痔になりやすい生活習慣とは?

陸軍大将等は沢山処刑されましたが海軍軍人で東京裁判で起訴された人はいないと思いますが、事後法でも起訴する方法がただたんにみつからなかっただけなのですか?適当な解釈があれば教えてください。

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A 回答 (15件中1~10件)

あえて、皆さんと別意見。


添付書籍は、元陸軍の方が書かれた、海軍主犯説です。
この本を読んで、私の意見を書くならば。

海軍は戦前からアメリカと交渉チャネルがあったが、陸軍は仮想敵がソ連であり、中国であったため、アメリカとのチャネルが少なかった。実際には陸軍は自分のチャネル(中国やソ連)と和平交渉をしておりました。
また、陸軍には、検察側に都合のいい証人がいたこと
http://taiwanx.exblog.jp/i5

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334933 …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。私も貴方のような解釈のしかたもあるのではないかと考える一人です。戦後海軍はよく戦ったように語られているが、陸軍はアッツ島に始まり沖縄まで全島玉砕し、バターン、インパール等評価できないものが多く語られ、マレー半島攻略戦、インドネシア攻略戦あまり語られることがないような気がします。海軍は海戦時より敢闘精神で司令官は戦っていたか疑問だとおもいます。真珠湾攻撃のとき軍事施設を攻撃対象から外していたこと、出港中の空母捉をえようとしなっかたこと、珊瑚海海戦で追撃線をやらなかったこと、ルンガエン湾に戦艦武蔵の突入をあきらめ途中反転させたこと、決定的なことはミッドウエー海戦です、司令官が指揮した海戦はすべて中途半端な海戦です。ガ島攻防戦で大和、武蔵も参加させず充分な補給も行わず、陸軍将兵を餓死させ、南方諸島を占領したのは石油その他物資の補給が目的であったはずなのに、その航路の警備をおろそかにしていたとしかおもわれない。米軍潜水艦の餌食になった船がいかにおおいか。あれだけの駆逐艦をもちながら輸送艦の護衛ができなっかたことはふしぎでならない、その結果最後には特攻戦を若者にやらせてしまうことになったのではないか。大本営発表も陸軍は嘘はなかったとおもうが、海軍はミッドウエイ海戦いごほとんど嘘を発表していたようだ。戦艦大和も零戦も国民が知ったのは戦後のことで陸軍隼戦闘機のように歌まで作って宣伝していた。戦後陸軍は全く評価されないようなきがするが、米軍にはなにか陸軍に心理的に恐ろしさ感じたが、海軍には弱さを感じていたのではないか、と言ふのも海戦時太平洋で米英以上軍艦を保持しながら将官が指揮した海戦で勝利したのはないとおもいますが間違いですか?

お礼日時:2005/09/20 10:34

極東裁判について一言二言書き加えておきます。



マッカーサーをフィリピンのバターン攻略戦で破った本間雅晴中将は銃殺刑にされましたが、処刑の日時は昭和21年4月3日午前0時53分。4年前にバターン第二次攻撃を命じたその日その時刻が選ばれています。

本間中将は死の前に「私はバターンの責任を取って殺されるが、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか」と語っていました。

極東裁判が単なる復讐劇以外のなにものでもないことと、日本への原爆投下だけでなく、ベトナムでの枯葉作戦やイラクでの劣化ウラン弾の使用など、政府が力関係の上で述べることができないことでも、私たちはそれがアメリカという国の戦争犯罪である、と言う認識は持っていた方が良いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。本間中将はそのように処刑されたのですか、A級戦犯の処刑を天皇誕生日にしたり、復讐のための裁判だとゆうことを如実にしめしていますね。このようなやりかたは中国人もアメリカ人もおなじですね。

お礼日時:2005/09/20 07:49

東京裁判の適用範囲は単に対米英戦ではなく、


1928年から1945年に至るまでの平和に対する罪と共同謀議(A級戦争犯罪)、それと通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(BC級)が対象です。

少なくとも、ノモンハン事変や張鼓峰事件、フランス領インドシナに対する侵略には海軍は関わっていないです。

大陸での出来事が多いので、被告に陸軍のものが多いのは仕方がないと思います。

それから、絞首刑になった7人のうちの一人の松井石根陸軍大将は南京虐殺事件の責任を問われて有罪になっていますが、本来であればこの罪はB級戦争犯罪でA級ではありません。この事件の責任は実行部隊の連隊長が負うべきものですが、連隊長は皇族であったため、その罪をかぶってのものとなっているようです。

ソ連の検事にいたっては、1928年から1945年の範囲を逸脱して、日露戦争に関する陳述まで行っているのには、呆れます。
日ソ中立条約を違反して宣戦布告した事を他の事実で覆い隠そうとしたとしか思えません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ソ連がそのようなことを言っていたとはしりませんでした。かって有色人種に負けたことは許せないことでしょう。

お礼日時:2005/09/20 07:56

陸軍出身で戦後、国会議員になった人はいました。



辻政信中佐:ノモンハン事変の首謀者、ガダルカナル島作戦の命令者
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この回答へのお礼

ご返事ありがとうございます。辻政信が国会議員だったとわ知りませんでした。

お礼日時:2005/09/19 08:19

10番の回答に補足します。


中曽根首相のような軍歴を持った人は多くいます。
軍隊もしょせんは学歴社会でした。
大卒者は短期間の訓練を受けただけで直ぐに少尉になってしまいます。
尉官から上を将校と呼びますので、大卒者はだいたい将校になってしまいます。
学徒出陣のあの学生達も、訓練を終えて戦地に送られるころは少尉だったのです。

高級将校で政治家になった人は源田実ぐらいしか思い浮かびません。
職業軍人から自衛隊幹部を経ての国会議員だからはじめっから政治を志していたわけではないと思います。
これはレアケースです。

多くの将校は部下を死にいたらしめた結果をもって、とても国家の行く先を左右する政治家にはなる資格がないと自覚していたでしょう。
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この回答へのお礼

ご返事ありがとうございます。

お礼日時:2005/09/19 08:21

東京裁判では、海軍軍人から、嶋田繁太郎、永野修身の2名が起訴されています。


永野修身は裁判中に獄中死したため、最終的な判決はありません。

また東京裁判とは別にGHQ裁判というものが行われており、豊田副武海軍大将(連合艦隊司令長官)が起訴されていましたが、1949年9月6日に無罪判決がでています。

そもそも、A級戦犯が28名起訴されたのは、裁判会場に被告席が28しかなかったためというのが通説です。
そのため、ソ連の横やりで当初は予定に無かった重光葵と梅津美治郎を加えたため、阿部信行元首相と真崎甚三郎陸軍大将が外されています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。戦後海軍軍人で政治家になった人はたくさんいますが、陸軍軍人で政治家になった人がいないようなので、戦犯裁判が関係しているのかな、と思ったものですから。靖国分嗣問題の張本人の中曽根元総理も終戦時たしか海軍主計中尉だったようにきおくしています。

お礼日時:2005/09/18 23:49

まず、「海軍軍人で東京裁判で起訴された人はいないと思います」は事実誤認です。



海軍大将で海軍大臣・軍令部総長を務めた嶋田繁太郎氏は、東京裁判においてA級戦犯として起訴され、終身刑を宣告されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6 …

また、「都市を占領して市民を殺戮するとか、捕虜を虐待するとかの機会が海軍の上級軍人にはほとんどありませんでした」も事実誤認です。

多数の海軍関係者が、各地で行われた戦争裁判でB級戦犯・C級戦犯として訴追され、刑罰を課せられました。

ちなみに、ソ連は関東軍等を武装解除してシベリアに拉致し、その地で戦犯裁判を行いました。その際、「ソ連に対する敵対行為」を理由に、「ソ連の国内法に基づき重労働20年」等の判決を受けた人が多数いました。A級戦犯に対する東京裁判は一応裁判の形式を整えていましたが、他の戦犯裁判というのは、そうしたいい加減なものでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ソ連も米国もいかに野蛮国で戦争に勝ったらなんでも出来る思っていたかがよくわかりました。

お礼日時:2005/09/18 22:37

http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub3-6.html

 補足ですが山本五十六などの主だった海軍の軍人は、アメリカの日本大使館に「駐米武官」として赴任した経験があり、日米の国力差を熟知してしたためアメリカとの戦争には「反対」もしくは「勝ち目がない」と冷静に考えている人が多かったようです。←これで「戦犯」にされてしまったら、ちょっと可哀想な気がしますが。ご存じなければ、井上成美・山口多聞などを検索してみてください。「海軍・駐米武官」でも探せます。
 ただハル・ノートや陸軍の発言力に押されて、開戦阻止は難しかっただけではないでしょうか。でも海軍軍人は知性を感じられて、私は好きです。
 大西瀧治郎海軍中将についての評価は微妙ですが。次のページを参考にしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5% …

参考URL:http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/sub3-6.html
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。いずれにしろ罪人ではないはずですね、なぜ小泉首相はかれらにたいして、罪を憎んで人をにくまず、などよくいえたものですね。

お礼日時:2005/09/18 22:48

アメリカに降伏する処理を行ったのは海軍と一部政治家です。


彼らは天皇を巻き込むことによって非常に困難な仕事を成し遂げました。
それを妨害した陸軍が主として戦犯になったのは当然と言えば当然です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。日本国として敗戦責任の総括をしなければならないとおもいました。

お礼日時:2005/09/18 22:55

これはわたしの個人的な意見です。



東京裁判は戦争を始めたことと、その指導に対して責任を問われたように思います。A級戦犯ですね。それまでは戦争裁判は戦争責任を問わないのが通例だったのにこれは今でも議論の的になっています。

海軍は一環して戦争そのものに反対していました。陸軍がドイツに傾倒し三国同盟を結ぼうとしていたときに海軍は指導者たちが反対しましたからね。海軍はイギリス海軍を手本にして発展した経緯もあり、考え方もリベラルと言われました。米内光正、山本五十六、そして最後の大将と言われた井上成美。この3人が特に有名です。最後まで反対しましたが、暗殺を恐れて政治から現場へ山本が移り、人事異動で米内と井上が去ったあと同盟が結ばれてしまいました。このあたりの経緯と後の戦争指導がA級戦犯には該当しない、と判断されたのだと思います。
海軍主導でのA級と思われる犯罪行為は、
・真珠湾奇襲
・特攻戦法の実施
くらいでしょうか?
この責任者は山本大将と大西瀧治郎中将ですが、ともに戦死または自決しています。このそれぞれの実践部隊の指揮官だった南雲中将と宇垣中将もともに死んでいます。
戦争で最も消耗したのは海軍で主な人物はほとんど死んでますからね。それに引き換え陸軍は末端の兵士ばかりが犠牲になっているので主導者がたくさん生き残りましたね。もうひとつ、天皇を裁かないということを決めていたので、その引き換えではないですが、陸軍将官はかなり裁かれていますね。
事実、陸軍の指導はかなりお粗末でインパール作戦などは作戦とは言えないほどお粗末で兵站を無視したため大勢の兵士が戦わずして死にましたからね。陸軍にはあまり全体を見渡して指導した人はいなかったように思います。米軍には海軍は評価されたけど、陸軍は戦争責任の対象としてしか見えなかったのかも知れません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。陸軍のインパール作戦にかんしては、インドのチャンドラボースの要請で、実施した作戦でインドでは感謝されているとゆうことを最近本で読んだことがあり、日本でいわれているように何の価値のない作戦でわなさそうです。

お礼日時:2005/09/18 22:09

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Q「こいつこそ真の戦犯」と思う人は?

歴史のいろいろな書を読むにつれ、いかに東京裁判がデタラメで非正義の下に行われたかに憤りを感じ、犠牲になられた(死刑のみならず懲役等も)諸氏には哀悼・憐憫の念を禁じ得ません。

日本の起こした戦争の内幕に関しては、日本人が一番理解しているはずであり、国体を混乱させ疲弊させた国賊に対しては日本人が自浄するべきで、そもそもガイジンがガタガタ抜かす必要はないと思っています。

従いまして東条や広田等に関しては、私はさほど「悪人」という印象はありません。対して松岡洋右、牟田口廉也、武藤章のあたりこそ、国賊・極悪人だと思います。

みなさまは、誰が真の戦犯だと思いますか?

Aベストアンサー

大西瀧次郎は「発案者」じゃありませんよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E7%80%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E

私も冨永恭次(ノンフィクション小説『陸軍特別攻撃隊』参照)や牟田口廉也(同『インパール』などを参照)といった、敵に対してではなく味方に対しての罪が大きい無能な指揮官こそ責任を追及されるべき「戦犯」だと思います。大西みたいに弁明せず腹を切る潔さもありませんでしたし。

Q日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?

海軍は真珠湾攻撃、ミッドウェー、カダルカナルなど攻勢終末点を越えた無謀な作戦ばかりして戦火を広げ、陸軍はそれに引きずられたそうですが。
また戦闘機の開発、思想では陸軍のほうが進んでいた。
(海軍格闘戦にこだわる。陸軍一撃離脱を取り入れる)

Aベストアンサー

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とするしくみを作りました。
昭和15年以降は、大学を卒業したら何もしないと陸軍に二等兵として入営しなければならない状況でした。それから逃れる唯一の道である「短期現役士官制度」「予備学生制度」に応募・採用された学生は多数に上りました。
こうした「学徒士官」は「最初から士官に準じる待遇」で海軍に入り、戦争を生き残った人は中尉か大尉で一般社会に戻ったわけですが、海軍のことを悪く思うわけがありません。
そうした人の中で、著名な作家になったり(例:阿川弘之)、官界・実業界・言論界・学界で有力者となる人が多数出ました。こうした、社会に影響力を持つ人が海軍びいきであったことが現在にかなり影響しているようです。
特に、海軍予備学生出身の高名な作家である阿川弘之が
「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
の「海軍三部作」をはじめとする多くの海軍関係の著作をものしたことは、「海軍の良いイメージ」を世の中に広げるのに役立ちました。
一方、陸軍の場合「大学在学以上」の人であれば、二等兵として入営しても約1年後には少尉になっているのが普通でした。「甲種幹部候補生」になった人です。「大学在学以上」の人は、特に問題がなければ「甲種幹部候補生」になりましたので、「大学在学以上」で陸軍に入り、戦争を生き残って兵卒や下士官で復員した人はそれほど多くはありません。この点で、海軍と大差なかったようにも見えます。
しかし、陸軍の場合は「甲種幹部候補生」になる前に必ず何ヶ月か二等兵として兵営生活を送らねばなりませんでした。これが「軍隊より監獄の方がよほど楽だ」というとんでもない苦しい生活でしたので、陸軍に入って戦争を生き残って中尉や大尉で復員した人も、「陸軍びいき」になる人は通常いなかったようです。

2) 昭和20年の時点で、健康な20歳以上の男子はほぼ全て陸軍か海軍に属していると言う状態でしたが、人数で言えば陸軍の方が圧倒的に多いです。そして、その多くは学歴がないため「幹部候補生」にはなれず、二等兵として入営して地獄の責め苦を最後まで受け、死なずに復員できたと言う人たちです。こういう人たちが「陸軍大嫌い」になるのは当然のことでした。

3) エリートの「大学在学以上」の人が「海軍びいき」か「沈黙」、一般庶民は「陸軍大嫌い」であれば、陸軍の味方をする人は
「元・陸軍の職業軍人」
程度です。
ただし、一般にこうした人たちは戦後は沈黙を守りましたので、世の中に聞こえるのは「海軍びいき」の声が圧倒的となります。

4) 陸軍にも宮崎繁三郎中将、山下奉文大将、今村均大将のように名将・智将として評価されている人はおりました。
また、開戦責任・敗戦責任が陸軍にだけあるわけではありません。
開戦時の東條英機首相(陸軍大将)は、自分の意思で首相になったわけでもなく、自分の意思で戦争を始めたわけでもありませんが、彼が首相になった時には既に「アメリカを相手に戦争する以外はない」状況でした。「東條首相と陸軍が積極的に戦争を始めた事実」はありません。
しかし、現在は
「太平洋戦争は陸軍が始めたもの。陸軍にはとんでもない連中ばかりいた」
という「常識」が成立してしまっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「大東亜戦争の敗北についての海軍の責任」について良く分かる本として、

「太平洋戦争はなぜ負けたか」 別宮暖朗
http://www.amazon.co.jp/dp/4890632409/

「なぜ敗れたか日本海軍 (光人社NF文庫)」 是本信義
http://www.amazon.co.jp/dp/4769825250/

「大本営参謀の情報戦記(文春文庫)」 堀栄三
http://www.amazon.co.jp/dp/4167274027/

の3つを挙げます。

また、帝国海軍が、それなりに充実していた潜水艦部隊を有効に使用せず、まるで「鉄の壁にタマゴをぶつける」ようにして無駄に消耗させていったことが分かる本として

「本当の潜水艦の戦い方」 中村秀樹
http://www.amazon.co.jp/dp/4769824939/
をお勧めします。

4冊買ってもそれほど高くありませんので、ぜひお読みください。
いかに「海軍善玉・陸軍悪玉説」が事実と乖離しているのかが良く分かります。

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とする...続きを読む

Q特攻隊の司令官は約束を守ったか?

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必...続きを読む

Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「...続きを読む

Q太平洋戦争後、戦争責任をとらされて処刑された将校の数は?

太平洋戦争終了後、東南アジアなどで
戦争責任をとらされて処刑された将校が多数いたそうです。
その数はどれくらいのものだったのでしょうか?
数千人単位と聞いたのですが、東京裁判のA級戦犯の数に比べるとあまりに多すぎるので疑問に思いました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

A級戦犯が逮捕約200名、起訴28名、うち有罪25名(死刑7名)に対して、
BC級戦犯が逮捕・起訴約5600~5700名、うち有罪不明(死刑約1000名)と言われています。

BC級戦犯については、地域によっては日本軍の占領に対する報復的な逮捕や起訴がありました。
アメリカの影響を大きく受けているフィリピンではこのようなでっち上げ有罪が多かったとも聞いています。
逆にオランダ領インドネシアでは、オランダに対する反感から、オランダのでっち上げに対して、嘘の証言を拒否するインドネシアの住民達が多く居たとも聞いています。

Q牟田口 廉也

牟田口 廉也はなぜ、戦後は戦犯にされずに、平和に過ごせたのですか?

恨まれてる人から、襲われたり、殺されそうになったりはしなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

とんでもないリストラとか、追い出し部屋とかやってても、そういう会社の社長や元社長が襲われたって話はとんと聞かないでしょ?最終的にはそういうことなのだと思います。リストラや追い出し部屋で人生や家族をめちゃくちゃにされた人は大勢いるでしょうし、自分の会社の社長の名前は社員なら知ってるはずですし、興信所を使えばどこに住んでるかなんてすぐ分かるし、日曜ともなれば犬の散歩で近所を歩き回ることもしているであろうにね。

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Qもし昭和天皇が戦犯として処刑されていたら。

もし、昭和天皇が戦犯として処刑され皇族も追放されていたら、その後の日本はどのような状態になったでしょうか。
イラクのような内戦状態でしょうか。或いはGHQの占領政策を従容と受け入れていたでしょうか。

Aベストアンサー

昭和天皇自身、自らの処刑も覚悟してポツダム宣言受諾の意思を示したようです。実際、ソ連(一週間戦争で莫大な戦勝果実を得ただけ)は昭和天皇を侵略の責任者として処刑することを主張したようですし、「昭和天皇処刑、天皇制廃止」は十分ありえたでしょう。むしろ、「戦力を完全に失って降伏した国の王様が、天寿を全うするまで王位にあり続けた」ことの方が、歴史上稀なことです。

昭和20年の日本は、米軍の圧倒的な戦力によって全てを粉砕されて降伏したわけですので、占領軍(米軍)に立ち向かう気力はありませんでした。米軍に立ち向かう武器も民間には皆無でした。また、近代武器を持っていた日本軍をごく少ない損害で殲滅した米軍に、仮に天皇処刑に憤った民間人が竹槍を作って立ち向かったとしても「日本側全員射殺、米軍損害ゼロ」以外の結果はありえないと当時の日本人は骨身に染みて分かっていました。

昭和20年当時の米軍は、都市絨毯爆撃で非戦闘員を焼き殺し、非戦闘員を機銃掃射し、民間人を満載した商船を無警告撃沈する、今よりずっと「怖い」軍隊です。今のように「誤爆で民間人が3人死んだ」などということを問題にする欧米マスコミもありません。占領軍に竹槍で歯向かった日本人が全員射殺されるのは、当時の常識では当たり前です。
(現在、イラクやアフガンの内戦が容易に収束しないのは「21世紀の常識では、占領軍や政府軍に歯向かう民間人をみだりに射殺できない」からです)

昭和天皇は処刑に際し「敗戦の全責任は朕にある。国民は、朕の死を聞いて軽挙妄動せず、新日本の建設に尽くして欲しい」といったことをいい、占領軍はそれを宣伝したでしょう。これも、日本人を抑止する大きな力となったはずです。

昭和天皇自身、自らの処刑も覚悟してポツダム宣言受諾の意思を示したようです。実際、ソ連(一週間戦争で莫大な戦勝果実を得ただけ)は昭和天皇を侵略の責任者として処刑することを主張したようですし、「昭和天皇処刑、天皇制廃止」は十分ありえたでしょう。むしろ、「戦力を完全に失って降伏した国の王様が、天寿を全うするまで王位にあり続けた」ことの方が、歴史上稀なことです。

昭和20年の日本は、米軍の圧倒的な戦力によって全てを粉砕されて降伏したわけですので、占領軍(米軍)に立ち向かう気力はあり...続きを読む

Qカーチス・ルメイ少将が受勲した理由

太平洋戦争末期に米軍が実施した東京大空襲の責任者カーチス・ルメイ少将に、何故勲一等旭日章が授与されたのでしょうか。航空自衛隊の育成に貢献したとの理由だけではないような気がします。

Aベストアンサー

この事実は、今でも「米国で笑い話」になっています。
昔も今も、米国の機嫌を取りたかったのでしようね。

東京大空襲・広島長崎原爆投下は、無差別攻撃・虐殺として国際法違反なんです。
ところが、当時の日本政府は「謝罪・賠償を放棄する」事を決定。
この決定を米政府に伝えたところ「証明が欲しい」と命令されたようです。
米政府も、国際法違反を認識していたのでしようね。
そこで、当時の責任者に「勲章」を与えたのです。
米国では「原爆投下は、日本を救った」との確定した認識があります。
この認識を「日本も認めた」事になっているのです。
一般市民を無差別攻撃で虐殺した本人に「勲章」を与えているのですから。
「今度は、広島・長崎に原爆を投下したB29乗組員に勲章」という笑い話もあります。

中国から「女(秘書)と金」を受け取った故総理大臣。
温家宝首相来日で、300億円支払いを密約した○○党議員。
国民の生活よりも、議員本人の生活・名誉を優先する政治家が多いのです。

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む


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