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蘇我氏の支配が続いていたら、律令国家の形成に支障をきたしたでしょうか?

A 回答 (2件)

律令体制への移行は、少なくとも蘇我馬子以来の蘇我宗家の既定路線です。

隋唐帝国の誕生で、日本も今までとは違う国家総力戦で国を護る体制を構築しなければならなかったことは、海外情報に強かった蘇我一族ならば当然考えていたはずです。

ただ、どのような律令国家になったのかは、幕末の徳川慶喜主体の近代国家路線と薩長の大久保・西郷のような元下級武士主体路線の近代国家路線ではかなり違う国造りになったことが間違いないように異なったものになったでしょう。

現実には、乙巳の変で天皇・皇族の親政路線となり、壬申の乱で天武天皇の権威が一気に強まり、蘇我時代の豪族連合体制を完全崩壊させ、中央官庁による官僚政治への完全移行がなされました。

その後、藤原不比等の巧妙な政治手腕によって、天皇親政体制が骨抜きにされ、それが摂関政治・院政へと移行して、戦国時代へと突入し、幕府政治と云う封建体制、つまり形の上では古代の豪族連合体制に先祖帰りする形になりました。

そこでまた桜田門外の変(=乙巳の変)から戊辰戦争(=壬申の乱)と似たような経緯を辿って明治政府という中央集権国家の誕生となりました。

もし、蘇我宗家が権力を握ったまま律令体制を樹立していたら、その体制は摂関体制と同じものになっていたはずです。しかし、蘇我氏などの元豪族たちはそのまま温存された形で官僚化するわけで、おそらく軍権は手放さなかったでしょう。
そのような状況では、けっこう戦乱に明け暮れて戦国時代のような状態が続いていたかもしれません。

そうなれば、軍をほぼ廃止して比較的平和な時が多かった平安時代はなくなります。日本独特の雅な貴族文化はなく、源氏物語や枕草子のような世界的な女流文学もない。そういう世界になっていた可能性は高いと思われます。
それらに代わって、どのような文化・精神性を以後の日本に残して行くことになったのかは非常に興味深いところです。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、ありがとうございました!

お礼日時:2023/01/28 09:22

松本清張氏の談に依れば大化の改新は蘇我氏の政策のパクリ


だそうです。
乙巳の変で蘇我入鹿が殺されて嫡流が滅びましたが、
蘇我一族が滅びた訳ではないです。
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