アドルノの『啓蒙の弁証法』について知りたいのですが、
哲学ついて詳しくないので、なかなか理解できません。
アドルノは、そこで、どういう論点で何を批判しているのかについて
教えていただけませんか。

A 回答 (3件)

1番目に回答した者です。


> ナチスの呪術性はどのようなところに?
というご質問がありましたので、遅くなりましたが少し書きます。
もしかすると既に見当がついていらっしゃるかもしれませんね。

簡単に言うと、「近年の日本の新興宗教みたいなもの」ということかと
思います。熱にうなされているかのような凶行。呪術的な教祖崇拝。
アドルノはユダヤ人で、ナチスのユダヤ人虐殺を実際に体験し
非常にショックを受け、このような理性の否定にいたったのでは
なかったかと思うのですが、なにしろ非常にうろ覚えです。

補足しますと、実体験したのはナチスによる凶行(のはず)ですが、
それに限らず犯罪や戦争なども同列です。
理性が純粋に善ならば、理性によって進歩した人間は「悪」を
引き起こさないはずだけれども、「悪」は起こってしまう。
しかもナチスのような、出来事さえ。
だから、理性はあてにならない。
じゃあどうしたらいいのか?
それを「考える」ということは「理性」を使うということだ。
だから、私は考えないのだ…。

私の説明は簡単にしすぎだと思います。
starflora さんが詳しい説明をされてくださっているので、
あわせて考えていただけると全体像が見えるのではないでしょうか。
頑張ってみてください。それでは。
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  わたしは、アドルノは何も読んでいませんので、何か言える訳ではないのですが、大学院でアドルノ、ヴァルター・ベンヤミンなどを専門に研究していた人からアドルノの弁証法の解説を聞いたことがあります。ほとんど忘れているのですが、たいへん犀利な、しかし錯綜した話だったと思います。
 
  アドルノは、美学と哲学と社会学のあいだにいる訳で、彼の著作を理解しようとすると、哲学史の知識では足りず、西欧美学・芸術学についての知識も必要で、特に、芸術史の知識・理解がないと、アドルノが何を言っているのか理解できないと、知人は言っていました。アドルノは、音楽、美術、その他の芸術について夥しい知識を持っていて、それを至るところ援用・例示するので、何を言っているのか追跡するには、音楽や美術についても学ばねばならないので、分からない・難しいとも言っていました。
 
  話を聞いた印象なのですが、アドルノの考えは、デリダのそれにかなり似ているものがあるように思います。膨大な思想的芸術的事象を前提に、アドルノは、進歩ということを問うのですが、弁証法における総合的上昇と思えるものが、実は、理性の限界性の再確認となっているのだ、という論法となるようです。弁証法的啓蒙は、啓蒙は不可能だということの確認になり、この確認が啓蒙であるという話で、普通に、論理文脈でアドルノの言っていることを理解しようとすると、意味が分からない、というか、論理的にかくかくである、それ故に、という「結論部分」で、アドルノは、理性の弁証法の挫折を見ているのであり、「結論部分」は出てこないという結論になるのですが、それを明確に語ると、また理性の挫折を、否定することになるので、エポケーではありませんが、結論部分で、何も答えないと言うか、答えがないのであるということを、間接的に述べて、弁証法や理性の啓蒙の挫折を暗示し、これが「啓蒙」であるのだという考えであると聞いたことがあります。
 
  従って、元々の素材前提からしてアドルノの思想は、理解が難しく、誤解がはなはだ多く、よくよく理解しようと努めると出てくるのは、進歩の啓蒙、進歩の弁証法は、完成したと思った時、裏切られると言うか、理性の挫折せざるを得ない真実に直面し、これが、弁証法の使命であるというか、近代の哲学や芸術が直面した、解決できないディレンマで、啓蒙や弁証法、理性の挫折が、進歩の努力の果てに確認されてしまう、これが近代の宿命だ、というような考えだそうです。
 
  何を言っているのか分からないのは当然で、明確に答えると、理性の挫折に荷担するので、そこで、話をずらせ、結論を宙づりにするのがアドルノの哲学だというのです。これが本当だとすると、厄介な話だと思いますし、考えてみれば、近代・現代の社会を、まじめに考えて行くと、アドルノと似たように態度でないと、何を論じ考えても、近代・現代の矛盾に荷担し、そのなかに巻き込まれてしまういうことになることから考えると、こういう立場の哲学も、意味があるのだということになります。
 
  以上、人から聞いた話で、しかも曖昧な話ですが。
 
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大学時代にアドルノの啓蒙の弁証法を読み、レポートを書いたことがあります。


しかし、なにぶん昔の話なので、少しうろ覚えです。
できれば翻訳をされた徳永さんの本を、大学図書館で探し、読まれることを
希望します。

アドルノの論の流れはこういうことであったと思います。

◇◇◇◇◇◇◇

人間は「自然」を抑圧し「合理性」によって進歩してきたと考えられてきた。
(言い換えれば「神話から啓蒙へ」「呪術から脱呪術へ」)
「文明」とは「自然の技術的支配の進展」だと考えられ、推奨されてきた。

しかしなぜ、歴史において、人間は同じ過ちを繰り返すのか?
より具体的には、なぜ、ナチスに関連する呪術的な出来事が起こるのか?
人間は啓蒙され、合理性によって進歩したのではなかったのか?

それにも関わらず、このような歴史的な再呪術化が起こるのは、
人間に「内なる自然」があるからである。
つまり「合理性」とは「自然から生まれた反自然」であり、
合理性の申し子であるはずの「文明にも不合理性」が含まれている。
そこには、もともと「矛盾」があるのである。―(1)
しかし「内なる自然」を抑圧すれば解決するというものではない。
これまで既に抑圧され続けてきた「内なる自然」の逆襲は
「人間の物象化」という形で現われている。

どうすればいいんだろう?

◇◇◇◇◇◇◇

(1)「矛盾」に関して

ヘーゲルは「内在する矛盾によってさらに主体(自己)を高める」という
積極的・肯定的な弁証法を理論付けました。「否定の否定」は更なる肯定という、
いわゆる止揚という理論です。
それに対し、アドルノは、「否定の否定」は別に肯定ではない、という
立場をとります。それが「否定」の「弁証法」ということです。
ずるいと感じるかもしれませんが、明確な答えはないという立場で、
この書籍自体もそのように(つまり曖昧と感じるほどに)構成されています。

この回答への補足

わかりやすいご説明どうもありがとうございます。
枠組みが、それとなく捉えらえられてきたように思います。
お勧めの翻訳本も探そうと思います。
合理性の追求が必ずしも、人間の本領発揮に結びつきはしないということでしょうか。
ところで、ナチスの呪術性はどのようなところに挙げられるのでしょうか。

補足日時:2002/02/03 23:17
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>この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点から、旧来の用語とは異なる「クオリア」という新語が好んで使われる。

なんて、またまた厚みのない分析をしていまいした。どんな国でも、言葉というのは摩滅する物です。柳田國男は、「もしかしたらその言葉が人々の間で使われた回数が何回かに達したら、その言葉は皆から飽きられてしまうについての法則があるのではないか」という趣旨のことを述べておりました。はじめに聞いた時にはどんなに斬新な言葉でも、そのうちに必ず飽きられてしまうというのが、言葉の重要な性質の一つなのです。そして、初期のうちはその言葉を理解する人の数が少ないので、その新造語で表されている概念の深みに関係なく、その新造語を使うことに優越感を味わうことができるのです。ハイカラやモボ・モガがミーちゃん・ハーちゃんになったり、 ナマイキ帽子が鳥打ち帽子やハンチングになったり、ゴウハイがゴウコンになったり、お見合い活動が婚活になったり、若者達は直ぐに新造語に飛びつき、親の使っていた斬新な言葉を次々に古臭い死語にして来たのが人間の言葉の歴史なのです。

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Aベストアンサー

石飛道子「ブッダ論理学五つの難問」(講談社選書メチエ) を一読して匙を投げた愚者です。
専門家のお名前は、このかたしか知りません。

ということで、すでにご存知でしょうが、一応の仁義まで…。
   ↓
http://homepage1.nifty.com/manikana/paper/nyayaindx.html
>ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派 / 論文・書評
  


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