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まず最初に、私は自殺をしようと考えていませんからご安心ください。
一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からでしょうか?
「残された家族が悲しむ」・・「身寄りがなければよい」
「神の意志に逆らう行為」・・「人の意志は聞き入れないのか」
「その時は苦しくてもいつかはよいときが来る」・・「何を証拠にそのような未来が来ると判断できるのか」
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生まれる時は自分の意志を反映できないのだから、死ぬときは自分の意志に従って行動してはなぜいけない?数多の動物がいるが、人間だけが自らの意志を持って命を絶つことができる、言い換えれば人型の動物と異なる点の一つに自殺という概念を持ちうるかどうかがあげられる。病気や希望の喪失などの理由はどうあれ、自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。
オランダでは安楽死がすでに合法化されています。安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神状態において)
宗教論旨はぬきでお答えください。

A 回答 (30件中11~20件)

私の助言は、一方的に、過ぎたように思います。

ですから、より身近に話をしてみたいと思います。
 
・妊婦の自殺はどうなのか?

わたしは、心外ですが、否定します。
権利を論点に出すなら、腹の子の、生まれてくる、生の権利を否定するからです。
次がステップです。
妊婦に限らず、自殺者の命が、果たして当人の所有であるのか?
自分の命は自分のものであるのか?
考えてみてください。
 
私の答えはこうです。
所有できる事物など、何一つとしてありません。ですから、自死が、許されるか許されないか、とか、善か悪か?と問う姿勢が、すでに傲慢な姿勢なのです。
しかし、それは人間の切実な悩みであるために、傲慢だ!の一言では済まされません。
人間の悩みは浅く小さく、傲慢であるが、「苦悩は底知れず深い」のです。
その深さゆえに、慈悲がかけられます。
何故、所有できる事物が何一つないのか、考えてみてください。
 
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この回答へのお礼

申し訳ない。やはり、要領をえません。
「自死が許されるかどうか」>「質問自体が傲慢である自分の命は自分のもので
ある。
なぜ、傲慢なのか、私が誰に対して傲慢なのかよくわかりません
私の友人、すべて、このような話題を提出すると真剣に答えてくれますけど。
まさか、「神」にたいして?
状況を仮定しての、質問にも具体的なご回答ではありませんでしたし、
回答を質問者に自ら解を出させる、ご指導では、私自身の答えはとうの昔に出ています。あえて広く問いかけているのは、私の考えが世間ではどのような位置づけであるかを確認したいためです。
 >>自分の命は自分のものであるのか?
ですが、状況によります。例えば、友人や知人、血族が多ければ多いほど、自分の命を大事に思ってくれる人がおおくなります。これには金銭も関わります。
一人貧乏で性格が悪い者ほど、周囲からはどうでもよく思われるでしょう。
そして、何よりも、自分の命の最優先権は自分自身にあると思いますけど。
他人の権利と関係で「生かしておかれる」のはその状況になったとき、何ともやりきれません。

お礼日時:2002/02/11 10:58

>一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からで>しょうか?


>自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。

自殺と自殺行為よく似てますよね。戦時中は特攻隊の人たちは、神である天皇に対して命を捧げることで、周りから英雄とされてきました。特攻は、戦時中は英雄行為でありましたが、現代では自殺行為以外の何者でもないです。(私の基準です)
しかし、自殺行為だとしても結果的に英雄行為が含まれている場合(山手線 酔っ払い事件参照)、英雄化されます。一方、何も英雄行為が含まれず、自己の都合だけで自殺行為が行われ、自殺となった場合、バッシングを受けます。前者と後者との違い、それは奉仕にあると思います。そう考えると、人間は残酷ですね。死に方まで犠牲を求めてますので。

>生まれる時は自分の意志を反映できないのだから、死ぬときは自分の意志に従っ>て行動してはなぜいけない?

「意志」って何なのでしょうね。先天的な意志ってなんでしょう。先天的な意志が存在したとしても、その起因要素が何からも束縛されていない状態でのみしか、完全な先天的意志は存在しないように思えます。後天的な意志に関しては、主体の経済力、母体の思想など様々な要素から構築されていくものだと思います。よって、後天的な意志を考えた場合、それは自分を定義してきた後天的要素が価値観を決定していくものだと思います。だから、「いけない」と思うことはすでに影響下にあるものと思います。

>安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自>死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神>状態において)

否定してもしなくてもいいんじゃないの。価値観の構築こそが、秩序を構築することだから、1つの枠組みでしか考えられなくすること自体、治安?治国?体制を強固なものにするものであると考えることができるのであれば、否定という世論の高まりこそが政府の方針、すなわち世論人間こそが政府の理想とする国民なのではないでしょうか。

私の信念を答えさせて頂きました。なるべく宗教論は入れないようにしたと思います。他の人の回答はあまり見ていませんので、かぶっている所もあると思いますが、ご勘弁を。
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この回答へのお礼

まず、自殺と自殺行為はまったく別のものとしておかんがえください。
前者は完全に死ぬことが目的ですが、後者は万が一にも生き残る可能性があれば、それに賭けます。したがって、この両者をど同一とみなし、そこから、社会体制と政府まで目的づけるbeginnersanさんのごいけんは、やや方向を離れているかと。
個人レベルでのお考えはわかりました。「意志」の考察は、哲学的になりますね。意志があること自体、経験による後天的なものだから、自意識は先天的にはあり得ない。これは私もよく考えてみます。

お礼日時:2002/02/11 10:32

>それから、質問者はわたしですから、私自身に回答を差し戻すのは


感心しません。
 ひまわり組であろうが、3年三組であろうが、私はあなたと話をさせて頂いています。教える人はその対象自身が、解にたどり着くのを手助けするような姿勢をとるものです。
あなたが、解を見出すということが、解を得たといいます。
数多の学校のテスト問題のように、質問用紙、回答用紙、採点があるのではありません。論理形式のもとで、こうだからああだというのでもありません。
 何故なら、解はあなたに与えられているからです。あなたがそれを得るのは当然なのです。あなたへの解を、私が受け取る事は出来ません。また、私の解を、あなたが受け取る事も出来ません。
 
しかし、あなたが、あなたへの解を得たときにわかります。私への解と、あなたへの解と、ともに真のものである事を。
ですから、私は、あなたがあなたの解を得るように、不器用ながら、話をさせていただいています。
過去の無数の行者たちが、くげん一生の修行をかけても得られなかったように、得られないかもしれません。
しかし、聖者の一言で、稲妻のごとく、あるがままを悟った菩薩達のように、忽然と自身に立ち返り、さらにあなたはあなたを超越するかもしれません。
 
私見ですが、あなたはスマートですし、まだまだお若い。あなたは解からそう遠くはない。 
 
わかりにくいかもしれませんが、純朴なまなざしで、聴いて下さい。
 
 遠くのものは大きく、近くのものは小さく見えます。
 
解が見えないのは、それがあなたとともにあるので、遠い、近いなどの距離を考えていると、見えません。なぜなら、あなたとともにあるからです。近すぎて、小さすぎて見えないのではなく、
距離を測るという事で、別の次元に行ってしまっています。
 
解はすでに与えられているということを、知らなければなりません。
 
解とあなたの距離は、無いのです。あなたにそれはあるからです。
 
私の力のなさゆえ、あなたを困惑しさせてしまいますが、お許しください。私が、諸々の聖者のように、あなたを悟らす事ができたら、どれほどよいでしょうか、。

 わたしは精一杯である事を、ご理解いただきたく、感謝しています。
 
解は、当然に、あなた、が、得ます。
それは当然のことなのです。
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またのぞいたら、いっぱいありますね。

みなさん、熱い。
質問の主旨は「なぜ良くないか?」だから、
「良くない」のを前提に作られた法律でそういう条文があるから、というのは、まったく意味が無いですね。数学でいえば、「定理」を使って「定義」を説明しようとするようなもので・・。
そもそも「自死」を「自殺」と呼ぶこと自体「良くないこと」の前提から始まっています。

みなさん、それぞれ価値観があると思いますが、結局は「人間の仲間から脱落者を出さない」ということからきているんじゃないでしょうか。
あっさりしすぎですか。
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 本当に、「安楽死」になっているのでしょうか!?


 「尊厳死」といって、薬物投与等は関心致しません。医学的な立場としては、延命のための精いっぱいの治療は、するのが義務だと思います。
 逆に、この人はもう助からないし、苦しむんだったら、ここで死なせてあげようとか、人為的に手を加えて死亡させる、ということは、やってはいけないことだと思います。その人にはまだ命があり、それを勝手に命を縮めていくということは、殺人行為につながり、自分が罪を積みます。
 また、度の過ぎた延命治療も考えものです。例えば、口の中に人工呼吸器を入れられたりしますが、話すことは出来なくなりますし、管だらけになります。
 人工呼吸器を入れて、本当に、まだ助かる見込みがあるというなら、それはそれでいいと思うんですが、明らかに全身が衰弱してきていて、数刻の間に臨終を迎えるということがハッキリしている場合に、わざわざそこに人工呼吸器を無理やり着けさせられることだけは、お断りしたいものであります。
 これが、「自殺」の概念にあてはまるとは思えません。
 自殺は、法的に認められていませんし、自殺をするのを知っていて止めなければ、自殺幇助という罪となります。
自殺未遂となれば、病院隔離治療が科せられ、再犯防止処置が取られることでしょう。一種の迷惑罪です。
 本人だけで済むと思っていること自体、エゴであり、無責任なのであります。
 何故、回答に、一般論を述べてはいけないのでしょうか?
 我見は、個人的な意見だけであり、正当化されるべきものでもありません。勝手な思い込みということになるだけじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

法的な問題はあまり気になさらないでください。「法律が禁じているから。」は法律自体が変更される事もありますから。
「なぜ、いけないか」に対しての回答は、エゴであり、無責任だから。ということですね。そこには本人の望みよりも周囲の意見が優先されると。また、周囲は殺人を犯し罪に問われたくないと言うこと。が、これも周囲の人のエゴになりませんか

一般論はわっかているつもりなので、odd-artさんがわざわざ書いてくれなくても良いのです。

お礼日時:2002/02/05 23:36

>もう一つ、私はこの質問とそれについての回答は反対賛成それぞれしっかりとした理由あっての意見を期待しております。


 わかっています。しかし、それでは解決できないのです。私は、あなたの期待以上の回答を、するように思っています。それがわかりにくくても、そっちのほうが解に繋がるからです。
>内とは私自身であるとともに、あなた自身でもある。そうなりますね。
私はあなたじゃないじゃないですか。だから、そうなりません。
私があなたで、あなたが私であるような事は、まだありません。

>内と申されておりますが、ではあなた自身、彼女のこころがなぜ理解できたのか? あなたは彼女ではなく、どれほど近しい中であっても他人ですよね。
 
 他人も他人、あかの他人です。あの話はネットにおちてたものです。何故それが身近であると私が言うのか。心は理解する者ではありませんし、また、基準を設けてはかるような者でもありません。
 以下、いよいよあなたの期待する通りにはいきませんが、期待以上であることをおもって言います。
・他人を自分のことのように愛する事を志向できますか?
>いくつか反対のお答えが出ていますが、いずれも自分自身がベッドにチューブでくっつけられて生きる状態を想定した回答がありません。
 
 誤解しておられます。私は、自殺を、反対もしていなければ賛成もしていません。否定もしていなければ肯定もしていません。どうしているかというと、自殺を「自殺」としています。
「真のような基準のないもの」というところの基準がないというのは、多種多様、人によって様々という意味ではありません。人によって様々なら、その人という基準があります。真はそれすらもない事です。
それは、・選択肢が存在しない・ことを、はかるものがない事を、いいます。ですから、限定もされておらず、それが・自・由・であるといいます。
それは「一」ではなく、全性をもちます。
>他人事ではなく、いつ自分に起こってもおかしくない話です。
 
 そう言うのが、他人事だといっているのです。すでに自分に起こっている事と、何故思えないのですか?それは、あなたが自分をよそに、他人事を立て並べているからです。自分をよそに、他人事に遊戯しているからです。だから、何時自分に起こってもおかしくない、というセリフが出てきます。
「自分のことすらも、他人事にしてしまっているという意味」で、すでに自殺しています。

>私は社会を助けようとか他人を助けようとか大それたことは考えておりません。
他人を助ける、社会を助ける事のどこが大それているのかわかりかねます。当然の事じゃないですか?人の苦痛を少しもわからないということは、自分の傷もよく見えないことです。自分の傷を見つめれる者は、他人の傷も見えます。
なぜなら、その人は、「傷」を「傷」として見るからです。それが、・自分の目で見る・ということです。
 
想定するより、今のあなたという現実を見つめるべきです。
 
    今、あなたはどうですか?

どうもこうも、あなたはあなたです。
 
>「他人の自死をみとめるか」「自分の自死はどうか」
自由なあなたが、その解を見出します。そのとき、以上のような疑問はすでに晴れています。答える必要がないほどにです。あなたにあなたが立ち返ることを、自由といいます。
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この回答へのお礼

時間をおいて幾度と無く読み返しました。
全く理解できません。
お手数ですが、そう、中学1年生が読んでわかる程度まで、
落としてください。現文は私の読解力を遙かに超えて書かれています。
それから、質問者はわたしですから、私自身に回答を差し戻すのは
感心しません。

お礼日時:2002/02/05 23:46

ずっと以前から考えてた私見を述べます。

ちなみに宗教はやってません。末期的な病気であれば私は安楽死を選びたいです。出来る事ならば冷静に沈着に笑顔すら見せて逝きたいです。あくまでもそうでありたいという姿勢です。

一部例外を除いて皆が死を恐れています。私も本能であるのか?それとも感化されたのか?その両方であるとも思われますが大変恐ろしいです。

しかし先人達が死をことさら恐れおののくのではなく、やがて必ず訪れる真理に対して前向きに捉えてくれれば私は今よりは死を恐れずに受け入れるでしょう。(死と恐怖は表裏一体という常識を覆してくれてたら)その時が来ないとわかりませんが・・・

私は起きてしまった事、これから絶対起きる事を肯定していく事が人間の建設的な知恵だと思います。死をもです。残される者もそれを悲観するだけではなく崇高なものという価値観があってもいいと思います。

ですから生きるのも死ぬも等価でいいと思います。ただし、最後のカードですからどこで出すか天命を待つか慎重に見極めなければなりません。自殺は許されます。

以上は末期の病気のみです。体が死を欲しているのには逆らえません。しかし経済困窮自死、願望達成自死などは精神が死のうとしてます。精神のあり方はおおいに変わる可能性がある以上カードを出すにはまだ早い。等価であるはずの生を軽んじています。自殺は許しません。
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この回答へのお礼

よくわかりました。肉体的苦痛からのがれる最終的な選択肢としては、これを認めるが、精神は環境や自分の意志で変化する可能性は常にあるのだから、最終的手段を用いることはできないと。

お礼日時:2002/02/05 16:26

>例えばあなたが、強い苦痛を伴い・・・・苦しむ愛する人の姿を、みたいですか?


 何を他人事のように、事を言っているのですか?
他人事ではなく、その人自身においてあるということです。その存在自体にあるということです。お金の話や、苦労話では、自殺は見えません。
いいですか、私の見た自殺をあなたが見ることは出来ません。なぜなら、あなたはあなたの目で見、あなたの耳でしか聞けないからです。多くの皆は、自分の目で見、自分の耳で聞くということを出来ていません。無知とはそういうことです。霧がかかるとはそういうことです。
他人事を立て並べていてはいけない。外に求めず内に求めなさい。内とはあなた自身のことです。
 
>・・・前向きな明るく果敢に困難に立ち向かう、・・・・
彼女の姿勢のどこが前向きで明るいものなのかわかりかねます。生に執着するということの、どこが前向きなのか?生に望みする事の、ドコが前向きなのか?死に恐怖する事の、ドコが前向きなのか?老いの恐怖が解らない?それは、人の気持ちも知れないかわいそうな人のことです。
 
 
他人事はもういいんです。
傲慢とはどういう姿勢ですか?と、いうのは、自分をよそに、他人事を並べる事です。 
自分を助けれない者が、他人や家族、社会を助けれると思うのですか?自分の足で立てない人間が、どの様にして他のものが立つのを支えるのでしょう?
まず、自分の足で立ちなさい。自分の目で見、自分の耳で聞きなさい。

あと、私は、理想や、天国論を言っているのではなく、真を言っています。誤解のないようにというのは無理でしょうが、。善いか悪いかを言うのは場違いですね?
宗教や、理想や、天国論や、善悪諸々の観念はゴミ箱行きです。
そういう意味で、ジョンレノンの話を出したのです。他人事はゴミ箱に、。
 
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この回答へのお礼

内とは私自身であるとともに、あなた自身でもある。そうなりますね。
では、あなたが自身が、(強い苦痛を伴い・・・・苦しむ)状態になったとき
あなた自身はどうなのですか?
私の内なる心は(オランダ国籍があれば楽なのに・・)です。
内と申されておりますが、ではあなた自身、彼女のこころがなぜ理解できたのか?
あなたは彼女ではなく、どれほど近しい中であっても他人ですよね。

女性のはなしですが、お書きになられた文章からは私が感じた事しか伝わってきません。おそらく私の読解力のなさのせいでしょう。

それから、私は社会を助けようとか他人を助けようとか大それたことは考えておりません。自分のできる範囲、自分の力の範疇は限界がありますから。
 ベッドにチューブでくっつけられた状態で、果たしてどれだけの人間が、他人を助けられるか、その反対のことが多いのではないですか?

 真というような基準のない表現よりも、誤解があっても良い悪いでお答えいただいたほうが、分かり易いです。場違いではありません。

いくつか反対のお答えが出ていますが、いずれも自分自身がベッドにチューブでくっつけられて生きる状態を想定した回答がありません。他人事ではなく、いつ自分に起こってもおかしくない話です。
 
今回の質問は「他人の自死をみとめるか」「自分の自死はどうか」と二つに区切って質問すれば良かったのしょう。私の頭の中では「他人の行為を認めないばあいは、自分の行為も認められない」という黄金律があるので、両者を一つとしていました。

もう一つ、私はこの質問とそれについての回答は反対賛成それぞれしっかりとした理由あっての意見を期待しております。説教を受けることは想定しておりません。

お礼日時:2002/02/05 10:22

>切腹を例題とされたほうがわ


切腹なんてショーですよ、大体の人間は腹に刀を当てておくだけ.介添えが殺してくれるのを松のです。
本来は.みずから腹の中身を手で外に出し.自己の正当性を主張しつづけるのですが.このような人々の内容が伝わってきません。講談の内容等は.適当に面白おかしく演出されているので.自殺の心理状況についての話題には問題があるでしょう。又.戦争当事者の内容についても原則として勝者に都合の良い内容に書き換わっているので内容の信憑性については疑問があります。従って除外しました。
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この回答へのお礼

扇腹のことは知っております。
腹の切開方法が問題ではありません。

お礼日時:2002/02/05 09:39

こんにちは。



養老孟司氏がかつて自殺のことを「脳が身体に死ねと命じる行為」と表現していたことがあります。脳化社会、つまり脳で考える「意識」「思考」が人格の全てとされて、身体感覚が忘れ去られてしまった近代ゆえの行為だ、という意味です。
近代はなんでも理性のもとにコントロールしようとしますよね。しかし、人間はコントロールできない自然としての生身の体を持っています。両者のバランスをいかにうまくとるか、というところが昔から人間形成の要諦でした。
年間3万人という自殺にもいろいろな事情があると思いますが、「自分の体は自分の所有物なのだからどうしようと自分の勝手」という論理で自殺が肯定されるのはあまり賛成できません。それはあくまで近代以降の論理であって、身体性を忘れた「脳の暴走」であることは否定できないからです。

starfloraさんへ。
自殺肯定の例証に「自殺的行為」を含めるのは明らかな混同ではないでしょうか。もうひとつ、仏陀が弟子の自殺を許したというのは史実というより、かなり眉唾な話とされています(私は一応専門家ですのでご容赦下さいね)。
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この回答へのお礼

私も養老氏の本は読みました。自分の勝手で自死を選ぶ事は確かによくはないでしょう。私は電車への飛び込み現場を見たことがあります。その瞬間では無く、1分ほど時間が経過していましたが、血はほとんど出ておらず、線路の枕木の間に「脳」がごろんところがっていました。暖かい日差しの中、その脳が実に気持ち良さそうに日なたっぼこをしているような感じっだたのです。その時「この脳はこうなりたっかたのかな?」と実に奇妙な印象をうけました。人間を支配する脳と、それから切り離された脳。普段我々が人としてつきあっているのは、体という入れ物か、しわくちゃな固まりか、「脳の暴走」から思い出したことです。

お礼日時:2002/02/04 11:52

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