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以前、盆に実家に帰ったとき、親から墓参りに誘われました。

その墓は実家から10分ほどの近所にあり、すぐに行けます。また、その墓に入っている先祖たちは私が生まれる前に全員死んでいて、ついでに祖父が養子に入ったとかなんとかで血縁関係もありません。したがって、知らない人なので、その先祖にはまったく思い入れがありません。

そして、私は仏教や死後の世界をまったく信じていません。したがって、遺骨は骨にしか思えませんし、墓の前で祈っても先祖が聞くわけではないと思っています。生者が死者を思い出す機会としては有効だと思いますが、知らない人を思い出すことはできないので、私が墓に行ってもやることがありません。

以上の理由を挙げて、私は親に墓参りを断りました。また、私は興味がないが、親が墓参りをしたいのであれば、したら良いだろうと話したところ、ずいぶんごねて、何度も私を誘いました。一人で行くのは嫌だったようです。

結局墓参りには行かなかったのですが、墓参り自体に意味を見いだせなくても、親の強い希望があり、特に墓参りする障害がないのであれば、墓参りしても良かったかな、と思い返しています。

さて、ここで皆さんにお聞きしたいのは、以下の2点です。

1、社会通念上、墓参りはするものか
2、私は墓参りすべきだったか

A 回答 (6件)

竹内久美子著「そんなばかな」遺伝子と神について


を読まれたことはありますか?
しきたりとか風習とか覆されますよね。

>私は仏教や死後の世界をまったく信じていません。・・・

そういう人は多いですよ。
でも、口にする人は少ないです。
年配の方がそんなことを言ったら顰蹙ものです。
皆が神妙にやっていることに意義を感じないことは
異邦人の心境になってしまいますからね。

私の場合
自分と関わりの深い人ほど、喜ばせてあげたいし、ガッカリさせたくないので、
お祭りであろうが、初詣であろうが、誘われれば、
時間の許す限りお付き合いする方を選びます。
意外にも自分が学んだり、楽しんだりするかもしれませんしね。
ご先祖のお墓であろうが、靖国神社であろうが、
その前に行くことに意義を感じている人がいるのなら、
ごもっともなのだろうと思います。
たとえ「千の風になって」の詩が頭を過ったとしても、
その人はそう感じるように育ってきたのだから、
その人を否定したり、茶化したりすることは
自分の悲しみになってしまうんですね。

自分を構築する時間は限られています。
やはり多くの人と良好な人間関係を築く上で共通項を持つことは大切です。

大物と言われる人たちが遠路はるばる、重要な仕事をキャンセルしてまで葬儀に列席するために駆けつける報道などを見るにつけ、
冠婚葬祭をあだや疎かに考えるべきではなさそうとの見解が1、の問いになったのでしょうね。

若さと身内への優しさから2、の問いに

どちらの問いにも端的なお答えは出来ませんが、
何か読み取っていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>そういう人は多いですよ。でも、口にする人は少ないです。
こういう回答を期待していました。私は諸事情があり、早くから親元を離れて一人暮らしをしつつ引越しを繰り返したため、こういった感覚に乏しいのが欠点なのです。

>自分と関わりの深い人ほど、喜ばせてあげたいし、ガッカリさせたくないので、
私もそうありたいものです。

>やはり多くの人と良好な人間関係を築く上で共通項を持つことは大切です
大変参考になるご意見です。

お礼日時:2006/06/15 20:02

人間死ねば終わりです。

墓参りに行っても死者は何も感じません。
葬儀にしろ、墓参りにしろ、死者のためにするのではなく
生きている者のためにするのだと思います。
とりあえず"普通に"やっておけば、親兄弟親戚同士のいざこざや、
近所の人の心ない噂話に対するリスクを減らすことができます。

1、社会通念上であれば、するものだと思います。
2、親のために付き合っても良かったかもしれません。
でも、用事があったり、あなたが何らかの強いこだわりを持っていて
行かないのであれば、無理に行く必要は無いと思います。

私の場合、年に一度ぐらいは散歩がてら行きます。
まあ、儀式みたいなものなので、意味を問うても仕方ないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>人間死ねば終わりです。墓参りに行っても死者は何も感じません。
個人的に同意いたします。

>とりあえず"普通に"やっておけば、親兄弟親戚同士のいざこざや、近所の人の心ない噂話に対するリスクを減らすことができます。
「普通」にやらないことでいろいろなリスクを抱えるものなのですね。私は社会経験が乏しいので、そういった感覚に欠け、勉強になります。

>でも、用事があったり、あなたが何らかの強いこだわりを持っていて行かないのであれば、無理に行く必要は無いと思います。
特にこだわりは無いのですが、普段は墓から離れた場所に住んでいるので、墓参りも大変だということで、墓参りには行っていません。質問文のケースは、たまたま盆に実家に帰っていた例外的なケースなのです。

>儀式みたいなものなので、意味を問うても仕方ないです。
私も毎年正月に神社に行きます。神道を信じているわけではないのですが、同じように儀式みたいなものです。ちなみに、親は寒いと言って嫌がるので、誘うことはありません。

お礼日時:2006/06/15 20:11

こんばんは



1、2、とも自分の意思で行けばいいと思います

ただ、今の自分が生きているのは先祖がいるからなんだということですよね

私はそれを感謝しに墓参りに行きます
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>今の自分が生きているのは先祖がいるからなんだということですよね
そうですね。仰る通りです。

>私はそれを感謝しに墓参りに行きます
なるほど。そういう考えもあるのですね。確かに先祖に感謝する方法で、他には思いつかないので、個人的に良い方法だと思います。

お礼日時:2006/06/15 19:57

一般的に見ると、かなり批判を浴びそうなご質問ですが、若者らしく素直で気持ちの良い主張だとおもいます。



ご質問の回答ですが、あくまで私の意見です。
1)社会通念上、といえばするものでしょうね。
  理由はありません。常識的に判断というレベルです。

2)墓参りすべきだったか?これが難しいでしょう。
 ご自分のご両親が亡くなった後の事をとりあえず想像してみて下さい。彼らを思い出すために墓参りしますか?
ご両親としては、息子が墓参りしてくれそうも無いと不安に思われたのではないでしょうか?

支障なければ一緒に言ってもよかった、と思われてるんですから、あとは気持ちの問題ですね。

もう1つ考えるなら、将来子供が生まれたとして、ご自分が死んだ後、骨はお墓に入れてもらいたいですか?
「自分の骨は鶏の餌にでも何にでもしてもらえば良い」と思うのなら、それはそれで1つの考え方だとは思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>常識的に判断というレベルです。
常識ですか。理屈をこねて断っても仕方の無いことなのですね。

>彼らを思い出すために墓参りしますか?
墓参りはしないと思います。命日かなにかに思いだすことはあるでしょうが、その際には写真かなにかを見て思い出すほうが、私の心情としてはピッタリくるのです。故人を懐かしむために墓参りに行く習慣が付いていないので、墓参りに行っても故人を懐かしむ気持ちにはなりにくいのです。

>息子が墓参りしてくれそうも無いと不安に思われたのではないでしょうか?
上記のように、両親を思い出すことはあるでしょうが、思い出す形式として墓参りをするかどうかは不明です。両親が、墓参りという形式で思い出してほしいと願っていた場合、その期待は裏切ることになります。

>ご自分が死んだ後、骨はお墓に入れてもらいたいですか?
私は海か山に散骨を希望しています。その際には魚かミミズに食べられることでしょう。
ただ、散骨は少なくとも現在ではあまり一般的ではないため、私の子供が社会通念に従い、嫌がるかもしれません。私が死んだ後、私の遺骨の処遇は生者である私の子供が決めることになりますので、結局墓に入る可能性もあります。
遺言に散骨する旨をきっちり書くことも可能ですが、ただの骨が生者を煩わせることも嫌なので、そこまでしたくはありません。

お礼日時:2006/06/15 19:55

1、社会通念上、墓参りはするものか


まず、一番のご質問ですが、墓参りは個人的な心の問題であり社会的な意味で行うものではありません。自発的な行為だと考えます。

ちなみに仏教の発祥地インドでは今では多くはヒンズー教徒ですが、人が死ぬと火葬にして川に流します。従って墓などありません。ブッダも弟子に葬儀をさせず、自分の墓を拝みなさいとは言いませんでした。

2番については本人の自由。他人があれこれ口出す問題ではないということ。以上です。

これからは私の心の問題です。
仏教ではキリスト教と異なり人間は神が造ったとは考えません。また仏が人間を造った訳でもない。仏教は縁という考え方をするのです。つまり父と母が出会ったから私は生まれたのです。その父も二人の親がいて存在したのです。親には二人の親その二人の親にはそれぞれに二人の親が存在しなければ今の私は存在していない。

このように考えていくと私という存在は無限の命の縁の存在を思うのです。私という存在は命のバトンの最前列に位置しているということがわかります。

ブッダは霊魂を認めなかったといわれていますが、墓に先祖の霊魂がいるということではなく、目に見えなくとも自分という命にたどりつくまでバトンしてきた無数の命を思い出す場面があてもよいのではと考えます。

こんなことを考えていると顔も知らない無数の先祖に感謝する時間もたまにはあってもいいような気がしています。

だから自分の命を確かめるために墓参りに僕は行こうと思うのです。たとえ墓には見知らぬ先祖の骨が一つしかなくても、無限の命がそこにあるとも思えてくる。あとは想像、イマジネーションですが、だからといって僕の妄想を他人に強要することではありませんので、あしからず。
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この回答へのお礼

難しい回答、ありがとうございます。

>社会的な意味で行うものではありません
そうですか。

>こんなことを考えていると顔も知らない無数の先祖に感謝する時間もたまにはあってもいいような気がしています。
そう思う回答者さまが是非墓参りに行ってください。

>無限の命がそこにあるとも思えてくる。
なるほど、そのようなことを考えるひともいるのですね。

お礼日時:2006/06/13 17:36

確かに、わたしも墓参りには行って、とくに何をする気もありません。


いや、掃除はするけど、別に先祖と話をすることはないから。
ただ、他の人が墓参りをすることに、異議を唱える必要はないし、信心は人それぞれで良いと思います。なので、あくまでも親の手伝いとして墓参りについて行くのは、親孝行で良いじゃないですか。
私は初詣に行っても、原則的に賽銭もお願いもしません。別に神頼みをしたいこともなからです。
まあでも、気が向いたときには子どもの安全や世界平和を祈っていますよ。個人的なことは自分で解決すべきことだから、いちいち神頼みや先祖にお願いしたりはしませんね。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます。

>わたしも墓参りには行って、とくに何をする気もありません。
このような人が自分以外にもいるとは知りませんでした。墓参りでは皆神妙な顔をして黙ったいるので、なにを考えているのかわからないのです。

>他の人が墓参りをすることに、異議を唱える必要はないし、信心は人それぞれで良いと思います
そうですね。私もそう思います。

>あくまでも親の手伝いとして墓参りについて行くのは、親孝行で良いじゃないですか。
そうですね。労働力として必要だから来てほしいと頼まれれば、多分行ったでしょう。

お礼日時:2006/06/13 17:20

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