アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

1、紫式部は中宮彰子に仕え、清少納言は皇后定子に仕え、それぞれ教師役みたいな立場にあって、女房と言われていたようですが、彰子も定子も一条天皇の正妻ですから、この時代は正妻は1人ではなかったのでしょうか、それとも紫式部が彰子に仕えた時期と、清少納言が定子に仕えた時期は異なるのでしょうか

2、紫式部や清少納言らと同じ女房である「和泉式部」は性格が悪かったが、和歌のセンスは良かったと紫式部が好評価していたことが紫式部日記にも書かれていますが、和泉式部は天皇や皇后の教師役になったことがあるのでしょうか

ご教授のほど、よろしくお願い申し上げます。

質問者からの補足コメント

  • 早速のご教授ありがとうございます。大変勉強になりました。中宮彰子の教師役を務めたのは、紫式部と和泉式部の二人でしょうか

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/06/09 22:17

A 回答 (2件)

補足への回答です。


>教師役を務めたのは、紫式部と和泉式部の二人でしょうか
その通りです。
娘の小式部と共に、中宮彰子のサロンに入ってます。

「枕草子」に記載されてる様に、中宮定子は明るく外交的なので、
華やかなサロンを形成してました、他方、中宮彰子は表に出る事を
余り好まず、側付きの紫式部は人と接するのが苦手で、中宮彰子の
サロンは華やかさに欠ける面がありました、それを、気にした藤原道長
が、「イカレ女」の和泉式部を招き入れたと、大方の研究者が、
異口同音に語っています。
良妻賢母の誉れの高い、赤染衛門を選ばずに、和泉式部を選んだ処に
5男の藤原道長が兄たちを押しのけて、頂点に立った裁量の一端が、
開間観られる様な気がします。

紫式部と赤染衛門は文を取り交わす間柄です。
------------------------------------------------
神代の時代から、現在まで、倭の女は強いのです。
タイムマシンが有ったら、いの一番に和泉式部に会いたいと思っています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

補足質問にもご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/06/10 20:46

中宮定子が一条天皇の皇妃でした、中宮定子を皇后にして、藤原道長が


娘の彰子を中宮として嫁がせたのです。
中宮定子の父、藤原道隆が亡くなり、兄たちは藤原道長の罠により、
失脚されていて、中宮定子を支えてくれる人がいなかったのです。
悲衰の中で、中宮定子は亡くなりました。

清少納言は、この顛末を一部始終見ていましたが、「枕草子」には、
恨みや、哀しみなどは、書かないで、中宮定子との、楽しかった事
しか書いてません、藤原道長へのささやかな抵抗なのかも知れません。

和泉式部の事を「イカレ女」と藤原道長が言ったと「大鏡」に記載
されてます、その、藤原道長が娘の彰子の家庭教師として、向かい
入れたのですから、歌詠み実力は相当なものだったと思われます。
現在に伝わっている、数だけでも、2500首余り有ります。
万葉集の編者大伴家持が200首ちょっと、古今和歌集の編者紀貫之
が160首余り、と比べると断突に多いのです。
恋多き女、和泉式部も娘の小式部に先立たれからは、隠遁生活に、
入り、淋しい余生を送ったようです。

100年後に編纂された、小倉百人一首に選ばれた詠、
「あらざらむ この世のほかの 思い出に
  今ひとたびの 逢ふこともがな」
こんな、詠を送られたら、大概の男は、コロリとなりますね。
最期まで恋多き女だったのですね。

56番目に和泉式部を57番目に紫式部の詠を並べた、のは、故意
なのか偶然なのか、選者の藤原定家に尋ねたいものです。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

丁寧且つ詳細なご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2022/06/10 20:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!