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全てには理由があり必然…という考えを追っているうちに
「他の動物達とかはどうなんだろう、偶然だぁなんて思ったりするのかな?」という疑問が出てきました。
人間よりも事象について「自然」と受け止めそうな気がしますが…?
となるなら「偶然」とは人間の為の人間解釈ではないでしょうか?
ゆえに人間が発見・発明した?と思ってしまったのですが。
皆さんの意見を聞かせていただけませんか?
宜しくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

なるほど。

面白い考え方ですね。
私が思うには、偶然というのは、必然がないと出てこなかった言葉だと思います。
人間というのは、自分で作った世界観の中で生きていますから、それと常に実際にある世界を照らし合わせているんですね。そしてたいていは自分の作った世界観に一致するので、「必然」だと思って世の中を生きているわけです。
その時に、自分の覚えておいた法則に当てはまらない事象が現れた時、「必然ではないもの」が出て来るんだと思います。それが偶然です。
従って人間が作った言葉というのは、あながち間違いではないと思います。
ただ、人間に近い動物であるほどこの感覚に近いものはやはりあると思います。猫が鏡を見て後に回り込んだりする出来事を良く見ますので、「あれ?おかしいな」と思うのは確かでしょう。これはかなり偶然を感じている時に近いと思います。
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この回答へのお礼

偶然って、人の操作出来ない要因で起こった愉快なことかもしれませんね。
いい意味でいつでもビックリさせて欲しい、だから「偶然」と言って楽しみたいのかなって思いました。

お礼日時:2006/03/15 09:19

お釈迦さんの場合は、道を求めるのに、まぐれはないってことを言っているんじゃないかな。

まぐれはないから、精進しなさい、ってことだと思います。
 自然界の動物、植物だって、まぐれで花を咲かしたりはしないだろうし。かといってそれは、必然とは言えないかも知れないけれど。なんでもないことは、なんでもないそのままで輝いていると思う。それは、いつもながらに必死な時、生きてるときには、一層輝く。
 
秘かに楽しむのが、偶然ではないかな。
ところで、クリスマスのプレゼント、あるじゃん?俺、知ってんねんけどな、あれ、サンタクロースとか言う人が持ってきてるんやで。秘密やからゆったあかんで。しーっや。ここだけの話な。
 あとな、あの、テーブルに置いたぁるケーキな、角がちょろっと欠けてるやろ。わからんか、ほら。あれはな、丸太君のおばちゃん、あの人がゆっとったけどな、ブラックサンタの仕業なんやて。ほんまなんやって。俺がさっきな、台所に入った時におばちゃんから直接きいたんや。え?いや、まぁな、ちょっとお先につまみ食いってことで台所に入ったんやけどな。
え?ああ、丸太君のおばちゃん、先に台所おったよ。
え?おばちゃんがケーキ食うたんちゃうんかって?クリームなめてただけやったけど、ついついスポンジも摘んでもうたって?ああ、おばちゃんそんな感じやなぁ、、サガやなぁ、、あー!じゃあ、先越されてもうてたんか!ぜんぜん気付かんかったわ、俺。
え?ほなブラックサンタはおばちゃんのでたらめって?かーっ。やられてもうたわ。っていうか、丸太のおばちゃん、敵なしやな。あ、でもお前、ほんなら本物のサンタはどないやねん。本物のサンタもおらんのか?
え?何で俺があほやねん。
え?なんや、耳でゴショゴショ気持ち悪いな。おう、おう、、おう。。あ!そーか。お前頭ええなぁ。白サンタもおらんようなったら、クリスマス会も、プレゼント交換も、ケーキもチキンもあれへんもんな。
そーか。やっぱり白サンタは居ってもらわな、俺ら困んねんなぁ。
え?いや、別に困らんけど。居った方が楽しいやんけ。
え?誰が年中お祭りやねん!うるさいのは生まれたときからじゃ~。

こんなささやかな悪戯、配慮の集まりが、本来の社会性のような気もします。
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この回答へのお礼

うわあい、偶然の活用方まで教えてもらっちゃった^^
因みに釈迦は欲を捨てれば真理が見えると言ってるんだよね?
でも、そんなのどうなんだろうね?
でも、まずは見ようとするべきだよね?
どこまで見たかで、そのあとの価値観は変わるもんね?
もっと真剣に遊ばなきゃって再確認だったよ。
また話しをきかせてくれたら嬉しっ。

お礼日時:2006/03/24 01:09

ヘルメス



ギリシャ神話のヘルメス。ローマではメルクリウス。エジプトではトート。
このヘルメスは錬金術の中でも突出した存在で、クイックシルバー(水銀)のようにとらえどろこがなく、頻繁に姿を変えるという概念があるみたいです。

ヘルメスは時には トリックスター(ペテン師 詐欺師)として神話や伝承に登場します。

さまざまな扮装で現れ、いたづらや悪さをして、一時的に秩序を崩壊させる。

トランプでいけばジョーカー。

「意味ある偶然の一致」が一瞬の啓示をもたらす、シンクロニシティー(共時性)を支配しているのがコイツらしいです。

錬金術たちはそこに着目した。
精神と物質の橋渡しをこのトリックスターがやっていると思ったみたい。


例えばプラスチック。
失敗からできたもの。

これを「トリックスターがいたづらをしてくれた」と解釈する科学者もいるかも。

計画通りの結果がでなくても、計画上の結果よりもっとすごいことができてしまった場合でも、これは失敗 とすると発見にならない。

トリックスターのいたづらなのか、必然ではなく偶然たまたまドジったことでできちゃったのか。

その人の捕らえ方次第だと思います。
「神からの啓示」・・・って思いやすくなるのは、宗教を信仰しているから関連づけて、そう思ってしまうのかも。
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この回答へのお礼

失敗は必然ですが、失敗を偶然と言うのが人間ですね。
良い解釈にもなるし、悪用もされるわけなんですよね~。

お礼日時:2006/03/23 23:54

こんにちは。


未来の全てが既に決定されているというのであるならば、我々の「自由意思」は一切認められません。ですが、未来が未確定であるならば、我々の意思決定は未来の結果に反映します。
この世の現象が「必然」であるならば、未来は既に決定しているということになります。ですが、それは「必然」ではなく、全てが「偶然」であるために、未来は過去や現在の結果に基づいて様々に変化します。暫定的ではありますが、現在の科学では「未来は未確定である」と結論付けられています。そして、この世の全ての現象が「必然」ではなく「偶然」であるならば、人類は「偶然」を発明したのではなく、その中に「必然性」を発見したということになると思います。

ここに地球があり、我々が生物としてそこに暮らしているもの全てが偶然です。ですが、ここに地球があるから我々があるというのは全くの事実です。
このように、あらゆる物事には原因と結果があります。人類はそのような因果関係を解き明かすために様々な努力を積み重ね、数えきれないほど多くの成果を獲得しました。中でも、運動の法則を解明した「ニュートン力学」などは、その良い例ではないかと思います。
ニュートン力学では、三次元位置座標や運動量などの初期値が予め決定されるならば、計算によって運動の結果を求めることができます。即ち、未来の出来事を予知することがきるわけですね。現在でも、人工衛星はこれによって飛んでいます。
ですが、18世紀に確立されて以来、あらゆる力学現象のバイブルとして扱われてきたこのニュートン力学は、20世紀になり、量子力学によって根底から覆されることになります。

全ての現象には原因と結果があります。その因子を極限まで還元し、整然とした対称性を見出すというのがそれまでの科学でした。ですが、やがて人類がミクロの世界に辿り着くならば、果たして、そこでは「不確定性原理」なるものを適応しなければならないということが判明しました。つまり、原因が確定していても、それに伴う未来の結果は観測という行為が行なわれるまでは100%として確定することはできず、それは飽くまで可能性の集合でしか述べることができないということになってしまったわけです。
このような量子力学上の新たな発見により、未来は未確定であるという結論が導き出されました。そしてこれに伴い、200年間に渡って我々人間の自由意思を頑なに否定し続けてきた、ニュートン力学に基づく「確定論」は崩壊しました。、

物事には必ず原因と結果があります。ですが、その関係は確率によって司られています。未来というのは、起こり得るありとあらゆる事象の「可能性の集合」であり、なんびとといえどもその結果を予知することはできません。そのうち、我々は確率の高い方を「必然」とし、可能性の低いものを「偶然」と呼ぶわけですが、飽くまで確率である以上、どちらが起こっても、それは「偶然」でしかないということになります。
100%の因果関係を記述できるのは、既に観測によって決定された事実だけです。過去と今日までの現在には、あたかも原因と結果としての必然性があるように思われます。ですが、振り返るならばそれも、全てが偶然の産物でしかなかったはずです。事実、明日がどうなるかは誰にも分かりません。

我々の身の回りに起こる全ての出来事は偶然によって成立しているものです。ですが、我々はその中に何らかの「必然性」を見出すことができます。これは、他の動物も全く同じことです。そして、我々人間はそのような「特定の偶然」に対して「必然」という概念を当てはめました。ですが、その「特定の偶然」とは、飽くまで「体験者・観測者」の主観でしかありません。何故ならば、偶然というのはあらゆる生物にとって利用価値が乏しいからです。
では、この世の全てが偶然でしかないのにも拘わらず、どうしてそこに「必然性」なるものが発生するのでしょうか。

まず、「必然」とは現象を弁別するための概念であり、それは主観的なものです。
例えば、自分の歩い行く通り道に石が置いてあったのは偶然です。どうしてそんなところに石があるのでしょうか。ですが、その石をそこに置いた人物にしてみれば、石がそこにあるのは全くの必然です。このように、何が偶然で何が必然であるかは観測者によって全く異なり、絶対的なものではありません。
次ぎに、動物がある場所で餌を獲得できたのは偶然です。ですが、再び同じ場所で餌を採るようになるならば、それは、その動物にとってはより利用価値の高い「必然」に変更されたということになります。
ここで、動物には言葉や概念を扱うことができませんので、偶然と必然を呼び別けるということはできません。ですが、爬虫類以降に進化した我々哺乳動物や鳥類の学習行動には「情動」というものが伴います。
動物は脳内に「快情動」が発生するならば、それに従って「接近行動」が選択され、「不快情動」であるならば「回避行動」が選択されます。満足を憶えたならば接近行動は繰り返されますが、「怖い」という情動が学習されたならば再び近寄ることはありません。
このように、哺乳動物のような高等動物は、より高い利益を獲得するために「偶然」と「必然」を「情動」によって分類しています。これは、我々が危険な場所に近付かないことによって自分の安全を「必然」としていることと全く同じです。
我々動物にとって「必然」とは、環境からの作用によって選択される「報酬行動」や「回避行動」よって獲得されるものです。従いまして、偶然と必然は元々単なる現象でしかありませんので、それは観測者の主観によって「分類」されることはあっても、「分別」されるものではないということですね。

情動による高度な学習能力を持たない爬虫類以下の動物は、「本能行動」によって与えられた環境に対する必然性を獲得します。
本能行動は複数の要因、通常「外的要因」と「内的要因」が組み合わされることによって実現します。例えば、目の前に餌があるという視覚刺激と、空腹という内的要因が重なるならば「節食行動」が選択されます。つまり、このふたつの偶然によって、必然的に本能行動が実現してしまうというわけですね。
幾らお腹が空いていても、餌がなければ節食行動は実現できませんし、逆に餌が与えられても空腹でない場合は別の行動が選択されます。この結果、生殖の相手が見付かるならば子孫繁栄にその労力を当てることができますし、休眠活動が成されるならば、それ以降の行動が有利になります。そしてさもなくば、目の前に餌のある限り接近行動が繰り返されるというのであるならば、その動物はやがて力尽き、子孫も残さずに命を落とすことになります。このように、動物は誰からも命じられることなく自らの生命を守り、種の存続という再現性、即ち必然性を維持しています。同様に、多くの植物もまた、太陽光に対して枝葉を伸ばして光合成の効率を上げ、偶然をより利益の高いものするという術を進化の過程で獲得しました。

生物にこのようなことができるのは、生物界を含め、「地球システム」全体がエネルギーを消費することによって「エントロピーの法則」に逆行することの可能な「散逸系構造」であるからです。
全ての現象はエントロピーの減少によって最も安定した単純な構造へと移行します。これがエントロピーの法則に反して複雑なシステムを構築し、それが維持されることを「自己組織化現象」といい、それには安定したエネルギーの供給が必要になります。
地球は太陽から供給されるエネルギーを消費することのできる散逸系です。そして、これによって発生する気象現象も、地上の生物活動も、全てがエネルギーを消費することによって実現する自己組織化現象です。
自己組織化というのは複雑系に発生する現象であり、そこにある分子や原子ひとつひとつの性質ではなく、無数の因子が集まることによって始めて表れる「集団としての性質」がシステムとして反映されたものです。これを決定しているのが、偶然そこに存在した因子の種類や量であり、たまたま供給されることになったエネルギーのバランスです。
生物界は、地球システムの中でも極めて複雑な「物質循環」と「エネルギー循環」を受け持っています。ですから、生物とはそれそのものが「エントロピーに逆行する散逸構造を持った究極の自己組織化現象」ということになります。我々の人体を構成する無数の物質と60兆に及ぶ細胞は、これによって統一したシステムを維持しています。
このような頭を抱えるほどのややっこしい事態になっているのは、元はと言えば万有引力の法則に従って太陽との距離が現在のように定まり、地球にそのような分子や原子が存在したからです。我々はこれを「宇宙の原理」「生命の原理」と呼び、必然性として捉えています。
しかしながら、この宇宙にそのような物理法則や化学反応が存在し、それが原因となっているのは観測によって確定された現在以前の事実であり、それが未来を決定するという保証は何処にもありません。

これまでくどくどと申し上げました通り、過去とは偶然の産物であり、未来は確率の集合でしかありません。では、我々の自由意思はどのようにして未来に反映するのでしょうか。まずそれは、未来というものは「起こり得るあらゆる可能性の集合」であり、それが現在の結果として判明した時点で、その都度「確率の組み直し」が行なわれるからです。
観測によって現在として確定された未来は確率が収縮し、選択されなかった他の可能性は全て消滅します。そして、その結果を元に、新たなる未来の可能性が組み替えられます。例えば、そちらに行けば利益があるが、危険というリスクも伴うといった場合、我々には行くか行かないかの選択肢が存在します。ここで、行かないという行動が選択された場合は、それ以外に発生する未来の事象は全て消滅し、それに伴って新たな可能性の集合が形作られます。つまり、そちらに行って危険と遭遇する確率はその時点でゼロになるわけですが、同時に、可能性の中に含まれていた利益も期待できなくなります。
未来は可能性の集合であり、我々はどの確率が高いのかを経験的に知っています。これにより、未来に対してより有利な行動選択が可能になるわけです。ですが、最も肝心なのは、それが必然であるならば未来は思いのままであるはずなのですが、それは飽くまで偶然であるために、結果はどうしても100%というわけにはゆきません。そして何よりも、それが「必然」として100%であるならば、未来は既に確定されているわけですから、我々が如何なる意思決定を行なったとしても、それは自由意思として何の意味も持たないということになります。

このように、我々はより高い確率を選択する術を知っています。ですが、それが偶然である以上、必ずしも自分の思い通りにはなりません。仮になったとしても「必然」と定義するのであれば、それは自分の意思ではなくなってしまいます。そして更に、より高い確率を選択するのは、決して自分だけではありません。事実を確定するための観測は世界60億を越える膨大な観測者の入れ子状態で行なわれています。ですから、そこには必ず利害の不一致というものが発生します。人生、欲してままならないのはこのためですね。
量子力学は、我々の自由意思を否定するニュートン力学に基づく確定論を退けました。これにより、我々の意思決定は未来の結果に反映することが保証されたことになります。ですが、それは誠にあり難いことではあるのですが、ところが、何故それが可能であるのかと言いますならば、今度はそれが偶然であるからということです。何とももどかしい話ですよね。幾ら自由意思が認められたとしても、行き当たりばったりではどうにもならないではありませんか。
この、ふたつの近代科学における論争の遥か以前に、お釈迦様はこの矛盾に関して極めて論理的な考察を行なってします。

必然とは主観的なものであり、あらゆる生物は偶然という現象を自分の利益に基づいて必然と解釈しています。しかしながら、全ての現象は「縁起」によって成立するものであり、自分の行ないの全てが必ずしも幸福を実現するものではありません。お釈迦様は、この苦悩の原因を「煩悩」と定義し、全ての行動が「慈悲の動機」に基づくものでなければならないとしました。これは、正しい行動選択を積み重ねることにより、「因果」によって結ばれた「来世」の確率を組み替え、己の意思を未来に反映するための修行に他なりません。
慈悲の動機とは自己の内面を正すことによって外部に発生するあらゆる現象を受け入れ、全ての苦悩を排除するということです。これにより、「主観的な必然性」というものは完全に消滅し「無我の境地」に至ります。そして「平等の境地」とは、この世のあらゆる生命にとっての永遠の幸福という、「究極の価値観」に基づく必然性を定義するものです。ここまできますと、もはやそれが偶然であるか必然であるかは一切関係がなくなってしまいますよね。
「偶然」と「必然」とは同じ現象であるため、それを分別することはできません。そしてお釈迦様は、それを主観的に分類することが、そもそも苦悩の始まりであると言っています。
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この回答へのお礼

人間は損得・利害・意義などを欲しがるから、偶然だの必然だのとうるさい訳ですね?
でもね、それを苦悩と思う必要って実はないのでは?
そんな人間からスタートして夢を描きたいです。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/03/16 19:00

#6です。


そうですね、説明がわるいですね。前者は勘違いになってしまいますね。これではいいたかったことと違うので、もうちょっと違う言い方をします。
偶然の反対の必然の感覚というのは、習得的に得られ因果関係どおりにことが運んでいるときに、感じるものであるとすると、それが裏切られたときに偶然を感じるのではないかと考えたわけです。そこで、因果関係を習得する動物の場合は、その因果関係を破る事象が発生したなら、偶然だな、と感じる部分があるんじゃないかな?ということです。

ちなみに、後者は蓋然性のある複数の事象のうちから、特定のひとつが因果関係無く発生することは、やはり偶然と呼ぶと思います。たとえば「AさんとBさんの誕生日は偶然一致した」というような使い方です(1/365の確率です)。カオスというのは、一般に、簡単な発展規則にもとづきながらも、初期条件に対する鋭敏性があり、規則性とランダムの間にあるような状態のことをいうと思います。私のいったのは、サイコロを例に挙げているように、カオスというよりはランダムのほうですね。
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この回答へのお礼

人間って期待が多いから偶然と思う事態が出てくるのですね?
それはランダムの場合により強く感じるのでしょうね。
偶然とは人間ゆえの必然的感覚と言っていいですか?

お礼日時:2006/03/16 19:07

動物は「偶然だぁ」なんてことは思わないでしょう。

言葉はない(でしょう)し。でも。

ある場所に動物の食べ物がが大量にあったとします。最初「偶然」通りかかった動物はその場所を覚えて次も食べ物を探しに来るでしょう。次回にも食べ物に出くわし、次次回も出くわし、そのうちその動物にとってその場所で食べものを得ること「必然」になります。

もしそれを見つけたのが本当に「偶然」だったとしたら。つまり食べ物はあまりなかったのにたまたま見つけたとしたら。次に来ても食べ物にありつける確率は低く、結局、その動物はその場所を忘れてしまうでしょう。

生存に関わることだと思うので、言葉は(多分)なくとも「偶然」と「必然」の差は理解していると思います。

哲学でしたね。ずいぶんはずしてそうです。(笑)
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この回答へのお礼

私がその動物だったら、大量の食べ物を見付けたのは自分が移動したからで、次回も次次回も食べ物があったら「偶然またもあった!」と、いちいち思いそうです^^

お礼日時:2006/03/15 17:30

私は、色々な人の考え方を聞いたり、読んだりすると、つい納得してしまいます。



偶然は必然で 必然なくして偶然はない

って 言われて見ると そう思います。

しかし、これを実生活で実行するとなるとかなり難しい。のです。

例えば、先日、車を運転していたら、まるで発砲されたような音がして、とにかくビックリして車を止めました。 歩道には5人の少年が振り向きながら自転車を走らせていました。何が起こったの?だろう...

 生卵をぶつけられていました。

海馬は非常事態発生で、情報収集のため、煙を吐きながら走り回ります。
何故?生卵を? 悩みました。

この<偶然>として片づけて置けば<気が楽な被害者>で済む出来事に、必然性を覚えなくてはならない。。。のです。。。

namazu kunの問いは、活字で理解できても、実生活でなかなか理解できない事の一つですよね。
ゼロの存在 に にているよ~な....
私の「一生の課題の一つ」です。

眠れなくなりそう です
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この回答へのお礼

余計なお世話だとは思いますが、自分の損得から切り離して物事を考えると傷付く理由がないので落ち着いて思考できますよ。
生卵事件は偶然ではなく確率の問題ではないでしょうか。
少年達もあなたも私も同じ時代に生きていて影響し合っています。
悪いことばかりじゃないです。
悪い時は私、飲んで寝ちゃいます。

お礼日時:2006/03/15 09:13

「偶然」は2種類あると思います(もっとあるかもしれませんが)。

人が「偶然」と感じるのは、ひとつは、予想している因果関係が崩れた場合、もうひとつは、原因が複雑すぎて、あるいは、条件に対して敏感すぎるために、本質的に偶然となる場合です。前者は、「たまたま」起こった偶然で、後者はサイコロを振るような偶然ではないかと思います。前者は個人が認識として習得的に発見した!偶然であり、後者は長い歴史の中で人類が発見した!、法則性のある偶然(確率論や統計力学的な偶然です)とともいえるでしょうか。

後者は、自然法則なので、行動として本能に刷り込まれていたり学習したりしても動物が意識することは少ないと思います。ライオンが骨の周囲についた肉をはぐために骨前足で転がして、「偶然」肉のついた面が現れるからといって、受験生が鉛筆を転がして回答するときのように、「偶然」を活用しているという意識はないでしょう。

ところが、前者の「たまたま」の偶然感覚は動物にもあるように思います。よく知られているのは、犬が飼い主(=自分のボス)を誤って吠えてしまった場合に、すっとぼけて違う方を向いて吠え続けてみたりします(そっちには何もないのに)。これは犬にとっては、ご主人さまがたまたま怪しい雰囲気ぷんぷんで近づいてきたので思わず吠えてしまって、それをとぼけているので、微妙ですが「たまたま」感を感じているのではないでしょうか?これはなぜかというと、因果関係の中で物事を認識している事柄に、「たまたま」感のある例外が付随しているためではないでしょうか?そして、犬に限らず学習する(オペラント条件付けのようなものですかね)動物は多かれ少なかれこのような感覚を持っている可能性があるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

単純な私は、前者は「勘違い」、後者は「カオス」と受け取ってしまいましたが勘違いしてるでしょうか?

お礼日時:2006/03/15 09:23

有名な心理学者のユングは、シンクロニシティ(共時性)という概念を提唱しました。


「偶然」の一致は、単なる偶然ではなく、シンクロニシティによる作用として起きる、ということのようです。
観測者独自の経験がシンクロニシティによる出来事に意味を与える以上、観測者から独立しておらず、「偶然」である以上、再現性がなく、定量化もされない。したがって、これを科学的に立証できない、というのが常識的な考えです。
しかし、偶然の一致に「不思議」を感じるのはどの人にもあるのではないか、と素朴には思います。
ご質問の趣旨とは離れてしまったようですが、一つの考え方としてこういうこともある、ということで。お暇なときにご研究ください。
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この回答へのお礼

ものとものは引かれ合うという性質があるそうですね。
質量があるゆえですが「心」はそれを「不思議」と感じるんですよね。
趣旨と離れていませんよ。
人の心の面白さを質問したので。

お礼日時:2006/03/15 09:27

他の動物と人間様?の違いは「自然は悩めない」ことで、だから人間は自然になれない、不自然だ。



肉体は死んだらやっと自然に帰依して自然と一体になれるけれど。死んでも悩むとしたらごっつい不自然だよ。霊魂は不自然だ。

生きて悩んで良い結果を生むのは、素敵だと感じる人、頑張って生きているその人の為に心を尽くすため以外にないと思う。結果より早く幸せを今感じられる確かなもの。

どうでもいい嫉妬や事象に悩んで得になる保証なんてあるのかどうか?まだ私も未熟者で知らない、解らないけれど。

偶然は偏執狂者の発見か?無責任ではなく自己中でしょう。でもそれも、とってもとっても人間味なのですよねぇ。
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この回答へのお礼

私は悩むことは楽しいこととは言えないかもしれないけど
面白いことだと思っています。
でも悩む対象によりますよね。

お礼日時:2006/03/15 09:30

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