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院政について。
白河天皇は何のために院政を行ったのでしょうか。
別に息子に位を譲らずに自分が天皇のまま政治をすればいいと思うのですが、上皇の状態の方が何か利点があるのでしょうか。
調べてはみましたがいまいち腑に落ちなかったためご回答お待ちしております。

A 回答 (4件)

白河の父後三條は、白河の後は異母弟2人が順番に皇位を継ぐように決めていました。


当然ながら、白河は可愛く無い異母弟より可愛い息子に皇位を継いで欲しいのが人情。
そこで、白河は息子の外戚でもあった関白師実と結託し、後三條の遺言を反故にして息子に皇位を譲ったのです。
そして師実と白河の二人三脚で政治が運営されましたが、その後摂関家は跡目相続をめぐる争いや若輩者の当主が摂関になるなど政治的な発言力が落ちて、白河が実質的に取り仕切るようになったのです。
これを院政と言います。
院政の目的は、院政の主催者である治天君が、可愛い息子や孫だけに皇位を継がせ、可愛くない弟や息子を永久に皇統から外す事です。
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武家の方で、徳川家康も、さっさと秀忠に将軍職を譲り、大御所政治をしています。

スムーズに後を継げさせるためだったようです。
また、天皇ということで、病気の治療、外科手術などに制約があるので、そのために退位したってケースもあります。そういえば、前の平成天皇も、、、
 単純に天皇としての仕事(お客の対応や儀式の出席)が嫌だったかも、、
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はっきりしています。


白河天皇が自分の子・孫へと皇位を確実に継承させたかったためです。

父・後三条上皇は白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太子と定めました。自分の子どもに皇位をつがせたい白河天皇にとっては不満だったのですよ。

実仁親王が死んだことを契機として、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位したのです。これによって実質的な最高権力者であり続けました。

白河天皇(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3 …
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天皇とは、ヒトでありながらヒトではない現人神だ。


神とは神棚に祀られる存在だ。天皇しか行えない祭祀が数多く、朝廷の儀式にも参加しなければならず、御所を出ることもままならない。
神だから、聖なる玉体を傷つけてはいけないということで、当時の治療法だった鍼灸を受けることもできない。

一番肝心なことは、摂関政治が行われるようになってからは、天皇は政争に巻き込こまれてはいけないという不文律があったというか、そういう口実で天皇は政治に口出しできないシステムになっていたということだ。

だから、政治に口出ししたいと思った白河天皇は、譲位して上皇になると、持統天皇が上皇となってからも実権を握り続けた前例を盾に、院を作って最終的には摂関家を上回る政治権力を持つことに成功した。
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