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いかなる、理由があろうとも、「命の尊厳」の前には太刀打ちできないのではないと思い始めました。もちろん賛成派の主な意見は理解しています。しかし、「殺人者」の人格・人権の否定を行っても良い根拠はどこにもありません。

被害者の感情についても、もちろん被害者にとっては酷です。しかしそれを根拠にするのはどうかと・・・。「被害者が悲しむから」死刑賛成は因果関係がおかしいと思います。

ということは80%にもおよぶ死刑賛成派はいったい何を考えているのかという結論になりかねません。

「法律で決まっているから」といっても不備のある法律なんていっぱいありますし、そのうちのひとつであるといわれればそれまでです。

そもそも、「生命の尊厳」なんて不確かなもの、意味がわからないもの!!っていうのは限りなくナンセンスです。

なにより「命の尊厳」がある以上この議論に賛成する
余地はあるのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

 本日は非常にタイムリーな質問というか問題提起を戴きました。

80%にもおよぶ死刑賛成派がいます。そこで、法の前には「生命の尊厳」が平等であること、社会を制御する法と刑罰の程度の流動性に関して分析的なお話をしたいと思います。
 ちょうど米国であるギャング殺人鬼Williamsがハリウッドスター(シュワ)によって加州法による死刑を執行されました。ネットアンケートでは宣告された殺人鬼を死刑執行が当然であるが74%、それは野蛮な報復で何も改善しないが26%でした(20万回答の分析)。回答者は主にアメリカ人で、911に対するイラク攻撃以後の報復主義的な傾向がうかがえます。かつてアメリカを風靡していた穏健な進歩主義者:リベラリストはどこへ行ったのでしょうか。殺人鬼Williamsは晩年は改悛して子供たちにギャングの悪さを教える本を書いていました。かわいそうな話です。
 911事件以後アメリカは人権外交と平行して、人権を損ねるものに対決する姿勢を強めています。そのおかげで、北朝鮮による拉致のことで何か言ってくれるのは米国だけです。一方で、利権がらみの疑いを映画にされたようなイラク攻撃にも手を緩めません。これらの緊迫した背景が、半社会的なものに対する嫌悪感や危機感となり、この世論調査と無関係ではないことは疑う余地がありません。
 ヒトの体や心と同じく、ヒトの集まりである社会も不完全で、純粋な”命の尊厳”を等しく守れないのが真実で、どうすれば、それが”命の尊厳”の平等を維持できるかが世の中では常に非常に重要な課題です。
 囚人のジレンマやナッシュ理論を持ち出すまでもなく、個々の”犯罪者”予備群に最良の選択をするようにしむけければいけません。科料の重さ軽さはそこで決定されます。もし、極刑である死刑を廃止して、凶悪事件が増加すれば、復活するのは、ナッシュ理論にかなっているでしょう。いままで長い歴史のなかで、人類は、ある均衡点にあるとします。そして依然としてでなく、死刑支持が復活していることを考えると、ナッシュ平衡が社会的緊張によって移動するといった流動性を帯びたものであることがわかります。その意味するところは、人類が別の存在にならない限り、死刑はなくならない(なくすることができない)ことかもしれません。
 社会契約法の精神に元ずく、法律は個の「命の尊厳」を絶対とするものでなく、「命の尊厳」の平等を絶対とします。法の前に命は平等であり、命が法律に対して絶対であるとか有利であるのではありません。(リベラル思想の規定はそうですがどこかにいってしまいました。リベラル思想の発祥の地アメリカではいまや誰もリベラル思想を中心にすえて世の中がうまく回ると信じていません。)そのためには「命の尊厳」を犯す悪意に対して制裁を許容します。その制裁の強さが極刑の程度を規定します。なお制裁は報復を目的とするものではありません。「被害者の悲しみ」故の死刑は単なる報復主義で現在法の立場ではありません。あくまでも社会の制裁です。
 最後は蛇足になりましたが、われわれはたった一つの命の尊厳をかけて、世の中で生活しているのです。命だけは平等です。法の出自はその平等を守るもので、特定の生命の尊厳を守るものではありません。現象を客観的にみますと、法による罰の強さは、不完全で不均一な社会を構成するそれぞれの要因を制御するために、ナッシュ均衡(かそれに近いもの)で規定されています。アメリカではリベラルな考え方で社会を運営する試みはとうに失敗して再びアンチリベラルに傾いています。
 なお、根拠が明確でないーという意見は、ナッシュ平衡の前の色々な判断の理由がはっきりしないということですが、では反対だと考えていて、やっぱり殺人鬼は恐いから賛成というふうな形で、流動的な形で個々では判断されているとお考えください。判断は市民生活上の恐怖や嫌悪の感情も入ってのことです。
 長文で失礼しました。
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そもそも「命の尊厳」自体、自然界に存在しない人間の感情が作り上げた倫理観の一つですので、感情の部分を省いて語ること自体不可能だと思います。


例えば日本でも数百年前まで無礼だというだけで人を殺してましたし、現代でも戦争になれば人殺しは正当化されてます。
つまり人類が生まれた瞬間から存在していた絶対的な物ではなく、歴史を重ねる上で進化してきた感情です。

逆に問います。
Q1,なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?
Q2,「命の尊厳」はなぜ絶対的なものと言えるのでしょうか?
この問いに対して出てくる全ての回答は「感情論」でしかないはずです。

別に人間も他の動物たちのようにムカつくリーダーを殺して群れのリーダーになり、他の動物を殺して餌場を奪い、同族の雄と1頭の雌を巡って殺しあえばいい。
それができないのは、つまり人間が「命の尊厳」を考えて行動することができるのは、人間には理性があり、感情があるからです。
「命の尊厳」=「人間の感情」である以上この議論から感情を省くこと絶対にできません。

で、人間の感情を踏まえたうえで考えた結果、
死刑賛成者が8割以上ということです。
死刑に対する賛否はNo.15さんが仰っている通り
「命の尊厳」と「命の尊厳の平等性」どちらを取るか、
人間の感情、思想次第ということです。
死刑反対派は「命の尊厳」こそが最も尊重されるべきだと主張するでしょうし、
死刑賛成派は「命の尊厳の平等性」こそが最も尊重されるべきだと主張すると思いますので、
ここで結論を出すことは難しいと思います。

PS.こういった議論はたまに見かけるのですが、議論している人間にとっては結局他人事でしかなくイマイチ説得力にかけるような気がします。
「家族を殺された人達だけの殺人者の人権を守る会」のようなものは存在するのでしょうか・・疑問です。
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この回答へのお礼

みなさんありがとうございました。
「命の尊厳」と「命の平等性」の比較という新しい意見がでました。

またすべてが感情論といわれればそれまでですね・・・。

実際、「賛成反対」がわからないため、質問した次第ですが、結論には達することはできませんでした。しかしここの意見をまとめつつ、自分の意見を固めて生きたいと思います。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2005/12/14 13:51

2回も補足要求をして回答なしでは議論をしようとしていると思われそうなので、自分の考えも述べることにします。


私は生命の尊厳を、「実際絶対的なもの」とは考えません。生命の尊厳は、最大限に尊重すべきものであるという立場です。最大限に尊重すべきものであるが、社会秩序の維持にとって驚異となる生命は尊重に値しないと考えます。
社会から自分の生命の尊厳を尊重されたければ、自分も社会を構成する人々の生命の尊厳を尊重するべきです。
自分以外の生命の尊厳を尊重しない行動をくり返す、誤判の可能性がない、更正の可能性がない場合、その者の生命には尊重すべき尊厳がないと私は考えています。
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回答ではありませんが。


No13さんへのお礼 「皆さんの意見をことごとく「尊厳」でつぶしているような気もするのですが、実際絶対的なものである以上、この法律は悪法であるといわざるをえないのでしょうか?」

「実際絶対的なものである以上」これは質問者さんの考えであって、そのように考えない人、そのような考えに疑問を持つ人もいるわけです。
なぜ生命の尊厳が絶対的なのか、ご自分で述べられますか?
もしかして、ご自分でも、なぜ生命の尊厳が絶対的なものなのかわからないのではありませんか?
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第三者の立場で客観的に良い悪いなんて、被害者の立場にならなければ、何人も心情はわかりません。


ご質問者も、ご自身の家族 最愛な方をなくした場合のことを考えれば その立場にご自身がなった時を考えて 人権うんぬんの講釈をして下さい。
性善説 性悪説 どのような立場であれ、人間は必ず間違いをするもの その人間が人を裁くのですから正しいものはありません。
したがって、死刑が正しい 悪いそのものを議論するなどナンセンス あって当然 人間て変なところでヒュウマニズムをいいだすのは、別なところで贖罪を懺悔して救われたいと思うのですかね。

自分は別なところに身を置いて、命の尊厳など、議論するほど価値あることとは思われません。
自分自身 自己自身をみつめてこそ命の尊厳を認識するものです。自身の命の消滅に自分がどう関わるかが命の尊厳に初めて踏み込むことが出来ると思いますが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
>第三者の立場で客観的に良い悪いなんて、被害者の立>場にならなければ、何人も心情はわかりません。

少し趣旨が違うような・・・。ただ、「被害者の立場」に立って法律を作ること自体が違うように思いますが・・。もちろん被害者の心情を完全に理解しているとは思いません。しかし「感情論」で死刑・人権を述べることは賛成派のもっとも大きな欠点です。また命の尊厳を述べることは、それを備えている人間だからこそ議論できるのであって、もし自分が別のところに・・・なんて思っていれば倫理もなにもなくなりますよ。

あと何度も申し上げていますが、「良い悪い、正しい・間違い」ではなく、「賛成派の根拠が明確でない、では反対でいいのか?」という点にあります。その点ご了解ください。

こうやってみなさんと議論していると、この問題の重みが改めてわかってきます・・・。

お礼日時:2005/12/13 22:37

これは何時の時代にも難しい問題ですね。



私はある条件が付けば死刑は賛成です。その条件とは被害者のみが殺していいと法律が変わればです。

今、現在死刑の執行を行っているのは、刑務官の方ですね。その方達は大変嫌な思いをしているらしいです。
人を殺すと言う事は普通の神経では出来ません。
そして刑に服している間に改心して見違えるようになる人間も中にはいるみたいです。
そのような人には情も湧くし、そんな時、自分の手で殺さなければいけないと言う事は大変みたいです。
いろんな配慮で誰がボタンを押したか分らないように今はなっているみたいですが、それでもその中の誰かのボタンは確実に人を殺しているのです。
国の命令だからとかでは、刑務官の方達は割り切れないらしく、一生心に傷が残るみたいです。

ただ私の今の考えでは、自分の大切な人を殺されたら許す余裕はないので、法律が変われば自分自身で殺しますね。

質問者様が死刑に興味がお有りでしたら以下の本をお勧めします。
著者の方は死刑に反対ですが、賛成側の人間が読んでも考えさせられる事が沢山有りました。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041878 …

この回答への補足

みなさんありがとうございます。やはり、みなさんの思うところを出していただき、いろいろな意見が聞けてうれしいです。

ここで議論して反対賛成というのは、非常に難しいためあくまでこのタイトルにしたわけです。
そこでいくつかの意見に補足などを。

>死刑囚に殺された人の「命の尊厳」のことは?
考えていないとかそういうのではなく、それを十分考慮したところで、タイトルのように「殺人者の命の尊厳」を抹消する理由にはなりません。

>仮にあなたの大切な人が誰かに殺されてしまったとしたらそれでもその犯人に対して命の尊厳などと言えるでしょうか

質問者自身の立場が明確にできない(するとまた別のカテになりますので・・賛成反対とか)以上、客観的な立場をとっているつもりです。たとえいえるいえないは別にして、命の尊厳を踏みにじるわけには行きません。いわゆる感情論さえあればなにをしてもいいのか?ということになりかねません。

>「生命の尊厳」を具体的な確実な意味
といわれましても・・・。具体的って言われてもたとえば時間は具体的には?といわれれば難しいです。人間の作った定義では、「人間に与えられる他の誰でもない絶対的なもの」ですが、形があるとかそういうのでは・・。(またこれもカテが変わりそうです)

今回私が言いたいのは「命の尊厳は不確かなもの、意味がわからないもの!」だからわざわざ考える必要は無い!!ということがナンセンスといっただけで、命の尊厳は不確かではないという意味ではありません。その点、明確に伝わっていなかったことをお詫びします。

>近代法の最大の欠点は犯罪者(殺人者)の人権を認め>ていること。
これではもとも子も無いです・・・。

皆さんの意見をことごとく「尊厳」でつぶしているような気もするのですが、実際絶対的なものである以上、この法律は悪法であるといわざるをえないのでしょうか?

補足日時:2005/12/13 20:28
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私も死刑制度には賛成でも反対でもありません。


ただ,前に回答した皆さんはご指摘されていませんが,
江戸時代と異なり,
「死刑になるのは本人(受刑者)だけで,その家族・友人には(社会的なものは別として)何の刑罰は与えられない」ことが重要です。
否定的に言われる「目には目を」という格言も,「目以外の部分にまで復讐してはいけませんよ」という同罪報復の意味ですよね。
犯罪一般に言われることですが,本人の身代わりに死刑を科することが可能であれば,ややこしくなる・・・
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近代法の最大の欠点は犯罪者(殺人者)の人権を認めていること。


「目には目を」私刑、仇討ち、どこが悪い?
とりわけ殺人者と被害者とのバランスが悪すぎる。
道半ばで命を断たれた被害者その関係者と、多くの人員と税金によって矯正の道を歩み、なによりも生きている殺人者。
人生をやり直すチャンスが与えられている。
すべてを断ち切られた被害者の生きる権利、無念さをどう考えるのか。
死んでしまったものは仕方ないとでも言うのだろうか。
以下のサイトの中段に妻を殺害された岡村勲弁護士が被告人に極刑を望む話が載っています。
岡村弁護士は妻を殺害されるまでは極刑を避けるような弁護活動をしていたと思います。
死刑制度廃止論者の机上の論理がいかに空しいかよく分かります。

http://homepage3.nifty.com/tetuh/116.html
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いくら議論しても答えの出ない問題だと思います。



私個人の考えでは「死刑制度を廃止する必要なし」です。
ただ、これは犯罪者を殺していいという事ではありません。
私は「死刑制度」というものを「形だけのもの」にしたいのです。
死刑制度があっても、死刑判決をくだされるほどの重大犯罪を犯す人がいなければ、実際に死刑が執行されることはありませんよね。

犯罪のない社会になればと心から願っています。
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刑罰を与える根拠をどう考えるかだと思いますよ。


たとえば、伝統的な応報刑論だと、人を殺したから殺されても仕方がない。からスタートして、犯罪の重さに応じた刑罰を科することによって、人は犯罪を犯さなくなり、社会秩序も維持できるってな話につながります。そして、さらに現代的には、本人の矯正教化も根拠に数えられるようになってきています。
つまり、死刑を肯定するかは、応報刑論を認めるか、死刑制度による犯罪抑止力を認めるか、いかなる人物であっても矯正可能性を認めるか、矯正終了するまで税金により収監し教育するということが可能でかつ社会的同意が得られるか、といった様々な要素が絡み合っています。
マスコミの議論はともかく、少なくとも法に携わる人たちは単に被害者感情のみで動いているわけではないのでその点では安心していただいてよいと思いますよ。あと、社会秩序が維持できなければ大多数の「生命の尊厳」が確保できないということを考慮すれば、必ずしも個人の生命の尊厳が最優先されるわけではないことも納得できるのでは?(社会秩序維持が強調されすぎるとろくなことにならないのは確かですが)。
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