アドルノの『啓蒙の弁証法』について知りたいのですが、
哲学ついて詳しくないので、なかなか理解できません。
アドルノは、そこで、どういう論点で何を批判しているのかについて
教えていただけませんか。

A 回答 (3件)

1番目に回答した者です。


> ナチスの呪術性はどのようなところに?
というご質問がありましたので、遅くなりましたが少し書きます。
もしかすると既に見当がついていらっしゃるかもしれませんね。

簡単に言うと、「近年の日本の新興宗教みたいなもの」ということかと
思います。熱にうなされているかのような凶行。呪術的な教祖崇拝。
アドルノはユダヤ人で、ナチスのユダヤ人虐殺を実際に体験し
非常にショックを受け、このような理性の否定にいたったのでは
なかったかと思うのですが、なにしろ非常にうろ覚えです。

補足しますと、実体験したのはナチスによる凶行(のはず)ですが、
それに限らず犯罪や戦争なども同列です。
理性が純粋に善ならば、理性によって進歩した人間は「悪」を
引き起こさないはずだけれども、「悪」は起こってしまう。
しかもナチスのような、出来事さえ。
だから、理性はあてにならない。
じゃあどうしたらいいのか?
それを「考える」ということは「理性」を使うということだ。
だから、私は考えないのだ…。

私の説明は簡単にしすぎだと思います。
starflora さんが詳しい説明をされてくださっているので、
あわせて考えていただけると全体像が見えるのではないでしょうか。
頑張ってみてください。それでは。
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  わたしは、アドルノは何も読んでいませんので、何か言える訳ではないのですが、大学院でアドルノ、ヴァルター・ベンヤミンなどを専門に研究していた人からアドルノの弁証法の解説を聞いたことがあります。ほとんど忘れているのですが、たいへん犀利な、しかし錯綜した話だったと思います。
 
  アドルノは、美学と哲学と社会学のあいだにいる訳で、彼の著作を理解しようとすると、哲学史の知識では足りず、西欧美学・芸術学についての知識も必要で、特に、芸術史の知識・理解がないと、アドルノが何を言っているのか理解できないと、知人は言っていました。アドルノは、音楽、美術、その他の芸術について夥しい知識を持っていて、それを至るところ援用・例示するので、何を言っているのか追跡するには、音楽や美術についても学ばねばならないので、分からない・難しいとも言っていました。
 
  話を聞いた印象なのですが、アドルノの考えは、デリダのそれにかなり似ているものがあるように思います。膨大な思想的芸術的事象を前提に、アドルノは、進歩ということを問うのですが、弁証法における総合的上昇と思えるものが、実は、理性の限界性の再確認となっているのだ、という論法となるようです。弁証法的啓蒙は、啓蒙は不可能だということの確認になり、この確認が啓蒙であるという話で、普通に、論理文脈でアドルノの言っていることを理解しようとすると、意味が分からない、というか、論理的にかくかくである、それ故に、という「結論部分」で、アドルノは、理性の弁証法の挫折を見ているのであり、「結論部分」は出てこないという結論になるのですが、それを明確に語ると、また理性の挫折を、否定することになるので、エポケーではありませんが、結論部分で、何も答えないと言うか、答えがないのであるということを、間接的に述べて、弁証法や理性の啓蒙の挫折を暗示し、これが「啓蒙」であるのだという考えであると聞いたことがあります。
 
  従って、元々の素材前提からしてアドルノの思想は、理解が難しく、誤解がはなはだ多く、よくよく理解しようと努めると出てくるのは、進歩の啓蒙、進歩の弁証法は、完成したと思った時、裏切られると言うか、理性の挫折せざるを得ない真実に直面し、これが、弁証法の使命であるというか、近代の哲学や芸術が直面した、解決できないディレンマで、啓蒙や弁証法、理性の挫折が、進歩の努力の果てに確認されてしまう、これが近代の宿命だ、というような考えだそうです。
 
  何を言っているのか分からないのは当然で、明確に答えると、理性の挫折に荷担するので、そこで、話をずらせ、結論を宙づりにするのがアドルノの哲学だというのです。これが本当だとすると、厄介な話だと思いますし、考えてみれば、近代・現代の社会を、まじめに考えて行くと、アドルノと似たように態度でないと、何を論じ考えても、近代・現代の矛盾に荷担し、そのなかに巻き込まれてしまういうことになることから考えると、こういう立場の哲学も、意味があるのだということになります。
 
  以上、人から聞いた話で、しかも曖昧な話ですが。
 
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大学時代にアドルノの啓蒙の弁証法を読み、レポートを書いたことがあります。


しかし、なにぶん昔の話なので、少しうろ覚えです。
できれば翻訳をされた徳永さんの本を、大学図書館で探し、読まれることを
希望します。

アドルノの論の流れはこういうことであったと思います。

◇◇◇◇◇◇◇

人間は「自然」を抑圧し「合理性」によって進歩してきたと考えられてきた。
(言い換えれば「神話から啓蒙へ」「呪術から脱呪術へ」)
「文明」とは「自然の技術的支配の進展」だと考えられ、推奨されてきた。

しかしなぜ、歴史において、人間は同じ過ちを繰り返すのか?
より具体的には、なぜ、ナチスに関連する呪術的な出来事が起こるのか?
人間は啓蒙され、合理性によって進歩したのではなかったのか?

それにも関わらず、このような歴史的な再呪術化が起こるのは、
人間に「内なる自然」があるからである。
つまり「合理性」とは「自然から生まれた反自然」であり、
合理性の申し子であるはずの「文明にも不合理性」が含まれている。
そこには、もともと「矛盾」があるのである。―(1)
しかし「内なる自然」を抑圧すれば解決するというものではない。
これまで既に抑圧され続けてきた「内なる自然」の逆襲は
「人間の物象化」という形で現われている。

どうすればいいんだろう?

◇◇◇◇◇◇◇

(1)「矛盾」に関して

ヘーゲルは「内在する矛盾によってさらに主体(自己)を高める」という
積極的・肯定的な弁証法を理論付けました。「否定の否定」は更なる肯定という、
いわゆる止揚という理論です。
それに対し、アドルノは、「否定の否定」は別に肯定ではない、という
立場をとります。それが「否定」の「弁証法」ということです。
ずるいと感じるかもしれませんが、明確な答えはないという立場で、
この書籍自体もそのように(つまり曖昧と感じるほどに)構成されています。

この回答への補足

わかりやすいご説明どうもありがとうございます。
枠組みが、それとなく捉えらえられてきたように思います。
お勧めの翻訳本も探そうと思います。
合理性の追求が必ずしも、人間の本領発揮に結びつきはしないということでしょうか。
ところで、ナチスの呪術性はどのようなところに挙げられるのでしょうか。

補足日時:2002/02/03 23:17
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Qallとanyの否定文の意味の違いについて

I don't want all sandwiches.
は「私はサンドイッチが全部欲しいというわけではない」と部分否定、
I don't want any sandwiches.
は「私はサンドイッチが全く欲しくない」と全体否定で訳しますが、
allとanyは肯定文ではさほど意味の違いを感じないのに否定文だと意味が全く違うのはなぜでしょうか?
allとanyそれぞれが持つニュアンスの違いによるもののようなんですが…
どなたか分かりやすく説明して下さいませんか?

Aベストアンサー

#2です。読み返してみると#2では御質問への回答になってなかったように思うので、#2の[A]~[C]の部分のみ次の[D]~[F]のように変更いたします。

[D] これは事実です。
anyは個々のものを1つずつ順に見ていって、「これも、あれも、それも、....、どれも」という意味です。心の中には常に1つのものしかありません。1度に1つずつ心に思い浮かべて、1番目から最後のものまで順に全部見ていって「どれも」と言う言い方です。

「どれも」のところにはこれの代わりに次の(ア)~(カ)のいずれかが入ります。
(ア)どれでも
(イ)どれも
(ウ)どれか
(エ)どんな~でも
(オ)どんな~も
(カ)どんなかの
(ア)~(ウ)は代名詞として用いた場合の意味であり、(エ)~(カ)は形容詞として用いた場合の意味です。

(ア)~(カ)のいずれが入っても、anyの中心となるイメージというか意味はいつも同じで、「心の中には常に1つのものしかない」、1言で言えば「どれも」という意味だ、ということです。

allは全体をまとめて「全部」という意味です。1度に全体を一括して心に思い浮かべます。

このような違いを「さほど意味の違いを感じない」と思うか「意味が全く違う」と思うかは人によって異なると思います。

[E]これは仮定です。
現実は別として空想の世界の話として考えれば、not anyとnot allはそれぞれ次の「(a)、(b)」又は「(c)、(d)」の2つの意味を表し得ます。
(1)not any
(a)「これも、あれも、それも、...、どれも」ということではない <部分否定>
(b)これもちがう、あれもちがう、それもちがう、...、どれも違う <全否定>

(2)not all
(c)全部・という訳ではない <部分否定>
(d)全部・ない <全否定>

[F]これは、空想、妄想です。
おそらくは、日常生活においては(a)のような意味を言い表したい場面が極めて少ないこと、(1)が(a)と(b)の両方を意味するとすると(1)を用いる度に(a)と(b)のどちらの意味であるかを考えなければならないので日常生活において不便であること、(a)と(c)が類似した意味であり(a)と(c)の両方を使い分ける必要性が低いこと、の3点から、まず(a)の意味での用い方が廃れたのではないでしょうか。

次に、もしnot allが(d)の意味を持っているということにすると全否定を表す言い方がnot any((b))とnot all((d))の2つあることになりますが社会生活では全く同じ意味を表す言い方は2つは必要ないこと、(d)の意味での用い方をやめるとnot allの意味が1つだけになってnot allの意味が分かりやすくなること、全否定を表す言い方は少なくとも1つは必要不可欠であること、の3点から((b)が残って)(d)の意味で用いる用い方が廃れたのではないでしょうか。

以上が、#2の[A]~[C]の変更結果です。

なお
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5465485.html
の#5の(4)、(5)の(b)に誤りがあったので、(4)、(5)を次のように変更させていただきます。

(4)I don’t have any money.
(a)どんな金も持ってない。
(b)どんな金でも持っているというわけではない。

(5)There aren’t any whales in the zoo.
(a)どんなクジラもいない。
(b)どんなクジラでもいるという訳ではない。

#2です。読み返してみると#2では御質問への回答になってなかったように思うので、#2の[A]~[C]の部分のみ次の[D]~[F]のように変更いたします。

[D] これは事実です。
anyは個々のものを1つずつ順に見ていって、「これも、あれも、それも、....、どれも」という意味です。心の中には常に1つのものしかありません。1度に1つずつ心に思い浮かべて、1番目から最後のものまで順に全部見ていって「どれも」と言う言い方です。

「どれも」のところにはこれの代わりに次の(ア)~(カ)のいずれかが入ります。
(ア)...続きを読む

Q哲学の弁証法についておたずねします

 哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。
ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。

 ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。
考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。

 また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。

 正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。
 弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。
 また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。
 弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。


正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。

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お礼欄、拝見しました。
何を書いたらいいんだろう。

現象学とかキルケゴールとかハイデガーとか、いろいろ書いていらっしゃるんですが、おそらく概説書をいくつかお読みだとは思うんですが、なんというか、それだけで「現象学は…」「ハイデガーは…」と考える足がかりにするのは、少し危ういのではないかな、という印象を受けました。

> 現象学の場合、錯覚や思いこみの余地を最小限に絞っていき、これ以上絞り込めないところまで持って行くので、誤謬の余地が残りませんが、

現象学的還元というのは、そういうことではないんです。
フッサールの還元は、あらゆる認識判断の暗黙の前提となっている「真理妥当」と「存在妥当」の停止を求める、ということです。

こう書くと、おそらく質問者さんは、ご自身の問題意識に結びつけて、「そうなると~」とお考えだと思いますが、肝心のところをバイパスしてしまえば、フッサールや現象学の思想とずれていくばかりではないでしょうか。

もうひとつご質問を出しておられますが、「弁証法」「正しさ」といったことに興味がおありでしたら、高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』(筑摩選書 2011)か、同じ高田さんの『コミュニケーションを学ぶ』(ちくまプリマー新書 2012)は参考になるかと思います。内容的に重なっているところもあるのですが、とくにプリマーの方は実践的なので、関心をお持ちの領域と重なるところも多いのではないかと思います。

以上、参考まで。

お礼欄、拝見しました。
何を書いたらいいんだろう。

現象学とかキルケゴールとかハイデガーとか、いろいろ書いていらっしゃるんですが、おそらく概説書をいくつかお読みだとは思うんですが、なんというか、それだけで「現象学は…」「ハイデガーは…」と考える足がかりにするのは、少し危ういのではないかな、という印象を受けました。

> 現象学の場合、錯覚や思いこみの余地を最小限に絞っていき、これ以上絞り込めないところまで持って行くので、誤謬の余地が残りませんが、

現象学的還元というのは、そういう...続きを読む

QUNINITIATEDの接頭語UNは、否定の意味を持たないのでしょうか

UNINITIATEDの接頭語UNは、否定の意味を持たないのでしょうか。

素朴な疑問です。
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UNINITIATEDの意味は「初心者」。
このUNは何を意味しているのでしょうか。

Aベストアンサー

正しい語源はわかりませんが、
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Q実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論

哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。

実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論(マルクス・キルケゴール・マルティン・サルトル・ニーチェ・ヘーゲル・ルソー・ロック・ヒューム・スピノザ・ライプニッツ・カント・パスカルなど等)
の中の哲学者から選ぶのですが、レポートの書きやすい人はいませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ヒューム

Qtoo + to do 構文は必ず否定の意味か

例えば,インターネットで検索してみると,次のような解説が見つかります.

  It is too cold to swim today.
  今日は泳ぐには寒すぎます。 ← とても寒いので泳ぐことができない
  重要なのは、〈too ~ to ...〉の構文には否定語を含みませんが、否定の意味を含むということです。

この例文で考えると,
歯をガチガチと鳴らして寒さに耐えながらどうにかこうにか泳いでいたら,
泳ぐことができないわけではないので,「too cold to swim」とは言えませんか?

Aベストアンサー

確かに too to の本来の意味は「~するには~すぎる」であって、
否定の意味があるわけではありません。

しかし、この too はただ日本語で「すぎる」というのとは違います。
すなわち、日本語では「美しすぎる~」のような言い方をするように、
very 的でさらに強めたような意味合いになることも多いです。

でも、英語の too は「限度を超えている」という意味合いがあります。
だから、too cold to swim というと、「泳げないくらい」寒いのです。

だから、おっしゃるような場面では普通には too は使えません。

非常にいい質問だと思います。
私はこの表現を教える時、
「日本人は疲れすぎてもがんばるって言う、でも英語で
too tired to walk というと、疲れていて歩けないんだ」
そんなこと言っても言いたいことがわかることは少ないです。

ただ、#2 の方がおっしゃるような表現もあり、
too で very のような意味になることもあります。
特に only too という場合です。

Q理にかなった批判、吟味の方法、哲学、考え方

私は仏教徒の家に生まれ育ち、
「この信仰は正しい、正しい」と言われ、
なんとなく仏教を信じてきたのですが、
最近、自分の信仰に疑問を持ち始めました。

今まで自分の信じてきた信仰、
また、自分にとっては未知のものである世界の主だった信仰、思想、哲学を、
自分なりに吟味、批判し、疑ってみて、
最終的にどうしても疑いきれなかったものを、
自分の信念、信仰、または思想、哲学として選びとろうと思っています。

信仰、思想、哲学の「理論的、観念的部分」と、
その信仰、思想、哲学が実際の人生、社会に影響を及ぼす、
「現実的影響面」の両方を吟味してみたいです。

そこで
「ものごとをうのみにするのではなく、批判、吟味する方法」
を説いた人、哲学、学問体系などがあれば教えてください。

特に具体的な著作名を教えて頂けるとありがたいです。

客観的に見て絶対に正しく、
万人が納得できるような哲学や思想、信仰、真理はないかもしれませんが、
せめて、精一杯、吟味、批判してみた上で、
自分なりに納得できる信仰や思想、哲学を抱きしめて生きていきたいのです。

どうか、力を貸してください。
よろしくお願いいたします。

私は仏教徒の家に生まれ育ち、
「この信仰は正しい、正しい」と言われ、
なんとなく仏教を信じてきたのですが、
最近、自分の信仰に疑問を持ち始めました。

今まで自分の信じてきた信仰、
また、自分にとっては未知のものである世界の主だった信仰、思想、哲学を、
自分なりに吟味、批判し、疑ってみて、
最終的にどうしても疑いきれなかったものを、
自分の信念、信仰、または思想、哲学として選びとろうと思っています。

信仰、思想、哲学の「理論的、観念的部分」と、
その信仰、思想、哲学が実...続きを読む

Aベストアンサー

私は物理学者ですが、若い連中に学者と弁護士の必読の書として常々、

モンテーニュ「随想録」 (岩波文庫にあり)

を薦めています。

この本では人間のあらゆる行為が一つひとつまな板にあげられています。そして、ある人がやった具体的な行為が如何に理にかなった正しいものであるかを論証して見せます。その論旨は素晴らしいもので心から説得させられてしまいます。そして、その論証が終わると、次にその人の行為が如何に理にかなわず、間違ったものであるかを論証するのです。これも素晴らしい論旨で、読者は心から説得されてしまいます。その段階で読者は大混乱です。これを次から次へと繰り返して行きます。

私はこの本を読んで、どんなに説得力のある主張でも、その反対の主張もまた説得力をもって論証することが可能だということを教わりました。そのことが今私が生業にしている物理学の論証や思索に途轍もなく役に立っています。ですから「黒を白と言ってのける弁護士」の必読の書でもあると冗談も出てくるわけです。

「物理学は客観的な事実を対象にしているので、そんな論証の方法論に無関係に『真理』が見付けられるはずだ」という方がいらしゃるかも知れません。しかしこれは浅い見方だと思って居ります。惑星の運動や宇宙の構造や、半導体内を流れる電子の運動など、私たちが日常経験している現象と比べてめちゃくちゃに単純な現象に対しては、そう言う主張も成り立つでしょうし、その人の埋め込まれている文化や歴史に無関係な論証でもその現象を理解できるでしょう。

しかし、近年の物理学では生命現象をもその射程に入れた「散逸構造の理論」など、複雑に相互作用をしながら自発的に現れてくる構造のような「複雑系」を研究の対象とするようになって来ました。この理論は生命現象ばかりでなく、社会現象や歴史現象の分析にも使われています。この理論の提唱者イリヤ・プリゴジンは1977年にその功績によりノーベル賞を貰っています。

そもそも、複雑な現象を対象とするときには、その研究者を取り巻いている無限の複雑な現象の中らか、「この問題を研究しよう」と「決意」しなくては成りません。何故彼がそう「決意」し、他の問題を選ばないと決めたのかは、その人が埋め込まれた文化や歴史そしてその人の信条に強く依存しています。私はこの決意のことを若い物理学者達に「神懸かり」と説明しています。この決意は人間だけに出来ることで、コンピューターでは無理でしょう。この決意を、なにか数学的な公理のようなものから導き出せないのは明らかです。

今までにお目に掛かった何人もの優れた物理学者は「どこに問題があるかを見付ける(あるいは決める)ことは、その問題を解くことよりもはるかに重要であり、また、難しい」と言っておりました。

(注:ここでは「見付ける」と「決める」を同義語として使っています。当然ですが問題を選ぶ段階では、まだその答えは判ってはおらず、従ってその問題が意味がある問題であるかどうかすら判っていません。だから「決意」がいるのです。)

この「神懸かり」を鍛えるのに、私には上に挙げた「随想録」が大変役に立ちました。

私は物理学者ですが、若い連中に学者と弁護士の必読の書として常々、

モンテーニュ「随想録」 (岩波文庫にあり)

を薦めています。

この本では人間のあらゆる行為が一つひとつまな板にあげられています。そして、ある人がやった具体的な行為が如何に理にかなった正しいものであるかを論証して見せます。その論旨は素晴らしいもので心から説得させられてしまいます。そして、その論証が終わると、次にその人の行為が如何に理にかなわず、間違ったものであるかを論証するのです。これも素晴らしい論旨で...続きを読む

Qnotを使った否定文と、否定の意味が入っている一般動詞や形容詞の違いについて

以下、一部例文を上げて質問させていただきます
I don't like it! / I dislike it!
I don't agree with you. / I disagree with you.
It is not necessary for you. / It is unnecessary for you.
It is not convenient for you. / It is inconvenient for you.

他にもあると思いますが、意味合いとしてどういった使い分けをすればいいでしょうか
単語1つ1つで使い分けが変わっていきますでしょうか。

例えば、
・notを使う場合は相手(聞き手)にとって新情報。
・否定の意味を含む単語は相手にとっても既知の情報。
もしくは
・notを使う場合は相手(聞き手)に感情を込めて(主観的な感じ)訴えてる
・否定の意味を含む単語は相手に無機質で客観的な事実を言っている?
だったりするのでしょうか。

アドバイス頂けるとうれしいです。

Aベストアンサー

一般に言えるのは肯定の意味の動詞や形容詞に not で否定にする方が穏やかになります。

That's wrong. と言わずに
That wouldn't be correct. と言うのです。

Q最近、仏教のナーガールジュナ(龍樹)の哲学について調べています。そこで

最近、仏教のナーガールジュナ(龍樹)の哲学について調べています。そこで一つ気になったことがあります。ナーガールジュナの帰謬論証、無自性空の論理に対して、二ヤーヤ学派や説一切有部は、どのような理論をもって対抗したのでしょうか。他の書物を幾つか読んでみても、その点が全く書かれてありません。
どなたか教えていただけると、非常に助かります。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

石飛道子「ブッダ論理学五つの難問」(講談社選書メチエ) を一読して匙を投げた愚者です。
専門家のお名前は、このかたしか知りません。

ということで、すでにご存知でしょうが、一応の仁義まで…。
   ↓
http://homepage1.nifty.com/manikana/paper/nyayaindx.html
>ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派 / 論文・書評
  

Q国語カテ。「批判」と、「否定」って意味どう違いますか?

何か、私はこの2つの単語の意味の違いがよくわからないのですが、

職員さんに聞いたら、「批判ってのは悪い言葉だと、バカ、とかクソですよね?何も相手と向き合ってない、無責任な「単語」ですね。。でも、否定は、「あなたのそこはちょっと、違う気がする。。でも、ここをこうすればよくなるよ」って、そこまで、言えば、「アドバイス」になるよね?
要は、無責任か、「相手と向き合った上での発言か」って事だと、思います」


って言われましたが、そういう事ですか?

お願いしますww

Aベストアンサー

批判とは、「批評し判定すること」「価値・能力正当性などを評価すること」ですよね。
否定とは、「(価値などを)認めないこと」です。
ですから、批判と否定とは勿論違います。
ですが、問題は「批判」は、否定的内容のものをいう場合が多いのです。この点で混同してしまうかもしれませんが。
批判という言葉自体、悪い言葉ではありません。相手と向き合っていないわけでもないでしょう。
ただ、「批評し判定すること」「価値・能力正当性などを評価すること」においては客観的な判断が必要ですし、この点において相手と向き合っていないと思われたのかもしれませんね。

Q薬学と、哲学が同じ大学に、あるのが不思議です。薬学には、実益は、あるでしょうがカントの純粋理性批判を

薬学と、哲学が同じ大学に、あるのが不思議です。薬学には、実益は、あるでしょうがカントの純粋理性批判を理解して、それが個人の教養以上の話しに、なるんでしょうか、

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薬科大卒でしたが、確かに、哲学ありました。教養課程だけでしたし、高校の延長って感覚でしたね!


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