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No.2ベストアンサー
- 回答日時:
「浮世は三分五厘」という、世の中はつまらないものだとの意味の慣用句と「五里霧中」を引っ掛けています。
つまらないはずの世の中を思い惑って右往左往したものか
くらいの意味でしょうか?
一葉の暮らし振りを考えると、「浮世は三分五厘」には、わずかなお金に頭を悩ます生活に対する自嘲があるかもしれませんね。
話が前後しますが、No.1でnireisanさんが引用されている前書きを参考にさせていただくと、「さりとは」は前書きを受けると同時に「私が去ろうとしている」かな?
また前書きで自分を船にたとえたことが「浮世」の言葉を引き出しています。
以上あんまり自信なし。
アドバイスありがとうございます。ダブル、いや、トリプルミーニングがあるのですね。「つまらないはずの世の中を思い惑って右往左往したものか」という解釈には説得力がありますね。ただ、お金の工面のほかに、明治という男権時代に女性として生きねばならなかったこと、また、自分の意志に反して半井桃水との恋愛を表面的には諦めねばならなかったこと、父親が金で買ったものと言えども、一葉が誇りとしていた武士階級の出身者というものが零落してゆく明治という時代、そういうもの全てが、まさに流転する浮世というものであり、混沌としたものであったという意味もあったのではないでしょうか。それを「浮世は三分五里霧中」という短い言葉にまとめてしまったところが一葉の凄さだと思います。一葉の歌は凡庸だと言われますが、最後の最後に会心作を残したと思います。
No.4
- 回答日時:
お答えをいただいて、非常に参考になりました。
和田芳恵さんは一葉の全集や年譜の作成にも当たられた方ですので、「辞世の言葉とも考へられる、こんな文章」というお言葉は、十分に傾聴すべきご意見であると理解できます。
そもそもご質問を拝見して、一葉がいつ「辞世の句」を詠んだのだろう、という疑問が生じたのは、以前読んだ関川夏央の『二葉亭四迷の明治四十二年』(文藝春秋)に以下のような記述があったからです。
-------(以下引用)
四月から病気が進行していた一葉は、七月には定期的に三十九度の熱を出すようになっていたが、調子のいいときを見はからって日記をまとめて書いた。その文中に、おだてたり、怒ったり、哀願したりしながら自分のまわりをめぐる男たちを、彼女はこっけいとも思わず、淡々と描写した。……
明治二十九年七月二十三日にも六枚分(※原稿用紙換算)書いた。それは前日の緑雨の訪問に関する記事だった。……
緑雨の気持もわからないではないが、としるし、つづけて「何かは今更の世評沙汰」と書いたところで、突然永久に筆をおいた。
その日から一葉は、真夏でも綿入れを着ながら震えるほどの高熱に苦しみ、次第に弱っていった。八月、綿入れとあわせの羽織を着、さらに毛布で体をつつんで人力車に乗って駿河台の山龍堂病院で診察を受け、絶望と診断された。鴎外の紹介で来診した青山胤通博士からもおなじことをいわれた。
「わが心は石にあらず」とかつて一葉は日記にしるしたが、その言葉とは裏腹に、次第に身も心も石になりかわりながら、彼女は明治二十九年十一月二十三日に死んだ。……
---------
一葉全集版年譜(筑摩書房 第七巻)を見ると、八月十九日付で多少容態が持ち直した内容の新聞報道があり、九月九日、病をおして「荻の舎」の歌会に出席しています。以下、年譜には、見舞う客の記述はありますが、一葉の行動は一切ありません。
年譜に記された最後の見舞客である馬場孤蝶によると、十一月初旬に一葉を見舞った孤蝶が
「此の歳暮(くれ)には又帰つてきますから、その時又お目にかゝりましょう」と言うのに対して
「呻くやうな苦しさうな声で『その時分には私は何に為つて居ましよう、石にでも為つて居ましようか』と、とぎれとぎれ云つた」(馬場孤蝶「一葉全集の末に」『全集樋口一葉 別巻 一葉伝説 』所収 小学館)とあります。
関川のいう「身も心も石になりかわりながら」というのは、ここから来ているのかもしれません。
ともかく、おそらく前回引用した部分は、このような経緯から考えると、九月の歌会に参加する以前、さらに大胆に推測するならば、一時的に体調の好転した八月の中旬あたりに書いたものではないか(初秋、という記述から、あるいは以降の一葉の容態からも)。
いずれにせよ、自分の死期を悟っていた一葉にとって、「辞世の句」と考えることは、なんら不都合はありません。
あくまでもわたしの推測であることをご承知ください。
まず、一葉(というか当時はまだ夏子)は明治19年、十四歳で中島歌子の主催する歌塾荻の舎に通うようになります。
引用の冒頭にあげてあるのはこの師匠の歌です。
「樋口夏子の若は、学んだ荻の舎が旧派に属していたため、教養的な、家元的な教え方をした。そのためか、文学として眺めた場合、それほど価値があるものと思われないが、佐佐木信綱は田辺花圃、伊藤夏子、樋口夏子を、荻の舎の三才女にあげている」(筑摩書房版『日本近代文学大系8 樋口一葉集』補注より抜粋)
確かにこの「教養的・家元的」という評価は中島歌子の歌にそのまま当てはまるものです。本歌を「教養」として理解し、そこに独創性の要素を一切くわえていない、という意味で。
紀友則の歌「しきたへの 枕の下に 海はあれど 人をみるめは おひずぞありける」これは、枕の下に涙の海はあるけれど、そこにはあの人に逢えるという「みるめ」は生えていない、という意味。「みるめ」というのは海松布、すなわち海草と「見る目」(逢う機会)の掛詞。歌子の歌も、ほぼ同一の内容です。
何がきっかけかは不明ですが、病床の一葉の脳裏には、まずこの歌があった。イメージの核です。
そこから海へと連想は動き始めます。
「自分は蘆の一枚の葉のようなもの(背景に、揚子江を蘆の葉に乗って渡ったという達磨の故事がある)。蘆の葉は危ういということを知ってはいても、(『楚辞』の漁夫の故事にあるように)波が静かなときは釣りや自然を楽しむことを忘れずにはいられなかった。たとえそのことが海龍王の怒りにふれて、海が荒れ狂うようなことになったとしても」
そうしてこの「さりとはの」が続く。
この解釈は#2のかたの解釈にわたしも同意します。
ただ、やはり右往左往したものか、のあとに、詞書きに対応するような、自分の生き方を肯定するようなイメージがほしいのです。
つぎのふたつは病床、臥せっているところに秋が来た、という内容の歌が二種。
おそらく夏のイメージがある前の句から、時間は過ぎているものと思われます。
そうしてつぎ、
「玉ほこの ミちのふた道 なくもがな」
これは上の句をまず作った。
そうして
そこから次の句が生まれます。
「玉ほこの 道のふた道 やがて世の 人踏み迷う 所成けり」
おそらく「さりとはの」も、この「玉ほこの」と同様、歌として下の句をつけようとしたのではなかったか。そうして、つけられずに終わったがゆえに、逆に一種の辞世とも受け取ることができるのではないか、というふうにも思うのです。
ふたつに分かれた道に何を思っていたか、と同様に、自嘲も含め、みずからを一枚の葦の葉になぞらえた一葉は、右往左往しながら、どうしようと思ったのか、そのことを考ずにはいられません。
この質問を機に、いろいろ知ることができました。質問者さんには大変感謝いたします。
いたずらに長いだけの回答になりました。どうぞご容赦ください。
ご丁寧な回答に再度御礼申し上げます。お蔭様で、この辞世の句(あるいは、未完の「ことば」)に関わる事柄の詳細を知ることができました。
ドストエフスキーをあれこれ調べているうちに、一葉が、『罪と罰』の恐らく初の邦訳(全く売れず、全編の邦訳は頓挫)を熟読していたということを知りました。それを契機に、古文は勿論、擬古文もまるで解さず、短歌などとは何の縁もない自分のような人間が、夏子時代から付け始めた一葉の日記や、書簡などを調べ始めたわけですが、浅学の身では、謎が深まるばかりでした。
和田氏の研究は、度を越えた推測や思い込みに導かれているところも多いと思いますが、明治の東京という、近代化を始めた蛹のような東洋の国の首都で、一葉という女流作家がどのように生まれ、そして数え25歳で消えていったかという歴史的検証面では優れたものです。
したがって、和田氏の著書は、文芸評論という点で何かが欠けていますが、「一葉の日記は一遍の私小説である」という指摘には頷けるところが多く、いわゆる一葉の辞世の句は、その私小説のエンディングと考えることもできるのではないでしょうか。
ですから、私小説としての一葉日記の終わりが、未完の短歌であったというお考えには、大変、惹きつけられるものがあります。25年の短い人生でしたが、一葉は、ただ彷徨っていただけではなく、現実的な世渡りと判断で、存命中に成し遂げるものは成し遂げた人です。自嘲と呼ぶには余りにも血にまみれた一生でしたが、ある種の達成感が、(最後の最後で随分と弱音も吐いてはいますが)自分の最期に対する女侍とでもいうべき潔い態度につながったのではないかと思います。そして、自分の生涯に対するその肯定面を、我々の想像に任せ、敢えて書かなかったという点に、その自信のほどを見せつけられる思いがします。
これから一葉のことを学ぶ上で、大変示唆に富んだ御回答をいただき、ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
すいません、質問の回答ではないのですが、これを「辞世の句」とされている根拠(ソース)があったら、教えていただきたいんです。
「辞世の句」をいったいいつ詠んだのだろう、とちょっと気になって調べてみました。
手元にある『樋口一葉全集第三巻(下)』(筑摩書房)の雑記8(p.681)にこの句は出てきますが、「辞世」という記述はどこにも見当たりません。
一葉は、明治二十年一月十五日から日記「身のふる衣 まきのいち」をつけ始め、これは晩年の二十九年七月二十三日まで、断続的に続きます。
そうして、この句が見られるのが、表書「明治廿六年六月より/はな紅葉一の巻/一葉」と記された雑記録です。
ところが不思議なことに、この「はな紅葉一の巻き」はいったんは二十六年六月で終わるのですが、晩年の二十九年五月頃から初秋にかけて書かれたものがあるのです。
寝込むようになってから、たまたま余白のあった(この日記はいずれも半紙四つ折り判本綴り縦書きの体裁をとっている)「はな紅葉一の巻き」に書き加えたのかもしれません。
一葉の日記は最後の「みづの上日記」が七月二十二日付で終わっていることを考えると、確かにこの部分は絶筆であると考えられます。
全集から二十九年五月頃から初秋にかけて書かれた、とされている部分を引用します。
--------
「中嶋うた子
中蔦(原文は草冠ではなく山)歌
敷たへの枕のもとに海はあれと(ど)
君をミるめはおひぬ也けり」
身はもと江湖の一扁舟ミつ(づ)から一葉となのつて芦の葉のあやふきをしるといへと(ど)も波静かにしてハ」釣魚自然のたのしみをわするゝあたハす(ず) よしや海龍王のいかりにふれて狂らんたちまちそれも何かは
さりとハの浮世ハ三分五里霧中」
大かたの人にあハて(で)過してし
やまひの床に秋(火に禾)ハ来にけり」
わか(が)やと(ど)ハ荻も薄もあらなくに
秋(火に禾)くとしるき風の音哉」
玉ほ(ぼ)この
ミちのふた道
なくもか(が)な」
玉ほ(ぼ)この道のふた道やがて世の人ふみまよふ所成けり」
かたば□(墨汁の染みのため読むことができない)。
-----------
となっています。
年のために全集の解説、評伝を何冊かざっと(これはどれも斜め読み程度)見てみたのですが、この記述に触れているものはありませんでした。
ですから「辞世の句」として良いものかどうか、多少疑問があるのです。
まず最初の中嶋うた子の歌は、古今集巻十二、紀友則の「しきたえのまくらのしたにうみはあれと人をみるめはおいすそありける」を本歌にしたもの(そっくりですね(笑))。
それに対して、一葉は、江戸の風景を江(揚子江)湖(洞庭湖)の風景になぞらえつつ、自分の身を波に漂う一艘の舟にたとえています。全集の注解によると、「達磨が揚子江を渡るときに乗った蘆船からイメージを借りた」とありますが、その典拠その他に関しては、よくわかりません。
そうして、
「さりとハの浮世ハ三分五里霧中」
が来るのですが、これは俳句ではなく(正岡子規の俳句の革新を謳った俳論「獺祭書屋俳話」、「俳諧大要」が新聞に載り始めたのが、やっと明治二十五年であったことを考え合わせても)、和歌の上の句であったこと、そうして、病床の一葉は、これに下の句がつけられなかったのではないか、と推測されます(ちなみにわたしは明治文学に関しては素人なので、単なる推論であることをお含みください)。
結局、下の句がつけられないまま、以下の三首を詠んだのではないか。
と思うのですが、どうでしょう。
質問者さんが「辞世の句」とされている典拠をあきらかにしていただければ、そこからまた考えてみたいと思うのですが。
ご質問自体が大変参考になりました。
私は『樋口一葉全集』(昭和出版)の第三巻(日記、書簡)を読んで、この全集では、一葉の死の一年前までの日記しか載せられていないので、筑摩書房版『一葉全集』第四巻を読もうと思っていたのですが、図書館の方が、『和田芳恵全集』第四巻(一葉研究)(河出書房新社、1978年)を読むよう勧められました。その334ページに、筑摩書房版『一葉全集』第四巻で初めて収められた「日記無題」(その三)が一葉最後の手記であること、そして、次のページに、「辞世の言葉とも考へられる、こんな文章」として、「身はもと江湖・・・五里霧中」が、その「日記無題」に書かれていたと紹介されています。ただ、私は、一葉の日記が日付通りに書かれたものではないこと、また、誰が編纂した日記か、あるいは、日記に対する誰のコメントかによって、かなり意味内容も異なることをこの書で学びました。
>それに対して、一葉は、江戸の風景を江(揚子江)湖>(洞庭湖)の風景になぞらえつつ、自分の身を波に漂>う一艘の舟にたとえています。全集の注解によると、>「達磨が揚子江を渡るときに乗った蘆船からイメージ>を借りた」とありますが、その典拠その他に関して
>は、よくわかりません。
に関しても、和田芳恵全集』第四巻(一葉研究)の中に本人による説明として何箇所かで引用されています。「達磨」=「お足がない」という洒落であったようですが、私は、「たけくらべ」以外、短編しか書けなかった一葉が、原稿用紙一枚(一葉)、あるいは、原稿用紙一葉あたりいくらの原稿料(15銭から、最後には40銭まで上がりましたが)で生活している(そんな薄謝では食べてゆけない)という意味も込めて、このペンネームを使っていたと思うのです。「うもれ木」で、一葉は初めて原稿料をもらったのですが、その時「一葉15銭にならん」と皮算用していますね。
もし、この「辞世の句(言葉)」が、上の句で、下の句を付けぬまま一葉が逝ったとする説は、大変、興味深いものです。もう少し詳しいご説明をいただければ幸甚です。
No.1
- 回答日時:
この句は前書きがあるようですね。
その前書きを受けて詠んだ句ですので、その前書きと合わせて解釈なされてはいかがでしょうか?「身はもと江湖の一扁舟,みずから一葉となのって,芦の葉のあやうきをしるといえども,波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするるあたわず。よしや海龍王のいかりにふれて,狂うらん,たちまち,それも何かは,
さりとはの浮世は三分五里霧中」
ありがとうございます。私も、この前書きと共に「さりとはの浮世は三分五里霧中」を考えてみたのですが、浅学ゆえ、理解できません。アドバイスがございましたらお待ちしております。
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