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不思議な話なんですが、人間って修羅場とか悲しい体験とかしていくと面構えもよく、顔つきも変わってくると思うんですが、僕の友達で発達障害を持ってる子は違います。
その子は本当にこっちからしたら辛い悲しいことばっかの凄い人生を送ってるように見えるのに何故か、正直に言いますが、顔つきが幼くにやけていて生ぬるく甘やかされて育ったみたいな馬鹿そうな顔つきをしてます。
それは周りの子も言っている事で、顔つき幼いとか何も考えずに生きてきた顔つきとかは言われてました。
何故そうなるんですかね?実際周りから見てすごくても本人が全く気にしなかったら結局はそうなるんですかね?

A 回答 (4件)

修羅場とか悲しい体験をして、それに


打ち勝った人が良い面構えになる。

負けた人は、惨めな顔になる。

通り過ぎるだけの人は、あほ面になる。


こんな感じかと。
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「自分の人生と向き合って生きていかなくてはならない」と決意した顔なら引き締まるでしょう。



「ま、どうしようもないよ、その時になって考えればいいんだ」というのなら、特に何も考えないでしょう。
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まあ病気ですから

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ああなるほど、分かりますね。



少数派の発達障害者とは、発達を獲得するそのプロセスそれ自体がいわゆる多数派の定型の人達とは違うのですね。その体験から得る情報であったり認知であったり心理的作用であったりが多数派の定型のモデルから外れている、それが発達障害であるということなのですよ。

そして、発達障害者とは少数派であるがために、その生育プロセスでは他者に共感される経験が少なく育ちます。共感性とは共感される体験を得て育つものですので、その経験が少ない発達障害者は共感能力が低い。なので、人が感じる辛さ悲しさという感情の共有が難しいのですし、自分の感情を誰かと共有しようという動機が少ない傾向があります。感情とは他者との共感を求めて表現されるものですから、発達障害者の感情とは表現されにくくもあります。そうしますと余計に定型発達者サイドから見て、発達障害者の内面を読み取り共感することが難しいということになりますが、それを難しいとは定型発達者の人は捉えない、単純に「それしかない」というように見るのですよ。

実際として幼い子供が何故幼く見えるのか、それは経験が少ないので感情の複雑さが少ないからなんですね。その複雑さが少ないので感情表現も複雑さが少ないものになります。その様子が複雑な感情を獲得した大人から見ますと、「幼い」というようになるのですし、子供が複雑な感情表現を細やかに表すと、「大人っぽい」という印象になります。

そして人とは社会性を持つ存在であり、ゆえに認知を共有する生き物です。どんな体験をしたとしても、その経験的感情を共有してくれる誰かが存在しないのならば、その体験が事実にならないのですね。
或いは、それが全く体験が伴わないものだとしても、その感情を共有する誰かがいれば、それは実際の経験になるのだし事実として機能するんです。

総論。誰かと感情を共有することを、その生育プロセスの中で諦めた発達障害者は別のものを獲得するのですが、その様子が感情を共有することを獲得した定型発達者から見ると、定型サイドのご都合として「幼い」と評価するということです。
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