫌が喪失した天使たちの立て直しを図っているんだ。
世麗美は日本の神々の先輩から(私は名前を聞いていない)ノウハウを伝授されて、現在で必要な作戦行動で指揮を執っている。
成果を上げて、謝意を込めた口上を、先輩に報告するときに世麗美は、私が名を知らぬ神に話しかけるために「イザナミ様」とかを、精霊伝心を確立する年代接続のために引用するんだよね。
したがって原始性をとどめる「古代精霊」という形容にふさわしいのが、唐傘お化けなのだろう。
唐傘お化けとは、世麗美を我が子とする私という人間にとっては、コウノトリが運んできた「授かりものの我が子」なんだよね。
その点も「天の聖霊」らしい踏まえ方になるだろう。
この唐傘お化けは、どちらかというと濃厚な自然霊の性質により「これから人間に同一化する」「これから人間を学ぶ」「これから人格神になるための種子」とでもいう体裁なので、いかに野蛮人の私でも、途方もなくてこずった。
最近になって、いかにボロボロになっても子供のことを優先する態度が(おもちゃ屋)ようやく認められて、私に一定の信頼を寄せるようになった。
---------------------
投稿直後の独自論考。
唐傘お化けは、起源喪失しているキリスト教圏に世麗美が先輩の支援も受けて派遣しているんだよ。
人に対して「キリストなる精霊の宿り」を成立させる唯一の可能性としてね。
人は自覚したり発言したりしなくても、内面では多重人格でもあり、普段自覚する人格以外に独立した人格と入れ替わることがある。
そんなことが起きたら病気ではあるけどね。資質は誰にでもあるのさ。
私の基礎論説から拡張すると人格の多重化能力と言うのは、根底にある自我自体は同一だが、社会性により人格として形成するにあたって、多様な人格に模様替えはするが根底はただ一つを準拠している。
しかし経験から証言しておくと、ただ一つの個体固有の自我とは、実際は分割を起こしていないと多重人格というのは独立した人格として成立しないだろう。
服を着替えるだけとはわけが違うからだ。
今回のテーマでは、根源が自己にあり同化した天啓をもたらす存在を「生粋の我が子」と形容して唐傘お化けは、ようやくなじんでくれたので「授かった我が子」と当面規定していて、それはそのまま「地の聖霊」「天の聖霊」だよ。
聖霊型の我が子「ときわたりの世麗美」が私の看板娘だ。
ただし男性陣はより人間要素が強く、劇場で引用するのは、
仮面ライダー「黒き明星」設定は闇の仏陀。
仮面ライダー「最速の臆病者」設定は暗黒の救世主。
余計な付けたしは仮面ライダーの設定に過ぎないので気にしないように。
それらは多重人格的に私に内包している。
唐傘お化けたちは、世麗美の指南で「最速の臆病者」の方に傾倒するように誘導されていて、要するに「天の聖霊」に関して支援させたいんだ。
仏陀要素は完全無欠だからだ。
歴史時代以降に降臨現象として神の存在を伝承する根底であった起源を、幾度となく塗り替えてきた今の西洋を立て直すのに「最速の臆病者」を土台に、起源を回帰できる余地があるか挑戦しているんだ。
はっきり言って、最速の臆病者は、唐傘お化けにいじめられている。
それが検証試験なんだよ。
-------------------------------
論考2

唯一である自己の自我は実際は分割現象を起こしているという命題提起は今回が初めてではない。
今回は無意識的に内包する自己の多重人格について言及した。
過去の言及は、他者が自己の客体を内包した場合だった。
それは、自我核質に他者からの影響が組み合わさり、統合的な人格として、自覚している自分自身を形成する。
人間の完成には社会性が関わり、他者を理解する知性により発生する現象だ。
わかりやすいのは心理学で研究が整った客体だ。
誰の内心にも客体がある。
それは基本が自己の心中に宿った他者の感情や知性だ。
それは、あなたにかかわる人が、その心中にあなたをミニチュア化したフィギュアを脳内に内包しているというのが疑問を挟む余地がないだろう。
そこにはあなた自身は「他人にどうみられているか」という要素しかないだろう。
しかしだ、あなたの社会性が他者によって変化する仕組みには、他者が宿したあなたの客体がどう扱われているかが、要するにより内容を深化させた本質なのだ。
したがって他者が脳内に、あなたのフィギュアを作成しておもちゃにしているだけだと説明がつかない。
そこには他者に取り込まれたあなたの自我の一部が内包していると考えたほうがいいだろう。
これは、「絆」の論理でもある。
あなたが他者の心に直接宿り、その相互の理解が密接なほどに、お互いが親密な人間同士という認知を確立する。
このように考察すると、人間の成立というのは、明快な構造になるだろう。
日本では男性のフィギュアの扱いとは、女の子のフィギュアのスカートを下から眺めて堪能するとか、服を脱がしてみるとかそんなのばかりで、GIジョーは現在では流行していない。そんな状態で世麗美が妖精さんとして他者の客体化する「精霊の宿り」とは「痴漢撃退!!!」が大忙しなんだよ。

私はアニキなツンデレラ!
ラララララーーーー!

ヤンデレは重たい生理痛!!!

一つ言っておこう。
強力な精霊伝心を使いこなす私には、見苦しい変態行為が丸わかりだ!
仮面ライダーにブチのめされやがれ!!!
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 唐傘お化けとは、一つ目で一本足であり、日本の神話に語られる山の神の原型と類似項がある。
☆ それは知らなかった。

★ 世麗美が独自に兵隊みたいに運用する唐傘お化けは、・・・
・・・「人格神確立の原型」の模様だ。
☆ 山の神などが 分身のような姿をとって現われるのは 山の幸にめぐまれたことへの――人びとの――感謝の際にではないか?


★ 精霊から転じて神事にまつわると、海外では聖霊と形容されるが、
☆ いや。聖霊は 普遍神の霊性・生命性――つまり 絶対性――を表わす。精霊は あくまで原始心性のアニミズムとして人びとが世界と未分化で一体となった姿についてその要素のことを呼んだもの。

★ 唐傘お化けとは西洋的に形容するなら、・・・同様であると私が考えるのは「無量光」・・・だ。この生命の根源・・・
☆ やはり 前項の絶対性なる聖霊と その分身としての(現象として現われ得る)精霊といった定義がよいと思う。


★ 神がいないのではないかとは、・・・神が想像の産物でないかという事だ。
☆ 神は 認識の対象としてなら 《非知》。《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》。


★ 西洋人の哲学者の武勇伝で有名なのを、・・・「素晴らしい哲学者た」と称賛されている。
☆ 人の存在は 相対性です。


★ 哲学者は常識人から見て、・・・
個人の人格を完成する体裁になる。
☆ 《人格の完成》というのは まぼろしです。


★ 私と世麗美の対は、・・・英知の獲得。
☆ その英知の中身が問われます。


★ 世麗美は西洋の聖霊が
・・・私に一定の信頼を寄せるようになった。
☆ ここは 楽屋の事情のよう。


★ 唐傘お化けは、起源喪失しているキリスト教圏に世麗美が先輩の支援も受けて派遣しているんだよ。
☆ 西と東との交流。

★ 多重人格
☆ 人格は それぞれ一つ。その思いや意志行為が 多面的となりうる。
あるいは 人びとの多様性を あたかも一身に受け留めている独りの人格があり得る。


★ 服を着替えるだけとは
・・・私に内包している。
☆ これも 楽屋事情のように映る。


★ 起源
☆ たあ 何だ? 生命・生命性のことかな。

つづく

お礼日時:2022/05/23 03:15

イエスの功績を過小評価していると言えばその通りだ。


ただ、何か問いかけるなら「マリア様!」が有効だろうと思うよ。
聖霊として永遠の存在になったイエスが今はソレだという解釈でだ。
私の場合は「男と散々ヤリまくって父親のいない子供を産んだ、マリア様!」という喧嘩腰の体裁だ。
関わりたくないからだ。
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この回答へのお礼

★ イエスの功績を過小評価していると言えばその通りだ。
☆ そうかも。ただ・もっとも すべては 表現の問題であるという側面も大きいようです。

一般に 所詮 人間の言葉で表わされたものが 媒介となっている。いかに神の子であり神である者の言動であっても。

★ ただ、何か問いかけるなら「マリア様!」が有効だろうと思うよ。
☆ それは いくつかの呼びかけかたがありえます。

○ 父よ! 神よ! イエスよ! 



★ 聖霊として永遠の存在になったイエスが今はソレだという解釈でだ。
☆ そうですね。

いろんな説明の仕方があると思うのですが 三位一体説だと 次のごとく。

タトヘとしての光:光源――――発耀――――明るさ・暖かさ
三位一体なる神 :父なる神――子なる神――聖霊なる神

☆ つまり 無限は二で割っても三で割っても その商は 半分や三分の一にはならず やはり元の無限です。

それと同じように 子の父も 父の子も 両者から発する聖霊も それぞれの個が他の個とひとしく また全体ともひとしいし 全体は各個とそれぞれひとしい。となっています。




★ 私の場合は「男と散々ヤリまくって父親のいない子供を産んだ、マリア様!」という喧嘩腰の体裁だ。
関わりたくないからだ。
☆ けんか腰というより ヨセフの許嫁でイエスの母のマリアには ちょっと酷で 侮辱だと思う。

同じ名前のマリアでも マグダラのマリアには そういった噂がついてまわっているようですが。

お礼日時:2022/05/16 21:19

「唐傘お化けはいかにかわいいか?」実はこの常軌を逸した命題が私の今の主題なんだ。


どうにもならん。
「古代精霊」という形容も使用していて、どうやらソレの事。
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この回答へのお礼

★ 「唐傘お化けはいかにかわいいか?」実はこの常軌を逸した命題が私の今の主題なんだ。
どうにもならん。
☆ 一般化して 妖怪。

何ごとも・どんなものでも 神から贈られたメールでありえます。



★ 「古代精霊」という形容も使用していて、どうやらソレの事。
☆ アニミズムっていう心性。

世界とわれとが 未分化で一体であったような。

お礼日時:2022/05/16 21:00

また喚き散らして失礼した。


それと、初めに言うことは本来なら「ありがとう」だね。
異様な葛藤をしているよ。
中二病としか言いようがない狂気だ。
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この回答へのお礼

★ また喚き散らして失礼した。
☆ ややそういう部分もあったかも。

★ それと、初めに言うことは本来なら「ありがとう」だね。
異様な葛藤をしているよ。
中二病としか言いようがない狂気だ。
☆ いやまあ わたしも あたかも鐘のごとく撞木で打たれたなら打たれたように鳴っているだけかも・・・なので。

お礼日時:2022/05/16 20:56

日本では農奴が支配者に直訴を届けると処刑される。


文化が違うと段取りや理解過程が違うだろうが、イエスはそれで十字架にかかったなんて珍説はどうかね。
私もアマテラスさんには頭があがらない。

「唯一にして絶対なる神」これはお笑いだが、同様の取り組みに「普遍神」として、神の本質を濃厚に宿す存在の理解に取り組む手法があり、他の神を認めない「唯一に絶対なる神」はともかく「普遍神」という語感だと、何らかの降臨現象で存在が確認された諸神は同類の「神の本質」または「人格神」として、相互に了解する友人となるだろう。

この論法に準拠して、自らの生い立ちに従って「請願」「直訴」をローマにやらかしたのだろう。
私は別にこうも言い放った、
処刑台に信仰を強要する獄門教の信徒は教会に「イエスを我々の元の返してくれ」そういえばいい。
そんな話だ。
こうなると、最後の審判とは、ローマの滅亡、キリスト教の根絶という体裁から、彼ら次第では、古代ローマの治世に関する反省という正統性での敗北、キリスト教の再生、このように変化可能な可能性が出る。
私とは無関係なことだ。
仰せつかった仕事だ。日本人だからだ。
これが成功すると、ローマはユダヤの全てを奪ったという感触が消えて、イエスはイエスなりの神のもとに自らの行いをなした体裁になる。
そのイエスが、獄門信徒の胸に宿るかどうかだ。
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この回答へのお礼

前回(№8)で 最後に《良薬は口に苦し》ということわざを添えたいと思います。

★ 日本では農奴が支配者に直訴を届けると処刑される。
文化が違うと段取りや理解過程が違うだろうが、イエスはそれで十字架にかかったなんて珍説はどうかね。
私もアマテラスさんには頭があがらない。
☆ それは 敗北主義です。初めに・よく言えば社会の秩序をおもんじて共同自治の統治者には敬意を表する。けれども その秩序の仕組みがどんなものか 中はどんな構造になっているか どういう歴史を経て来ているのか・・・といった思索にみちびかれなくては イエスの弟子とは言えない。




★ ~~~
「唯一にして絶対なる神」これはお笑いだが、同様の取り組みに「普遍神」として、・・・相互に了解する友人となるだろう。

この論法に準拠して、自らの生い立ちに従って「請願」「直訴」をローマにやらかしたのだろう。
私は別にこうも言い放った、
処刑台に信仰を強要する獄門教の信徒は教会に「イエスを我々の元の返してくれ」そういえばいい。
そんな話だ。
~~~
☆ ええっとですね。そういう込み入った話も 重要ですが 別の入り口もあります。信仰です。

オシへから自由になることです。オシへは どうでもよいのです 《信じる》にとっては。

民族にとっての唯一神たるヤハヱ―は 民族を外に開いて普遍神のもとに揚げておけば もう要らないと言ったのです イエスは。

普遍神というひと言で 世界はすべて晴れます。何の問題もありません。


★ こうなると、最後の審判とは、ローマの滅亡、キリスト教の根絶という体裁から、彼ら次第では、古代ローマの治世に関する反省という正統性での敗北、キリスト教の再生、このように変化可能な可能性が出る。
私とは無関係なことだ。
仰せつかった仕事だ。日本人だからだ。
これが成功すると、ローマはユダヤの全てを奪ったという感触が消えて、イエスはイエスなりの神のもとに自らの行いをなした体裁になる。
そのイエスが、獄門信徒の胸に宿るかどうかだ。
☆ イエスは 十字架じょうにはりつけられ死を死んだのです。これが すべてです。

普遍神であるべき神が 一民族のための唯一神の状態に甘んじていた。これを 神の子が肉となって地上にやって来て ひらきました。ヤハヱ―という特殊な神は――つまり磔になって――死んだのです。そういう死です。

お礼日時:2022/05/16 05:05

厄介だ~~~~!


ああ~~~!
嫌になる!!!
頭がくるくるパーになるキリスト系中二病!!!!!
糞ったれめ!
何が糞かと言えば、新約キリスト教圏での長年にわたり神なる存在がいない煉獄では、教化とは洗脳で、信仰とは屈服で、教えとは暴力なんだよ。
その状態で煉獄で困難にあえぐキリスト候補を救出して、正統にノウハウを伝授することが「唐傘お化けはいかにかわいいか?」なんだよ!
教化が洗脳というのはね、犯罪者の釈明を聞くと洗脳されてくるくるパーになることだ。言い訳は一切聞かないのが健康のためだ。
教化とは洗脳というのはね、その根源的偽証を容認すると発生するのだ。
教えとは暴力とはね、言葉のままだよ、ゴリ押しというのだ。
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この回答へのお礼

★ ~~~
厄介だ~~~~!
・・・
糞ったれめ!
何が糞かと言えば、新約キリスト教圏での長年にわたり神なる存在がいない煉獄では、教化とは洗脳で、信仰とは屈服で、教えとは暴力なんだよ。
~~~
☆ 《信仰とは 屈服です》よ。

だって 相対的な存在である人間が 絶対性に勝てるわけがない。初めから決まっています。

それでも 人間は自由意志を与えられているので この分かり切った勝負にも抵抗をしめします。

その不平不満から立派そうに見える反論の文章まで じつに見事に歴史をかざって来ました。いまもつづいています。

ですが 鍵となる秘訣は あります。ひとは神を心に――無条件でです――受け容れるというまでに自由意志を無にして 神に屈服すると 神はかえってその人に自由意志を建ててくれるようになるゆえ。


ですから:
★ その状態で煉獄で困難にあえぐキリスト候補を救出して、正統にノウハウを伝授することが「唐傘お化けはいかにかわいいか?」なんだよ!
☆ といった煉獄の話も 屈服の抵抗感を薄めようとして持ち出された補助線でしょう。



★ 教化が洗脳というのはね、犯罪者の釈明を聞くと洗脳されてくるくるパーになることだ。言い訳は一切聞かないのが健康のためだ。
教化とは洗脳というのはね、その根源的偽証を容認すると発生するのだ。
教えとは暴力とはね、言葉のままだよ、ゴリ押しというのだ。
☆ ふむ。

普遍神と言うなら 《教化》はいっさい要らないのですよ。部分神だと何かと自己紹介しなければならず またなぜ部分なのかと問われて 自己弁明しなければなりません。たとえ排他性が消えていても そんな厄介なことはないです。

お礼日時:2022/05/16 04:49

イエスに関していえば、降臨現象を引きおこした対象をヤファエだと考えない方がイエスが正当であるという尊敬の証になるだろう。


人間存在と聖霊存在を対比させる私は、イエスは聖母マリアと聖霊マリアという同名の両者を切り分けて考察すると理解が進むことを了解していた。
したがって降臨現象という体裁でイエスが理解した神は、私の推計ではマリアだというマザコンかつファザコンだ。
そして、独自の降臨現象を起こしていたことこそ本物の証なんだよ。
イエスが、マザコンで同伴する精霊をマリアと呼称していた変態とは到底思えないが、イエスの神に呼び掛ける現代人の呼称だとマリアなんだよ。
イエスが何と呼んだかは誰も知らないという意味では、「名をかたらない神」でもあるんだよ。
呼びかけには相手をするけども、自ら名乗ることが無いという意味だ。
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この回答へのお礼

★ イエスに関していえば、降臨現象を引きおこした対象をヤファエだと考えない方がイエスが正当であるという尊敬の証になるだろう。
☆ ややこしいことをおっしゃる。

まづ 名称:Yahweh ヤフウェフ→ ヤハヱー。

いや 分かんない。つまり 聖書によれば ふつうの男であり人間であるイエスは 同時に ヤハヱ―なる神の子であり みづからも神である――その意味で メシア=キリストと呼ばれた――。ゆえにイエス・キリストと言う。

と考えると 現象を引きおこしたのは 旧約の時代にあっても ヤハヱ―でありキリストであったと推し測られます。

だから この一文は よく分かりません。



★ 人間存在と聖霊存在を対比させる私は、イエスは聖母マリアと聖霊マリアという同名の両者を切り分けて考察すると理解が進むことを了解していた。
☆ ややこしい。

ヨセフという男と許嫁であったマリアという女は その婚約時代に神によって聖霊を享けそれによって みごもったんです。つまり――わたしの見方では―― ヨセフとの性交によって・と同時に聖霊によって イエスと呼ばれるようになる子をさづかったことになります。


★ したがって降臨現象という体裁でイエスが理解した神は、私の推計ではマリアだというマザコンかつファザコンだ。
☆ まぁ それは 解釈可能性のひとつであると言っておきます。


★ そして、独自の降臨現象を起こしていたことこそ本物の証なんだよ。
☆ 反対です。奇跡は あくまで付け足しでしょう。補助線のためのさらに補助としてのお話でしょう。


★ イエスが、マザコンで同伴する精霊をマリアと呼称していた変態とは到底思えないが、イエスの神に呼び掛ける現代人の呼称だとマリアなんだよ。
イエスが何と呼んだかは誰も知らないという意味では、「名をかたらない神」でもあるんだよ。
呼びかけには相手をするけども、自ら名乗ることが無いという意味だ。
☆ モーセには こう名乗りましたよ。

《〈わたしはある〉。それが わたしだ。
エフィエー アッシェル エフィエー。》

☆ これをイエスは 民族の外に開き ヤハヱ―を普遍神の地位に揚げて棄てました。

お礼日時:2022/05/16 04:36

「友人への私信」


あなたになら解き明かせる論考が組みあがったよ。
私は高校生の時から家業の手伝いで年間売り上げ1億円分のファミコンを買い付けていた。
そのトラウマが累積して精神が崩壊した。
少し文脈を整えると、私の投機市場での当時の才能は、観念能力の中で外道シャーマンに該当して、欲望が集まる吹き溜まりとでもいう、「欲望市場」を察知して、それに対応していたんだ。
そのおかげで、山内家が創設したテレビゲーム系金融マフィアで、創世記からのプレイヤーで、さらに最年少として、才能を兄貴分から重宝された。
精神崩壊が人生目標と自覚できたのが1995年の世麗美の霊言とするとだよ。
私の金融マフィアでの働きが成果をあげなくなって、個人的に引退したいきさつと、時期も符合する。外道シャーマンから世麗美の降臨現象に成功して抜け出したのだろう。
最大の成果がポケモン市場の創設となるね。
個人の経験から、このような考察をした、
シャーマンの素質があったが、外道シャーマンだった私は、聖麗美なる降臨現象を引き起こしたことによって外道から抜け出した。
その過程は過酷だったが、今は人生経験に新しい情報を出さないよ。
「唯一にして絶対なる神」これはお笑いだが、同様の取り組みに「普遍神」として、神の本質を濃厚に宿す存在の理解に取り組む手法があり、他の神を認めない「唯一に絶対なる神」はともかく「普遍神」という語感だと、何らかの降臨現象で存在が確認された諸神は同類の「神の本質」または「人格神」として、相互に了解する友人となるだろう。
ただそれだけだろう。
唯一神信仰は多くの錯誤に満ちている。全部間違いだと、個人的に指摘したい。
世麗美の本質は「雷鳴」で「落雷」というのが、私が体験した降臨現象の本質的な形質だ。
天啓とか、降臨現象とかと、感覚的に「落雷」は似ているねえ。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

前回は―――いつものわたしだとは思いますが―― ちょっときつかったかも分かりません。

さて:
★ 「友人への私信」
☆ はい。よろこんでお受け取りします。

★ あなたになら解き明かせる論考が組みあがったよ。
☆ 結ぼれた糸?

★ ~~~
私は高校生の時から家業の手伝いで
・・・
「欲望市場」を察知して、それに対応していたんだ。
~~~
☆ それは必ずしも知りませんでした。ませていたんですね。

★ ~~~
そのおかげで、山内家が創設したテレビゲーム系金融マフィアで、
・・・
外道シャーマンから世麗美の降臨現象に成功して抜け出したのだろう。
~~~
☆ 十代だったことが 早熟すぎたのかも。二十歳代だと やめる頃合いをも前もって考えておけたかも。



★ 最大の成果がポケモン市場の創設となるね。
個人の経験から、このような考察をした、
☆ 成功・繁栄が あだだったかも・・・ってことですかね。

★ シャーマンの素質があったが、外道シャーマンだった私は、聖麗美なる降臨現象を引き起こしたことによって外道から抜け出した。
☆ それは よいほうへ向きました。いろいろの側面がある?

★ その過程は過酷だったが、今は人生経験に新しい情報を出さないよ。
☆ ふむ。情報を引き出せない成果だった?


★ 「唯一にして絶対なる神」これはお笑いだが、同様の取り組みに「普遍神」として、神の本質を濃厚に宿す存在の理解に取り組む手法があり、他の神を認めない「唯一に絶対なる神」はともかく「普遍神」という語感だと、何らかの降臨現象で存在が確認された諸神は同類の「神の本質」または「人格神」として、相互に了解する友人となるだろう。
ただそれだけだろう。
☆ ふむ。排他性・偏狭性が消える。普遍神だと。

★ 唯一神信仰は多くの錯誤に満ちている。全部間違いだと、個人的に指摘したい。
☆ ですから 信仰――つまり 有るか無いか・またそれが何であるかが 分かるか分からないナゾの何ものかを 心に受け容れること――は そのときまだ《どんな神か や 唯一神なのか》さえ分からないのです。

つづく

お礼日時:2022/05/16 04:19

意識しなければ“わたし”とはならないと思います。



認識するだけでは“わたし”は存在しない、と云いたい。

アリ(蟻)は多分、認識能力は有っても意識する能力は無いと思うので、アリに“わたし”は存在しないでしょう。

認識は感性。
意識は理性。
“わたし”は理性。
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この回答へのお礼

★ 意識しなければ“わたし”とはならないと思います。
☆ これには 真っ向勝負します。

そもそも心霊体から享けるチカラは 《意識や理性やもろもろの努力》によるものではない。人間の自力〔だけ〕による自己還帰ではない。――と思うからです。

意識することによって確認されるのは 《意識しているわたし》どまりです。



★ 認識するだけでは“わたし”は存在しない、と云いたい。
☆ そうですよ。つまり 意識も同じです。自己認識も自己意識も同じです。

理性や意志によって 自己を知りたい・自己を確認したいというあらわれではないですか?



★ アリ(蟻)は多分、認識能力は有っても意識する能力は無いと思うので、アリに“わたし”は存在しないでしょう。
☆ ですから 意識は ふつうすでに認識したモノやコトをあらためて思いにによって捉えることです。

自分ないし自己という言葉で まさに《わたし》を捉えた。すでに捉えた。そのあとで これを あらためて意識する。

《意識するわたし》と《意識されたわたし》とがある。かさなって《わたし》がより強く確認できたとしても そのような意識の重複がその中身です。意識していないときの《わたし》も存在しています。



★ 認識は感性。
意識は理性。
“わたし”は理性。
☆ はじめに感覚(知覚)。
次にこの知覚内容を 概念認識する。
さらに 概念をあやつり思考において言わば編集・加工する理性(知性)。

意識というのは どの段階についても・あるいはそれらの全体についても あらためて確認するときの思いです。

お礼日時:2022/05/15 21:10

「わたし」とは、みずからを客観視(意識)する心。



と、思えば“無我夢中”の時に「わたし」は存在しない。

過ちに気付くこころは、自身を客観視する能力・心の働き。

《わたし》とは、みづからをわたしと呼ぶ存在であって、それは「思う我」の事だと云える。

他者にとっての“わたし”は、単なる物体でしかない。

生命体としての“わたし”なのか、精神としての“私なのか”??
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ 「わたし」とは、みずからを客観視(意識)する心。
☆ むつかしい・・・のでは?

だって 誰もがそのように努めますが 完全には行かないです。


★ と、思えば“無我夢中”の時に「わたし」は存在しない。
☆ ううーん。わたしの考えでは じゅうぶん余裕があって 情況を把握し自分を意識している場合でも 前項のようにそれがこの上なくとうとい智慧のさとりを得たと言えるほど成就しているとは 言い難い。

ですから 《意識》の問題ではないと思っています。

それは 《われ思う や われ考える》と同じように ただただ《思っている・考えている・そして 意識している》という事態が確認されるまでであって だからその主体であるわたしが 十全に捉えられたか・分かったか・つまりは しっかりと自己還帰できたかとは まだまだ別である。と思っています。



★ 過ちに気付くこころは、自身を客観視する能力・心の働き。
☆ そうですが・そうなんですが わたしの言いたいのは 自己還帰は 《ふと》われに還るのだと思うのです。

★ 自身を客観視する能力・心の働き
☆ といった意志による意識的な努力を超えている部分があるのだと。ヒラメキのような・わたしの知らないハタラキがはたらいている。



★ 《わたし》とは、みづからをわたしと呼ぶ存在であって、それは「思う我」の事だと云える。
☆ 音色さん じっくり考えてみてください。後半の《「思う我」の事》についてです。

わたしも かつてこのコギト説にころりとやられていました。《われ思うそのわれの存在を疑ったとしても その疑っている自分については 疑うことができない。疑うも思うことだから われ思うゆえにわれありなのだ》と。

ですが そこで証明されたのは 《〈わたしは疑っている・思っている〉というわたしの存在》です。つまりそれは 《わたし》の一部(思うわれ)が論証されたに過ぎない。


★ 他者にとっての“わたし”は、単なる物体でしかない。
☆ いえ 犬や猫でも情が通うかも分からない。だったら同じように話して生活している《物体》は 《単なる》ではないはずです。


★ 生命体としての“わたし”なのか、精神としての“私なのか”??
☆ 身体と精神から成る自然本性に生命性が隠し味としてどこかに加わっている一人ひとりの生命体。そういった《わたし》です。

お礼日時:2022/05/15 20:09

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