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まず最初に、私は自殺をしようと考えていませんからご安心ください。
一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からでしょうか?
「残された家族が悲しむ」・・「身寄りがなければよい」
「神の意志に逆らう行為」・・「人の意志は聞き入れないのか」
「その時は苦しくてもいつかはよいときが来る」・・「何を証拠にそのような未来が来ると判断できるのか」
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生まれる時は自分の意志を反映できないのだから、死ぬときは自分の意志に従って行動してはなぜいけない?数多の動物がいるが、人間だけが自らの意志を持って命を絶つことができる、言い換えれば人型の動物と異なる点の一つに自殺という概念を持ちうるかどうかがあげられる。病気や希望の喪失などの理由はどうあれ、自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。
オランダでは安楽死がすでに合法化されています。安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神状態において)
宗教論旨はぬきでお答えください。

A 回答 (30件中1~10件)

<br /> 去った者に代わって私が、皆の耳に届くように、大声で言います。<br /> 現代社会において、のうのうと、霧に包ま

している、より多くの人たちには、その苦しみはわかりません。非情な話だと思います。人の気持ちもわからないんです。そのような人たちのなんてかわいそうな事ですか?自分の実の傷の痛みも知らないからです。
何故死ぬ事を悪いとするのでしょうね。何故、生きることは正しく、死ぬ事は避けるべきものと考えるのでしょう。死ぬも生きるも、命なんだと皆わかっているのに、。
善いか悪いかを論ずるのは問題外です。「自殺する」。この行為があると言うこと、自殺という行為をそのまま見つめなければ、自殺は見えません。
わたしはそう思います。
私は、ジョンレノンのように、イエスなんて信じない、仏陀なんて信じない、ジンマーマンも信じない、ビートルズなんて、信じない。信じるのは、僕とヨーコだけ。
という姿勢に、涙します。
又、彼はいいます。頭の上には円碧な空があるだけ。天国などないんだ。
 
当たり前です。頭の上には空があり、空を越えると、深く輝く宇宙空間があります。天国は、指で指し示すようにあるのではありません。それぞれの、人の、中にあるんです。天国がないわけがない。イエスを信じなくても、仏陀を信じなくても、ヨーコと僕を信じなくても、天国は、実に、その存在の中にあります。上(天国)から来たという、上とは、中のことです。光とは、中のことです。影の中の、光を知るべきです。その光が、「隙間無く輝る光」といわれたことの・意・味・を、知るべきです。
ジョンは天国を知りませんでしたが、天国にいました。
天国にいない者は天国を求めるべきで、すでにいる者は、それを知るべきです。
それを知る事で、天国への門が広くなるからです。それを慈悲といいます。

自殺者とは、霧に包まれて生きる現代人60億人のことです。
つまり、より多くの皆は、すでに自殺しています。二度と死なないように気をつけるべきです。
 
イエスの行為は自殺行為ですか。日蓮の行為も自殺行為ですか。
それは、生きるための死です。命は命でのみ生きる。彼らの自殺が、かほど生きることなのか、。尊い行為とはこういう行為です。

ーーーーーーーー以上回答ーーーーーーーーーー以下余分ーーーーー
身近な話をします。
しかし、彼女は何かおかしいと感じ、ある日お姉さんの日記を見てしまいました。そこで初めて自分が白血病にかかっていることを知るのです。

 彼女は悩んだ末にこの深夜番組に相談してきたのであります。それから何回かこの番組に電話で出演しておりましたが、残念な事に、彼女は発病から一年後の十八歳の時に亡くなりました。
 その話の中で自分ので死期が近いことを知った彼女は、「もし自分が死んだら、このテープを番組に送って欲しい」と、死ぬ三日前に自分でテープにメッセージを録音して、親に託したそうです。彼女は、放送では滅多に苦しいとか悲しいとか言わず、いつも明るく振る舞っていました。

 しかし、テープの中で彼女は「死にたくない」と初めて自分の本心を切に訴えておりました。また 「今、自分の勝手で自殺する人がいます。その命を私にください。御願いします。」
それを聴いたとき、私は涙が止まらなく、やるせなさと、今まで自分が深く考えた事のなかった命とは、こんなに大切なものなのかと考え込んでしまいました。

 また、彼女の親から送られてきた、彼女の日記にはこのように書かれております。
 
 
  「私は老いていきたい。老いるという人生を歩んで行きたい。」
 

傲慢とはどういう姿勢でしょうか。
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この回答へのお礼

上半分は抽象的で意味がつかめませんでした。
下半分は、代表的な前向きな明るく果敢に困難に立ち向かう、理想の人物のように見えます。アンネ・フランクを彷彿とさせますね。
みかたをかえるならば、すべての難病患者が彼女のように明るく前向きであれば、
このような話は普通にあることでクローズアップされることはないでしょう。
 つまりは難病であってさえ、彼女のように強く生きられる人間は数少ないということです。彼女の18という若さもこの話をイメージ強くします。
彼女の人生経験では老いの恐怖は理解できないでしょう
あるいは、若さ故の死の恐怖が生へ望みを強くした。生への恐怖が理解できなかったとも考えられます。

summer lunchさんの回答には、自殺を容認されない確固たる理由が出ていません。理想論や天国論は不必要です。

例えばあなたが、強い苦痛を伴い、全身を動かすこともできぬ難病にかかったとします。パイプやチューブで酸素と栄養剤を送られる日々がこれから何年も何年も、老衰で死ぬまで続く。難病認定で医療負担は少なくなるものの、月に数十万円医療費として必要だ。風呂場を改造するのに100万ほどかかった。家族は介護に疲れているのが痛いほどわかる。夜は数時間ごとに体位返還をしなくてはならない。
痰が絡むので吸引を頻繁にする必要がある。あなたに必ず誰か付き添う必要があるので、家族でローテーションを組み、必要であれば誰かが会社を辞めることになるかも知れない。最近、家族のあなたを見る目がちがってきたように思う・・・
オランダであれば尊厳死を認められるが、この国ではまだ認定されない。あなたは他人によって強制的にひたすら生かされるしか選択がない。このような条件でも生を望みますか?
 あるいは、これがあなたの愛する人であればどうでしょう?生のために生かす事が、その人の為なのでしょうか?苦痛にのたうち、失禁脱糞、血反吐を吐いてもがき苦しむ愛する人の姿を、みたいですか?
 
世の中、家族が助け合って暮らすのは理想ですが、離婚率を見ればそのような家族はきわめて少ないのが現状です。

お礼日時:2002/02/04 23:15

武士道における生きる勇気と死ぬ勇気


「真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋いこがれることは卑怯と同義語であり、武士道の教えは、あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心を持ってたちむかうことであった。真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。そのためには死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしている者を避けるための死は、卑怯きわまりない。死を軽蔑するのは勇気の行為である。しかし、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることが真の勇気である。」
ということだそうです。
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この回答へのお礼

これは、まさにその通りだと思います。
生きる勇気と死ぬ勇気、わたしとてこれを理想とはしていますが、理想を実行するのは本当に大変な事だと思います。そういった意味ではodd-artさんのお答えは、私の目指す姿ではあります。でも。できないなぁ

お礼日時:2002/02/23 19:09

>泣くだけでは何も解決はしません。

泣いた上で、どうするかが大事だと思いますねえ。
 勇ましいですね。人助けがたいそれた事であると、さっきまで言ってたのに、。私は、人助けがたいそれたことであるとは思わない。ですが、それ以上にずっと私は小さい者です。どうこうしようなんて、今の私には器じゃない。私には、どうするかよりも、泣くことのほうが大事だと思います。
>未来の姿が想像できないとのことですが、そうだとすれば、問題があるよう思います。
 そうかな?私は、正しい未来が想像できず、私の想像する未来は常に嘘を含むものであると言っているのです。人間は未来を予測する。クマは冬の前にたくさん食べる。やぎの天気予報は95%の確率であたる。地震の前には魚がいなくなる。女の勘は鋭い(笑。あなたの言う予測は論理的に説明できるものだけです。あとのことはわかりませんでいいんですか?知とは論理や分析だけでは無いのです。
 
あなたは、過去に生きることが出来ますか?未来に生きることは出来ますか?今、あなたが、ここにいるのにです。私は、現実的なことを言っています。
>文章が的確であればその特殊な信条も理解できると思うのですが、両方ともに特殊であるがため、ダブルでわからなくなっています。
このことはほんとに申し訳ないです。文章の難解さについては、他の方からもクレームを頂きます。しかし、的確さについては、それなりの表現をしています。あなたは、本が読めるようですが(たしかにスマートです)、詩は読めますか?
難しい書と、簡単な書があります。私の助言は、あなたにとって難しいのでしょう。しかし、私も精一杯ですので、見苦しい所はお許しください。また、もう無理だと言うのであれば、是非おっしゃってください。
>・・傲慢行為だからしてはならない。
してはならないといいましたか?傲慢だ!といっているのです。傲慢ではあるが、苦悩が切実なために、それは否定しがたいのです。

>>>いかにして判断するのでしょうか?例えば、「内なる声が聞こえた。だからそうした。」と言う人は、いかにしてそれが正しいと認識し、いかにして自分はそうすべきだと判断したのでしょう。
 これはまた、パラドックスなこたえですね。
 
あなたがそのパラドクスにいると言うために、私は言っているのです。私は良い悪いで回答しているのではありません。こうだ。と言っているだけです。
>苦手な分野なのになぜ回答をされたのか。
 いらぬおせっかいですか?
>「すべてのクレタ人は嘘つきである」みたいなことになります。
 なるほど、例のくだらない難問ですね。嘘つきが言った。「私は嘘つきである」
あっそ。って感じです。こんな遊びでは人間の苦悩の深みをうめる、何の足しにもなりません。答えを言いましょう。すでにこの文が矛盾しています。
「私は私」「嘘つきは嘘つき」これが正しい。
馬鹿にされた気分ですか?それぐらいこの問いは馬鹿なのです。なにが論理学の難問か。ロゴスを馬鹿にしてるのか?って思います。
A=Bとすることがパラドクスの始まりであり、嘘です。A=A、B=Bです。ふつーに、素直に考えてください。AはBですか?そうじゃないでしょう。
数学が哲学の前に倒れる理由です。
しかし、まだあります。
A=Aである。では、最初のAは何処からきたのか?
これに関しては話が飛ぶのでいまはやめます。しかし、私の回答はこれを超えたところからしているため、難しいのです。
プラトンの難問であった、「洞窟の比喩」にも答えを出せます。
・私たちの見ている世界というのは、「影」である。では光は洞窟の外からきているのか?原像は何か?
 
光の所似、原像についても、明確に答えれます。それは、言語限界にちかいため、直示的な詩的表現で行われます。が、今ははなしがそれまくるのでいいでしょう。

 私には共有する知識が少ないため、話が難しい。感覚が似ている人とは、話があうんのように、うまく行くこともあるのですが、。私の非力はお許しいただけないでしょうか?答えていることは、おそらく今のここでは、私しか答えれないでしょう。しかし、わたしはあなたの忍耐にずいぶん甘えすぎているようです。
 
>死ぬ人間と周囲の人間の権利の優先という言い方を、私はしました。
権利というのは、平等という概念の下につくられています。それを競わせるのは、平等に違反するので、論理的矛盾が生じます。
 
>なりたい姿を思い起こすポジティブなことも(死ぬことを思い描くと同じように)傲慢行為だからしてはならない。ということになりますね。
 その行為は、今の自分に対してはネガティブではないですか。ポジもネガも、死という現実の前には無力です。死に向かうには、そういう比較概念は使えません。
比較という構造を基に使用されている言語は、比べようのない者の前には立てないのです。論理の働くフィールドがちがうんです。ですから、「あなた」や、「今」、「無」や「私」などを語るには、それ相応の言語の使い方を習得せねばなりません。
 
社会問題としてのアプローチなのに、法律のはなしはいらない。家族問題を出すと、権利の問題がある。
そして、最終的には良いのか悪いのかを問う。

>人間だけが自らの意志を持って命を絶つことができる、言い換えれば人型の動物と異なる点の一つに自殺という概念を持ちうるかどうかがあげられる。病気や希望の喪失などの理由はどうあれ、自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。
オランダでは安楽死がすでに合法化されています。安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神状態において)
 
自殺細胞というものがあるらしいです。彼らは何故自殺するのでしょうか?概念を持ち合わせているから?違うでしょう。
 
自殺を否定したがる人間が多いのは、死にたくない人間が多いからです。
安楽死の合法は、肉体的苦痛もありますが、死に様を選ぶ権利を持ち出したからだと思います。生き様を選ぶ、そのことに付随して、最終局面の生き様として死に様を選ぶわけです。つまり、生の営みとして死をとらえているので、合法化をみたのです。ですから、そういう風に、死にたくない人間に説明するわけです。生の一部だよって、。
 
経済困窮自死は、重大な社会問題でもありますが、お金が無いと何もできないという、愚かな思考から生まれる無気力に問題があります。ですから、否定されるいわれは、自殺者自身にも見られるわけです。無力感に襲われ、生きることも出来ないと思うんです。餓死ではなく、自死するというところに、そのやる気のなさがかんじられます。子どもをつれて死ぬなどもってのほかです。つまり、生の側から、安楽死が、ポジティブに認められるのなら(死にたくない人間が大半だから)、経済困窮自死は、生に対してネガティブなので、否定されます。
 
願望達成自死は、生き様の問題であります。個人は尊重されるべきそうですが、社会問題として否定されます。お前、自分が満足したからって死ぬのかよ!もっと俺たちのために働け!って社会側からの欲求があるので、否定されます。自分勝手だ。というわけですね。しかし、多くの社会が成熟し、願望達成者が大半に続出すればどうでしょう?いいよ、先に冥土で待ってな。ってことになります。そこで起こる問題は、本当に願望が達成されたかうやむやのままにされることです。別に社会に欠員が出たって、影響は無いです。それほどに効率化された社会システムが出来ているからです。願望とは何か。自分の本当に望むべきことが、明らかにされる必要性が出てきます。そのころになれば、私のここでの話も社会的に受け入れられるでしょう。
 
迷惑回避自死については、なんですかこれは?他者の迷惑にはなりたくないというものですか?
個人が、自分の生に対してネガティブという以前に、自分の生を見つめれていない。他者に翻弄されているため、ポジティブな個人の生の立場にたちたい大半の人間が否定します。他者の足は引っ張らんという姿勢が、非常に他律的で、精神的に自立できていない。
 
私見を言いましょう。
ここでの生に対するポジティブな姿勢は、考えることを避けたただの楽観主義者です。
生に対するネガティブな姿勢は、生から逃れたい。自分の望みがかなわないという無力感に支配された、生命力を失った人間です。死ぬのは当然の結果と言えるでしょう。しかし、生きている限り生命力は活力を取り戻す機が与えられています。彼らの場合、何かのきっかけで自殺を止めるようなことから、苦悩は深くとも、思慮の浅い人間です。目からうろこ的な余地が残されています。にもかかわらず、未知の物に飛び込む無謀な者です。犬から逃げてワニに食われるかもしれないのにです。考える機会が少なかったのかもしれません。
 
死に対するポジティブな姿勢は、二つあります。解放ととらえるか、逃げ口ととらえるかです。解放ととらえるものは、死を支えに生きます。生の終局ではない死に希望を見出しています。逃げ口ととらえるものは、生に対してネガティブな者でしょう。ワニの口だったらどうするんでしょうね。
 
死に対するネガティブな姿勢は、生に希望を見出している者です。まだまだかなえたい望みが残っていたりします。生の可能性を信じているといっても良いでしょう。
 
私は、ポジもネガもありません。
さらに生死を超越したものは、
生や死「そのもの」を手段や、目的として見るようになります。自分の存する場所ではなく、それらがあたかも自分とは別次元の現象であるかのごとく接します。
私は、その間くらいと言っておきます。超越などしたいとは思いませんから。
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この回答へのお礼

一つ疑問が生じました。そもそも、「私の質問意図が伝わっていないから、理解できないような回答が戻ってきているのではないか」という懸念です。そうであれば、こちらの質問の書き方が、悪かったのでしょう。

 度重なるご回答に、こちらは(どうとらえるかは別として)それを理解するのが
質問者として回答者への礼儀であろうと思いますから、私の知力では読み解くことができないので、数人に、これを読み解いて私にわかるよう翻訳して欲しいとお願いしました。しかしながら、一人は頭痛を訴え、一人は、「もうやめておけ」と忠告をしてくれ、一人は{「何とも大変ですね」(笑)}、最後の一人は、「話にならない」といってよこしました。いずれも、「理解できない」と言う点では一致しました。
したがって、まことに心苦しいことですが、敗北を宣言します。理解しようと努力しましたが。

私のだした質問は、探り針のように、この方向か、いや違う、ではこちらの考えか、そうでもない、とsummerlunchさんの真意をつかむべく必要と思った質問でしたが、回答に明確なものがなく、方向性すらつかむことができませんでした。
また、一人が言っていましたが「抒情詩で社会学的な解答を書き込むと
いう行為自体が、すでに理解を超えます」というのは私も共感いたします。新聞の社会面が、詩表現で書かれるとたいていの人間は真意が読みとれないでしょう。
 
いくつか回答の中で、反論のための例がありましたが、これも、こちらの真意がうまく伝わらず、感情的に書かれたのであろうと、愚考致します。冬眠前の熊が大食するのは論理的思考から来るものではない。ここでは感の話をしているのでは無いのです。未来予測とは経験と論理的思考から来る物です。はずれることもありますが、「人が病気になった。大変なことになっている。苦しみを訴え、莫大な金もかかっている。では、それが自分の降りかかる(可能性)はあるだろうか?その時になってあわてないよう、事前に何をしておくべきか」
  未来予測は危険回避でもあるのですが、それに「勘」といわれても。わたしは、「人は過去から学び、それをどうやって未来へ生かすか」が過去を大事にする大切さと思いますけど。
未来あっての今ですからね。未来と今、未来のことを考えると「今を見つめない傲慢者」となるのですか。
 
クレタ人の例えで「A=Bのはずはないから定義自体が成立しない。」という風に論旨を持っていっております。しかし、あなたは対象と属性とを同一に見なしている。ここが間違ってます。すべてのクレタ人という対象は、うそをつく属性を持っている(しかし、嘘つきはクレタ人だけではない)すべてのリンゴは食べられるという属性を持つが、食べ物という属性を持つ物の中には、魚や、豚も含まれる。「すべてのリンゴが食べ物である。」ということが成り立つのとおなじで、「すべてのクレタ人はうそをつく」という定義は成り立ちます。それを定義した上で、「では~」と仮定をするのであって、設問自体は成り立ちます。
繰り返しますがA=Bではなくて、AはBにふくまれるといっているのであって、これはあなたが人間に含まれると同じように、成立します。

その場合、「泣く」とあります。泣くことが悪いことでも良いことでもないし、私だって泣くかも知れません。でも、それは感情。「やけ酒を飲む」事と何らかわりません。泣こうが、わめこうが、酒を飲もうが、依然として問題はそこに横たわったまま。「その時脳味噌はどう考えるであろうか」をお聞きしたかったのですが、
かなわずでした。

こちらが望んだ回答に近い物は、おしりから46行あたりから(空行含まず)最後の4行前までで、何となくわかったような気がするようです。
「死を考える者は生きることに後ろ向きで、でも良い悪いということではない。」このように表現して良いですか。
 いいかえれば、いざとなったときの準備をしておく者(保険をかけておく者)は、生に対して背中を向けてるんだ。と。
 疲れたので、本日ここまで。

お礼日時:2002/02/23 20:49

>臓器提供に関しては、こちらが生きてる間は必要ですから・・


そういう意味ではなく、生きている身体を使って「奉仕」すると言う意味ですよ。自分をないがしろにするわけでは無いのです。しかし、臓器提供にこだわる話にすると、もしあなたの子どもにあなたの心臓が必要だったら、可能「ならば」差し出しますか?
こういう・も・し・の話は非常にうといもので、分析しているわけでもなく、全体を観るわけでもなく、想像を膨らますという思考です。夢をみていると言ってもいいでしょう。しかし、死というのは現実ですので、夢を語っていたのではなんにもみえません。
奉仕と言うのは、自分をないがしろにする行為ではけっしてありません。あなたの心臓を寄付して、さらにあなたは働けないでしょう?
>心が広いのではなく、理解しようと努めているのです。
忍耐の心と言うのは広い心と、私は思います。そのような心は、あなたを大いに助ける事と、感じます。私の話はずいぶん荒っぽく、申し訳ないと思っています。異物を理解しようとしてくださる事で、あなたの思考が動くという所がすばらしい。あなたがあなたを動かしているわけです。
タオイストは知りませんが、ギリギリでも、会話が繋がっているのはあなたの忍耐のおかげです。
>一般の方々は、「私がその立場になれば、賛成、反対、わからない」のどれかに「分類」される回答をしてくれる物です。が、あなたはそうではない。その状況が想像できないという事はないでしょう。
 実は想像できないのが私の事実です。嘘はつきたくありません。その立場になる事は、できないのです。未来の私に、今の私がなる事は出来ず、想像の私に現実の私がなる事はならず、「仮定の世界に、現実の私が生きる事は出来ないのです。」
つまり、そこでは仮定の私という者を想像せねばならず、それは非常に困難を極めます。自分自身の設定をせねばならず、その参考のためには今、現実の自分を分析せねばならないからです。はたして、分析し切れるでしょうか?
 しかし、今というものは、その構成の一つである「時」を一つ例にとってみても、分析するような者でもないし、はかれるような者でもありません。瞬間や、刹那という極小の時間単位ですら、さらに小さくわけることができ、それでも、「今」というもののみを、取り出す事が出来ません。つまり、指で指して、これが今の私だ!と言う事は出来ないのです。

 今は永遠だからです。何千億年の寿命の宇宙が、何兆光年繰り返そうが、「永遠には追いつけない。」
「すでにあることが永遠なのです。」
今、あなたがすでにあなたであると言う事は、人間の作り出した概念でははかる事が出来ず、又はかるような者でもなく、それは永遠である。そのため、私は、「今を見つめないものは傲慢だ」と言っているのです。その人はその人に対して、らしからぬ嘘の態度をとっていたのです。
「今」や「あなた」は計り知れません。
>「私は、安楽死は反対だよ。無理な処置もせず、ただ自然に任せるのが一番」と、ご回答であれば、わかるんですけど・・・
 当然違います。無理な処置であろうがなかろうが、自然環境に任せようが任せまいが、体か侵食され朽ちるのを見送ろうが阻止しようが、安楽死のつもりが失敗して生き地獄、であろうが、想像の未来や過去、仮定は虚構であるから、今の現実のその人には当てはめれないということです。
>・・・となれば、自身での判断が一番無理がないと思うのです。
いかにして判断するのでしょうか?例えば、「内なる声が聞こえた。だからそうした。」と言う人は、いかにしてそれが正しいと認識し、いかにして自分はそうすべきだと判断したのでしょう。
~だから、~です。というのは、ごくフツーの考え方ですが、実は、理由が事実なのです。
ですから、「思ったときにはすでにしています」
何故ならその人は、今に生きるからです。
すでに生きている、すでに死んでいる、死にながらすでに生きている、生きながらすでに死んでいる。皆、永遠です。
>良くも悪くも、人間は自然から離れた物になってしまいました。
その通りと、わたしも思います。善いも悪いも無いですが、自然から離れました。
おのずからしかり。ばばくさいことをいいますが(笑、自然とはその意味で使いました。
おのずとはその人の事であります。
あなたが自然体であると言うのは、あなたがおのずから、しかるべきありようであるということです。
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この回答へのお礼

子供へ心臓の提供ですか?その代わりに自分が人工心臓で生きられれば、否応なく
提供しますね。
 それから、一つ前のところで、「私がその立場であったら泣きます」とお答えがありましたが、泣くだけでは何も解決はしません。泣いた上で、どうするかが大事だと思いますねえ。泣くのは喜怒哀楽の感情の表現です。怒っただけでも問題は手つかずで残ってます。

 死ぬ人間と周囲の人間の権利の優先という言い方を、私はしました。同じ意味のことを、したのかたも述べてます。こう言い換えましょう。自分で死ぬエゴ。自分で生きるエゴ。人を生かさせるエゴ。人の死を黙認するエゴ。死を目前にしたとき、このいずれかに別れます。人は生き死にを自らの手でコントロールできるようになりました。ある意味では、自然死という物は成り立たないのです。では、この中で、エゴ度の低い末尾からじゅんに並べて見よ。と。

 未来の姿が想像できないとのことですが、そうだとすれば、問題があるよう思います。まず、「想像できない」のがあなた自身の、能力的に苦手なことであるか。
あるいは「未来を想像することが、傲慢なことであるからやめよ」ということであるか。 
 前者であれば、苦手な分野なのになぜ回答をされたのか。質問に答える必要十分な条件が満たされていたのか?
 後者であれば、未来を意識せず、その瞬間と過去のみで生きよ。未来の自分像(夢や、希望、理想像、目標の達成など、なりたい姿を思い起こすポジティブなことも(死ぬことを思い描くと同じように)傲慢行為だからしてはならない。ということになりますね。動物と人間の違いは未来を推測し行動をとれるか。と言う点が上げられるますが、したがって、自然から離れた人間は、自然に戻るべく未来を想定し分析することは傲慢である。と。
 
>>いかにして判断するのでしょうか?例えば、「内なる声が聞こえた。だからそうした。」と言う人は、いかにしてそれが正しいと認識し、いかにして自分はそうすべきだと判断したのでしょう。
 これはまた、パラドックスなこたえですね。あなたのご意見は「あなた自身が良いから」と思うからこそ、ここにお答えいただいた訳でしょうが、いかにしてそれが良いと判断なされたのか?
「すべてのクレタ人は嘘つきである」みたいなことになります。
 二つ特殊性があるよう思います。一つはあなたの文章表現です。私は本は読みますし、そこそこ読解力はあるつもりですが、正直申し上げまして、お手上げです。
もう一つの特殊性~あなたの信条が、非常に特殊な物であっても、文章が的確であればその特殊な信条も理解できると思うのですが、両方ともに特殊であるがため、ダブルでわからなくなっています。

お礼日時:2002/02/17 23:28

自殺について考える場合、4つの視点から考えることができます。

自殺しようとする人間から自分自身をみて、自殺が望ましいことか、自殺が望ましくないいことか。あと、他者から自殺しようとする人間もしくは自殺した人間をみた場合、自殺が望ましいことか、自殺が望ましくないいことか。以上4つですが、これを設問のように、一般に、という十把ひとからげ的な視点からは結論がでません。たとえていえば、豆腐を切る場合その断面が数多く存在(二等辺三角形、正三角形、長方形、正方形など)するように、この場合でも同様なことがいえます。したがって、設問者の許しが得られれば質問を、多くの場合、自殺が良くないことと考えられますがそれはどのような理由からでしょうか?とさせていただくと、次のように回答が出ます。但し、(良くないこと=望ましくない) (生きていること=望ましいこと)という条件付です。死というのは不可逆的な変化であって死んだら生きることができないから。
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この回答へのお礼

後戻りはできないから、ちょっと待て。今一度考えろ。今その手を使うのか?と、
生きている方が、(まだ、何か可能性があるから)望ましい。楽天主義が良いと言うことですかね。
馬をしゃべらせる話し。を知ってますか。王様から死刑を命ぜられた囚人が、こういった「私を死刑にしなかったら、馬がしゃべるように仕込んで見せよう」
王様「面白い。では十日の猶予を与える」「かしこまりました」
別の囚人が死刑囚に尋ねた「なあ。どうしてあんな事いったんだい。馬がしゃべるわけ無いじゃないか。」 死刑囚「いや、俺の方が率がいいのさ。十日の内に、政変でも起こってもう様が死ぬかもしれん。俺の方が寝てるうちにぽっくり死ぬかもしれん。それに、うまがしゃべるかもしれんじゃないか」

お礼日時:2002/02/14 00:50

再度お邪魔します。



ものすごく熱い場所になっていますね。
恐らく1812さんの真摯な回答、補足から熱意が伝わることも大きいのでしょうね。(以前、枝葉末節のところで騒動をまねき、申し訳ありませんでした)

1812さんは、森岡正博氏の本はもう読まれましたか?
まだ若い方ですが生命倫理学というジャンルの草分けで、、脳死、末期医療や尊厳死の問題など、テクノロジーが進歩するなかでの広い意味での生き方について考察を重ねている人です。
具体的な示唆はともかく、1812さんの問題意識にひっかかる部分がたくさんあることは保証しますよ。
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この回答へのお礼

有り難うございます。さっそくその方の本を読んでみましょう。

お礼日時:2002/02/14 00:37

>私はすべての臓器を提供する臓器提供意志カードくらいはいつも持って歩いてます。

これは、死に魅入られた行為ですか?
 それは、自分の死体を他者に利用してもらう事で、自分の死に何か意味を持たせようというもくろみですか?手前勝手なボランティアの様に感じます。ほんとに他人のことを考えているものは、「生きているからだをさしだす」。

>あなたは運命決定論を語っているのでしょうか?次ぎに出るさいころの目は、宇宙の誕生以来すでに決定しているという?
 さて、あなたの語る考えで、これからあり得るべき未来・・・
 
私が今だ今だ今だと、再三十ぐらい言っているのに、あなたは次や未来と言う、。
あなたが「さよなら」と言うと、私は「こんにちは」ってぐらい、意気投合してますね。
運命と言うのは、当事者(主体)がいてはじめて成り立つような概念です。運命だけがまわるような事はないのです。もし、あなたが運命を、非常に他律制御的であると感じるならば、勘違いです。運命は切り開くと言うのも人間的で傲慢ではありますが、魅力も感じます。生命力が感じられます。あなたの言う未来に、・今・あなたはいるのですか?

>直ちに遺書を書くことをその人に勧めます。自分であれば、それを望みますから。
あなたはそうではないでしょうが。

私なら泣くんですかね。その時にはその時の私がいます。彼女に任せればいいです。「もし」そうなら、彼女は「すでに泣いている」でしょうから、。
今には今の私がいるのです。あなたについても同様ですので、今ということを意識するべきだと言っています。 

自己の欲求を他人に当てはめるのではなく、自分のことのように他人を思うのですよ、。自分の事を思えない人には、私は、「今」や「あなた」とかを連発します。自分のことを思えない人は、いらぬおせっかいを人にやくものです。
わたしのことをいらぬおせっかいと思われているかもしれませんが。
自分のことを知るというのは、ソクラテスもあっぷあっぷで、別に彼がえらいとは言いませんけども、謙虚な姿勢で学べる事もいっぱいありますよ。
 
>私もその時が来れば同様にするでしょう。
さぁどうでしょう。人の気は移り気ですから、。流れる季節のように優雅、哀寂で透明感とリアリティがあればいいんですけどね。お父さんはそうした、私もそうするだろう。というのはあなたの姿勢ですか?
 
>延命処置の拒否が消極的ながらも安楽死、ひいては自死の前庭であることを、ご確認ください。
 了解しました。自死の前庭とは、素敵詩的な表現をなさいますね。
(50、60歳で病室に入ることも延命行為?)
病室で親子、話せる日を、私は否定しません。しかし、あなたには死に目に会えるような親御さんがいるではないですか。そこで思うことは、あなたの死でもあり、もちろん親御さんの死でもあるでしょう。私には、死に目に会えるような親もいないのですが、いつまでも子どもであると言うのは素敵な事です。
 
>培養液の中で生きながらえることができるようになれば、それも生きることゆえ、当たり前であると。
 「当然」のことをおっしゃているのか、「当たり前」とおっしゃっているのか、二者は意味もニュアンスも違いますが、こういうところで文字るのは労力がいる上に意思疎通が薄いので控えます。私の言う当然とは自然に近いと思ってください。原始的なのではありません。自然体と言う意味です。ふつーとは違います。
 
嫌気もささずに、広いお心でお話を聞いていただけて感謝しています。 
 
 苦は避けるような者ではありません。きっと反対されるでしょうが、。
苦しまずに子を、おのずから産める事は無いでしょう。
苦は浄化であるというと、宗教的で、非論理的で、盲信的な話と感じられるかもしれませんが、そうであるかもしれない程度に思ってみてください。これを説明する力は今、私にはないでしょう。そんなことまで言ってしまいますが、あなたにお聞きしてもらえているからです。
  
甘えて、さらに提示したい事があります。
・重度障害の人間には生きる意味を見出せるか?
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この回答へのお礼

臓器提供に関しては、こちらが生きてる間は必要ですから「生きてるからだを差し出す」はできませんねえ。いらなくなった時点でリサイクルに使うわけです。生ゴミとして燃やすよりは、役に立つでしょう。こんな事でしか社会貢献できませんから、私は。骨髄ドナーは「喘息持ち」なため、こちらが生きてても、受け取ってもらえませんでした。手前勝手なボランテアと声もあるから、日本でドナーは少ないですね。残念なことです。

>>嫌気もささずに、広いお心でお話を聞いていただけて感謝しています
 コミュニケーションがこんなにも困難な物であるとは思いませんでした。どうしても、意味が理解できない。この質問に答えてくださった多くの方々の、ご意見は理解できたつもりですが、summer lunchさんの主張だけは理解できない。
タオイストと話をしているようです(タオは笑っている。R,Mスマリヤン 工作舎)
水とは何か?の質問に「水素と酸素が化合した無色の液体。0度で凝固し、100度で、、」という回答を期待しているのに、「形無く、常にある物、命の元であり、、、」というような答えをもらっているようです。
 始め数回のご回答は、辟易しましたが、度重なるにしたがって、何とか理解しようと努力をしている自分が見えます。心が広いのではなく、理解しようと努めているのです。

 私自身の理解を容易にすべく、「あなた、もしくはあなたの愛する人が、、」の質問ですが、一般の方々は、「私がその立場になれば、賛成、反対、わからない」のどれかに分類される回答をしてくれる物です。が、あなたはそうではない。その状況が想像できないという事はないでしょう。「あなたが宝くじで1億円あてたら?」想像力が乏しいと言うこともないと思うのですが。自分はいずれ年を取って死ぬから、生命保険や年金をかけてるのではないですか?

50、60歳で病室に入ることも延命行為?)年齢の問題ではありません。それはわかっているはずです。

自分の生命を他人にゆだねるのは満足か?
延命処置そのものが、自然ではない。しかし、生きると言うことは自然なこと。延命処置をしないと、自分で判断するのも、自然ではない。では、延命処置を施され、いつやめるか判断するのは、他人であり自然ではない。
となれば、自身での判断が一番無理がないと思うのです。
 
「私は、安楽死は反対だよ。無理な処置もせず、ただ自然に任せるのが一番」と、ご回答であれば、わかるんですけど。あなたがそう言う趣旨での回答なのか、そうではないのかわからない。
 
 ・重度障害の人間には生きる意味を見出せるか?
これは、非常に難問です。まず、見いだせるのは当人が?か、周囲の者が?かです。さらに、自意識の問題があります。yes,no、で答えられる問題ではありません。私にはわかりません。時には、その人がいるからこそ、家族が一つとなりすばらしい愛で結ばれることもあります。その反対のこともあります。
良くも悪くも、人間は自然から離れた物になってしまいました。
 
 

お礼日時:2002/02/13 00:29

神?そのような観念はさっき捨てたじゃないですか。


>状況を仮定しての、質問にも具体的なご回答ではありませんでしたし、
仮定したり、「~たら、~れば、もし~」のどこが具体的なのでしょうか?そのようなものは「ただの思考」であり、現実から離れています。リアリティがありません。空想、想像の域を出えません。
具体的なものは、「今」ですので、仮定は無用です。
 
自分の命が自分のものであるかという問いは、
あなたはあなたの意思で生きているのか?ということと問い直しましょう。
 すでにあなたが生きているのは何故ですか?あなたがどうこうしたから「今」があるのですか?他人やお金があなたの「今」をつくってくれているんでしょうか?
 死ぬ時だって選べないはずです。何故なら、死ぬと言う行為の前に、自殺と言う行為を起こさないといけないし、又、その行為で死が完了する確率というものさえはかられうります。
自殺して失敗するような者は、自由意志を働かせたとはいえません。
自殺して成功する者も同じです。自殺しなければ死ねない不自由な者です。
本当の自由意志をもつものは、自殺しようと思ったときには、「すでに死んでいます」
選択肢が色々あって、その中で自殺を選び取る、それは自由意志ではありません。
または、もう自殺(自死)しか選択が残されていないという場合も、一つの選択肢があるので、自由意志の行使ではありません。それを、「選ばされている」からです。選択肢は無いと考えるべきです。
 
自由意志とは、選択そのものが存在しないことです。
行動の余地が無い事です。
だ・か・ら、自由なのです。何もしない事ではないですよ。すべてすることであり、あるがままであるこあとです。当然である事です。
余地は、あなたを選択と言う範囲に束縛します。それが無いということは、「解放」を意味します。
一般にいう、最たる束縛は、選択肢が一つしかない事です。自殺にしても、強制労働にしてもです。
ですから、その一つの選択すらもなくなった状態が、もっと束縛されている状態と、「勘違いします」。
しかし実際は違います。選択が無い事それは、自由と言う鎖で繋がれているのです。
さて、その鎖、鎖ですか?
 
選択と言う形では多様性はでても、最たる多様性を越える事は出来ません。
 
どろどろした自殺行使者は、どろどろした生を歩んでいるものです。それから解放されるべく自殺を「選んでいる」のですから、不自由のままではありますが、他人がとやかく言うことではありません。人の気持ちが解らないものはとやかく言い、人の気持ちがわかるものは、その人のことを思います。
又、のうのうと霧の中で生きたものは、不本意に、「死ぬ時に目が覚める」ものです。
自由な生者は、自由な死を「すでに得ています」。死を得ているものが死ぬでしょうか?
 
私は、多くの生者、多くの自殺者が、共に、「自由でない」といっており、両者すでに死んでいると言っています。さらに死なないように、説得しようとしているのです。その説得は、生者に、自殺者に共に向けられており、自殺のみを非難するような事はしません。そもそも、非難自体していません。こうだと言っているだけです。
>>自分の命は自分のものであるのか?
ですが、状況によります。例えば、友人や知人、・・・
 他者に立たせてもらうものは自分の命を得ていません。何故自分の命を語るのに、他を出すのですか?他人事はもういいといったではないですか。
 
例えば、「すべてを手にいれた者」がいたとします。
でも私は、その人はすべてを手にいれてないと言います。
その人の手が、その手に入ることはないからです。
何も所有しない者が、すべてを得ます。
何故なら、「すべてはその人と共にある」からです。
すべてのために命を捨てる者が、それを得ます。
何故なら、捨てたその人の命はすべての命であり、自分もすべてに属しているためです。その人は、自分も含めたすべてに、自分の命をやったんです。だから、命を得ます。
 多くの自殺者がいかに追い詰められ、どろどろのまま死んでいったのでしょう。
慈悲とはかけられるべくしてかけられます。
生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬでしょう。
彼らどろどろの自殺者は「仕方なく死んだ」のであって、死ぬべくして死んだのではありません。

 何かを握る自分の手など、忘れてしまったほうがいいです。その手は、あなたの足を引っ張るだけです。 
 
ずいぶん解りにくく、あなたの思うとおりの助言ではないかもしれませんが、私の気持ちも察していただけると、ありがたいです。なんどもきてしまい、手間をおかけしてしまいますが、広い心で、私の回答を何度でも読んでください。ありがとうございました。又、来るかも知れませんが、それが嫌だったら嫌とおっしゃってください。
>他人の権利と関係で「生かしておかれる」のはその状況になったとき、何ともやりきれません。
 気持ちはよくわかります。しかし、自分に権利もなければ、他人にも無いのです。あれは捏造された観念であり、観念を真っ先に捨てた者が、真っ先に自由を得ます。
権利という考え方がすでに、「他人事」です。
 
「人のことを考えろ!」というのは、他人のことを考えるのではなく、
「自分のことのように、その人のことを考える」事です。権利と言う考えがここで出てきますか?
 
最後に付言しますが、「選択の自由は束縛」です。選択が無い事が自由です。それは何もしない事ではないのです。

この回答への補足

そうそう、私の父は癌で数年前に死にましたが、最後の入院の時は延命処置をきっぱりと断り、点滴の鎮痛剤を徐々に多くし、眠ったままでした。鎮痛剤の大量投与が死期を早めたのは事実でしょうし、私も母も、本人も十分理解した上でした。
母も、延命処置はとらないことを何度も言っております。
延命処置の拒否が消極的ながらも安楽死、ひいては自死の前庭であることを、ご確認ください。
私もその時が来れば同様にするでしょう。ちなみに、私はすべての臓器を提供する臓器提供意志カードくらいはいつも持って歩いてます。これは、死に魅入られた行為ですか?

補足日時:2002/02/11 22:36
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この回答へのお礼

あなたは運命決定論を語っているのでしょうか?次ぎに出るさいころの目は、宇宙の誕生以来すでに決定しているという?
 さて、あなたの語る考えで、これからあり得るべき未来を考えたならば、科学が進み、死にかけた体から脳髄を取り出し、培養液の中で生きながらえることができるようになれば、それも生きることゆえ、当たり前であると。

「自分のことのように、その人のことを考える」事です。なるほど。それならば、直ちに遺書を書くことをその人に勧めます。自分であれば、それを望みますから。
あなたはそうではないでしょうが。

お礼日時:2002/02/11 22:33

>一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からでしょうか?



自殺していない他の人が、おもしろくないからだとおもいます。

>死ぬときは自分の意志に従って行動してはなぜいけない?

仲間であれ、敵であれ、残されたほうは、非常におもしろくないです。

不謹慎とは知りつつ・・・

かなり以前、マージャンをやっていて、ある一人が少々負け始めたのを機に、ゲーム姿勢が極めて投げやりな態度になりました。そのうち「あ~ぁ、おもしろくないし、やめちゃおっかな~、どうせ負けてもxx円くらいだし・・」なんていいながら、あからさまに負けるような牌を捨て出したのです。
他の3人は、ものすごくおもしろくなかったですよ。
そのとき、そいつとは格段親しい間柄でなかった私も「そのような態度を取ってはいけない」ということを思い知りました。
生きるゲームからの勝手な離脱は、他の参加者に対してすごくおもしろくない態度です。

だから、「いけないこと」です。

安楽死のほうは、よくわかりません。自分自身が激しい苦痛の中にいて、なお、「安楽死は自殺になるので、しない」といえるかどうかが解らないからです。

また、「いけないこと」イコール「私は絶対にしない(否定)」ではありません。
周囲の人より、自分が大切だから、反則とわかっていても、敢えてそれを実行する場合もありえますから。

#上記の麻雀のエピソードは、あくまで私の創作です。私は賭博はやっていませんし、万一やっていたとしても、時効のはずです。
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この回答へのお礼

人生をゲームと例えられるのは、確かにあります。しかし、単純にゲームといえるのか。今日本では、生きる力が希薄になっている感じがします。その中で、さほどの理由無く死んでしまうのは、不快感を感じます。しかし、わたしが「今のところ」問題にしているのは、そのような希薄な自殺ではなく、もっと人間的などろどろとしたところでの回答です。本来死にたくはないし、しかし、そこから脱出する唯一の手段は、自分で死ぬしかないと言う状態。しかし、周囲には、それを様々な理由で否定する。その中で、あえて・・・という状態ですね。

お礼日時:2002/02/11 10:39

2回目の回答です。



私は「自ら死を選ぶこと」はいいと思います。さらに私が植物人間になった場合は、殺して欲しいと思います。

可能を選択できるのであれば、もちろん否定もできるので個人の選択肢が増えればいいと思います。

自殺について、最近は自殺者が多いと思われますが、もう少しがんばって欲しいと思います。震災や事故、戦争など本当は生きるべき(生きたい)人間が亡くなっています。思い上がりですが、不可抗力で亡くなった人間に対して自殺という手段はぼうとくしている気がします。しかし、一方で自殺は仕方がないとも思います。自己が判断したことだから、本人にとっては一時的にしろ良いことなのでしょう。はがゆく思うこととして、価値観の変遷があります。戦後すぐの頃は、日本全体が貧しく自殺の原因は、食糧難にあったと聞いたことがあります。食料は生命維持に繋がるので、仕方ないようにも思えますが、現代では、生命維持に関係ない事象が多いと多いと思います。豊かになったがゆえに自殺へのプロセスが精神的なものへ起因してしまうことがはがゆい。

植物人間について思うことは、話せない、動けない、表情がないなど、西洋医学では心臓が鼓動している限り生命と定義していると思いますが、周りから見れば(家族を除く)モノでしかないように思います。思い入れはあっても、置かれているだけだから…一方、私に関して言えば植物人間となった場合、無駄なものにお金をかけて欲しくないと思うので、殺して欲しいと思います。
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この回答へのお礼

>>豊かになったがゆえに自殺へのプロセスが精神的なものへ起因してしまうことがはがゆい。

この部分には全く持って同意します。付け加えるならば、「同じく殺人も」

お礼日時:2002/02/11 10:41

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