僕は今、学校で室町時代の生活と文化についてのレポートを作成しています。
現在、室町時代の庶民の生活の様子(衣食住)を調べているのですが、なかなかいい資料がなくて困っています。
そこでどなたか室町時代の生活についての詳しい情報、あるいはそのことが詳しく載っているホームページを知っていたら教えてください。お願いします。

A 回答 (1件)

広島県立歴史博物館の展示物についての紹介です。


草戸千軒町遺跡からの出土品には当時の食器なども多数含まれているようです。

参考URL:http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekishih/int …
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この回答へのお礼

当時の時代の生活の様子がよくわかりました。
町の様子など、大変参考になるものばかりでした。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/22 08:11

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Q室町時代が人気がないのは何故でしょう?

室町時代を題材としたTVドラマや本は他の時代に比べて少ないように思います。
どうしてこんなに人気がないのでしょうか?
日本のルネッサンス期と呼ばれているのは室町時代ではなかってでしたっけ?それとも鎌倉時代でしょうか。

室町時代とは簡単にいうとどのような時代だったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

室町に限らず、鎌倉幕府、江戸幕府と政権が安定し幕府が開かれてからの歴史はあまり人気がないですね。
おっしゃるとおり文化は花開きますが、やはり政権が動く時、しかも有名な武将が出てきて派手な合戦を
やる時代の派手さに比べたら文化の開花の時代は影が薄くなってしまうのは仕方がない事と思います。

室町時代といえば・・・
・南北朝時代
・応仁の乱
・守護大名から戦国大名へ(下克上の時代、既成概念の破壊へ)
・金閣や銀閣に代表される北山・東山文化。
 特に後者は枯山水の庭のような日本独特のわび・さびの世界を形成した重要な時期です。
 能や狂言の確立も室町時代ですね。

新しい日本(戦国時代)を向かえるべく、古いものの形を作りながら新しいものを受け入れようと
していた時代のような気がします。
わび・さびの文化が形成されながら、一方で弱肉強食の下克上による戦国大名の台頭があったり
本願寺、日蓮宗、禅宗、キリスト教といった宗教も多様化になった時代です。

Q昔の庶民(百姓)の衣食住について

 昔のお百姓さんは、服や家まで自分で作っていたのでしょうか?お金がなければ服を買ったり、大工に家を建ててもらったりできませんよね。百姓といえば、稲作や畑作で自分の食べる分と年貢を納める分の食べ物は自分で作っていたイメージですが、服や家を建てるためのお金は、どうやって手に入れたのでしょうか?

Aベストアンサー

昔ってどの程度昔なのか分かりかねますが、40~50年前まで集落や親戚などがお互いに資材等を持ち寄って家を建てて居た記憶が有ります、木材の有る方は木材を屋根などの茅なども互いに持ち寄り集落全体の力で家が建って居たようです、私たちの地域では、「ゆいっこ」または 「ゆい」 と言っていました、今で言う互助制度の様な物です、そして、どこかに何をどれくらい援助して貰ったかなどの記録を付け、それを元に相手の方が建て替えや改築などの時にお換えしをしていました、新規に分家に成った場合が大変です、周囲に何の援助もしてないので集まる物が少ないからです、その為実家(本家)から譲り受けたりするため、何時までも本家に頭が上がらない事になったようです、さらに、働き具合によって建具がほとんど建たない家なども見掛けました。 衣類に関しては、記憶が有りません。

Q守護霊が室町時代の武士の軍勢とか 言われましたけど歴史とか勉強してなかったのでわかりません。 なんで

守護霊が室町時代の武士の軍勢とか
言われましたけど歴史とか勉強してなかったのでわかりません。
なんですかね?室町時代の武士て?

Aベストアンサー

1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。
後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力な御家人が挙兵を行なう。
悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。
隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、年号を建武として天皇自ら政治を行い、これを建武の新政という。後醍醐天皇は天皇中心の政治を目標としたため、鎌倉幕府滅亡に貢献した武士よりも、公家に多くのほうびを与えたので、武士の不満を高めることになった。
1336年、足利尊氏は建武の新政に不満をもつ武士を集めて京都を攻め、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れた。これにより、建武の新政はわずか2年で終わった。
後醍醐天皇は吉野で朝廷をつくり、南朝とし、足利尊氏は光明天皇をたてて、京都で朝廷をつくり、北朝とし、このような状態は3代将軍の足利義満が合一するまで約60年間続き、南北朝時代という。
1338年、足利尊氏は征夷大将軍に任命され、京都に幕府を開き、室町時代が始まる。室町幕府は3代将軍の足利義満のときに京都の室町に花の御所をつくってその体制が整った。

http://www.hello-school.net/haroreki008.html

1318年に後醍醐天皇が即位した頃、鎌倉幕府の力は衰え、悪党とよばれる武士の集団が荘園を襲い、年貢を奪ったりしていた。
後醍醐天皇は幕府を倒す計画を立てたが、失敗して隠岐に流された(元弘の変という)。しかし、この事件をきっかけに悪党や有力な御家人が挙兵を行なう。
悪党の出身である楠木正成は大阪の赤城城と千早城で幕府軍と戦い、足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼし、新田義貞は鎌倉を攻めて、北条氏を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡することになった。
隠岐に流されていた後醍醐天皇は京都に戻り、...続きを読む

Q鎌倉・室町、戦国、江戸時代の天皇 権威はあったの?

鎌倉・室町、江戸時代の天皇は権力がなく、室町時代や戦国時代は食べるものに困るほど貧窮した暮らしをしていたと思うですが、その時代には天皇の権威はあったのでしょうか?
あったとすれば、それは祭司王としての権威でしょうか?過去に作られた神話をもとにした権威でしょうか?古代の神(同時に鬼としても)信仰があったのでしょうか?ピースメーカーとして機能していたの?
権威があったのならあの時代、貧窮しなかっただろうし、江戸時代も皇位継承を幕府に握られるようなことはなかったと思うのですが。。。
そこらへんを詳しく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権の逆襲』(福武書店、1992年/講談社学術文庫、2001年)
『信長と天皇―中世的権威に挑む覇王』講談社現代新書、1992年/学術文庫、2002年)
『武家と天皇―王権をめぐる相剋』岩波新書、1993年)
『天皇と天下人』(新人物往来社、1993年)
『象徴天皇の発見』文春新書、1999年)
『象徴天皇の源流 権威と権力を分離した日本的王制』(新人物往来社、2011年)

 今谷氏は、女性宮家創設の是非について、日本政府から公式に意見を聞かれたりもしています。

<参考>
 日本史において、『中世~近世の天皇が、いかなる存在であったか』は、相当重要なテーマでありながら、過去の歴史家に見過ごされてきました。

 最近になって、この点を独自に掘り下げて、続けて論文・著書を発行し、この問題についての歴史的第一人者とみなされているのが、今谷明氏です。
 以下の著書を参考にお読みになればどうでしょうか。

『天皇家はなぜ続いたか 対談集』(新人物往来社 1991.12)
『日本国王と土民』集英社版日本の歴史、1992年)
『戦国大名と天皇 室町幕府の解体と王権...続きを読む

Q室町時代がドラマ小説などで舞台にならない理由

現在伝統的日本文化と言われ、海外で「日本的」といわれるような文化はその多くが室町時代に端を発しているものが多い気がします。

それほど現代の日本人に影響を与え、また期間も長かったのに、どうして室町時代を舞台とした演劇やマンガなどは少ないのでしょう。

戦国時代や幕末のような動乱期がドラマ性が高いのは分かりますが、平安期や江戸時代と比べてもかなり少ない気がします

Aベストアンサー

室町時代を舞台にしたヒット作品が出たら、そこから室町時代がクローズアップされて注目を浴びて、作品が増えると思いますよ。

『日本三大合戦』と呼ばれている合戦をご存知でしょうか?
 関ヶ原の戦い
 川中島の戦い
 筑後川の戦い(大保原の戦い)
上の2つは有名ですが、「筑後川の戦い」は知名度が低いです。これは、室町時代(南北朝時代)にあった合戦です。舞台となった地域には、たくさんの逸話が残っています。ドラマetcになるようなネタは、いつの時代にも探せばあると思います。

現代の戦国や幕末の人気は、司馬遼太郎の影響が強いような気がします。誰か、南北朝時代を舞台にした面白いドラマ・映画・小説を、作ってくれないかなぁ…。(祈)

Q江戸時代の庶民は歴史教育を受けていた?

「戦記物」と言えば、今も昔も人気のジャンルですが、定番の「太平記」「平家物語」
などが江戸時代から小説や演劇の分野で人気を博していたそうです。
「戦記物」というジャンルは、時代設定とか登場人物がある程度把握できて
いないと話が分かりにくいので楽しめないと思います。

江戸時代の庶民の学校での教育内容とは「読み書き・算盤」というイメージが
ありますが、実は高度な歴史教育が為されていたのではないかと推測できます。
江戸時代も我々現代人と同様に学校で歴史の教育を受けていたのでしょうか?

Aベストアンサー

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だったのに古来(神武天皇とかの時代)からの法と思ってた人が結構多かった事があります。これには江戸時代の人で頼山陽という学者の書いた日本外史というテキストがベストセラーになりました。これは源平から徳川初期までが書かれていたのですが太平記等を下敷きにしたものでしたので文学とか小説みたいな感じです。今で言うならば司馬遼太郎の作品が似たような感じです。

なので肝心の学問的な価値は低い代物であった為重要な政策等が分かりづらい欠点があります。ありますがそれを差し引いても多くの人々に訴えかける「何か」があり後世の幕末に多大な影響力を行使したと言えます。私はその「何か」とは熱血とか燃えとかだと思いますけど。

少し脱線しましたが庶民はというと所謂琵琶法師や講談或いは芝居や歌舞伎といった形で軍記物等の歴史に接しました。今ならば映画や小説とかテレビの時代劇がそれにあたります。なので庶民が知る歴史とは現在ならば銭形平次や水戸黄門とかNHKの大河ドラマを見て歴史を語る様な物であったりします。

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だ...続きを読む

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q戦国時代の庶民は「直訴」ということができたのか?

戦国時代と言うと、決まった公の法というものが
無いように思われるのですが、
その頃の庶民、特に農民は、
領主の厳しすぎる税の取り立てに対して、
一揆とかではなく、「直訴」という形での対応はできたのでしょうか?

それが例え小規模な村々であったとしても・・・

知ってる方いらっしゃったら是非教えて下さい。

お願いします!

Aベストアンサー

戦国時代の農民と江戸時代の農民を混同してはいけません。
戦国時代の農民と江戸時代の農民は全然違います。

戦国時代は、
・領地が固定化されていない
・農民は『強い』
です。

江戸時代は、A藩の年貢の取立てが厳しいからと言って、A藩から離脱して隣のB藩に編入してもらうなんて事は出来ません。
でも、戦国時代はそういうことが容易に出来ました。
領主が厳しかったら、村ごとその領主の支配から勝手に離脱して隣の領主の支配に編入してもらえば良いだけです。

そして、何よりも戦国時代の農民は強いのです。
戦国時代の農民は農業専従者ではありません。
戦国時代の戦の時の兵士(足軽)のほとんどは農民のアルバイトです。
農作業が閑になる夏や冬は、兵士に早代わりしたのです。
武装農民、半士半農なのですよ。
兵士ですから各家庭には刀や槍などの武器がありました。
そして、当然、武士を相手に戦えたのです。
戦国時代の農村は、見方を変えると、れっきとした武装集団の村なのですよ。
戦国時代の農民はヘタをすると、武器を手にして領主に武力で反撃して来るのです。

戦国時代の領主は農民に対してあまり強く出れなかったのです。
だからこそ、豊臣秀吉は『刀狩』をして農民の武装を解除したのです。

ですから「直訴」自体がほとんど無かったというか、する必要が無かったと思われます。

まあ、全ての農民がこれに当てはまるという訳では有りませんがね。

戦国時代の農民と江戸時代の農民を混同してはいけません。
戦国時代の農民と江戸時代の農民は全然違います。

戦国時代は、
・領地が固定化されていない
・農民は『強い』
です。

江戸時代は、A藩の年貢の取立てが厳しいからと言って、A藩から離脱して隣のB藩に編入してもらうなんて事は出来ません。
でも、戦国時代はそういうことが容易に出来ました。
領主が厳しかったら、村ごとその領主の支配から勝手に離脱して隣の領主の支配に編入してもらえば良いだけです。

そして、何よりも戦国時代の農民は強いの...続きを読む

Q室町時代の生活について

僕は今、学校で室町時代の生活と文化についてのレポートを作成しています。
現在、室町時代の庶民の生活の様子(衣食住)を調べているのですが、なかなかいい資料がなくて困っています。
そこでどなたか室町時代の生活についての詳しい情報、あるいはそのことが詳しく載っているホームページを知っていたら教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

広島県立歴史博物館の展示物についての紹介です。
草戸千軒町遺跡からの出土品には当時の食器なども多数含まれているようです。

参考URL:http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekishih/introduce.html

Q江戸時代の庶民は他国の脅威を感じなかった?

現代の日本ではことあるごとに、北朝鮮がミサイル発射するだの、
中国が尖閣に攻めてくるだの、他国の脅威を感じていて、
ふだんの生活でもグローバル競争社会で日本は生き残れないだの
言われてますが、黒船が到来する以前の江戸時代の庶民はこういう
他国の侵攻や弱肉強食の国際社会での生き残りなんて
気にしないで、のほほんと生きていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 東日本ではどうだったかわかりませんが、西日本では庶民もある程度他国の脅威を感じていたのではないかと考えます。
 元寇に実際に攻められ、広範囲ではないにせよ戦場となり、実践を戦ったことは寺子屋や僧侶、末端の武士を通じて知っていたでしょう。
 元寇のあとに、外国からの襲来に備えた土塁が西日本各地に作られたのは日本史でも習いましたが、それら防御施設は漁民や農民、庶民の生活のすぐそばにあったわけです。土塁と言うと白村江の戦いの後の福岡市の水城が有名ですが、ああいう大きくて史跡指定になってるようなのじゃなくて、元寇後の中小規模の土塁は今でもポツンと海の近くにあったりします。「これは異国が攻めてきたときに異人の兵隊が、村になだれ込んで来ないために、先祖がつくったものじゃぞ。」というのは口伝えで伝えられていたでしょう。
 東日本の人からしたら日本史の教科書の中の文字の話かもしれませんが、西日本の人間からすればまさにこの場所であった歴史です。
 その前の時代、刀伊の入寇(といのにゅうこう)などでも、突然やって来た異国人に博多の町は焼かれ、住民が殺され、女は手のひらに穴を開けられてじゅずつなぎにされて奴隷として売るために連行されて行きました。
 また西日本の海岸には大陸からの漂着民というのがよく来ていました。以前研究者が書いた一般人向けの資料を読んだことがありますが、江戸時代だけでも「えっ、そんなに!」というくらいの数の漂着民が来ていて驚いたことがあります(具体的な数は忘れました)。
 自分たちとは違う服装をし、違う言葉を発する異国人を最初に発見するのは漁民などの庶民です。漁民というのはどこの漁民もそうですが、昔から海賊的部分を持っていました。海辺に流れ着いた者が弱っていれば身ぐるみ剥いで金目のものを奪って、見殺しにする。なので逆に、漂着民のほうでも警戒して、助けるふりをしてやられはしないか、やられそうなら先に相手を殺してでも生き残らねば、と身構えます。
 漂着民を助けるのも気をつけないと、助けようというこちらが逆にやられるかもしれない。特にことばの通じない異人は、ちょっとした勘違いで誤解されて攻撃を受けることになるかも。

 国際社会がどうのとかは知らなくても、おそらく庶民でも皮膚感覚で外国の恐さというのは感じていたのではないでしょうか。
 庶民にとって外国といえば、お釈迦さまの国、天竺(てんじく)とか、偉い人がいっぱい出たというシナとか、この辺でも昔たまにヤシの実が流れ着いていたのですがヤシの実がなってる南の方にもどうやら異国があるらしい、あとは朝鮮。そのくらいでしょう。
 外国からはお釈迦さまの話とか良いものも来るけど、自身の生命を脅かす悪いものも来る。なので、漠然と気のかまえはあったでしょう。

 また話が前後しますが、秀吉の朝鮮出兵のときは全国から庶民が兵士として駆り出されましたが、特に西国(さいごく)からは多くの庶民が徴発され朝鮮へ送られました。
 私が住んでいる県からも徴発され、ある村からは男という男が全て徴発され、村には女子供老人しか残りませんでしたが、文禄慶長の役が終わってもとうとうただの一人の男も半島から帰って来ず、村は労働力を失い極貧に瀕します。むらおさが「これからどうしたらいいのか」と途方にくれて書いた文章が○○家文書として残っています。この悲しい記憶は江戸時代を通じてずっと語り継がれて行きます。
 また、その隣り村では運良く帰国出来た者が朝鮮から捕虜2人を連れて帰ります。「2人に耕地を与え農業をさせ、地元日本人娘と結婚もさせ、2人とも元気でやっております。」という記述も△○家文書として残っています。
 つまり、海の向こうの異国とは戦争をすることもあるのだということ、戦争では人が死に大変な被害が出るということ、戦争で異国に捕まったら帰って来れず異国で暮らすことになることもあるということ、弱い国の人間は悲しい目に合うのだということ(弱肉強食)、そういうことを庶民も実際の体験やオーラルヒストリーで知っていたのです。
 秀吉の時代って江戸時代の人からすればすぐちょっとちょっと前、こないだなんです。徳川の御世のすぐ前ですから。

 ( 御質問は庶民の意識ですが、では武士は他国の侵攻や弱肉強食の国際社会での生き残りを気にしていたでしょうか。徳川幕府の人間はどうだったでしょうか。今大河でやっている東北の諸藩はそういうことを考えていたでしょうか。
 よくは知りませんが、少なくとも西国諸藩は黒船到来以前から考えていました。黒船が姿を現す前から国防の重要性や産業の振興を考え、新式武器を自力で開発したりしていましたね。御存知のように、佐賀藩、薩摩、長州などがそうでしたですね。長州では黒船より前に、村田清風という上級武士が『海防論』を著わしたりしています。 ) ← 余談でした。

 東日本ではどうだったかわかりませんが、西日本では庶民もある程度他国の脅威を感じていたのではないかと考えます。
 元寇に実際に攻められ、広範囲ではないにせよ戦場となり、実践を戦ったことは寺子屋や僧侶、末端の武士を通じて知っていたでしょう。
 元寇のあとに、外国からの襲来に備えた土塁が西日本各地に作られたのは日本史でも習いましたが、それら防御施設は漁民や農民、庶民の生活のすぐそばにあったわけです。土塁と言うと白村江の戦いの後の福岡市の水城が有名ですが、ああいう大きくて史跡指定...続きを読む


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