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今、世界史の論述で

1.群国制度が漢で採用された理由を説明せよ。

という問いと

2.14世紀初めまでイングランド国王はフランス国王の封建家臣であった。このような現象が現れた理由を
  (I) 西欧封建制の特徴と西欧封建制下での国王の地位の特徴
 (II) イングランド国王家の出身地の特長について
の2点から説明せよ。

という問いが出ました。
1.の理由は全く察しがつきません。
とりあえず郡国制が封建制+郡県制ということは理解しています。

2.の方は
(I)が分かりません。
(II)の方は1154年フランスのアンジュー伯がイングランド王(プランタジネット朝?)として即位したということで良いのでしょうか?

どちらか片方だけでも良いので教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

設問1は、郡国制が中央集権に逆行する制度だったにもかかわらず


なぜ実施されたのかというところを説明すればいいわけです。

統一国家としては秦王朝のような皇帝独裁の中央集権制の方が
都合が良いわけですが、
秦の滅亡は郡県制による急激な中央集権化に対する地方の
反発であったというところが重要です。
漢の高祖(劉邦)は功績を挙げた家臣や臣下になった群雄たちに
報いて領地などを与えねばならず
建国の功臣たちや一族のものを諸侯として地方に封じました。
いわば漢帝国のなかに別の王国が存在したわけです。
これらは国家としては都合がわるいので
高祖の存命中に異姓の王はしだいに排除され
韓信などの功臣も滅ぼされます。
「狡兎死して走狗烹(に)らる」というところでしょう。
同族の王だけがのこりますが、景帝の代に
呉楚七国の乱が起きてたので、これに懲りて
王の権限を削り、国土を直接統治する郡県制のほうに
移行していきます。

設問2-1は、西欧の封建制度について説明すればいいだけです。

簡単に言うと領主が家臣に封土を給与し、
代りに軍役の義務を課する主従関係を中核とするもので
国王は諸侯に領地の保護をする代償に忠誠を誓わせ、
諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、
忠誠を誓わせるという階段構造になっています。
西欧の場合、ローマ末期の教会領に起源がある恩貸地制(ベネフィキム)と
ゲルマン人の間に生れた従士制がもとになっています。
国王の地位は、諸侯や騎士との個人的忠誠関係の上に成り立っており、
王権は弱く、諸侯は独立した領主でした。
よって国王は直接国民を支配できず、間接的に関与しているのに過ぎません。
これが近世になっていくと中央集権化が進み
諸侯は国王から俸給をもらう官僚と化していきます。

設問2-2は、ノルマンコンクエストのことを説明すればいいのです。

もともとはロロを首領とするバイキングの一団が
フランスを襲って、ノルマンディーを領したのが始まりで
フランスは彼らを撃退する力がなかったので
称号を与えて形式的に臣下にすることで定住を認めました。
その後、イングランドの家督争いに
ノルマンディー公ウィリアムが介入して
1066年にイングランド征服したので
これまた形式的ながらイギリス国王は同時にノルマンディーの公爵でもあって
フランス臣下になったわけです。

ところが百年戦争では逆にイギリスがフランスの王位継承権を
主張する事態となったので
アジャンクールの戦いの敗北後
ヘンリー5世がフランス王位につきます。
この王が死んで、ジャンヌダルクが登場した後、
シャルル7世がフランスの王位につきますが
追い出されたイギリスも正統な王位を主張しつづけていて
フランス王の称号を19世紀まで保持していました。

ちなみにアンジュー伯はノルマン朝断絶のあとを
継いだだけです。
アンジューもノルマンディー地方の近くにあります。

ま、これらをまとめて回答らしくすれば正解をもらえたでしょう。
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1についてだけ。


 まず、秦王朝の滅亡した原因があまりにも急進的な中央集権化(郡県制)にあったことを、劉邦はじめ秦への謀反をきっかけに身を立てていった漢の建国功労者たちは当然認識していた。そのため、中央政府の直轄地域にだけ、集権的な郡県制を敷くことにした。
 また、漢が全国を統一したといっても、その時点で地方はまだ群雄割拠が続いていた。そこで各地の政権を諸侯として認めることで、同盟関係を結んで統一国家の体裁をとったに過ぎなかった。
 その後の漢王朝は、これらの地方政権を謀反などの口実をつけては滅ぼしていくが、中央直轄地にするかわりに劉氏一族の王を封建していった。もちろん中央の本家にとって、これらの分家の王国は脅威になるので、呉楚七国の乱以降は、各王国の権限の弱体化につとめ、独立性を奪う政策をとった。

 おそらく、当時の交通・通信システムからいって、完全な中央集権にすると、地方でおきた突発的な緊急事態(旧体制派の反乱や異民族の侵入)に中央が時間的に対応しきれないので、地方にも独立性を持たせたほうが現実的との判断があったのでしょう。これは現在の中国でも解決しきれていない問題ですね。ただし、劉邦から武帝にかけての長い時間をかけて、王朝の支配が確立していくと、紆余曲折はあっても中央集権化が進むのですが・・・
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