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 個人的にマスコミに情動的に流される大衆的状況は今日でもいまだ健在だと思います。とはいえ、最近ではずいぶんと市民活動の必要性がいわれています。これは大きくは地球環境問題などのグローバルな問題の現出が理由としてあるでしょう。
 とはいえこのような市民活動は、むしろ遠吠えする国家の犬となりさがってしまっている気がしてなりません。確かに近代的な枠組みを乗り越える可能性を求めていくことが必要でしょう。しかし、今の参加民主主義などはどうも楽観的な気がするのです。
 そもそも市民は政治の肝心なところに足場をおいていません。これはまさに市民という名をかぶる大衆であることを意味しているように思います。もちろんなかには健全な人々もいるでしょう。しかし、その多くは下手するとマイナスの効果をもたらします。
 民主主義を効率的にファンクションさせるためにはどのような可能性があるでしょう?ご意見をください。

A 回答 (4件)

マスメディアによる大衆情報操作等は.要は「鐘の出せる人間が正しい」ということになりますので.金のある人間の権力を弱めることが最初に必要でしょう。



ということで.
最高税率75%の所得税の復活
法人税等の法人を対象とした課税をかっての発言のように福祉目的税化することで.国民全体の教育水準を上昇させる。
行政権の乱用が目立っていますから.係長以上の人間は国民投票の対象とし.最高落選投票者数以上の投票があったらば.係長以上の職を解雇(クビにするわけにもいかないでしょうから.ヒラの高卒程度の職種に)。つまり.無投票当選の選挙区では.1票でも「解雇がふさわしい」という投票があれば即解雇。
教育は全部無料化。能力主義を徹底すること(現在所得が多いほうが学力があるということで金の力による学力格差が出ています)。
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 民主主義の基本に返ることです。



 日本人は、自分達の血を流して日本に民主主義を作り上げたのではないので、民主主義そのものの理解が不足しています。

 そもそも、民主主義は決してすばらしいものでもなく、欠陥の恐ろしく多い政治システムです。唯、他の政治システムに比べて、致命的な欠点がないことが多くの国で採用されている理由です。

 その特徴を具体的にいいますと、
1.唯一ボトムアップを基本とする政治システムであること。
2.他の政治システムに比べて、経費が恐ろしく掛かること。
3.意思決定に時間が掛かりすぎること。
4.政治的リーダーの取替えが容易であること。
5.政治的決定の最終責任を、市民全体で取ること。

 つまり民主主義は、みんなの意見を集約し政治決定をし、「政治的失敗」が起こるのは当たり前であることを前提として、その失敗の責任を全員で取ることによって成り立っています。

 そして、政治決定の遅さと費用の多さに対しては、市民一人一人の活動と負担によって、致命的問題にならないように、常に気を配らなければなりません。
 この日常的な努力がなければ、民主主義は衆愚政治に直結します。

 日本人が民主主義を健全に運営したいなら、個人個人が自分の政治活動に時間とお金の1パーセント、年間3~4日の時間と数万円の出費を覚悟すべきと思います。

 尚、過去の歴史において、民主主義が有効に機能した国では、それ以上の負担が当たり前とされていたようです。
 
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小さな政府になると、個人の責任でなんでもやらなければいけないのですね。

政府や地方自治体の仕事が民営化されれば、なんでもお上にという流れはなくなります。そのような方向に進んでいますので、何でも個人でやらなければいけない時代が時期にやってきます。そのときは福祉も、環境も個人で考えなければいけなくなりますから、直接民主主義に近くなりますね。もうちょいですね。反対議員もいますが国の赤字には勝てないですね。
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この回答へのお礼

 わたし個人はこのような自己責任システムの貫徹にちょっと待ったをかけたいような立場の持ち主です。
 とりわけネオリベラルな日本の方策は、現在コミュニティを中心的主眼とするボランタリズムなどと対立関係のようでありながら、共謀関係にある。ボランタリズムでは、社会は回りません。なぜなら、社会は経済社会をあくまでその中心とするからです。
 ということは、われわれはその経済社会を前提としながら、そういったものを求めていく必要があると思います。
 こういった市民活動の中心的位置を占めるのは、結局行政依存のものが多いように思えます。その意味で、自立的でなければならないが・・・でも・・というジレンマに陥っています。
 つまり、市民、自立という仮面を被った下請けになる可能性を秘めているわけです。その意味で、こういったものへ本当の可能性を見るには、きわめて高い判断能力が人々に求められるでしょう。
 しかし、大衆的状況を前提とする私は、このような能力が備わるとは思えない、という状態です。

お礼日時:2005/07/11 12:47

あなたの言う事はあまりにも抽象的すぎて何を言いたい(聞きたい)のかさっぱり解りません。

文章もいかにもと言うような文をつなぎ合わせただけで、支離滅裂、理解不能なものです。もう少し解りやすく、具体的に自分の考えをまとめてもう一度質問しなおした方がよいのでは?ようは、今の腐敗した政治、経済を「誰かが何とかしてくれるよ。」じゃ無く国民一人一人がこれからの世界、日本、政治、社会、地域、の事を真剣にどう考え、どう行動するかって事ではないのですか?
ちなみにあなたの質問に対する質問です。
マスコミに踊らされるのは日本人は大好きでもちろんいまだ健在ですよ。その事とグローバル的問題による市民活動はどのように関係があり、あなたはどう思うのですか?
そしてどのような市民活動が遠吠えする国家の犬なのですか?近代的な枠組みを乗り越える可能性とはどういう意味ですか?もっと具体的にお願いします。
あなたは市民がどうすれば政治の肝心な所に足場をおけると考えますか?あなた個人は民主主義を効率的に機能させる為にどのような意見、行動があるのですか?

この回答への補足

 なかなか問題自体が大きいので、あまり詳細に説明できずもうしわけありません。

 少し具体化いたします。

 今、とりわけ市民の活性化をはかり、人々が公共の場へ、つまり政治や福祉などこれまで国を中心としてきたものを市民参加型へ移行しようという意見が数多くあります。
 私が市民活動が遠吠えする犬と揶揄するその中身はこうです。たとえば、市民活動のデータでは、福祉や文化活動に高い割合が示されています。ところが、これには国家の下請けと化しているという意見があります。
 ある著名人によれば、市民活動は不思議なことにテレビでいわれているような政治問題、政策問題を中心として機能していないのです。というよりできないといったほうが正しいでしょう。第一に資金提供先がない。第二にさまざまな事由で関心がもたれない。
 グローバルな問題というのは、とりわけ地球環境問題などを指しています。21世紀は間違いなくこのような生存の土台そのものを破滅する可能性に対して、人・制度はさまざまな変容をせまられるでしょう。ところが、根源的な大衆的状況を脱することはきわめて困難です。しかし、核や地球温暖化などの問題に適切に判断できる政治的空間を作る必要性があるように思えます。
 しかし、市民という何かとても理性的存在を示すかのような言説だけが飛び交い、結局からまわりしているのではないか。そういう悲観的な見方を今私は持っているわけです。

補足日時:2005/07/08 18:08
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