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授業の一環で調べたら、一神教よりも多神教のほうが、寛容で、性格が穏やか。ということになったのですが、それはなぜそうなるのでしょうか?そして、一神教だけれども寛容な国々もある。たとえばイスラム教。なぜなんでしょうか?お願いします。

A 回答 (8件)

性格については分かりませんが、寛容ということに関して言えば、多神教では、いろいろな神のいろいろな正義・真理があり得るのに対して、一神教では、唯一の神の唯一の正義ということから、多神教の方が自分と異なる価値観に対して寛容になる可能性は高いかもしれませんね。

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イスラム教って寛容でもないと思うけど。


最近のテロは例外としても、過去にもエルサレムなんかの問題でキリスト教と衝突を繰り返してるし。
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一般論としてはそうかもしれませんが、絶対的なものではないでしょうね。


一神教は、ひとつ神以外は認めない、他の神や宗教は邪教だと排除しがちなので寛容ではないようにみえるのでしょう。
多神教は、多くの神を認めるので寛容のようにみえるのでしょう。
八百万の神がいる、という日本では寛容すぎて無宗教的になってしまっていますしね。

ちなみにイスラム教は寛容ではありません。
偶像崇拝を禁じていることから他宗教、特に仏像・仏画は昔から破壊し続けています。バーミヤンの大仏の破壊などは記憶に新しいところでしょう。
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多神教が寛容で、一神教が非寛容であるという事は、はっきり言いまして誤りです。



多神教でも、アスティカ神話では、非寛容で、対立する種族の神を追放しています。
また、バビロニア神話などでも、相手を隷属させる事があります。

一方、一神教においても、バハイ教においては、非常に寛容で、多神教の神も、唯一神が、地域や時代により使わしたと考えます。

イスラム教では、本来キリスト教、ユダヤ教には寛容でしたが、多神教に対しては、徹底的に非寛容を貫きました。
これは、ユダヤ教、キリスト教が、アッラーと同一の神によってもたらされた宗教と考えたからです。
キリスト教などに対し、イスラムの寛容性が無くなったのは、19世紀くらいからです。
それは、キリスト教徒が、イスラムへの支配者として現れたためです。

また、私は、一神教・多神教という区別自体が、絶対的なものではないと考えるようになりました。

これは、いくつかの宗教で、多神教から一神教への流れが有ったり、一神教から多神教への流れが見えるからです。

ゾロアスター教では、一神教から多神教へ移行し、現在また一神教への移行が見られます。
ヒンズー教でも、一神教から多神教へ移行し、現在では二神教的性格を有しています。
キリスト教でも、本来一神教であるはずですが、過去には何回かの二神教的異端が現れていますし、現在のキリスト教自体が、真の一神教とかけ離れた存在なのではないかと考えます。
特に、カトリックは、キリスト教の宗派の中で、最も多神教的性格を有すると思われます。

日本神話でも、多神教から天照への統合といった、一神教へ統合される過程にあったのではないかと思われます。
戦前の「天皇は神」といった意見は、あきらかに一神教の考え方です。

先に少し書きましたが、バハイ教は、一神教でありながら、全ての宗教・神を認める立場で、他宗派の聖典を読む事が、義務付けられています。
信者になることも、信者を辞めることも自由です。
全ての宗派を尊重する事がモットーのバハイ教は、国連にも認められたNGOとして活躍しています。

そんな一神教もあるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます☆

授業に生かしていきたいと思います。

お礼日時:2005/11/10 22:32

イスラムの母体はキリスト教で、その母体はユダヤ教です。

宗教を必要とした始まりは感謝であり,目的であったとおもいます。植物を育ててくれる太陽に感謝を捧げる太陽神、火の威力に畏れをかんじた拝火教,山の幸海の幸に恵まれたところにうまれた多神教,過酷な環境で一生懸命に生き祈らざるを得なかったところで生まれた一神教,必然なかに霊感が宿った時、宗教になったとかんがえます。
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答えは出尽くしているかも知れませんが。


宗教って黎明期は比較的寛容かも知れません。いろんな考えの人たちを吸収して人数的な勢力拡大を図りたいですからね。今では過激な部分ばかり目立ってるイスラム教もキリスト教・ユダヤ教には寛大で、「税だけ収めてくれれば改宗しなくて良し」というスタンスだったようです。
ただ、ある程度の規模になると、勢力拡大(この場合、宗教を国教とした国家の意向も考えられます)を恐れた他の宗教(やはり国家の利害絡み)からの攻撃などもあり、本来は寛大である宗教の中にも過激な宗派も出てくるでしょう。これは中世から現代までずっと引きずってますしね。
多神教の場合、国家の利害と結びつきにくいようにも思えます。だから寛容に見えるのだと思います。
宗教が精神だけではなく、政治を動かすようになった時点で寛容性失うって感じだと専門外の私は思っています。
まとまらない文章ですみません。
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皆さんがおっしゃる通り、宗教が寛容かどうかという区別は難しいと思います。

だから、明確な答えと言うものは無いでしょう。
しいて言えば、多神教は自然発生的に生まれたが一神教は一人の聖人によって創られたものだから性格が違うのかもしれないですね。
日本は多神教ですが、大和朝廷が日本を統一する前に先住の人たちが祀っていた神を大和朝廷側の神様に置き換えた形跡も見られます。
出雲大社のオオクニヌシ・諏訪大社(全国の諏訪神社)のタケミナカタ、また全国に祀られているスサノオノミコトの多くは先住民の神様だったのではないかと私は思っています。所謂、国神(くにつかみ)と言われている神様たちです。被征服者の神を征服者の神に置き換えるのは寛容とは言えないでしょうが、それも日本の歴史です。そして、その時点で敵であった相手の神も、置き換えたとはいえその後も大切に祀って来たのも日本の歴史です。
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 一般的に一神教はユダヤ教を母体とした、キリスト教とイスラム教の三つになります。

他にもあるとは思いますが一神教の性格を述べる場合に念頭に置くのはこれらでしょう。他の神を敬うことを禁止し他の神を否定しています。歴史的にも攻撃的で排他的です。占領、殲滅を繰り返してきました。イスラムが寛容だというのはイスラムの宣伝と初期の歴史で他宗教を支配下に入れそれを統制するために他宗教も認めたためのものでしょう。ただ他宗教に対する差別は税制などであったはずです。ユダヤ教自体が排他的で攻撃的な民俗宗教ですからその性格を引き継いでいるのではないでしょうか。
 一方多神教は世界各地にみられる原始的な宗教です。さまざまな性格があるとは思いますが、他の多神教の部族と交流を続けてきたり、混合したりを繰り返してきているために、それほど他の宗教を気にしなくなったのではと想像します。日本の神道も仏教と混合していますし(ちなみに仏教に神はいません。仏はキリスト教で言う聖者のようなものです)。まあ、神道自体が日本各地(日本以外もありますが)の宗教全体に名前を付けて統合したようなものですからね。
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