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征夷大将軍の源頼朝は当然として、足利尊氏、徳川家康も
源氏の家系だから将軍になれたが、百姓出身の羽柴秀吉は
家柄が低くて将軍にはなれなかった。
これで合ってますか?

A 回答 (6件)

一応、秀吉本人が征夷大将軍就任を辞退した、と言われています。


「なれなかった」のではなく「ならなかった」ですね。
元々、征夷大将軍就任を打診されていたのは信長でした。
その際、朝廷からは「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のどれかに、と言われていたのです。
ですが、信長が選ぶ前に本能寺の変で死んでしまったため、これが宙に浮きます。
その後、秀吉が信長の後を継ぐ形になったので、秀吉にこの話が行きます。(途中いろいろあったのですが、そこは省略します。)
で、秀吉は、「関白」と「太政大臣」を選びました。(どれか1つって言ってるのに2つ選ぶとところが、いかにも秀吉ですが・・・。)
じゃあ、何故、征夷大将軍は辞退したのか、ということになりますが、この理由ははっきりしてないようで、質問者さんが仰るように「自分の出生を考えて辞退した」説もありますし、「征夷大将軍より関白の方が地位が上だから、そっちの方が良かった」説もありますし、「征夷大将軍という武家の人扱いされる役職は嫌で、関白=公家の人になりたかった」説もあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
秀吉が将軍にならなかった、なれなかった理由は
諸説あって想像するしかないということでしょうか。

お礼日時:2023/09/02 10:38

初期の征夷大将軍で最も有名なのは坂上田村麻呂。


鎌倉幕府成立後の初代が清和源氏嫡流の源頼朝だが、三代で途絶えると摂関家(藤原氏)と皇子が征夷大将軍を務めている。
その後は足利氏が征夷大将軍となって室町幕府を開いたが、始祖の足利尊氏は当時残存していた清和源氏の中では最も本流と観られていた血筋だった。

秀吉の時代は、征夷大将軍と云えば足利氏の家職と観られていた。
とはいえ、足利氏も完全に没落してしまったので、秀吉が征夷大将軍になりたいと思えば、何とでもこじつけることが出来ただろう。
家康だって相当な血筋のこじつけの果てに、紆余曲折はあったが、最終的には源氏を名乗って征夷大将軍になり幕府を開くことを朝廷に認めさせている。

秀吉は、近衛前久の助けを借りて前久の猶子となることで、関白への道を拓いたが、秀吉が人臣最高位の関白になれるなら、征夷大将軍程度の職位に就けないはずは無い。
だから、秀吉が征夷大将軍を狙ったかどうかは分からないが、関白になれると知ってからは完全に関白狙いに絞って朝廷工作を進めていたことは間違いないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
秀吉は将軍よりも関白狙いだったこと
了解致しました。

お礼日時:2023/09/02 10:09

色々な説が飛び交ってますが、噂好きの江戸雀の域を出ていないですね。


独断と偏見の何らの実証もない説を、信長の度量と構想を持っていなかっ
たからです。
信長の天下武久の構想は経済力に裏打ちされた武力を持って武士の世に
する事と推察します。
その構想には朝廷は金食い虫の存在でしかなかったのです、官位に
関心が無かったのはこの為かと自分が頂点にたてば官位は無用の
存在ですから。
石山本願寺を欲したのは、堺、難波、福原の巨大な商業圏を確立
する為と思います、安土城は財を集約するには格好の位置なのです。
秀吉は石山本願寺の跡に大坂城を建て太閤検地で得た年貢をせっせと
蓄財しました。
無用の長物の朝廷を隠岐の島に封じ込めた可能性も有ります。

徳川家康は朝廷を20万石で封じ込め、京都所司代を設置して、朝廷の
監視をしました。

秀吉は信長の構想を持っていなかったので、朝廷と言う化け物に
大金を使わされて、源氏の系流出ない事を理由に征夷大将軍に
なれなかったのです。
それでも、戦乱の世を静めた功績は光りますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本能寺の変がなかったら、その後の歴史は
どうなっていたのか興味深いです。

お礼日時:2023/09/02 10:14

一般教養レベルでは、その理解で結構かと思いますが、厳密にはかなり違いますね。



まず「清和源氏の系譜しか征夷大将軍になれない」などと言うルールは、少なくとも征夷大将軍を任じる朝廷側には存在しません。

一方、それを確たるものにしたのは、江戸幕府を開いた徳川家で。
それが家康かどうかは判りませんし、徳川家と言うよりは、江戸幕府の方針として、そう言うブランディングを行ったものと考えられます。

そもそも、「何で征夷?」で。
鎌倉幕府を開き、武家政治化に成功した源頼朝は、ライバルであった木曽義仲が、先に「征東大将軍」に任じられたので、その対抗上やバランス上、「大将軍位」が欲しかっただけでしょう。

実際、義仲を討伐した後に頼朝は、大将軍位を返上しようともしてます。
義仲を討伐した後は、要らなくなったのか。
あるいは、幕府(朝廷とは別政府)を開いた頼朝にとって、朝廷は微妙な関係であり、朝廷から下される官位や官職に対しても、独自の考え方であったのかも知れません。

また、建武の新政の立役者として室町幕府を開いた足利尊氏は、清和源氏の系譜の征夷大将軍と言う立場は利用してますけど。
その後の足利将軍は、かなり貴族化してますので、別に関白でも良かったんじゃないですかね?
でも、鎌倉幕府に倣って、幕府を開いちゃったものだから・・。

その次の織田信長(桓武平氏の系譜)も、朝廷や室町幕府との関係が微妙な人ですけど。
「三職推任問題」なんてのがあって。
信長側の希望か、朝廷側のファーかは判りませんが、信長を征夷大将軍,太政大臣,関白のいずれに就けるかなど、議論されてます。
ただ、結論を得ぬままに、本能寺の変・・。
信長の場合、官位官職どころか、天皇とかそれ以上を目指してたかも。

更に、秀吉の出自が卑しいから、将軍にはなれなかったと言うのは、江戸時代に林羅山(幕府の御用儒者)が言い出しただけとされてます。
関白の近衛家の養子になって、関白になれたんですよ。
秀吉が望めば、源氏の系譜の誰ぞの養子になって、将軍位に就くことも容易でしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
徳川家康も正統な清和源氏なのか、疑問があるらしいですね。
下剋上の世の中でも、権力者には家柄コンプレックスがあった?

お礼日時:2023/09/02 10:24

征夷大将軍は源氏の血筋のみ・・・・というのはよく知られていますが


果たしてそうでしょうか?

では、「護良親王」は源氏ということになりますか?
後に対立して遠ざけられたとはいえ、後醍醐天皇の皇子ですから源氏とは異なりますね
でも親王は征夷大将軍に補任されています

源氏の血筋云々は後世の後付の理屈で有って当時そういった制約は無かったと理解するのが自然だと思います

下層階級出身の秀吉を嫌う人が意地悪としてそういう理屈を持ち出したという可能性は否定しませんが
血筋云々は補任の条件ではないですね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
了解致しました。
武家政権(幕府)を開いた頼朝、尊氏が清和源氏なので
家康は将軍たるもの清和源氏でなければ正統では
ないと考えたのでしょうか。

お礼日時:2023/09/02 10:30

単に、源氏ではなく、清和源氏の流れでないと、武士の大将。

大将軍には成れません。

徳川も、群馬の新田氏の家系に組み込んでもらい、将軍に。
秀吉は、百姓出身であることが、天下にしれていたので、さすがに家系を買うことも出来なかった。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
日本の歴史上、低い身分から大出世した筆頭は
秀吉でしょうね。他には思い浮かびません。

お礼日時:2023/09/02 10:33

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