出産前後の痔にはご注意!

書院番の番士は、通常はどの程度出世したのでしょうか?
諸太夫まで進む人は少なかったと思いますが、目付・御使番・番方の組頭小十人頭・御徒頭・勘定吟味役など布衣の職に就く人はそんなに稀でもなかったのでしょうか?
それともほとんどの番士は番士のまま終わったのでしょうか。

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A 回答 (1件)

書院番士といえば両番筋ですから、旗本・御家人のなかではいちばん毛並みのよい家柄のひとたちでした。


ですから、出世コースに乗れば諸大夫になるのはまれではありませんでした。
いちばんの出世コースは目付を経て遠国奉行から勘定奉行・町奉行というコースでしたが、そのほかにもいろいろな出世コースはありました。
ただ、勘定吟味役については実務がわからないと役に立ちませんし、カネ勘定はひとかどの武士のするものではないということで両番筋からなることはほとんどありませんでした。
また、両番だからといって全員が出世コースに乗れたわけではなく、隠居するまで番士のままか、せいぜい進物番になれるといった例もたくさんありました。
こういうように親が番士のままだと、子供は役に出られませんでしたが、親が布衣以上になっていれば親が現役でも子が番士に出ることが出来ました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
書院番だと割りと諸太夫とかにも出世できたのですね。

お礼日時:2005/10/12 18:14

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Q大番士の出世

書院番や小姓組より格落ちの大番士は、出世したらどの様な職に就く事が出来たのでしょうか?
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Aベストアンサー

大番士の場合は、両番に比べて出世コースは限られていました。場合によっては両番並みの布衣や諸大夫になった例もありますが、たいていは鉄砲箪笥奉行といったような低い役で、大番組頭、小普請組頭とかいったところまでゆければましなほうでした。

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。

Qこの旗本の石高は。。。?

この旗本の石高は。。。?


曽祖父が富士見宝蔵番、祖父が民部卿書院番、父は小普請、当人は講部所奉行組。と言う旗本の家は、石高的にはおそらくでもかまいません、一体どれくらいの石高の家の可能性が高いでしょうか。講部所奉行組にいた当人の名前の下に、高40俵3人扶持とも書いてあります。この40俵と言うのは個人の稼ぎのようなものを表しているのでしょうか。それともこの家の石高を表しているのでしょうか?屋敷が1000坪以上だった記録があるのですがそれも参考になりますでしょうか。どなたかお教えいただけましたら本当に嬉しいです。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

中々の家系ですね。

まず、話は少しズレますが、
「富士見宝蔵番」・・・徳川家代々の貴重な家具、調度品、刀、槍、武具などを保管してある「宝蔵」の番人役です。約12~15名位いて、交替で当直をする。石高は100俵。世話役(組頭)になると「+」3人扶持が支給されました。組頭は、番衆が病気などになどになれば、古参の者を見舞いに使わす。また、事故により欠勤、遅刻があると、その日の当番の者への通知などもしました。勤務時間は、朝番が朝五つ(午前8時)~昼八つ(午後2時)まで、夕番が朝四つ(午前10時)~夕八つ半(午後4時)まで、不寝番が夕七つ(午後4時)~翌朝の五つ(午前8時)までと3組に分かれて四六時中警護に当たりました。

「民部卿書院番」・・・大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする「親衛隊」。石高は約300俵2人扶持。

「小普請組」・・・これはわかりますよね。役付き予備軍です。この時に家禄が40俵3人扶持に戻ったのでしょうね。

家禄とは、元々、その家に対する禄高(給与)で、例えば、富士見宝蔵番になると100俵がもらえますが、実際には、40俵3人扶持であれば、約50俵余りを足して100俵をもらえたことになります。つまり、40俵3人扶持「+」100俵ではなく、役高100俵になるよう足してくれただけです。これを「足し高」と言います。
なお、これらの方々は、「知行取り」ではなく「蔵米取り」だったようですね。

さて、40俵3人扶持ですが、
扶持米の計算は、
男扶持・・・1日5合の計算。
女扶持・・・1日3合の計算。

ですが、通常はことわりがない場合は「男扶持」で計算されます。
一年間では、
5合×3人×360日=5,400合
10合=1升
5,400合=540升
10升=1斗
540升=54斗
1俵=4斗(ただし、年代により、1俵が3斗であったりした時期もありました)。
54斗÷4=13.5俵

40俵+13.5俵=53.5俵が、あなたの家の家禄(禄高)ということになります。

1石=10斗
53.5俵=214斗
214斗=21.4石

従って、あなたの家では21石余りをもらっていたことになります。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

中々の家系ですね。

まず、話は少しズレますが、
「富士見宝蔵番」・・・徳川家代々の貴重な家具、調度品、刀、槍、武具などを保管してある「宝蔵」の番人役です。約12~15名位いて、交替で当直をする。石高は100俵。世話役(組頭)になると「+」3人扶持が支給されました。組頭は、番衆が病気などになどになれば、古参の者を見舞いに使わす。また、事故により欠勤、遅刻があると、その日の当番の者への通知などもしました。勤務時間は、朝番が朝五つ(午前8時)~昼...続きを読む

Q旗本と大名

昔の日本で、旗本と大名どっちが偉かっんですか?
例えば、道ですれ違ったときに道をゆずるのはどっちとか

Aベストアンサー

それぞれが『殿様』と呼ばれていた階級です。大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。
江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。しかし、幕末になると旗本株をお金で売買するようになりました。江戸城の無血開城談判で有名な幕格の勝海舟は祖父の代に旗本株を買った家系です。
旗本の中では書院番や幕格の旗本は格が高いのです。将軍のお側近くにはべるので特別なのです。外様大名は将軍に近づくことも出来ませんでした。江戸城松の廊下で『殿様』同士が出会うと格式の差でいろいろとあったでしょうね。
格から言うと徳川御三家、徳川御三卿家、松平家、親藩大名、外様雄藩大名、幕格旗本、外様小藩大名、旗本の順です。

Q大身旗本の出世

五千石とか三千石クラスの大身旗本が、役高千石の遠国奉行など家格より遥かに役高の低い役職に就く事はよくあったのでしょうか?
例えば御小姓として初出仕した後はどの様な役職を経て番頭などの家格に相応しい役職に就いたのでしょうか?

Aベストアンサー

三千石以上であれば寄合関ですが、このクラスだとなかなか石高に応じた職がありませんからほとんどが持高つとめとでした。
三千石クラスで遠国奉行などの職に就いている例はめずらしくありませんし、はなはだしいのは家禄五千石の旗本が5百石高の小納戸についている例さえもあります。
このクラスは初出仕は御側の役が多く、中奥小姓という例は多くあり、また御側衆という例もあります。
このあとは小姓頭取や小普請支配、寄合肝煎を経て大番頭や両番の番頭、あるいは先手頭などという番方の役が多かったようです。
役方のコースに乗れば遠国奉行から勘定奉行、町奉行などになることもありました。

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q鎌倉時代の大名の禄高一覧

鎌倉時代初期の大名の禄高一覧、あるいは国ごとの禄高の載っているサイトや本があれば教えてください。
全国で何万石あったとかも知りたいところです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

全国および各国のデータについて、
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html  に平安時代の石高の推定値が載っています。
全国で416万石、推定にしか過ぎませんが、一応の参考にはなります。

人口面から見ると、
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html に時代別の日本の人口の推定値が載ってlます。
鎌倉幕府創設のころが、684万人です。    これも推算値ですが、他にも多くの学者が推算しており、約700万人というのは確かなものと考えられます。

江戸時代は人口一人当たり、約一石と判っています。
奈良時代の戸籍帳と租税帳の一部が残っており、やはりこれに近いようです。
従い鎌倉時代は全国で6~700万石の(米だけではないが)石高があったでしょう。