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日本と琉球は、それぞれどのようにして中国の冊封体制から抜けたのでしょうか。

調べた限りでは、

●日本は室町時代までは続け、江戸時代の途中、中国で満州国が起こるのに乗じて辞めた???

●琉球は島津氏など日本が後から占領に乗り出したために清が反発し、廃藩置県後まで対立は続いたが、日清戦争で解決???(下関条約には記述無し?)

と、あいまいです。
通説では具体的にどのようになっていますでしょうか。

宜しくお願い致します。

A 回答 (2件)

日本が正式に中国の冊封体制化にあったのは古代と足利義満の時代だけです。

それ以外の時代は冊封体制化にはありませんので抜けるも抜けないもありません。
琉球については、廃藩置県までは形式的には冊封をうけていました。

この回答への補足

それでは、義満の時代にどのようにして抜けたのでしょう…?中国からすれば日本は属国だとずっと見なしてきました。しかし、今では中国側には日本を属国とする認識はありません(中華思想は除きます)。ご回答はその疑問も解消できるものと期待しております。琉球についても同様です。ご存知の方、いらっしゃいましたらぜひご教授願います。

補足日時:2006/01/08 17:44
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足利義満の次の将軍の義持は、冊封を受けるよう薦められたのを拒否したましたが、次の義教の時には、復活し、冊封使を受けた記録(「満済准后日記」)も残っています。

当時の明は、朝貢の形でしか貿易を認めておらず(それ以外は密貿易になる)、朝貢は莫大を利益をもたらす事が、足利将軍を形式的な冊封体制に入らせた動機です。(遣明船自体は1547年まで続いています。)
また、義持の例でわかるように、こちらから冊封を求めなければ、中国側にそれを強制する力は当然無く、自然にその体制から抜けられました。
国境を接していた朝鮮と、海を隔てた日本とでは、中国が及ぼせる影響力は全く違う、という事でしょう。
琉球も同じ事で、いわゆる琉球処分に対しては、清もかなり反発したらしいのですが、実力行使する力はなく、そのままとなりました。
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