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何もないギリギリの生活において生き甲斐は存在し得ますか?
あるとすればどんなものでしょう?

A 回答 (14件中1~10件)

生き甲斐とは、何らかの満足感、充実感があれば感じられるものだと思います。


例えば刑務所の中でも、労働をした後に感じることはできるでしょうし、強制収容所のような極限の状態の中でも、隠し持っていた石のようなパンの欠片を口の中で溶かしているときなんかに刹那的な満足感を感じることができるようです。
要は、「生きよう」とする意思があれば感じることは可能なものだと思う。
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> 私は何もなくなったように感じるときは、誰もいない夜にきれいな夜景を独り占めしている瞬間が何故か幸せで、「生きている」と感じます。

そんなことで良いんでしょうか?

{何故か幸せで、「生きている」と感じます} 
それを生きがいというのか、ちょっと疑問です。

この下の記事によれば、[[生きがい]がないと答えたのは女性の3割で、[生きがい]があると答えたのは女性の7割。 生きがいがあるという場合の例は、育児・家族・子供の成長・仕事・家族・趣味・アイドル追っかけ・ライブ・贔屓の推し・ペット……となってます。 金儲けとか、料理の腕、ゲーム、ツイッター、ボディメイク、ランニング、メイクやヘアスタイル、ファッションデザイン、映画鑑賞、音楽鑑賞、ダンス、歌唱、楽器演奏、絵描き旅行、観光旅行、温泉巡り、鉄オタ、バードウォッチ、ユーチュバーやアニメ制作、詩作、巡礼、清掃、読経、生涯学習で外国語etc 多分、もっとたくさんあるのでしょう。 ボランティ活動をやっている方、街頭で宗教勧誘?をされている方もいます。

多分 多くの方は、{何故か幸せで、「生きている」と感じます}というときに、{自分のパワーを使って何かをした}ということ・自己効力感・行為の実感もあるのだと思います。 温泉巡りでも、ただ温泉に浸かっているだけでなく、ここまで来たという感覚や景色、雰囲気を求めて得ることができたという感覚が大事なんでしょう。 子育て、家族、子供の成長・仕事・家族・趣味・アイドル追っかけ・ライブ・贔屓の推し・ペット……でも、「自分の身体・時間・配慮・知恵・工夫・辛抱・我慢」を使ったということが、「生きがい」では大事なのです。

誰もいない夜にきれいな夜景を独り占めしている瞬間に、何故か幸せで「生きている」と感じが得られたのも、昼間などに多忙や難事に対処したという疲労を含む経験があるからなのでしょう。 昼間も広大な遠景を独りで眺めるだけの時間を過ごして、夕刻も独りできれいな夜景を眺め、夜間は星空を独りで眺めと、ひたすら独りで眺めるだけの暮らしでは、二週間目にはもう嫌だとなってしまうこともあるでしょう。

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「何もないギリギリの生活において生き甲斐は存在し得ますか?」と求めるのではなく、「ギリギリの生活においても、自分の生きがいを作る行動を自らする」と道を拓くことが大事だと思います。
ネット利用は、「得る・観る・探す・遊ぶ・楽しむ」にしても、指先だけで、行動的でいです。 精神・神経的に一部が疲労することはあっても、全身的でない、身体も脳も感覚も特定の一部の限定です。 できれば、数百メートルは離れたところまで歩行などして、そこで、指先だけではないことをするのが良いです。(パチスロは指先だけでだめです) サークル活動でも、支援活動でも、農耕でも、

もしも、生活費を稼ぐことで昼間は疲労困憊し、夕刻にきれいな夜景を眺めていると「生きてる」実感がなぜか感じられるのならば、そのゆったりした気分の後で、昼間に経験したことの中で、上手くできたこと・気持ち良かったこと・もうちょっとこうすれば良かったかなぁと感じることを思い出して反芻するのも、さらに気を明るくし、活力を高める効果があります。 お試しください。
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自分以外の


守るものがある事

これが無いと金が有っても生き甲斐自体が存在しない

拝金主義者が最終的に自滅するのは守るものが保身以外何一つ無いから

成功者ですら保身に走った時点で速攻で運が尽きる
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独身独居人生ですか。


生活保護か、その辺の位置もはっきりしませんが、
何となく、その辺でお困りの生活ですか。

職業・年齢・収入・経費という感じで
貴方のレベルがどこに位置するかにもよりますが、
趣味などもありますし、その辺で
どの辺の位置にいるかにもよりますが、
文章的にこんな状況ですか。
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相田みつをの詩がいいと思います。

「人生には、どうしても避けられない道があるんだなあ。……中略……そしてその時なんだよ。命の根が深くなるのは」と。つまりギリギリの生活は苦行になり、心の鍛錬になる、ということです。その鍛錬が生きがいですね。私も体に難病を持っていてある意味でギリギリの生活ですが、毎日命の根が深くなっているなあ、と生き甲斐を感じています。ライフ・レッスンという本で人生は学校と書いてありました。人の痛みに共感するためには自分が苦しまないといけないと思います。人の痛みを知るために、自分が苦しむ必要があるんだと思います。スラムダンクというマンガでも「負けたことがあるのが、いつか大きな財産になる」と締めくくっています。
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真理探究。

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雨ニモマケズを読まれるとよいでしょう

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現実の社会は


「幸福」と言う言葉など無縁だ、と、人生を絶望している人は少なくない
そんな人に生き甲斐などある訳ない
 しかし、その絶望の中で、
一筋の光を、藁(ワラ)をもつかむ思いでしがみつくのが不変の哲学です
一人の再生(蘇生)の体験があってこそ不変の法理は証明されゆくのです
闇が深い程、暁は近い、と思いたいですね。
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お金持ちになる、という目標を作って


頑張れば、それが生き甲斐になります。
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ギリギリの生活と聞くとあまり良いイメージはありませんが、とらえ方の違いで


ギリギリの生活が苦しみにしか過ぎない人には、不幸一色の生活でしかありませんが、ギリギリ生活をサバイバル生活と称して「挑戦」と捉えるなら幸福感も得られることでしょう。珍しいとは思いますが。

生き甲斐をあえて求めなくてもいいではありませんか?一生懸命生きてるだけで、神様から表彰者ですよ。生きること自体に向き合うこともエネルギーの消費になります。つまり、ちゃんとエネルギーを使って、生きているわけですよ。


精一杯生きていたら、無駄なことで悩まないで済みます。わざわざ生き甲斐について、と悩んだりしません。むしろ考えていないときのほうが満たされているように思います。真摯に生きてる事自体が生き甲斐になっているので、もう無意識レベルになって生き甲斐が定着しているのかもしれません。


矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、
生き甲斐について考えるというのは高水準な生活ができてこそのゆとりで言える言葉だと思います

必死で生活の為に生きて暮らしている人は
生活を成り立たせること以外について、考えることになかなかエネルギーを回せないのです。
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