dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

善と偽善の違いについて教えてください。

A 回答 (10件)

善ということばの定義にもよると思うんですが、行為が利己的であるかとか人に害をなすかといった外面的なところでは善と偽善を判断することはできないと思います。

というか不可能です。

分りやすく説明するのは難しいですが、あえて語弊を恐れずに言うならば、善とは端的に言うと「天国にいくための行為」だと言えると思います。
なんかキリスト教徒みたいな言い方をしてしまいましたが、要は人が人として生きるために大事だと思うこと。その究極のところにあるのが「善」という概念だと思います。
そして、価値観が非常に多元的で相対化してしまった今の世の中では「普遍的な善」「絶対的な善」というものはあまり人に自信満々にいえるものではないでしょう。
善とはあくまで個々人の内面に存在するものです。

繰り返しになりますが、外から客観的に善を発見することは不可能です。

偽善とは表面上善行であると評価されそうでも実は内面の部分としてそのような「善」の方向を目的としていないような行為のことだと考えられます。
人の心を読めるようにでもならなければ、それが善であるか偽善であるかを判断することは100%は無理だと思います。

つまりある行為が善行であるか偽善であるかを評価するのは本人によらざるを得ず、他人が「君の行為は偽善だ」というためにはあくまでその人の内面が相当程度理解できているという前提が必要であると思います。

戦争や政治というのは個人の内面ではなく社会的な「現象」でありますから、そこには善も悪も存在しません。評価できるのは利益があるか無いかだけです。
そして利害が発生することと善悪がそこに込められているということはまったく無関係なことだと思います。

ちなみにgoo辞書によると
ぜん 【善】

(1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。
⇔悪
(2)〔哲・倫〕 一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。

だそうです。

この回答への補足

>要は人が人として生きるために大事だと思うこと。

この部分を読むと外面的に判断できそうですけど。

補足日時:2005/07/26 16:44
    • good
    • 2

No1です。


下記のご質問に答えます。

>一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の
違いは何なのかということです。

>>それは個々の判断によります。
自分がいいことだと主張すればいいことになるので
しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか?

これ、takumikunさんは偽善のことではなくて「独善」のことを悩んでらっしゃるように見受けられます。「独善」と「偽善」は違います。

独善というのは、「ひとりよがりに善いとしていること」もしくはそれを行うことを指します。人間というのは不思議なもので、「善い」と思ってしても他人には迷惑はことをたくさんします。新興宗教などで、「絶対にあたなのためになるのです!」と心から信じきってしつこく勧誘してくるとか、ナントカ研究所の真光丸で糖尿病が治ると思い込んでインシュリン投与をやめさせたら死んでしまったりとか、(もしそこに作為的な詐欺が無いなら)独善と言えるのではないでしょうか。
これは視野の問題で、自分の立ち位置から見ると、どう考えてもこれが正しい!と思えたとしても、相手の立場から見ると全然そんなことが無かったりする。
自分の立場からも、相手の立場からも、またその他の第三者から見たときに調和がとれるか、そういった多角的な視点で検証して「善い」と思えることをやれば、独善・偽善と言われることは無いでしょう。

で、「普遍的な善」というのはレトリック上で言うと時間軸的に判断される「善」のことですから、視点の問題ではなく、歴史認識の問題になります。
例えばキリストは西欧の認識では最たる「善」者ですが、ユダヤや十字軍遠征で殺された人々の視点から見ると歴史的悪になります。つまり「普遍的な善」というものはあまり問う意味がありません。
「絶対的な善」ということであれば、論理上は「いかなる視点から見ても善であること」になりますが、これも見つかりません。視点が違えば殺人ですら善になる。個人的には、人間が作用的に善を考察するならば、自分が影響する範囲・される範囲における最大限の善とは何か、を模索する以上のことは難しいと思います。

この回答への補足

>>それは個々の判断によります。
自分がいいことだと主張すればいいことになるので
しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか?

この部分をよく読んでください。私の意見ではなくて
回答者さんの意見を確認したのです。

補足日時:2005/07/26 16:41
    • good
    • 0

No.2、No.3です。


たびたびで申し訳ありません。

「善悪」というのは相対的なものであるといえます。
受け止め手本人の主観であるとか、その環境などによっても異なったりします。

過去において戦争が正当化されたときも、その時代、その地域の環境では「戦争が善」である理由付けがあったからだといえます。
(日本においても第二次大戦時は「天皇陛下のために戦うのが善」と教育されてきたわけだし、イスラム系過激派のテロ集団についても「アメリカを、あるいはイスラムを傷つけるものを殺すのが善」とうんと小さいうちからしみこませたりするわけですから)

つまり、善意を行おうとする側が「善」と思っているものと、受け取り手が「善」と思えるもの…その関係が一致したときでなければ「善」は成立しないのだと思います。

「偽善」という言葉自体その定義が曖昧なものですが、もしかするとそこに「胡散臭さ」が発生すると偽善、ということになるのかもしれません。

全ての人間において「善」である、という、いわゆる「絶対的な善」というのは、もしかすると定義できないのかもしれませんね。
    • good
    • 0

「偽善」とは一般的に見て「善」と思われるような行為を“利用”して、


自分に有益なものを得ようとする行為ではないでしょうか。

感謝の言葉が欲しい。
善行を施している自分を第三者に見て欲しい。

などが代表的ですが、
要するに「善」そのものの行為よりも、その行為を行ったことによって生じる
「オマケ」が優先されるワケです。

お菓子を食べたいんじゃなくて、お菓子についてるオマケが欲しくて
お菓子を買うのと似たようなものではないかと。

しかし偽善であろうと善意であろうと、結果が宜しければそれはそれで
いいという考えもありますし、その逆もあります。
又「善」そのものの定義自体が曖昧ですので、その辺の判断でも
個人個人によって違ってきます。

ちなみに「おせっかい」などは「偽善」とはまた微妙に違うような気が
私はします。

この回答への補足

自分に有益なものを得るとなぜ偽善になるのでしょうか?

補足日時:2005/07/26 16:50
    • good
    • 1

#4です。



ニュースを見てて、いい例を思いついたので、実例をあげます。

自衛隊がイラク復興支援に行っています。
自衛隊員の皆さんにとっては、善行のつもりです。実際、それによって助かっている人から見ても善行でしょう。
しかし、中国や韓国などの日本に否定的な人からすれば偽善と見えるでしょう。
さらにイラクの過激派の人にとっては、悪と見る人もいると思います。

つまり、1つの行為をとっても、見方によってぜんぜん変わってしまうということですね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

自衛隊の皆さんの行為で助かっている人からみれば
善行ですね。中国、韓国、過激派からみれば偽善、
悪でしょうが、割合からいったら少ないと思います。

補足日時:2005/07/25 16:18
    • good
    • 0

偽善とは、「善行が目的ではなく、なにか別の目的のための手段としての善行」じゃないかと思います。

(つまり、他の人の意見と同じですね)
その「別の目的」が、良いか悪いかは、別次元の話で、行為自体を考えると「偽善も善の内」と言えると思います。
また、ほとんどの善行は、実は偽善なのかもしれません。
それを、あえて偽善と指差すなら、指差す方に何らかの意図があると見たほうがいいと思います。

> 普遍的な善の定義はないのでしょうか?
善と偽善の話とは、ずれてきますが、
普遍的な善は、ほとんど存在しないと思います。
良かれと思ってしたことが、余計なお世話だったりすることは、よくあります。
戦争だって善と善(正義と正義、または偽善と偽善?)が戦っているのであって、善対悪の戦争なんて、歴史上あまりないんじゃないでしょうか。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

完全な善行はなかなかないかもしれませんね。

戦争自体は悪だと思うので当人たちがどう思おうと
悪と悪の戦いではないかと思います。

補足日時:2005/07/25 16:13
    • good
    • 0

No.2です。



>私の聞きたいのはなぜ善と評価されるのか、また、
>一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の
>違いは何なのかということです。

本文中にちょこっとだけ触れましたが、ポイントは受け取り手が「害」を感じるかどうかではないか、と感じています。

つまり「最後まで嬉しい」というのが「善」を成立させる基本なのではないか、ということです。
何か「ありがたい」と思うようなことをしてもらった後、しばらくして何か見返りを要求されるとか。
実はだまされてた、とか。

笹川氏の例ではありませんが、元が「(社会的に)悪人」であったが故に、すべての「善」を否定する人もいる…これもある意味「だまされた」に該当するかもしれません。
あくまで心理的に(笑)

ただし「(俗に言う)悪人が行う善はすべて偽善なのか?」という疑問にぶつからざるを得ません。
「善」としてその行為を行った場合、世間の目はともかく善を行った当人とその受け止め手は「善」であると認識するはずですから。

「評価」は、人の主観によります。そこには大多数の意見(野次?(笑))が介在します。
だから、当事者間同士が「善」と感じ、そのことが完結すればそれで善…というのが一番シンプルなのでは?

この回答への補足

回答ありがとうございます。

人の評価はいろいろですよね。ですのである面は
善、ある面は悪という風に考えてみたらいいのかな
と思っています。80%ぐらい善とか、20%は悪とか。

補足日時:2005/07/25 16:16
    • good
    • 0

横ヤリ申し訳ありません。



>自分がいいことだと主張すればいいことになるので
>しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか?

No.1さんへの補足にこうかかれていますが、「善」は受け止め手が「善」と感じて初めて成立するのでは?

たとえ、(善なり偽善を行った当事者)本人にとってそれが偽善であろうと売名行為であろうと、受け止め手が「善」と感じ、それによって不快感を得る人が(利害関係者の中に)いないのであれば、それは「善」であるのではないかと思います。

No.1さんの言うとおり、善と偽善の境目は非常に曖昧です。
受け止め手によってぜんぜん違うはずです。

故笹川良一氏(日本船舶振興会(現日本財団)主宰)は、戦前からの右翼活動家で、しかも日本に光栄ギャンブルとしてのモーターボート競走を定着させたという意味で、「偽善者」の筆頭に挙げられたりします。
しかし、そのモーターボートの収益金で寄付した福祉車両の台数は、いったい何台になるでしょう?
歴代の台数を数え上げれば、きりがなかったりします。
(現在の日本財団でも同じように活動をしています。日本財団寄付の福祉車両はよく見かけるはずです)

世間からは「偽善」と取られるかもしれないけど、少なくともそれで寄付を受けた福祉団体は、それを素直に「善」として受け止めているはず。

例え本人にとっては「偽善」であって、あくまで「偽善のつもり」で行った行為でも、それを死ぬまで貫き通したら、残された「偽善による善を受けた人々」は、「偽善」とは思わないはずですよね?少なくともだまされた実害が出ていない範囲では(笑)
中には「俺は偽善者だから」と照れ隠しのように言い続けて善意を積み続ける人だっているのですから、言葉のうわべでそれを判断するのはかなり難しいことです。

どうも話が難しくなってしまいますが(^^ゞ、少なくとも「善」だ、「偽善」だというのは、あくまで人の評価による…ボクはそんな気がしています。

この回答への補足

私の考えでは笹川良一さんの行為は読む限り
偽善ではなくて善だと思いますけど。要するに行為と
その結果によって決まるということですよねえ。
私の聞きたいのはなぜ善と評価されるのか、また、
一見善行為のように見えて迷惑がられる偽善の
違いは何なのかということです。

補足日時:2005/07/25 14:50
    • good
    • 0

goo辞書では、偽善のことを


>本心からではない、うわべだけの善行。
と説明しています。

おそらく質問の主旨としては、本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのならばそれは「善行」でいいんじゃないの?ということじゃないかと推察しますが、どうでしょうか。
だとすると、それは個々の判断によります。

偽善は、例えば善に見える行いをしているのだけれども、最終的には自分だけが得するように計算されていたりする場合によく用いますが、かといって誰にも損を与えずに自分が幸せになることが「偽善」とは言いがたいですよね。そうだとすると「情けは人のためならず」は偽善だということになってしまいます。
誰かを貶めるために、一見善にみえることをするのならば、それは偽善でしょうが。あまりそういうケースは多くはありませんよね。

また、元来「善行ができない」「考え方が善的でない」ために、他人のやることなすことを全て「偽善だ」という人もいます。それはその人が「善行」を理解できないために「裏があるはずだ」と邪推しているだけなのでこれも当たりません。

そういう意味では、「偽善」という言葉はあまり使わないほうがいいかもしれませんね。
    • good
    • 0

goo辞書では、偽善のことを


>本心からではない、うわべだけの善行。
と説明しています。

おそらく質問の主旨としては、本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのならばそれは「善行」でいいんじゃないの?ということじゃないかと推察しますが、どうでしょうか。
だとすると、それは個々の判断によります。

偽善は、例えば善に見える行いをしているのだけれども、最終的には自分だけが得するように計算されていたりする場合によく用いますが、かといって誰にも損を与えずに自分が幸せになることが「偽善」とは言いがたいですよね。そうだとすると「情けは人のためならず」は偽善だということになってしまいます。
誰かを貶めるために、一見善にみえることをするのならば、それは偽善でしょうが。あまりそういうケースは多くはありませんよね。

また、元来「善行ができない」「考え方が善的でない」ために、他人のやることなすことを全て「偽善だ」という人もいます。それはその人が「善行」を理解できないために「裏があるはずだ」と邪推しているだけなのでこれも当たりません。

そういう意味では、「偽善」という言葉はあまり使わないほうがいいかもしれませんね。

この回答への補足

回答ありがとうございました。ですが聞き返さないと
いけません。

>本心だろうがうわべだろうが、良いことをするのなら
>ばそれは「善行」でいいんじゃないの?

では、良いことはなんなのでしょうか。

>それは個々の判断によります。

自分がいいことだと主張すればいいことになるので
しょうか?普遍的な善の定義はないのでしょうか?

補足日時:2005/07/25 14:00
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!