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日本人からキリスト教を見ると、「聖書」や教会組織があれば十分のような気もしますが、「神学」にはどの程度の存在意義があるんでしょうか?

A 回答 (6件)

何が十分なのでしょうか。

十分なわけありませんよね。
あなたは聖書と教会組織があれば十分だと仰いますが、
神学がなければローマ書やヘブライ書のような神学論文的な書簡はなかったことになります。もしローマ書がなければ、キリスト教の教理はずいぶんと違ったものになるでしょう。聖書に収められているそれ以外の文書もまた、形式的には異なるとは言え、それぞれの背後に神学があります。
教会組織も、各教派の神学に従って組み立てられているのですから、神学を抜きにして考えることはできません。
神学があるからこそ聖書解釈もあり、使徒信条のような信仰告白もあり、礼拝のあり方、教会の建て方、伝道の仕方を決めることができます。
神を信じていると言いながら、神について学び、論じることを蔑ろにしても良いと主張できるでしょうか?
たとえば、「イエス・キリストは真の神にして真の人である」とは神学の結論です。聖書のどこかにそう書いてあるわけではありません。
しかし、教会の教師や信徒は神学のガイドに従って聖書を読むのです。
正しい道標なしで自分勝手に聖書を読んだら一体どうなるか。
家庭と社会を破壊するカルト宗教が示しているではありませんか。
神学することなしには聖書も教会組織もありません。
従って、神学の存在意義を問うことは本質的にナンセンスなのです。
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この回答へのお礼

大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2024/08/23 09:07

神学を学んだ人が教会組織に入って布教活動をするのです。


神学を学ばないで、よこしまな心で布教すると、生臭坊主と同じでしょう。
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フランシスコ・ザビエルが薩摩、周防、摂津に上陸したら、農民達が
押し掛け質問責めに遭いました、まず、この事に驚いたとバチカンへの
書簡に書いてます。
そうして、質問の中で、いくつか彼らを納得させる回答が出来なかった
のが有りました。
全知全能の神が何で悪魔なんぞ造ったのか?
キリスト教信者以外は、地獄に落ちて、そこから抜け出せないと云う
のなら、俺達の先祖は地獄に居るままなのか?それでは、情けも慈悲
の心が無い神様じゃないか、この二点が回答に窮したようです。
天皇に拝謁出来ない事と協力的だった、大内家が家臣の陶晴賢に殺された
事も有り、回答出来なかった事の蟠りを抱えたまま、マラッカに一旦、
引き帰りました。
新しい宗教なら、戦続きの世を終わらせる事が出来るかも知れない
と言う期待を胸に集まった農民達の姿が垣間みられますね。

悪魔や地獄の存在、偶像崇拝、受胎告知など、一神教が大和民族
に馴染まない要因がここに有りと思うのですが。
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聖書通りだと。



全知全能の神がいるのに、
実際の世の中は矛盾だらけ。

これはどういうことだ。


これは一例ですが、聖書通りだと
色々な矛盾、問題点が出て来る
わけです。

それを上手く説明するのが、神学
です。

聖書は絶対であるから、これを
動かすことは出来ないが、
解釈は出来る。

ここから、近代法学理論が発展
した、と言われています。

法律は絶対である。
しかし、文言通りに適用すると
現実に合わない場合が出て来る。

それを上手く説明するのが
法解釈論です。




「神学」にはどの程度の存在意義があるんでしょうか?
 ↑
信者を納得させる意義があります。

どうしても説明が困難な場合。

虫には人間の意図が理解出来ないのと
同じく
人間には、神の意図は理解出来ないのだ。

そう説明します。

原罪なんて概念もこうやって
創作されました。

大人が苦しんだり死んだりするのは
わかる。
大人は、色々悪いことをしているからだ。

しかし、生まれたての赤ちゃんが
死ぬのはどういうことだあ?

人間は総て原罪を背負っている
罪深い存在だからだ。


○余談
来日したイエズス会が、日本の庶民を
相手に布教しました。

信じる者は天国。
信じない奴は地獄。

日本の庶民が質問します。

じゃあ、俺たちの先祖は皆地獄かよ。
なんでもっと早く来日しなかったんだよ。

イエズス会は返事をすることが
出来ませんでした。
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日本には昔から仏教が浸透していました、そうして仏教とキリスト教には根本的な相違がある様です、その相違とは仏教は大変知的な面がある事です、ですがキリスト教にはそういった知的な面が見受けられない事です。



仏教は釈迦が悩みの果てに、人間の苦しみを本質的に解明をして、その苦しみを根本から取り除く事を発見したと云ったいきさつがあります。人間の苦しみを根本から取り去る力があるという意味です。

人間は生れた瞬間から『死刑が決定しています。』処が死刑執行日が確定していないと云った面があります、この事が人間の苦しみの原因の一つになっている場合があります。

知的な人間の特質として『人間は何処から来たのか?や、人生とは何なのか?や自分は何者か?』と云った事を考える習性がある様です。

こういった知的なな好奇心をキリスト教の布教者にぶつけたところで何も対応する術がなかったためにキリスト教が日本人にはなじまなかったのではないのかとも考えられます。

仏教の発展には紆余曲折がありますが、お経と云ったものには長い年月によって、そのエキスと云ったものは言葉の壁によって行方が分からなくなったと見ても良い面があると思います。

処がお経と云った即面を持たない、宗派が興て来て、お経に拠らない教えが大変に釈迦の教えを忠実に再現出来る事を実践出来るようになった様です。お経とか仏典に拠らない教えは釈迦の教えのエキスを直接味わえる事を標榜していた様です。

釈迦の悟りの効用を『直接味わう事を表看板にしたようです。』

今までのお経に拠る教えは釈迦の教えを文字だけで再現しようとしていたものです、処がこういった教えは布団の中で水泳を教えているのと同じで、効果が出なかったようです。

人間は如何して苦しまなくてはいけないのかの解明は、釈迦の最大の努力目標の一つです。それを発見出来た事は『逆に苦しみからの解放の糸口の発見に繋がるものであって、此処に究極的な癒しの心理学が完成したものと思われます。

今の精神医学的な苦しみにはノイローゼが在ります、言い方を替えるなら神経症と云われているものです、今の精神医学の発展を見たとしてもそれ等の原因は特定出来ていないとも云われています。

ところがいまから2,500年も前に釈迦はその原因を特定出来ていました。人間の苦しみとは『心の矛盾』を苦しんでいる事を発見したものと思われます。

現代の科学では科学的に説明は可能です。人間の脳の構造です。

その疑問を感じる事も苦しみを感じる事も原因は人間の脳の構造に起因しています。人間の脳内に二つの意識が存在しているからです。科学的な説明です。

ウイキぺデアからです。

是はてんかんの治療のために左脳と右脳を繋いでいる脳梁の切断を一つの治療の方法として行っていた時代の話です、沢山の脳梁が切断された人が存在していた時代の研究成果の一つです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。

この状態を自らが脳卒中になったために、体験として語っている動画を載せてみます。


脳科学者である女史が脳卒中になってしまって、右脳の自分と左脳の自分を体験として語っているものです。






脳梁の中で、稀に切り替わりの瞬間に出会う事がある様です、この事を『悟り』と表現していますが、その出会いの事を禅の本などを読むと『今更お前は誰かと聞く訊く必要さえも無かった、と書いています。

もう既に知っていた存在と書いています。

釈迦の究極な心の癒しの心理学は、この脳梁の中での出会いを云っています。

簡単な説明ですが、左脳の意識は自我意識です、生まれてからの自分の歴史を全て網羅している存在です、おまけに苦しみを抱えている存在です、ついでに書くなら死にたくないと考えていて、死ぬのが恐ろしいとしている者かもしれません。恐怖症の恐怖を感じている存在です。

右脳の意識は無意識の意識です、無意識にも意識がある事は女史の動画で分かったと思います。この右脳の意識は永遠からやって来た者です。釈迦が仏性と云ったものです、この体験を見性と表現しています。

禅などではこの体験の事を『生死の問題が解決した。』と表現するようです。

死に往く人が笑いながら死んでゆく場合では脳内では右脳に存在している無意識の意識の永遠性に導かれて、元来たところに安心しながら帰って行くとを意味します。

人間の苦しみとは右脳の意識=仏性に身を任せる事が出来なかった事を云いあらわしています。云い方を替えるなら『仏性の助けを必死で遮りながら、助けを必死で求めている姿です。』

釈迦はこの事を『無明の故に』と云っています。

人間の苦しみは『心の矛盾とか対立とか分裂を』自意識が感じていると釈迦は云っています。薬で紛らわしたとしても根本的な癒しにはならないとも云っていると感じます。
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キリスト教における「神学」とは、ごく簡単に言うと「神は居る、その証拠を論証すること」が最大の目的です。



いくら熱心な原理主義者といえども「本当に神はいるのか?キリストは本当に救世主なのか?」と聞かれて疑問を全く抱かないわけではないです。

その最たるものが戦国時代の日本人がザビエルなどに質問した「全知全能で世界を作った神様がなんで今頃日本に布教しているのか?」という矛盾を突いた質問だったわけです。

こういう質問をされるといくら信仰に篤く、日本に布教しようと情熱を燃やすザビエルですら「なんでだろう?ひょっとして俺が今まで聞いてきた内容ってウソだったんちゃう?」と考えてしまうわけです。

そのようなことをキリスト教の聖書を元に「こういうことなんだよ」と研究を始めたのが「神学」の始まりです。

聖書の内容と現代科学が合わないのは当然なので、そういうことも神学で研究し対策しているようです。なので今の時代でもキリスト教を広めるためには神学が必要だと言えるでしょう。
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神学は、牧師や神父が学ぶもので


一般のクリスチャンには必要ないです
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