映画「恋に落ちたシェイクスピア」をみて、シェイクスピアに興味をもちました。
この脚本はすべてフィクションだと思いますが、
実際のシェイクスピアはどういう人物だったのでしょうか?

1.文豪のイメージがありますが、貧乏だったのですか?
2.役者でもあったのですか?
3.演出しながら脚本を作ったのですか?
4.結婚はしたんでしょうか?
5.直筆原稿など残っていますか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

実はシェイクスピアは謎の人物です。



1234は不明です。彼の私生活は不明な点が多いです。日記はおろか手紙すら残っていません。
5:残っていません。

そして、1234についてなのですが・・・実は本人が作品を書いたという証拠はありません。
シェイクスピアの話の中に必ず付きまとうのが「作品は彼が書いたものではなく」別の人が使った筆名(つまりペンネーム)であるとする説があり、実際にそれなりの真実味があります。シェイクスピアの評価は「ラテン語もギリシア語もダメ」というものだったそうで・・・

本当の作者はだれかということになると、第1として上がるのがフランシスベーコンです。この人であるという説は昔からあったようです。
2005年10月には、作品の真の作者はシェイクスピアの遠縁であるヘンリー・ネヴィルであるという説が論文にまとめられています。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・シェイクスピア
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シェイクスピアの父親は革製品職人兼羊毛を扱う商人、


母親は富農の娘でした。
しかし、富と名声を求めてロンドンに出たと言うから、
実家は特別裕福ではなかったのかもしれませんね。
でも、ロンドンでは数々の作品を発表し、
新進の劇作家・詩人・俳優として成功を収めたので、儲かっていたのかも。
結婚は8歳年上の女性と、若気の至りと言うか、
できちゃった結婚しています。
夫婦仲は終生冷め切っていたようですね。
直筆原稿は残っていません。
直筆原稿とされる物もサインの筆跡が違う等の理由から
彼の作品群は彼の物ではないとの説が、西洋では根強いとか。
文芸春秋「シェイクスピアはどこにいる?」(ジョン・ミシェル著)
が参考になるのではないでしょうか。
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Q平清盛は貧乏だった?

吉川英治氏の「新・平家物語」を読むと、子供の頃の清盛は、よく、叔父のところに金を借りにいかされたとあり、決して裕福ではない様子でしたが、ある本には、清盛の父は瀬戸内海の海賊退治で院の信頼を得て、日宋貿易で富を築いたとありました。どちらが本当なのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、彼の場合、代々上級官僚ではなく、父の代にようやく殿上人となりました。
で、その後の戦功で最終的に太政大臣まで上るのですが、生まれてまもなくは金銭的には恵まれてはいないと考えられます。

実際に上級役人と中級役人には相当の金銭的な開きがありました。
これが同じ従五位下相当の官職でも、(国守だとまったく話は違いますが)忠盛は1119年までは検非違使と左衛門尉ですので、お金はそれほど入りません。

ですが、問題はここからでして
1220年に伯耆守、23年には越前守、27年には従四位下とともに備前守と、国守を歴任しています。
その後少し間をおいて1135年に美作守、1145年には播磨守とさらに国守を歴任しています。

実は、守職というのはものすごい儲かる職なのです(お金を稼ぐならば守職というのが当時の常識)。
大きな理由は、税収のピンハネと賄賂の二つです。まあ、もともと中央官職よりははるかに実入りはよいのですが・・・

そのため、官位としての位は低いのですが、わざわざ守にしてくれ、と頼んだ人までいます。それほど儲かるのです。
もっとも、中には官位だけは高くて税収が少ないため、人気のない国はありましたが・・・
ですので、彼の家が急激に裕福になったのは1220年以降ですね。となると、生まれてから2年後くらいからですから、幼少のころ貧乏であったかというと必ずしも当てはまりません。

日宋貿易だけが富を得たとして特筆されますが、これは違います。実際にはその前にそれを行うだけの基盤があったのです。つまり受領による収入ですね。そもそも貿易だって元手が要るのです。

「新・平家物語」はあくまで歴史小説です。歴史小説には脚色、改変といった、小説を面白くするための工夫というか、そういったものがあちこちに仕組まれています。
つまり、歴史小説の内容は必ずしも正しくはないのです(むしろ、意図的に変えている)。
そのため、歴史小説を「実際にあったこと」としてとるのには非常に問題があります。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/平忠盛

まず、彼の場合、代々上級官僚ではなく、父の代にようやく殿上人となりました。
で、その後の戦功で最終的に太政大臣まで上るのですが、生まれてまもなくは金銭的には恵まれてはいないと考えられます。

実際に上級役人と中級役人には相当の金銭的な開きがありました。
これが同じ従五位下相当の官職でも、(国守だとまったく話は違いますが)忠盛は1119年までは検非違使と左衛門尉ですので、お金はそれほど入りません。

ですが、問題はここからでして
1220年に伯耆守、23年には越前守、27年には従四位下...続きを読む

Q武士はなぜ貧乏だったのか?

武士って今で言うと公務員ですよね。特に江戸時代は、戦争もなかったのによく貧乏だったといわれていますが、どうして貧乏なのでしょう?領地からの収入がある範囲で生活すればいいような・・・。高そうな鉄砲だった買わなくてすんだでしょうに。農民が払えないという事態が頻発するようなことも・・・・ないですよね。

Aベストアンサー

回答のお礼の返答ですが、
農民が増えても、農地が増えないと生産量は増えません。
江戸時代には農地開墾など行われましたが、
それには当然限界がありますし、無理な開墾は
土壌流出や洪水などの災害を往々にして招くため、
期待されるほどの収穫増はなく、むしろ被害が拡大し、
大飢饉を招いたというような例も少なくありません。
農家の家族構成が増えると農家の生活が同様に
苦しくなるので、人減らしといって、堕胎や嬰児殺しが
農家では横行しました。悲しい現実です。
そしてそれは江戸時代に限らず、戦前・戦中まで続きます。
農村は武家よりももっと貧しいわけです。
そして農家の生産収入を糧にする武家の生活も同様に苦しくなる。

米経済と貨幣経済の発達は、中学校の必修内容ですが、
どういう風になるかというと、
農家と武家は米という一次生産物の収入で生活しますが
これを米から金に換えなければなりません。
米価は変動します。そうすると収入が一定しなくなるわけです。
しかし一年に必要な生活費は大きくは変わらないので
お金が足らなくなるわけです。
ま、うまくしたら儲けるだろうと思うでしょうが、
一般に一次生産物の売却は流通の一番最初の原価になるため
値段が一番安い。そこから流通・問屋を経由して大都市で小売される段階では
値段も高くなり十分な利益を生むのですが、農家や税収を売る武家・大名家には
さほどの利益はもたらされないという構造なのです。
物価も変動しますが、貨幣経済になるから下がるというようなことはなくて、
不況や不作、逆に好況や豊作によって上下します。
(むしろ経済成長とともに物価は常に上がり続けると考えるべきです)
豊作貧乏などという言葉もあるように、ずっと米収入が平均的なら
まだいいのですが、天候に左右されるために、米の収穫高や質は
ばらつきが出る。
だから必ず、必要な資金を確保できない年がでてきて、
そういう場合は必ず借金をしなければならないので、
次の年の収入に影響してくる。往々として来年の米収入が担保になることが多いのです。
借金には利子というものがついてくるので、
だからどう転んでも、米農家や大名は裕福にはなりません。
逆に大名などに金を貸す大商人がますます豊かになり、財閥へと成長したというわけです。

回答のお礼の返答ですが、
農民が増えても、農地が増えないと生産量は増えません。
江戸時代には農地開墾など行われましたが、
それには当然限界がありますし、無理な開墾は
土壌流出や洪水などの災害を往々にして招くため、
期待されるほどの収穫増はなく、むしろ被害が拡大し、
大飢饉を招いたというような例も少なくありません。
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Q歴史上、最も貧乏だった天皇は?

日本の歴史は天皇の歴史と言っても過言ではありません。
歴史を通じて、天皇は日本の最高権威であり続けました。
しかし、天皇家にも権力・権威の失墜した闇の時代もあった事かと
推測されます。
歴史上、最も貧乏だった・不遇だった天皇はいつの時代でしょうか?

Aベストアンサー

103代後土御門天皇~104代後柏原天皇親子の頃だと思います。

後土御門天皇は大嘗祭こそ執り行ったものの、その翌年に起こった応仁の乱により財政難になります。
(大嘗祭は、その後221年中断)
京都は焦土と化し、将軍の別邸など10年以上転々とします。
争乱によって、皇室御料地・公家の所領が失われて、財政は底をつきます。
各種行事どころか、死亡しても葬儀の費用が無くて、遺骸は御所に置かれたままだったといいます。
1ヶ月以上たってやっと火葬されました。

後を継いだ後柏原天皇も即位礼の資金が無く、即位礼が行われたのは22年後です。
それも足利将軍と本願寺の寄付によって行われました。

Q忍者について.........

昔に、よく暗躍していた忍者などを教えてください!
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弥生時代中期から後期にかけて、山地や高地性集落が作られた理由を80字以内で教えてください。

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稲作の導入で人口も増え,領有地争いが起こり,戦乱が激しくなった。
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