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打製石器から磨製石器に変わった利点って何なのでしょうか。特に、石斧について教えて頂きたいです。というのも、斧である以上、どうみても打製だろうが磨製だろうが関係ないように思えてしまうのです。どなたかご回答宜しくお願いします。

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A 回答 (6件)

昨日考古学の教授にこの件について質問してみました。



そうしましたら学説はたくさんあるが、本当のところは分らないとのことです。

磨製石器は環境に差があるにもかかわらず世界中で作られているので
明らかな理由があると思うのが普通だけれど
実際には分らないのだそうです。

考古学に興味のある人が自分なりの想像をめぐらせて理由を考察するのも
考古学の楽しさということのようです。
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実験では打製の斧は研磨しないだけ制作が容易ですが、


切れ味は磨製のほうが多少早く、切断面は磨製のほうがきれいです。

とはいえ、それだけの理由から磨製の斧に変わっていったのかどうかは疑問です。
学問的にも確定していないと思いますよ。

石器の製作者たちが暇だったんだと主張する人もいます。

打製石器に使える良質の石が不足しはじめたと主張する人もいます。
 (実際、良質の石は貴重だったらしく、
新石器時代のヨーロッパでは10m以上も縦穴を掘ってまで良質のフリントを採掘していますから
その可能性も考えられます。)

実をいうと私はこの石材不足説に賛同しているんです。
たとえば青銅が鉄に負けたのは金属としての弱さだけではなく
素材の供給量の不足が決定的敗因だったと思っています。

石器時代から経済の原則が働いているなんて、、、面白くないですか?
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一年以上前の質問ではありますが回答を。

先ず磨製石器とその利点についてです。磨製石器には石鏃や石斧があります。これらは石器単体で存在するわけでは無く、柄に取り付ける事によって機能を発揮する組み合わせ式の道具と考えられます。金属器が無かった弥生時代以前に木材を加工し柄を作るには大きな労力を必要としました。機能部にあたる石器はこの柄に適合するように作る必要があり、微妙な整形加工が可能な磨製技術が選択されたものと考えられます。また、石鏃についていうならば縄文時代の押圧剥離による石鏃製作は極めて高度な技術を要し、一朝一夕で作れるようになるものではありません。それに比べると磨製石鏃は片理の発達した石材を使用すればさして技術を要さないという点があります。
 打製石斧と磨製石斧ですが、これらはそもそもの用途の違いが考えられます。一般的には打製石斧=土堀具 磨製石斧=伐採具と考えられています。都立大学で石斧による伐採実験を行っていますが、耐久性や伐採効率は大きく異なるみたいですよ。理由としては均整の取れた磨製石斧は刃部の受ける圧力が均等であること。着柄が容易かつ強固であることなどが考えられます。
 余談になりますが打製石斧は実際に観察すると大きさに大きな違いがあったり、使用痕跡にも違いが見られます。私自身は打製石斧には土堀だけでなく動物の解体や木材の加工など複数の機能があったであろうと考えています。石斧と名はついておりますが実際にどのように使っていたかは未だ分かっていないのが実情です。厳密には打製斧形石器というべきなんですが、慣例的に打製石斧という名称が使われ続けています。
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補足です。


打製石斧は初期のもの、磨製石斧はそれより後期のものですが磨製石斧は
1.形、大きさ、重量などある程度自由にえらべるようになる。 
2.機能的には目的に合わせてある程度自由にえらべる。

と思います。  
例えば戦闘用で投擲に便利なように重量、鋭さを加工出来る。 同様なものの複製がし易い。
木材の伐採用としても大木用と小枝用と細かく使い分けられる
取っ手の木材との結合用の穴などの工作が出来る。
打製石斧では偶然性に頼るのでこのような自由度が得られにくい。
それに文化の進歩による美意識の向上により勾玉など磨製技術の進歩、普及もあったのではないでしょうか?
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生産手段の変化と材質の問題ではないでしょうか?



打製加工できる石の性質は、硬いけれどある一定の方向に割れる性質のものだったと思います。結構細かい加工まで可能でしたが、小刀や、槍や矢の先端に取り付け、狩猟採集の道具として用いられていました。

磨製石器の材質は、木を伐採するのに適した、割れにくいものでした。森を切り開き、竪穴式とは言え定住のための住居を作るなど、農業と密接に繋がっています。

石斧も形状は似ていても、上記のように材質や使用目的は必ずしも同じではなかったと思います。
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打製石斧は製作の時思うような形で得られる事は少なく偶然性に頼るものです。


多少の修正を行う内、磨製の技術を身につけたのではないかと思います。
そして次第に思いどうりの形の石斧を製作できるようになり進歩したのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。「思い通りの形」にできるようになったのは理解できるのですが、その思い通りの形が打製のモノと比べ、機能としてどのように進歩しているのでしょうか??

お礼日時:2005/05/17 18:19

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Aベストアンサー

●住居となる部分を掘り窪めた理由は何ですか。
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Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
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ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
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時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
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かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qナウマン象とマンモスの違いについて。

ナウマン象とマンモスの違いについて教えていただきたいです。
よろしくお願いします

Aベストアンサー

マンモス:新生代第四紀の更新世後期に生息し、最終氷期に絶滅した象。ユーラシア大陸北部からアラスカ・カナダ東部にかけて化石が出土。インドゾウに近縁で、体高約三・五メートル、全身が三〇~四〇センチの長い剛毛で覆われ、皮下脂肪が厚く、長く湾曲した牙をもつ。北海道では歯の化石が発見されており、シベリアからは凍結死体が発掘された。

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Qこの世おばわがよとぞ思う望月の 歌の解釈 

「この世おば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしとおもえば」

この歌はたしか学生時代(小学校か中学校で)に習いましたが、
教師に教わった解釈は 満月のようになにも欠けた所がない、栄華を極めたワタシであることよ』というような自慢っぽいものでした。

しかし、ふと思ったのですが

『月が欠けることが無ければ、この世は自分のものだと思えるのに・・・』
という意味、とれるように思うのです。
満月を見て詠んだのではなく、ほんの少し欠けはじめた月をみて詠んだのではないかと。

作者の藤原道長は源氏物語のモデルと言われている人物でしたよね。
たしか光源氏は晩年、さみいしいというか、落ちぶれていくという結末ではなかったでしょうか。

栄華のなかにあって、ふと自分で何かを予感するような、そんな歌のような気がしたんですが・・。

今の国語の解釈ではどうなっていますか?宜しく御願いします。

Aベストアンサー

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞している。
4)「望月の歌」を詠んだ翌年には、出家している。

No3のkogotokaubeweさんの情報と以上の事を踏まえて、
質問者usiodonさんの解釈を敢えて採用するようにしてみるとこんな感じになります。
○病気が多くてそれは道長の悩みだったようで、
 病気がちの道長は晩年「糖尿病」だったそうです。
 自分個人の自信は失いかけていたかも知れません。
 また、「望月の歌」の前後で、役職を辞したり、出家してますから、
 自分の人生の事後処理モードに入っていた=欠けはじめた月の状態にあったとも
 取れます。
 「望月の歌」はそんな中で読まれているので、
 そんな本心の裏返し=強がりとして、酒の酔いにまかせて
 「いままさに栄華の絶頂にある」と詠んだ可能性はあると思います。

 それでも、出家後8年ほど生きていますので、役職は辞していても外戚政治で
 まだ権勢を奮っていたかも知れません。

質問者usiodonさんの解釈には共感できる点もありましたので
ちょっと余計な事まで回答してしまいました。

参考URLは、
「藤原道長の悩み」 http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm
です。

参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub202.htm

わたしも数年前に授業でならった時の解釈は、
「栄華を極めてこの世はわたしの世である まさに満月にかけた所がないように」
でした。
おそらく、現在の学校でも同じ様な解釈を教えていると思います。

ただ、わたしが調べた範囲では、こんなことがわかりました。
1)藤原道長は、30代くらいから病気を繰り返している。
2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。
3)「望月の歌」は、娘の威子が天皇の夫人となった時に読まれていて、
  同年に太政大臣を辞し、その前年に摂政を辞し...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
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「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q洞窟の壁画とかはどうして描いたのでしょうか?

タイトル通りなのですが古代人というか原始時代というかそのくらい昔に
洞窟に壁画が描かれていますよね。
どうして壁画を描いたのでしょうか?
調べたのですがわからなかったもので。
どなたかわかる方いましたら教えて下さい。
ふっと疑問に思っただけなんですけどね。

Aベストアンサー

 
まず、尋ねておられるのは、ラスコーなどの数万年前に描かれた洞窟壁画の「描かれた目的」だと考えます。

中国の墳墓やエジプトのピラミッドのなかや王家の谷の王墓の壁画や、あるいは中南米のマヤやアステカにも、壁画があるとか、北アフリカの現在は砂漠となってる場所に、数千年以上前の岩石絵があるなどは、目的の点で、分かっているものもあり、色々違った目的の場合もありえるので、一括で論じるのはどうかと思います。

ラスコーなどの壁画は、クロマニヨン人が描いたものと考えられます。「目的」は何かは、彼らは当然、無言語文化で、記録などもないので、現在から、絵を眺めて、推測するしかありません。その場合、「現代人の心理」では、了解できない目的なども当然考えられます。

基本的に、これらの洞窟絵画は、洞窟の奥深いところに描かれていて、彩色が非常に鮮明で、かつ絵が写実的で躍動性があり、更に、モチーフとして、野牛を初めとして、狩りの獲物になるような動物が「多数」描かれているというのが特徴です。

「狩りの成功」を祈り、「絵に描いた動物が手に入るように、呪術的行為」として、狩りの獲物の絵を描いたのだという説が、有力な説として古くからあります。この場合、いまでいう「宗教的目的」で描いたのだということになります。

記憶ですが、描かれているものには色々なものがあるが、そのなかに、鹿の皮をかぶった、明らかに人間と思える像の絵も描かれていたはずです。(違っていたかも知れません)。

こういう絵があった場合、これは、何かの儀式を行っているときの絵だとも、儀式の目的のために描いたのだと言えます。では、その儀式の「目的」はということになります。

クロマニヨン人だと、狩猟生活をしていたと考えられますが、しかし、食料は、植物性のものもあったはずです。魚もあったと思えますが、そういうものは描かれていないようです。少なくとも、主なるモチーフ絵としてはないようです。

そうすると、単に、狩りの獲物の大量を願うというより、牛や鹿や、その他の動物の持つ「力・生命力」に何かの意味で敬意を表し、それらの偉大な動物の「力」などが、部族や住民に助力することを願って描いたという可能性が高くなります。

絵に生き生きと描いた野牛などの「肉」が欲しいのか、「その象徴的生命力」が欲しいのか、いずれにせよ、「欲しいもの」を絵や像などで表して、象徴的呪術的に手に入れ、これが、現実的な肉や生命力の入手につながるという考えが呪術では一般です。

「ヴィーナス像」という、女性の特徴を誇張した像や、妊娠している女性の像が、やはり、クロマニヨン人が作ったと考えられる時代で出土します。これらも、子孫繁栄と「豊穣」を呪術的に操作しようとしたとも言えます。

洞窟の奥深く、人が入って来られないような場所に描いていること、また、現在でこそ、電気の照明で、全体の絵がはっきり見えるのですが、昔は、そんな明るい照明は持ち込めず、煤や二酸化炭素で窒息してくるはずなので、ごくごく弱い光でしか絵は見ていなかったことなどを考えると、これは、「見るための絵」ではないということになります。

隠された場所、または神聖な、いわば「神殿最奥の至聖所」に描かれた絵だとも言えます。先に述べたように、食料の植物や魚や貝などは出てこないところからすると、「狩猟の成功」を呪術で操作しようという目的と、力があり、生命力に満ちる野牛などの「生命力・力」を、部族などのために確保しようという目的だと思えます。

この場合、「人間の立場」は、一方的に狩りをする「万物の霊長」ではなく、野牛などの方が、高次存在で、野牛を、神などのように崇めていて、その力の分与を願ったのが目的かも知れません。動物が、力強い、生き生きした写実的表現で、躍動感に満ちて描かれているのは、まさに、そのような「力・生命力」を崇拝し、助力を願ったためだと思えます。

部族の秘密の儀式=呪術である訳で、「日常と聖」という二分では、「聖」であり、多様な意味で、「守護の神」の絵として、洞窟の深奥に描いて、近づけないようにしていたのだとも思えます。「力・生命力の分与・幸運の分与・神である野牛等自身が肉や毛皮を分けてくれること」への祈願と、呪術的操作のために描いたのが、目的でしょう。
 
クロマニヨン人の心理など分からないので、「自信なし」にします。
 

 
まず、尋ねておられるのは、ラスコーなどの数万年前に描かれた洞窟壁画の「描かれた目的」だと考えます。

中国の墳墓やエジプトのピラミッドのなかや王家の谷の王墓の壁画や、あるいは中南米のマヤやアステカにも、壁画があるとか、北アフリカの現在は砂漠となってる場所に、数千年以上前の岩石絵があるなどは、目的の点で、分かっているものもあり、色々違った目的の場合もありえるので、一括で論じるのはどうかと思います。

ラスコーなどの壁画は、クロマニヨン人が描いたものと考えられます。「目的...続きを読む

Q氷河期の原因は何だったのでしょうか

過去に氷河期が何度かありました。
あれの原因は何だったのでしょうか?
またなぜ氷河期が終わったのですか。
今後も氷河期が来る可能性はありますか?

話は変わりますが、NHKテレビでかつて数億年前の地球はアイスボール状態だったという説を紹介していました。
これと氷河期とは関係がありますか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

>過去に氷河期が何度かありました。
>あれの原因は何だったのでしょうか?

一般に氷河期と呼ばれているのは、人類誕生というイベントを持つ「新生代四期」、200万年前から1万年前までの間で、「氷期・間氷期サイクル」と言い、約10万年程度の氷期と1万年の間氷期が繰り返された時期を指します。
地球の寒冷化に伴う同じような氷河期は過去に何度もあり、その中でも氷期と間氷期は刳り返されています。そして、それには様々な原因があり、判明しているものといないものがあります。主な原因に就いては、#2さんの紹介して下さったサイトが大変詳しく、私も勉強になりました。

地球の平均気温は、主に太陽から受け取る日射量と、地球から放出される赤外線の量で定まり、これを記述するモデルを「エネルギー・バランス・モデル」と言います。これを直接コントロールするのが温室効果ガスで、そこに大気循環や海流、大陸移動を伴う陸地・海洋の分布、生物圏からの影響が伴って「季候」となります。
また、氷期が訪れ、太陽光反射率の高い氷河の面積が大きくなって寒冷化が加速することを「正のフィードバック」、温暖化によって大気中の水蒸気が増え、雲によって寒冷化に転ずることを「負のフィードバック」と言います。
温室効果の要因としては、二酸化炭素、メタン、エアロゾルがあり、二酸化炭素は植物などによる生命現象、メタンはメタンハイドレードの流出、エアロゾルには火山活動や惑星衝突などが原因として上げられます。

このように、地球の季候変動には様々な要因があり、氷河期の原因もそれぞれに異なりますが、人類が経験した第四期の氷河期は、赤道付近のあったパンゲア大陸が分裂し、大陸移動によって陸地が極地方(高緯度地方)に集中したことが主な要因だと言われています。古生代オルドビス紀末期(4億5千万年前)の氷河期はこれと良く似ており、やはりゴンドワナ大陸の南下が原因だそうです。このときは生物の大量絶滅が起きており、生物年代はシシル紀に移行しています。
古生代石炭紀(3億5千万年前)の寒冷化は、ご存知の通り大森林による大気中の二酸化炭素の減少で、こちらは生物活動が主原因です。太陽活動の例では、17世紀頃の「小氷期」などが幾つかあり、凶作とペストの流行が重なって大被害が出たという記録がありますが、間違いなく太陽が原因だったかは、まだはっきりとは分かっていないそうです。

>またなぜ氷河期が終わったのですか。
>今後も氷河期が来る可能性はありますか?

氷河期の原因に就いては先にも挙げた通りですが、氷河期が終わる原因に就いては、私は余り詳しいものを読んだことがありません、ゴメンナサイ、分からないです。
現代は氷河期が終了した、「後氷期」「完新生」など呼ばれてていますが、先に申し上げた通り、間氷期のサイクルは約1万年です。既に1万年過ぎてしまいましたから、これからは再び氷期が訪れるのではないかと言う学者さんもいるそうです。

>スノーボール・アースになれば地上の生き物は生きてはいけないと思いました。
>これと氷河期とは関係がありますか?

スノー・ボールは、7~5億8千万年前、数回に渡り起きた地球の全面結氷ですが、当時ロデニア大陸が北に集中していたという点では、第四期の氷河期と原因は同じだと思います。でも、規模がぜんぜん違いますよね。
スノー・ボール期には、氷河の成長によって強烈な「正のフィードバック」が起きました。現在のアフリカ・コンゴ辺りにはまだ辛うじて土というものがあったそうですが、氷河はその内陸まで迫ったそうです。気温は―40℃、海洋の氷の厚さは平均で1.4kmに及びました。
これが何故終了したに就いては、やはり同時に始まったロデニア大陸の分裂が関係するのではないかと思います。ですから、この頃は、比較的活発な火山活動もあったはずです。数回に渡って繰り広げられた全面結氷は、火山活動、地熱、二酸化炭素の蓄積(光合成生物の衰退)などにより、僅か100年余りで気温が-40℃から+50℃に跳ね上がるというダイナミックな融け方だったそうです。それから、またコチコチに凍るんですね(ウ~、寒)。
そのころ、陸上にはバクテリアくらいしか進出していませんでしたから、ほとんどの生物は海の薄氷や割れ目の下に寄り集まって、僅かな太陽光を頼りに必死に生命を繋いだと聞いています。中々逞しいものですが、それだけではありません。
先カンブリア代ベンド紀、6億年前と言いますからその最中です。世界中の海でエディアカラ動物群という、地球最初の大型多細胞生物が大発生しています。彼らはスノー・ボール期の後半を堂々と乗り切り、生物層が次ぎの古生代カンブリア紀を迎えたのは5億4千万年前ですから、「V/C境界絶滅」と呼ばれるエデャカラ動物群の絶滅は、寒冷化とは無関係だったと言われています。そして、その大量絶滅の原因は、まだはっきりと分かっていません。
全面結氷でも絶滅しなかった強かな連中が、いったい何処へ行ってしまったんでしょうかねえ?

以上、知っていることだけ書きましたが、何か参考にして頂ければあり難いです。

こんにちは。

>過去に氷河期が何度かありました。
>あれの原因は何だったのでしょうか?

一般に氷河期と呼ばれているのは、人類誕生というイベントを持つ「新生代四期」、200万年前から1万年前までの間で、「氷期・間氷期サイクル」と言い、約10万年程度の氷期と1万年の間氷期が繰り返された時期を指します。
地球の寒冷化に伴う同じような氷河期は過去に何度もあり、その中でも氷期と間氷期は刳り返されています。そして、それには様々な原因があり、判明しているものといないものがあります...続きを読む

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。


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