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こちらのカテゴリーでは、初めての質問になります。どうぞ宜しくお願い致します。

よく人は、長生きしたい、死にたくない、死ぬのは怖いと言いますよね。
私は、死に対してあまり怖さを感じなく、「死ぬ時=寿命」と思っています。死ぬ瞬間の怖さより、事故・病気等で痛い、辛い思いをすることのほうが嫌です。
漠然としていて、「実感がわかない」とも言えそうですが、そうなってくると、「実感」ってなに?誰も知らないことなのに。死にたくないって言う人と私はなにが違うんだろう?・・・と、だんだんドツボにはまり、最終的には面倒くさくなって、違うことを始める、という軟弱者?です。そこそこ、幸も不幸も味わっている人間だと思います。

皆様は、死に対する恐怖が薄いことについて、どう思われますか?

打ち込みが遅いので、お返事が遅れるかもしれません。宜しくお願い致します。

A 回答 (23件中11~20件)

死に至るまでの経過とか、死に方(?)とか、又は今死ぬわけにはいかない等もろもろの話ではなく、<死に対する恐怖>と言うだけの事ならば、私も少しも怖くはないです。


経験のないこと、見た事も聞いたこともない事には恐怖は感じないです。
すべての生物皆に訪れる事ですから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

同じ感じかたをする方がいて、嬉しいです。
恐怖を感じる方となにが違うのか、がまだぼんやりしています。

お礼日時:2006/05/12 11:08

> そうかもしれません。

「死は無意識」だと思っているので、
> イメージできないんですよ。

 その「ので」は、成立しません。何をどう思っていようと、イメージできる/できないには関係ありませんから。

> EmethGさんは、想像力を駆使して恐怖を感じている、とい
> うことですよね・・・?

 違います。私が述べたのは単なる一般論です。
 そもそも、私が一言も言っていない「駆使」や「感じている」という話を持ち出しても、それが私に関する正解をかすっている可能性すら乏しいということは、知っておきましょう。
 私に関する情報が無い状態で、私に関する話が突然出てきた場合、その情報源はあなたの脳内です(これも一般論として言えます)。この場合、あなたは自分の殻を他人に投影しているに過ぎません。そして、投影している可能性すら想像できていないわけです。

 以上の発言からも、想像力が欠けていることがよく分かります。
 自分が最初に思い込んだことだけを正しいとするのではなく、様々な視点をそれこそ「想像力を駆使」して探しましょう。そして、その想像した結果が論理性をもっているかどうかは、きちんと考えて検証しましょう。

この回答への補足

 

補足日時:2006/05/13 02:47
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この回答へのお礼

 

お礼日時:2006/05/12 09:32

私見ですが、



わたしは死ぬことに対する恐怖を、この世の未練だと思っています。すなわち、やり残したことがあるが故に、まだ死にたくないというわけです。

むしろ、死ぬことよりも、死ねないことに恐怖します。もし、永遠の命を手に入れてしまったら、何万年何億年、否、永遠に死ねないのです。これこそ、真の恐怖ではないでしょうか?

幸いにして、わたしは永遠の命などを手に入れてはいないですから、いずれ死ぬことが出来ます。しかし、まだ死にたくない。と言った具合なのです。

日本だけで年間三万人を越える自殺者がいます。彼らにとっては死よりも、生の方が恐怖のはずなのです。わたしは、真の理性とは、生死の選択を自ら行えるものだと思っております。故に、現代の、恥も外聞もなく生きることただそれだけを賛歌する風潮には辟易しているのです。

質問者さんは何もかけていません。武士道とは死ぬことと見つけたり、とも言うぐらいですから、人から羨ましがられてしかるべきでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「永遠に死ねない」のは、私も怖いです。

私の自殺に対する考えはkumotyannさんと違います。
「生きることただそれだけを賛歌する」つもりではありませんが、自分の意志に関係なく自然に生まれてきたのだから、自然に死んでいくのが本当なんじゃないかって。自分で手をかけてはいけないんじゃないかって。理屈はわかりません。ただ、そう感じるだけです。だから、「永遠に死ねない」としたら・・・自殺もできないということですよね?・・・結構早い段階で、精神が崩壊すると思います。苦しまなくて済むように。自分自身を守るために。

kumotyannさんの文章は丁寧で親切ですが、一方で、自殺者が多数いるのに、死が怖くないなんてけしからん・・・とも、取りようによっては思えます。もし、私の質問がお気に障ったのなら、申し訳ありません。

お礼日時:2006/05/12 10:58

NO9です。


特異な意見となりますが同じ心境を理解できる者の話として聞いてください。

まず私の信じているものは神様仏様ではなく人間そのものです。
したがって依存的な信仰心は持ち合わせておりません。

お返事をいただいて死への恐怖を感じない方が魂の広がりを理解されていないことに驚きました。
多分極めて現実的な考え方の出来る人だろうと思います。
人の心の中を覗くことは出来ませんが、死への恐怖とは要するに妄想で、欠けているものがあるとすれば、この妄想というものを本格的には体験されたことが無いのではないかと思いました。
悪いことではないので悩まなくていいと思います。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

「魂の広がり」・・・?
「妄想というものを本格的には体験・・・」死の恐怖を感じる方々は、体験している、ということですよね?
え~・・・みんながそうなのかな・・・?

また新たな疑問が・・・。

お礼日時:2006/05/12 10:25

No.8です。


宗教ということばに嫌悪感を持たれたのならゴメンナサイ。
少し、言い方を変えます。
なぜ、死に対して今ということを強調するかというと、死を語ったり、学問として捉えるとき、死は抽象化され概念化され対象化されひいては、ずっと先のもの=自分には関係ないもの=他人事となる恐れがあります。
自分もやがて死ぬ(このやがてがクセモノ)とか、誰でも死ぬ(やっぱり他人事かよ)とかでは通用しない話だと思うのです。

よって死を私自身の死と受け止めるために、私の場合は「今私が死ぬ」事として考えるしかないということです。
失礼ながら、私が少し感じたのは、akiracchi2006さんがどれくらい自分自身の死として受け取っておられるのかなということでした。

akiracchi2006さんが、自分の生死を克服されているのであれば、それは大いに結構なことだと思います。
他人が持つ恐怖を自分が持たないから、と不安がる必要もないことでしょう。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

いえ、嫌悪というよりは、単純に「疑問」です。
生死の話をすると、だんだん宗教の方向にいきますよね。それは何故なんだろう。宗教抜きで話はできないものなのか?と、ただ思っただけです。

「自分の生死を克服されている」・・・それすら、わかりません^^; ただ、今日交通事故にあって命を失うことになっても、心残りはもちろんありますが、それはそれで自分の運命なのかな、と思います。

お礼日時:2006/05/12 10:16

当方も十代のときに死への恐怖を打ち払いました。


人がいずれ死を迎えることは変えようの無い現実で、そこに恐怖感は無用です。
必ず誰もが迎える死に対して肯定できないのは煩悩そのものです。

ちなみに当方は仏教哲学の特に唯識を道しるべにして頭をまっさらにして何も考えないでいられるようなとこまでたどり着きました。
自らの心と対話してみると、無意識は魂が永遠の存在であることを(予知能力なども駆使して)確信しており、死に対して安らぎすら感じています。

それから唯識の知識からすると、質問者様が死の恐怖から遠ざけられていることは、あなたの無意識が煩悩の種を上手に抑圧してあなた自身に近づけないようにしていることを示します。
とてもお利巧さんで仕事上手の無意識です。
自分自身を好きになることが無意識に対する最良のご褒美です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ごめんなさい、はっきり言っていいですか?

文章中段部分。
宗教を全然知らない私としては、「はぁ、そうですか・・・」としか言えません。だって、確認の仕様がないですもの。

なにか、お誉め頂いたようで、恐れ入ります。

「無意識は魂が永遠の存在であることを・・・」ということは、primeapeさんも、死後の世界はある、魂は生き続ける、というご意見なのですね?

お礼日時:2006/05/12 01:45

自分が死ぬことへの恐れを大まかに3つに分けてみました。



1.死ぬに際しての未知の身体的苦痛に対する恐れ
  (断末魔の苦しみを想像する)
2.自分の存在が永遠に消滅することへの恐れ
  (生存したことの意味も分からないまま死に
   二度とこの宇宙に出現することはない)
3.死ぬことによって愛しい人たちと永遠に別れる恐れ
  (愛しい者と二度と会えない悲しみや
    残された者の今後に対する心配)

いずれも大変な苦しみですが、どのレベルで話をするのかということは話を混乱させないためには大切です。
死の恐怖の核心的な部分は2.に該当すると思いますのでここに焦点を当てて回答します。

質問者は1.は怖いが2.は怖くないと言っておられるように感じます。
結論から言えばまだ死を遠い先の事として話しておられるような感じを受けます。
少なくとも、とりあえずしばらくは死なないだろうとという前提での話しのような感じです。

自分が、たった今死んでいく事を、何もワケが分からないまま、永遠に消滅していくことを、本当に納得して受け止められるのかという事です。
また、まだ知りたいこと、出会いたいもの、しなければならない大切なことをはもう無いのか。
まだ有るならば、それを知り出会い行う機会を永遠に失ってよいのか、ということです。

他人も同じようだからまあいいか、などという呑気な話ではありません。

私は死の問題を根本的に解決するのは宗教しかないと思っています。
生死出ずべき道(しょうじいずべきみち)
有限な私に「生き死にを超える道」を示してくれるのが真の宗教のだと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

前半部分は、ほぼmangou-kuttaさんのおっしゃる通りです。

自分が、たった今・・・のあたりから。

やりたいことがあるのに、死を受け止められるか?ということですよね。やりたいことは、ありますよ。しりたいこともあるし、楽しいことも好きだし。

・・・・・・でも、死んじゃうんですよ。その時が来れば。
絶対的ですよね。「やりたいことがあるのに」なんて言ってられない。有無を言わさず来る。

生死の話になると、どうしても宗教が出てきますよね。どうして?宗教で解決するのかなぁ?・・・あ、タメ口になってしまった^^;  ごめんなさい。

お礼日時:2006/05/12 01:18

人間は同じ刺激には慣れてしまいます。


死の恐怖という刺激・・・死ぬまでの何十年間も怖がっていられるほど
人間はナイーブではないのでしょう。

 ところで本当に自分は死ぬのでしょうか?客観的に見れば私の死体が
あれば私が死んだ事になるのでしょうかが、主観的に見れば私の死体は
ただの私の形をした肉の塊であり、それは私では無いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「死後の世界がある」というご意見ですね。

下の方達のお礼で「死は無意識」と書きましたが、死後の世界があるか、ないかと問われれば、正直なところは「わからない」になりますね。ない方により気持ちは強いですが・・・。

「死後の世界」の話をすると、どんどん質問内容からズレていく恐れがありますね^^;

お礼日時:2006/05/12 00:39

 単に、あなたには想像力が欠けているのでしょうね。



 恐怖の源泉は、想像力です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうかもしれません。「死は無意識」だと思っているので、イメージできないんですよ。

EmethGさんは、想像力を駆使して恐怖を感じている、ということですよね・・・?

お礼日時:2006/05/11 23:57

こんばんは



若かったせいもありますが、私も家族を持つまでは、「死ぬ時=寿命」と思っていました。
しかし、夫、子供が出来たとき「死にたくない」って思うようになりました。
守るべき人が出来たとき「死にたくない」というより「死ぬわけにはいかない」って思うのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私も大切な人達はいます。
これは、個人レベルでの話なんですよ^^

例えば、天涯孤独の人でも「死にたくない」と思うでしょうし・・・。

お礼日時:2006/05/11 23:50

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