豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

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A 回答 (7件)

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。
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この回答へのお礼

大変有難うございます。成程、そうですね。

お礼日時:2006/01/15 17:44

解り難く書かれていますが、No.5さんのおっしゃる「途絶えた血筋」は、「お江(織田家)の血筋」の事ではないかと思います。

もちろん、お江以外の徳川家もありますので、No.6さんのおっしゃるように「徳川家が途絶えたわけではない」のですが。
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#5さんへ



徳川家は滅んでいません。
徳川慶喜の子孫も、徳川宗家(家逹)の子孫もその他御三家の子孫諸々も残っています。念為。

#2さんが回答されたように、長浜時代に秀勝(石松丸)という実子を設けているといわれています(養子に秀勝と名付けたのは、そのことと関係があるそうです)。というわけで、最初の子ということではないし、子供が少ないまたはいない武将など幾らでもいます。今年の大河ドラマの主人公の山内一豊夫妻にも一人しか子供がいません(しかも夭折しています)。
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この回答へのお礼

有難うございます。ただ、53歳になって実子をもうけるというのは、おかしいと思うのです。豊臣の世を永く続けたいと思って家臣にわざと秀吉が淀君にはらませたのではないかと疑っているのです。

お礼日時:2006/01/16 20:57

私は茶々様(淀君)に会ったわけではないので、想像ですが、秀吉と結婚したのは自らの身を守るためと秀吉の財産を簒奪するためだと思います。


茶々は織田信長の姪です。
そして母親のお市の方を死に至らしめたのは、秀吉です。
秀吉に対する恨みをかなり持っていたはずです。
その嫌な秀吉に抱かれてでも果たしたかったものは、織田の血筋を後の世に残す事、織田家の天下を奪った秀吉から天下を奪い返す事だったと思います。
秀頼はたぶん秀吉の子供でしょう。

茶々の野望は大坂夏の陣で消えますが、妹のお江がのちの徳川家光を産み、織田家姉妹の野望は達成されます。
この血筋も7代将軍徳川家継で途絶えてしまいます。
豊臣、徳川の血が途絶える中で、江戸時代を小大名ながら家を守り繋いで、現代まで子孫を残した織田本家が最後の勝者なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

有難うございます。

お礼日時:2006/01/15 17:49

>あの頃の武将は子供を沢山もうけて


つまり秀吉さんの場合本当に自分一代での成り上がりなんですね。多分姓もない人だったようで、最初の結婚で木下姓を獲得した、といったところのようです。んでもって信長配下である程度出世しても羽柴、つまり丹羽と柴田の名字から一字ずつもらった名字を名乗っていたりするわけで。自分の家をどうにかしよう、なんていう意識はそれこそ天下人になってこそ生まれたものであるような気もしますね。
もちろんこのあたり色々説があるわけですが。私も三成はありえないだろうと思います。秀吉に対する忠誠度は恐らく最も高かった人であり、一方淀君とは意志が通じていなかったように見えますので。
まあそりゃ実際見てきたわけではないので絶対はありませんが、当時も「三成の種」説はわずかもなかったわけで、(徳川方からの中傷にもなかった)当時の人もそれはあり得ないと思っていた事はわかります。
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この回答へのお礼

有難うございます。

お礼日時:2006/01/15 17:48

>秀頼など、石田三成の種なんではないでしょうか。



何かの本に書いてあったのでしょうか?
石田三成は豊臣家を主君と仰ぐタイプの人ですから淀殿とそういった関係は無かったと思いますし、それらしい記録も無いと思います。

それよりも他の回答にもありますように、淀殿と大野治長とは深い仲であったという噂であり秀頼は大野治長の子ではないか?という説の方が通説ですよ。
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この回答へのお礼

大変有難うございます。

お礼日時:2006/01/15 17:47

いまとなってはわかりませんが、長浜城主時代に女の子が側室に生まれたがすぐに死んでしまったということがあったようなので天下人になるまでまったく子供ができなかったと言うわけではないようです。


秀吉も自分の子かどうかわからないほどまだもうろくしてはいなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

有難うございます。いや、秀吉は自分に子種がないとわかって、それでも豊臣の子孫を作りたいと思って、家臣に頼んで淀君を妊娠させたのではないかと思っているのですが。

お礼日時:2006/01/15 17:46

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豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

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ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
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この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
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豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

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愛知県名古屋市在住のオバサンです。

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そういうのも、楽しんでしまう気持ちで
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Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

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信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む

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No.4です。
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>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
鋤、鍬、鎌などの農機具の需要と補修の要求は常にありました。
このような技術を持った鍛冶屋は必ず村内にいました。
鉄鍋の補修程度は簡単にこなしました。
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これらの専門技術を持った人とユーザーである農民との間では、多少現金が必要だったでしょう。
ただし、この専門技術を持った人も野菜など自給できる程度の畑は所有していました。
大事な農具を作ったり直したりする人です、日常的なおすそ分けは当然あったでしょう。

衣料用の繊維は麻と木綿が主体でした。高級品としては生糸もありました。
いずれも村内で生産されていました。
糸を紡いだり布を織るのは女性の重要な家事でした。
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布として形状が残っている限りリサイクルされ続けました。
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保存のための、漬物の類はどこにでもありました。
田畑だけが食糧品を提供していたわけではありません。
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利根川以北の河川には秋になると鮭や鱒が遡上してきました。
全国の川に鯔や鮎が遡上してきます。
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関ヶ原直後で約1000万人、江戸時代を通じて約3000万人程度と推定されています。
急激に増えるのは明治以降です。

No.4です。
補足を頂戴しましたので、追加の説明をさせて頂きます。
>例えば鉄鍋や包丁などの調理器具、布団、衣類などの日常品も自給で生産してたのでしょうか?
落ち着いた感じのする江戸時代より信長~秀吉のいわゆる戦国時代に興味があるもので・・・

当時の鉄の原料は砂鉄です、少量ずつであれば日本各地で入手できました。
まとまった形のインゴッットは商人が運んできました。
刀にせよ槍、弓、矢、鎧などを自領内で調達できずに商人頼りでは戦はできません。
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Q昨日放送された王様のブランチ、買い物の達人shihoさんのNGワードを

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「自然」だったと思います。

Q豊臣秀吉についての疑問

みなさん、こんばんわ。
先日、漫画文庫版「花の慶次」を読み終えました。
その中で、秀吉が三成に朝鮮出兵の理由を語っていました。
要約すると、「日本を統一したあとは、これ以上領土を分け与えられない。家臣といっても、先祖代々の忠誠を尽くしてきた者はいないし、恩顧を感じている者もいない。諸国の大名が自分に従っているのは利だけだ」というような内容でした。
報いてくれる主の下で働くことで、自らも豊かになる戦国時代の考え方の、最下層から頂点に上り詰めたからこその考え方なのでしょう。
勿論、フィクションであることは重々承知です。しかし、説得力はありますが、疑問が残ります。

1.本当に朝鮮を攻める必要があったのか?当時の秀吉の財力と権力は抜きん出ており、新たな領土を求めなくても、諸大名を従わせることが出来たのでは?

2.なぜ、豊臣幕府を開かなかったのか?平民の出自から、幕府を開くことが出来ず(足利義昭の養子になろうとして断られていますね)、かわりに朝廷に接近し、関白太政大臣にまでなったものの、安定した政権を樹立できなかった。しかし、後継者の秀頼の母・淀君は織田家の血を引いています。かなりこじつけですが、足利幕府を倒した織田家の血を引くのであれば、幕府を開く口実になるのではないか?あぶないと解かっていても、臨終の間際、家康に秀頼の後見を頼むより、よっぽど安心できるのではないでしょうか?

3.もし、仮に豊臣幕府が開かれていたとしたら(初代将軍は、豊臣秀頼。執権として秀吉が補佐?)。どのように歴史が変わっていったでしょうか?

時間があれば、お付き合いください。

みなさん、こんばんわ。
先日、漫画文庫版「花の慶次」を読み終えました。
その中で、秀吉が三成に朝鮮出兵の理由を語っていました。
要約すると、「日本を統一したあとは、これ以上領土を分け与えられない。家臣といっても、先祖代々の忠誠を尽くしてきた者はいないし、恩顧を感じている者もいない。諸国の大名が自分に従っているのは利だけだ」というような内容でした。
報いてくれる主の下で働くことで、自らも豊かになる戦国時代の考え方の、最下層から頂点に上り詰めたからこその考え方なのでしょう。
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Aベストアンサー

確かに「家臣に新しく広い領地を与えるため。」「朝鮮併呑後、中国へも攻め入り、朝廷を中国へ移し皇帝にする。」と言った様な話が伝わっています。
その真偽はともかく秀吉なら言い出しそうな事ですので案外本当の事かもしれません。
ですが、秀吉の真意は他にあった様に感じて成りません。
つまり家臣に領地を~とは単なる口実。
秀吉は戦い続けて出世し、戦いの中で人生を謳歌しておりました。
やがて天下統一もなり、日本国土に敵はいなくなった。
全て秀吉の意のまま。
ところが、そうした途端、秀吉は人が変わった様な狂気に走り出しています。
朝鮮出兵も言わば狂気の一つなんですが、秀次の件や利休の件など内政上手であった秀吉が自ら和を乱すような事をしている。
秀吉は「戦う」という目標を失って、己さえも見失ってしまったのではないでしょうか?
そして無意識の内に戦を求め、無益な戦いへと挑んでいった。
そんな様な気がしてなりません。

幕府を開くにはやはり血統に難があったのかもしれません。
人誑しとも呼ばれる程、頭の切れる秀吉の事ですから、朝廷までも誑しこみ征夷大将軍を得る策略も思いつく可能性はありましょう。
ですが幕府は開けば安泰というものではありません。
鎌倉幕府は名実共に源氏政権と呼べたのは初代頼朝だけでしょう。
室町幕府は尊氏・義詮死後も南北朝の争いは続いており、幕府求心力を崩すわけにはいかなかった。
江戸幕府は徳川家康・秀忠二代続く大御所政権で組織の強化を図っています。
豊臣幕府が開かれたとしても秀頼がその実力を発揮する以前に御家人(この場合徳川)に食い物にされ、鎌倉幕府の二の舞になるか短命幕府で結局江戸幕府に替わられるのではないかと思います。

秀吉も次は家康の時代であることは十分承知していたのでしょう。それ故、最後の最後の無理を承知の望みで家康に後見を頼んだのではないでしょうか。
せめて殺さないでやってくれと。

確かに「家臣に新しく広い領地を与えるため。」「朝鮮併呑後、中国へも攻め入り、朝廷を中国へ移し皇帝にする。」と言った様な話が伝わっています。
その真偽はともかく秀吉なら言い出しそうな事ですので案外本当の事かもしれません。
ですが、秀吉の真意は他にあった様に感じて成りません。
つまり家臣に領地を~とは単なる口実。
秀吉は戦い続けて出世し、戦いの中で人生を謳歌しておりました。
やがて天下統一もなり、日本国土に敵はいなくなった。
全て秀吉の意のまま。
ところが、そうした途端、秀吉...続きを読む


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