「太陽」「線分」「洞窟」の比喩の中で、知、無知、思惑(臆見)の三つの認識状態をどのように区別しているか、教えてください。

A 回答 (1件)

 


  まず、わたしはまことに無知であるので、このような問題について確かにこうであるとは言えないということを前置きします。参考URLにある、プラトーンの『国家編』からの引用の文章を読んで、どういうことか考えてみました(本当は、この本は読んでおかねばならない本なのですが……「プラトン全集」は何のためにあるのか、と思います。本棚に並べているだけですね)。
 
  三つのこと、知、無知、臆見が問われていますが、ここでは、「無知」はどう扱えばよいのか分からないので置いておきます。最後に無知について考えてみます。
 
  引用のプラトーンの文章からも読みとれるように、プラトーンは、真理論について、「真知(エピステーメー)」と「臆見(ドクサ)」の二つの審級を立てました。また、感覚的認識と、知性的認識(または叡智的認識)の二つの認識の審級を立てました。プラトーンは色々なことを言っていますが、真知とドクサについては、これを区別しましたし、感覚と知性も、これを区別したことは事実です。
 
  人間は、認識能力として、感覚認識と、知性認識の両方を持ち、また、知識については、多くの人は、臆見に捕らわれているが、賢者は、真知を得ることが可能だとされます。無論、この場合の「真知」に更に、審級があるでしょうが。人間の身で、完全な真知、善のイデアーそのものを認識することなどできないからです。
 
  「太陽の比喩」では、太陽が善のイデアーの比喩になっています。そして太陽を認識する時、とりあえずは、感覚的認識で、それはまばゆいものだとか、熱いものだとか、光っているものだとか、色々な認識がある訳で、これらは、太陽という実在については、個人個人の思いこみで、臆見(ドクサ)のレヴェルにあるとも言えます。太陽そのものは、臆見の知識の上に、知識の源として、実在としてある訳です。そして、善のイデアーは、これを認識するには、叡智的認識が必要であるが、それでも、我々が認識できるのは、あるものは良い、それ故、このものには、善が分有されているというようなことで、善のイデアーそのものは認識できない実在として、超越的に留まっていると言うことが言えます。
 
  ここで、「太陽」が「善のイデアー」の比喩であるというのは、太陽は、単に、感覚的に認識され、臆見としての知識の源であるだけでなく、光を放射し、ものを育て、生成するという積極的機能を持っていると言うことです。普通の感覚的認識の対象としての実在と違い、実在を生成する役割が太陽にはあるというのです。これと類比的に、善のイデアーも、事物、実在を生成し、生み出す能力があると言います。善のイデアーはイデアーのイデアーとして静的に認識や観照の極致にあるだけでなく、実在を生成し、実在を支え、実在の根拠であるというのです。これは、新プラトン主義の「一者」からの事物・実在の階梯的生成・流出の原理論であるとも言えます。
 
  「線分の比喩」においては、一本の線分を二つに分け、一方を、叡智的認識の領域とし、先の善のイデアーの認識の領域、他方を、感覚的認識の領域、先の太陽の領域として、更に、この領域を、同じ比率で、分割し、全部で四つの領域を考えるのです。後の分割は、感覚的認識の領域で、似像あるいは影像(エイコーン)の領域と、その像の元になっている原像の領域とします。例えば、鳩なら、鳩の実在に対し、その感覚的認識の像としての影像(エイコーン)としての「認識像=臆見」があるのです。真の鳩の像、真知の鳩は、原像の側にあります。
 
  このような原像と影像の関係を、叡智的認識の領域に類比的に当てはめ、この領域の影像の領域に当たる部分では、魂は、感覚的認識の臆見は克服して、感覚的な認識の原像の真知を捉えているとしても、そこから、考えを知的にめぐらして、結局、自己の思いこみのなかで自己完結し、真の認識へと進まないという認識者=魂の段階に対し、他方の、原像に当たる領域では、魂は、感覚の臆見を越えた真知を手がかりに、知性の臆見を克服しようと、叡智への道を探求し、ものごとの本質、究極的には、善のイデアーへと、真知への道を一歩一歩進んで行くことができる段階・領域だと述べているのです。この第四領域の探求が、魂の愛智者としての望むべきありようで、この段階・領域に、諸々のイデアーの真知があるという比喩的な話なのだと思います。
 
  「洞窟の比喩」は、参考URLに載っていませんが、これは有名な比喩で、我々は暗い洞窟のなかにいるのであり、奥の壁を見ているのです。すると、壁には、色々なものの形が見えていて、我々は、この形を見て、馬はこういう動物であるのか、とか、悪い人間とは、こういうことをするのか、とか認識するのです。それは、感覚的認識の場合もあれば、知性認識の場合もあるでしょう(此処は、少し不確実ですが。比喩の訳文の部分でも参照しながら書けば、もっと正確になるのですが)。
 
  しかし、我々が壁に見ていたものは、実は、洞窟の外にある太陽あるいは、光の源が、元の原像に光を当て、その影が実は壁に映っていたのだとすればどうなるのか。わたしたちの認識は、事物の本当の姿ではなく、その影、影像(エイコーン)を見ていたのではないのか。エイコーンを元に感覚的に認識を行い、ドクサに捕らわれ、あるいは知性認識で、感覚のドクサを脱して、知性の真の知識を得たと、「思いこんでいた」だけではないのか。壁の方ではなく、洞窟の表を見れば、何が影の本来の原像であったか、更に、影を造っていた、光の源も見えるはずである。しかし、私たちには、振り返って背後を見ることが許されない。可能ではない。それ故、影像を元に、知性ある者でも、原像は何であろうか、光源は何であろうかと、臆測するだけである。
 
  しかし、叡智ある者は、事物の原像とは何かを知ることができるであろうし、魂の叡智的探求においては、原像の背後の光源そのもの、すなわち、イデアーのなかのイデアーである、「善のイデアー」とは何かの真知へと、近づくことが可能なのではないのか。その場合、神話という方法で、光の輝きを防ぐしかないのであるが。
 
  ここで、知(真知=エピステーメー episteemee)と臆見(ドクサ doksa)の関係が出てくるのですが、無知(アグノアイ)はどこで出て来るのかということです。或る意味、真知と臆見の懸隔や、感覚的認識と叡智的認識の関係を述べているところで、実は、無知が語られているのだとも言えます。臆見の上に真知があると言うことは、臆見を持つ者は、自分では「知識ある者(ソポス)」と思いこみながら、実は「無知な者」であるとなる訳で、知を持つ者も、その上に更に審級の高い真知があることを思うと、自己は無知であると悟らざるを得ないですし、何よりも、「洞窟の比喩」は、人の存在のありさまが、根元的に「無知」であることを語っているとも言えるでしょう。感覚的認識に対する叡智的認識の真理の審級からも、無知は出てくるのであり、真知の道は限りないということになり、また、その道を歩み始めると、常に自己が「無知」だと悟らざるを得ないということでしょう。
 

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/platon.html
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって、すみません。m(_)m。大変参考になりました。レポートに、おおいに役立たせていただきました。プラトンは、すごく難しいので、たいへん嬉しいです。本当、ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/10 15:55

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Q「紡ぐ」の比喩の意味について

 日本語を勉強中の中国人です。「紡ぐ」という動詞の比喩の意味についてお伺いしたいと思います。下記の二つのフレーズはどういう意味でしょうか。なぜ「紡ぐ」という動詞を使うのでしょうか。

1.語りが紡ぐ
2.紡ぎ出す言葉

 また質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

awayuki_ch さん お久しぶりです。
相変わらずの熱心な姿勢に敬意を表します。

綿や繭から糸を作るときは、何本もの細い糸を縒り合わせながら一本の木綿糸や生糸にしてゆきます。

言葉や文章を作り出すときも、様々な単語や助詞、形容詞、動詞などを慎重に選んで組み合わせ、まさに、細い糸を縒り合わせるようにしていきます。

この作業が糸を紡ぐ作業に喩えられているのです。

1.語りが紡ぐ
⇒「語り」には様々な語り手の個性が発揮されます。
その「語り」は、朴訥であり、情熱的であり、叙情的であり、淡々としたものでありと様々です。
⇒この「語り」が上手であればあるほど、聴く人に大きな感動を与えることが出来ます。
⇒「語りが紡ぐ」「感動の世界」とか、「一篇の抒情詩」とか「風景画の世界」などの言葉が後に続くことが多いのではないかと思います。

「紡ぎだす言葉」
⇒これは語り手側の作業です。
⇒「今日は久しぶりの快晴だ」という内容を伝えるとき、語り手は少しでもその雰囲気や感覚を伝えようとして、様々な形容詞や比喩を用います。
⇒このように「久しぶり」「快晴」などの内容を、より判りやすく、よりリアルに伝えようと「単語」「形容詞」「比喩」を選んで、独特の言葉、言い回しを作り出すことが「紡ぎだす言葉」ということではないでしょうか。
⇒「紡ぎだされる言葉」とか「言葉で紡ぎだされた独特の世界」などの言い回しもあります。

awayuki_ch さん お久しぶりです。
相変わらずの熱心な姿勢に敬意を表します。

綿や繭から糸を作るときは、何本もの細い糸を縒り合わせながら一本の木綿糸や生糸にしてゆきます。

言葉や文章を作り出すときも、様々な単語や助詞、形容詞、動詞などを慎重に選んで組み合わせ、まさに、細い糸を縒り合わせるようにしていきます。

この作業が糸を紡ぐ作業に喩えられているのです。

1.語りが紡ぐ
⇒「語り」には様々な語り手の個性が発揮されます。
その「語り」は、朴訥であり、情熱的であり、叙情...続きを読む

Qイデア論【洞窟の比喩】の矛盾点?

結末部分で、洞窟(=現実の世界)の中から強制的に外の太陽のある世界(=イデアの世界)に出されて、、目を悪くして戻ると、「目を悪くするために洞窟の外に出たのか」と言われ、殺されてしまう。という流れなのですが、(この殺されたのは毒杯を仰いで殺されたソクラテスのことだと言われています)

洞窟の中は現実の世界だという事は、今私たちが生きている世界ですよね?
そうすると、日中に私たちが太陽を見ても、目を悪くしますよね(失明級)?
という事は、洞窟の中(=現実の世界)にいたって、目を悪くしていることになります。
なので、太陽のあるイデアの世界に行って当然のように目を悪くして洞窟にトポトポ帰ってきたソクラテスを「お前、目を悪くしたんだってなぁ~!」と言って殺すのは、何とも理不尽だと思えてなりません。

この結末は、ソクラテスの弟子であるプラトンが、
師ソクラテスは理不尽な理由で殺されたことを示すために、ワザワザ設定した矛盾のあるストーリーだったのではないでしょうか?

どう思いますか?
ご意見ご指摘ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します。
モヤモヤして困ってます。

結末部分で、洞窟(=現実の世界)の中から強制的に外の太陽のある世界(=イデアの世界)に出されて、、目を悪くして戻ると、「目を悪くするために洞窟の外に出たのか」と言われ、殺されてしまう。という流れなのですが、(この殺されたのは毒杯を仰いで殺されたソクラテスのことだと言われています)

洞窟の中は現実の世界だという事は、今私たちが生きている世界ですよね?
そうすると、日中に私たちが太陽を見ても、目を悪くしますよね(失明級)?
という事は、洞窟の中(=現実の世界)にいたって、目を悪くして...続きを読む

Aベストアンサー

或る者は直接太陽を見つめても目を悪くしません。

洞窟に戻ってきて彼の目がぼんやりしているとは、真理を見たが体得していないために、真と偽を簡潔に判別できないということ。長い期間、骨を折るということ。
上の世界(真理)に連れて行こうとするものは、為政者、富裕層にとって都合が悪いために、殺してしまおうということ。

上文のように、ソクラテスを比喩したものではありません。はるか昔から、当たり前のことを当たり前として、
行う政治家や人々は殺されています。

Q自然な日本語に添削していただけないでしょうか(比喩)

 日本語を勉強中の中国人です。文章を書きましたが、自分の書いた文が自然な日本語になっているかどうか気になりますので、添削していただけないでしょうか。

 文章を書く時に、とんでもない比喩を使う癖があります。時々自分自身しか理解できない文を書いてしまいます。人と対面して会話する時に、相手が意味をわかってくれなかったら、更に言葉を付け加えるチャンスに恵まれます。しかし、一旦文章にしたら、たった一回のチャンスで取り返しがつきません。

 文を生き生きするために、比喩を使ったのですが、文意は時々自分のたとえたい意味と全く違う方向へ先行したり、いやに気取って人に反感を与えたり、人に傷をつけたりします。また、私の文章の癖をある程度知っている人なら、通常比喩でないところも比喩と取られてしまうことが多いです。結局、自分の意味を伝えないまま誤解を招いてしまいます。わかりやすい文章を書きたいです。

 また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

文章を書く時に、とんでもない比喩を使う癖があります。時々自分【に】しか理解できない文を書いてしまいます。
【】対面して会話する【場合であれば】、相手が意味をわかってくれなかったら、【その場で補足して理解につなげることもできると思います。】
【しかし、一旦文章にしてしまうと修正も難しく、時によっては取り返しのつかない誤解を招くこともあります。】

 【】生き生き【した表現をしたいがために】、比喩を【使う】のですが、【】時々自分のたとえたい意味と全く違う方向へ逸れたり、【結果として】いやに気取っ【た表現になってしまい】人に反感を与えたり、【】傷【】つけたりします。
また、私の文章の癖をある程度知っている人【の場合】、【比喩のつもりではないのに】比喩と取られてしまうこと【もよくあります】。
結局、自分の意味を伝え【きれずに】誤解を招いてしまいます。わかりやすい文章を【書けるようになりたいといつも感じています】。
 

Q「空気抵抗がなければもっと飛べる」と願う鳥の比喩の出典は?

 空気がなければ飛ぶという行為すらできなくなるのを忘れて、「空気さえなければ、空気抵抗もなくなるのでもっと早く飛べるのに」と嘆く鳥の比喩を、以前どこかの哲学の解説書で読みました。最近、まったく別のことを考えている最中に突然思い出し、その視点の面白さに気づきました。
 ヴィットゲンシュタインだったかな(まさかカント?じゃないし)、というぐらいの記憶しかないのですが、正確な出典をご存知の方はおられませんでしょうか。

Aベストアンサー

まさかのまさかのカントです。
以下、「純粋理性批判」第二版の序論より。
「軽快な鳩は、自由に空気中を飛び回って空気の抵抗を感じるので、真空の中ではもっとずっとうまく飛べると考えるかもしれない。しかしもし空気がなければ、うまく飛べるどころかそもそも飛ぶこと自体が不可能になるであろう」

Q暗喩と比喩の違いについてお教えください。

暗喩の意味と比喩の意味の違いがよくわかりません。
すみませんが、お教えいただけましたら大変助かります。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

暗喩と比喩ではなく、

「比喩」の中に色々なものがある分け方です。

1.換喩(メトニミー、転喩) - 近接または対応による転義法。例:「アメリカ合衆国経済の強さ」→「ドルの強さ」、つまり「アメリカ合衆国経済」を「ドル」という表現に言い換えたもの。

2.メタファー(隠喩、暗喩) - 類似した特徴を持った異種のものの並置による対象または概念の説明。例:「非常に強い人」→「鉄人」。

3.その他、色々あるようですが、「直喩」と言って「~のような・・・」という言い方もあります。例:「百合のような女の子」。

ウィキで「比喩」を調べてみて下さい。他にも色々な分類法があります。ウィキには「直喩」という分類は含まれていませんが、学校なんかではよく使います。

Q「神」はどのようにして発明されたのでしょうか。人が「甦り」を信じたのは

「神」はどのようにして発明されたのでしょうか。人が「甦り」を信じたのはなぜですか?

世界には様々な「全知全能の神」がいます。
日本にも神道の「八百万の神」がいます。

そもそも「神」はどのようにして発明されたのですか?
神の名のもとに戦争を起こしたり、神への捧げものとして生贄がささげられるというバカげてるとしか言いようがないことも平気で行います。

その時代の人間にはささげ物をすれば豊かになるというのが常識だったのかもしれませんが、同じ時代に生きている、人間と同じように社会生活を営む犬には「神」なんてものはありませんし、ささげ物の儀式なんてこともありません。


1.なぜ神は発明されたのでしょうか。
2.なぜ人は信仰するようになったのですか?

3.ミイラにしておけば死後よみがえるなんて、バカげたことがなぜ行われていたのでしょうか。
死んだものが生き返らないことは犬畜生だって知ってます。

Aベストアンサー

人の出来る事、理解できる事と、実際に関わっている世界で
すべき事、考えねばならない事の間にギャップがあり、
出来ないことに対しても何とかしようとし(祈り)、分から
ないことに対しても意味づけようとした結果(世界観)です。
その便宜的な由来において、どんどん発達する社会性と、
人の意識の自己中心性の間をつなぐ(=他律的社会性)モラル
の根拠としても利用された。
(元々集団主義的なジャポニカ米(集約農法)稲作農耕文化圏
では、そうした強制がなくても社会行動をとるので、厳しい
戒律を持つ一神教ではなく、儀式宗教的な仏教が広まった)

ゆえに、無から全ての“現実”を導け、またそこにおける
他我性=愛による自律的社会行動において最大充足が可能に
なる事によって、宗教は役目を終えたと言える。

Q政治の「三位一体改革」というのは比喩の自乗ですよね

前回の問答の続きです→http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8108381.html
小泉政権の時に行財政改革の名称として掲げられたものですが、これって比喩の比喩ですか?
というのは、前回の回答で「三位一体」自体が比喩とのことでした。
その比喩である宗教用語の「三位一体」を、政治家が政治用語に比喩として使用しているのだから比喩の自乗ですよね?

Aベストアンサー

その場合の「三位一体」がキリスト教用語のアレだという前提で答えれば、おっしゃるとおり比喩の比喩ということになりますが(「自乗」という表現もある種の比喩ですがこの場合は適切かどうか・・・それはともかくとして)、そもそも政治家が「他力本願」という場合も誤用が指摘されているとおり、宗教用語を政治など現実的な場で比喩に使うこと自体が疑問です。比喩として機能するには、その喩える言葉の意味が理解されていなければならず、喩えられる対象との類似性が明かでないと不適当ということになります。ダジャレとかでもそうですよね。曖昧だと白けこそすれ、けっして受けません。単純明快さが必要です。その点で「三位一体改革」という自民党さんのネーミングは感心しません。なぜなら、「三位一体」という言葉を大多数の国民が知らないからです。文字からわかったようで実はまるっきりわからないのです。単に三点セットという意味ではないですからね。「位」というのが問題なんです。
ちなみに「三位一体」という言葉を比喩に使ったのは小泉さんが初めてではないそうです。
〔「三位一体(さんみいったい)」は、もともとはキリスト教の宗教用語で、父なる神、子なるイエス・キリストと、聖霊の三者は同一であるというもの。地方財政について使われたのは、片山前総務大臣によれば、「三位一体というのは私が言い出した」(平成15年5月13日片山総務大臣閣議後記者会見の概要)とのことである。地方財政について公式の場で最初に使われたのは、平成14年5月21日の第13回経済財政諮問会議で、本間議員から「現在、財務省、総務省及び他省庁間で、補助金、交付税、税源配分移譲を含めてどのように改革するか利害が錯綜している。〕

参考URL:http://www.mof.go.jp/pri/research/discussion_paper/ron085.pdf#search=

その場合の「三位一体」がキリスト教用語のアレだという前提で答えれば、おっしゃるとおり比喩の比喩ということになりますが(「自乗」という表現もある種の比喩ですがこの場合は適切かどうか・・・それはともかくとして)、そもそも政治家が「他力本願」という場合も誤用が指摘されているとおり、宗教用語を政治など現実的な場で比喩に使うこと自体が疑問です。比喩として機能するには、その喩える言葉の意味が理解されていなければならず、喩えられる対象との類似性が明かでないと不適当ということになります。...続きを読む

Q無知の無知たる所以は?

 ここのサイトでも多くの方が、質問されていますが、分からなくて悩んで質問されているのでしょうが、どうして、回答が偏っているのに、それで満足されるのでしょうか?
 実際には、それが正解でないかもしれませんが、自分の知識の範囲で気に入ったものを良しとしているとしか思えません。
 分からないのでしょ。
 それで、どうして、それが良しといえるのでしょうか?
 お互いに論議して、糸口を見つけ出すことが大事なんじゃないでしょうか?
 それが知ることじゃないですか?
 回答者諸兄には、いろんな方がおられますが、正誤、真偽等もあるでしょうが、認識の違いはあるかもしれませんが、一つの意見でしょ。
 それが、本当に正しいのかは、本来、質問者には分からず、理解されないことではないのでしょうか?
 助言は、本人には耳が痛いことが多いということです。
 安易な選択は墓穴を掘ることになるのではないのでしょうか?
 如何でしょうか?
 耳の痛い話を聞かせて下さい。

Aベストアンサー

お邪魔します。
最近お名前をみるとオモシロそうだなと思い立ち寄ってしまいます。
私の考えはgould09さんに近いかな?
でももう少しシニカルな考え方です。

質問者は知らないから判断できない・・その通りです。
律儀な方は、あらためて調べ直して納得したものに「良」をつけることをしてますが、多くは判断したのではなく選んでいるのだと思います。選ぶだけでしたら、うちのラッキー(ビーグル13歳)でもしますので、別に『知』はいらんと思いますよ。

>或る程度、回答を知っていて、試しているとしか思えません。
これについては、それを悟られなければいいのでしょう。悟られるとは、知識を披露して回答者と議論になってしまうことです。それにコレを完全に否定すると『あいまいな知識で・・コレって本当?』と聞くものも出来なくなるような気がします。回答を読んで「はいそうですか、ありがとうございます」だけ書いておく分には良いんじゃないかと思いますよ。間違いをきつく指摘したりすると和を乱す意味で引っかかるのではないでしょうか?

徹底した議論をした上で解に到達することは実社会では正しいですが、このサイト内での扱いはbeginnersanさんが書かれたとおりだと理解しています。でもそれをかいくぐるようにしてあいまいな形で楽しむのもこのサイト内では可能なように思います。冷静に議論するとか、冷静におちょくるとか・・です。

>本当に正しいのかは、本来、質問者には分からず、理解されないことではないのでしょうか? ・・・その通りです(先に回答済み)
>助言は、本人には耳が痛いことが多いということです。
・・・その通りです。(言うまでもなく真理です。)
>安易な選択は墓穴を掘ることになるのではないのでしょうか?
・・・その通りなんですが、墓穴を掘ろうと尻に火がついてその後どうなろうとどうでもいいのと違いますか?
自分のことじゃあないし、質問者が自分で選んだことだもの。実生活の悩みがチョコチョコっとネットに書き込んだだけでそんなに簡単に解決するわけないですからね。解決したらそれこそ『ラッキー』なだけでしょう。
そう考えて気楽に行きましょうよ。

お邪魔します。
最近お名前をみるとオモシロそうだなと思い立ち寄ってしまいます。
私の考えはgould09さんに近いかな?
でももう少しシニカルな考え方です。

質問者は知らないから判断できない・・その通りです。
律儀な方は、あらためて調べ直して納得したものに「良」をつけることをしてますが、多くは判断したのではなく選んでいるのだと思います。選ぶだけでしたら、うちのラッキー(ビーグル13歳)でもしますので、別に『知』はいらんと思いますよ。

>或る程度、回答を知っていて、試していると...続きを読む

Q比喩表現の「今度の仕事を通じていい勉強になった」

同じような例文でしつこく追求していますが、新展開がありましたのでさらなるご回答をお願いします。
「今度の仕事は私にとっていい勉強になった」という文について、「今度の仕事」を「いい勉強」と比喩表現することで、「今度の仕事」の性質の一部を「わかり易く説明している文章」と考えるべきだという説明をいただきました。その説明をいただいて、この文の「なった」は変成・変化の意味ではなく「プラスまたはマイナスの効果・機能がある」という意味だと解釈することにしています。
では「通じて」という語を加えた「今度の仕事を通じていい勉強になった」は、やはり比喩表現と考えることができるのでしょうか。その場合は何が何に比喩されているのであって、「通じて」はどんな役割を果たしているのでしょうか。

Aベストアンサー

既にお伝えした通り、文法的には主語に付く格助詞が「には」系統となった構文で、その主格は「私にとって」であり、その述語は「(~に)なった」です。
一種の強調表現であるこの「には」系統の構文なのですが、
「私にとって(主格)、今度の仕事が(対象格) いい勉強に(連用修飾格の副詞用法) なった(動詞述語)。」
これを通常文に戻すと、
「私は(主格)、今度の仕事で(依拠格述語) いい勉強を(対象格) した(動詞述語)。」
となります。 

ここで、「通じて」を加えた場合は、接続節と主文という複文の構文になるだけです。
「今度の仕事を(対象格)通じ(動詞述語)て(接続助詞)、(私にとっては)(主格) いい勉強に(連用修飾格の副詞用法) なった(動詞述語)。」
または普通文では、
「今度の仕事を(対象格)通じ(動詞述語)て(接続助詞)、私は(主格) いい勉強を(対象格) した(動詞述語)。」

Q「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」

 「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」ということばや表現に私たちはせっしてきましたし、時には自分でもつかうこともあります。
 質問者は、「草あるいは草葉」、「陰」、「隠れる」、或いは「物陰」という表現が何か共通の感覚や意識、思い方、或いは心性みたいなものががあるのではないかと、ずぅっと気にしているのです。
 このことについて、何でもお教えや参考事項や思われることがありましたら、どうかご投稿くださいますよう、お願い申しあげます。
 美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさったというお話も仄聞した経験がりますし、何か昔は野辺送りは、本当に草の野辺においてきたのだというお話しも伺ったことがあります。
 どんなことでもどうか、お教えください。関係が遠いという判断はどうか為さらないで、衝動でご投稿ください。
 どんな文章でも、漢字変換ミスも読解しますので。

Aベストアンサー

海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草むす屍

「海ゆかば」を思い出しました。元は古いものなんですね。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0

>美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさった・・・。

それが、本来の死に方だと思います。
焼き場(火葬場)で、祖母が焼かれようとしているのを見た小さな孫が、「おばあちゃんを焼いちゃダメ、よけい死ぬう!」と泣き叫んでいました。
われわれ、大人は火葬は普通のことと思ってしまっていますが、子供にしてみれば残酷だと思ったのでしょう。

難しいことはわかりませんので、こんなところでご勘弁ください。


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