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第一次大戦当初、ヨーロッパ諸国に比べて陸軍師団数がかなり少なかったのではないでしょうか。またそうだとしたらなぜなんでしょうか。師団というよりも、兵員数といったほうがいいかもしれません。それが第2次大戦時には、日本は100を超える師団を作れたのはなぜなんでしょうか?

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A 回答 (12件中1~10件)

まず日本陸軍の師団数の変遷からお答えします。



明治以後近代的な陸軍が誕生してから最初の近代戦といえる日清戦争当時は7個師団を維持していました。その後日露戦争開戦当時から終戦当時まで師団数は11個から21個に膨れ上がりました。

第1次大戦当時は英国と同盟を結んでいた日本は、戦場がヨーロッパということもあって、若干の海軍が地中海へ派遣されたくらいで、陸軍はかえって17個師団に縮小されています。

あなたの最初の疑問である、ヨーロッパ諸国に比べて日本陸軍の師団数が少なかったという理由がこれに当てはまると思います。
つまり日本はこの戦争を対岸の火事程度にしか見ていなく、逆にヨーロッパへの輸出で国力を蓄えたというおまけまでついていました。

次に第2次世界大戦ですが、日本陸軍の師団数は日中戦争から第2次世界大戦開始当時までに51個師団を編成しています。

結果的に終戦時には日本の陸軍師団数は近衛師団から数えて第355師団まで編成されていました。

といっても実際に350個以上の師団があったわけではないんです。
実際には師団の実数は172個だったはずです。

実はこれにはちょっとしたからくりがあるんです。
日本陸軍の師団はその番号でその編成目的や装備、兵力などが分かるようになっていました。

つまり1から99までの番号を持つ師団は、主に正規の戦闘集団であり、これを常設師団といいます。
100から199までの番号の師団はその常設師団が独自に編成した特設師団といいました。

これはあまり知られていないことなんですが、例えば第1師団が編成した特設師団が第101師団、第5師団が編成した特設師団が105師団というふうに番号を振り分けていたのです。

言い方を変えると、当時の戦略上の最小単位である師団というのはある程度の自己判断的裁量を持っていたということですね。

そこで、またまたちょっとしたからくりがあるんですが、じつはこれら100番台200番台300番台の師団が全部揃っていたかというと、そうじゃないんですね。

100から199までの師団は実質59個で、41個の欠番がありました。
200から299までは実に84個の欠番があり、実質は16個、300から355までは実質11個師団しかありませんでした。

つまり、単に数字合わせというか、員数を合わせていただけなんですね。

100番台の師団が常設師団が特設した師団ということは書きましたが、ちなみに200番台の師団は本土決戦用師団と位置づけられた機動師団で、野砲や山砲、速射砲などの充実が図られましたが、それも全てにというわけではなくかなりのむらがあったようです。

これが300番台の師団になると、沿岸配備師団と名づけられた水際作戦用師団で、兵士一人一人に与える銃もない状態でした。では何のための師団かといえば、装備の充実した師団が応援に来るまで体を張ってでも上陸してくる敵を食い止めろという、もう聞いただけでも泣きたくなるような使われ方をされるところでした。

ちょっと余談が長くなりました。

日本の師団編成上、兵士の数は平時で12000人、戦時で25000人というのが標準でしたので、単純に172×25000とすると、430万の兵を動員したことになり、ご質問のヨーロッパが桁違いに動員をしたというのは当てはまらないことになります。

もっとも戦時編成師団は連隊数を一個減らしたりした、中身をあんこ抜きしているような師団が多く見られ、実数的にこれが絶対に正確だとは言えないところもあります。

ちなみに、その戦時の動員ですが、当時はどの国も徴兵制度があったので、いったん訓練を終えて除隊したものを予備役に入れ、戦時に召集して兵力を増やすという手法が一般的でした。
この予備役というのが、日本では在郷軍人と呼ばれているものです。

現在でも徴兵制をとっている国々では理論上、戦時になれば予備役を動員して通常兵力の最大10倍程度にまで兵力を増やすことが可能です。
もっとも全員に与える武器や装備が揃うはずもないので、ほとんどが消耗した兵員を補充する程度の役割だと考えてもいいと思います。

またまた余談が長くなりました。もうついでだからもうちょっと書かせてくださいね。

通常平時では徴兵検査をパスして訓練を受けさせられるものは全体の15%程度でした。これは厳しい訓練を続けられることの出来るかどうかを判断した結果なので、意外と当時は日本も常識的というか、きちんとしていたんだなぁって思ったりします。

ところが第2次世界大戦に入ると、これが51%の合格率になり、昭和17,8年には60パーセント、そして終戦の年になるとなんと90パーセントの合格率になったんですね。

当然年齢や体力に問題のある人間も無理やり徴兵されていました。
これを見ると、いくら師団数が何百個あろうとも、無駄に血を流すだけの戦いになっていたことは明らかでしょうね。

ほんと長くなりました。申し訳ないです(~_~;)
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この回答へのお礼

長大で丁寧なご回答、ありがとうございます。
よくわかりました。
対岸の火事と、本当に総動員するのは、大分違ったものなのですね。戦時とはいえ、現役師団のみというのが第一次大戦なわけですか。

第二次大戦の日本軍総動員の様相もよくわかりました。400万なら何とか様になっても、800万の動員は所詮無理だったです。

お礼日時:2006/08/05 00:22

質問から脱線していまして、これ以上書くのは気が引けるのでここまでにします。



最後に参考になるリンク先を
http://www.geocities.jp/military_uniform/siryou/ …
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No8の補足です。



言葉がたりませんでした。
師団の根幹は歩兵連隊で師団を編成する時これだけでは兵力が不足すると思われる時、砲兵連隊や騎兵連隊を適宜増強するのです。
歩兵連隊の保有する大砲は山砲程度で数も少なく歩兵の直援が使命で砲兵のような集中運用を前提に編成されてはいませんでした。

兵団というのは師団への増援編成が複雑になりノモンハン戦の小笠原兵団のように戦車連隊や野戦重砲連隊のような連隊まで増援されたケースがあります。
普通は師団砲兵と呼ばれ口径の大きい大砲が配備されるのですが、ノモンハンではソ連軍の砲兵力に圧倒される為大規模の砲兵を増援配備しました。
戦時の編制は戦況に応じかなり自由に決められるものです。 戦闘中の損耗も生じますから。

ご指摘有り難うございます。
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ごめんなさい、どうしても気になったのでこの点についても修正させてくださいね。



>兵連隊とか砲兵連隊とか兵種毎に分けられ、戦時にはこれらを適当に組み>合わせて師団としたのです。

そんなことは全くありません。固定です。
歩兵連隊は師団に4つか3つ所属しているので番号はバラバラですが、固定です。
その他の砲兵連隊とかは、基本的に師団の番号と連隊の番号がいっしょです。第○師団に所属ずる砲兵連隊は第○野砲兵連隊か第○山砲兵連隊です。
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「兵団」というのは正式な単位ではなく通称ですね。


将官が指揮する師団や独立混成旅団などが「兵団」
佐官が指揮する連隊や大隊が「部隊」
尉官が指揮する中隊や小隊が「隊」
となります。

それから、師団が独立して作戦を行える単位という定義は日本軍でも同じです。
欧米が戦略単位を軍団として師団はその下の単位とするのに対して、日本陸軍は師団を戦略単位としていたという事がよく言われますので、
師団という単位の重要性は欧米より高いと思われます。
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この回答へのお礼

よくわかりました。

お礼日時:2006/08/05 00:27

日本の軍制は当初国内の反乱に備えてその鎮圧を目的に設置された「鎮台」が元になってこれが後に師団と改名していったので、主体は構成連隊によっていました。


平時でのこれら連隊は教育機関をかねて国内向けには治安維持部隊でもありました。

騎兵連隊とか砲兵連隊とか兵種毎に分けられ、戦時にはこれらを適当に組み合わせて師団としたのです。

本来師団とは独立して作戦を遂行出来る単位と定義されるのですが日本ではかならずしもそのように定義されるものではなく便宜上の定義でしかありませんでした。

外国ではかなり厳密な意味に捉えられていて兵力などの比較に用いられるのでそれと混同されている可能性があります。

平時編成では選抜された現役兵の教育のため維持予算の関係上少数精鋭で編成されますが、戦時では訓練済みの予備役を召集して兵力を増強します。
戦時編制ではほぼ2倍の規模となります。

このほか兵団という単位がありその規模は師団以下も師団以上の規模もありまちまちでした。

第2次大戦では日本は戦時体制で国民総動員でしたから老人と幼児を除く男子は全て兵士と見なされましたから数字の上だけなら数百師団を編成するだけの頭数はありましたが支給すべき武器はありませんでした。
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この回答へのお礼

戦時では予備役を招集すると、ぐんとふくれあがる訳ですね。日本軍の様相がよくわかりました。

お礼日時:2006/08/05 00:26

大事な事を忘れていました。



第1次大戦は基本的に日本にとっては対岸の火事なので「平時」
第2次大戦は日本はバリバリの当事者なので当然「戦時」

という事になります。
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単純に質問者の答えに絞って言うなら、「平時」と「戦時」の差です。


「平時」つまり平和なときに100個師団揃えておく必要はありません。最低限の兵力だけ揃えておいていざというときに増やす仕組みだけ作って置けばよいのです。これは日本に限らずどこも同じです。

それではその仕組みというのはどういう物かというと、「平時」の軍隊というのは最低限の人数(職業軍人+現役兵)で構成されています。現役兵というのは徴兵検査で甲種合格したうち抽選で選ばれた人たちです。この時点では師団も全く定数を満たしていません。
さてこれが「戦時」になり動員がかけられると、いわゆる赤紙で集められた応召兵がこれに加わり定員を埋めます。日本人の男子は基本的に全て兵役の義務がありますから、基本的に全て対象となります。といっても年齢、兵役の有無、徴兵検査の成績等によって何段階にもランク付けされ、その順番で招集される事になります。この結果大人数の兵力が必要な総力戦の様相が深まるにつれ、ランクの低い、つまり高年齢で兵役経験が亡く、徴兵検査の成績も悪かった男子がかり出される事になります。また現役兵のソースとなる徴兵検査の基準も緩くなり、平時なら乙種となるべき人間も甲種となり、しかも甲種になったら抽選なしで全員即刻入営という事態も太平洋戦争末期には起こっています。

日本陸軍が新しい師団(常設師団ではなく)を編成するしくみとして「留守師団」というものがあります。これは常設師団が外地に出征した後に一部の人員を留守師団として残し、それを母胎に招集した兵隊で新たな師団を作るものです。この師団が出征したら、また同じように留守師団を残してまた新たな師団を編成する訳です。
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この回答へのお礼

日本軍が急激に師団数を増やしたからくりがよくわかりました。本当に戦時と平時は違うものですね。

お礼日時:2006/08/05 00:24

質問の本筋は動員数ということでしょうか?



手元の大雑把な資料によると、
日本は第一次世界大戦には本格参戦してませんから
このときは総動員はかけてませんが、
それでも1905年には
陸海軍あわせて120万人ぐらいの兵員がいます。
その後、平時編成にかわるので
1931年に戦争(つまり15年戦争)が始まるまでは
兵員は50万に満たないレベルですが
1940年には190万ぐらいに達し
総動員の極みに達した
1945年には800万人を越えていました。
当時の人口が5000万人前後ということを考えると
16%にも達するわけで6人に1人が兵隊という異常さです。

他方、
1911年、つまり第一次世界大戦の段階では
日本の国力は西欧列強の半分程度です。
歳入を比にすると 
日本:イギリス:ドイツ:フランス:ロシア=79:152:143:159:277
日本は日露戦争では80%を軍事費に当てたこともありますが
平均すると20%ぐらいで、しかも装備は2流。
(”欧米並み”と表現されるけど、要するに並みではトップに立てないわけで
追いついた時には先端は先を行っていて
常に遅れていることを意味します)
人件費よりも装備の近代化に多くの資本を
投入しなければならないわけで
おのずから兵員には限界があるのは理解できるでしょう。

最後に師団数と兵員数が違うという話ですが、
日露戦争時、常設が14個師団で、臨時3個が加わって
17個師団が動員(一部は戦場にはいってない)されましたが
戦闘に参加した兵員は約百万人です。
師団兵力はあれこれ含めて2万106人と計算されるのですが
これを単純計算すると、一見、40万に満たないと
考えてしまって、符合しないでしょう。
しかしこの数字は”定員”を示しているだけで、
実際に参加した総数を意味しません。
戦争では大量の補充兵が次々送り込まれるので
師団数から動員数を計算することはできないのです。
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この回答へのお礼

平時と戦時とは違ったものなのですね。
平時で臨んだ第一次大戦は、欧州とは大分様相が違っていたわけですか。
よくわかりました。

お礼日時:2006/08/05 00:16

昭和16年には現役師団58、他に旅団、空軍などを合わせて、約200万の将兵を陸軍は持ってました。

(海軍が約40万)
どうして、このような大きな戦力をもつことができたか?
あまり自信はありませんが、これは日中戦争(シナ事変)の動員法によると思います。戦線を拡大していったため、予備軍人を招聘して、予備師団を大量に作っていきました。中国軍相手では、とりあえず人数さえ揃えば、(歩兵だけで)十分戦えたからです。
他に、関東軍が満州で16個師団握っており、国内の留守師団も必要ですから、200万という大量の兵数になったんだと思います。
それに対して、海軍は兵数より兵器の方が重要ですから、それほど増えてないと思います。
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この回答へのお礼

やはり、それくらいの動員能力はあるのですね。

お礼日時:2006/08/05 00:12

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第二次世界大戦直前の1935年頃の軍事力を国別に順位付けしたらどのようになるのでしょうか?

自分の予想は下の通りです

陸軍力
1ドイツ2ソ連3アメリカ4日本5フランス6イタリア7イギリス

海軍力
1アメリカ2日本3イギリス4ドイツ5ソ連6フランス7イタリア

できれば根拠もいただければうれしいです

Aベストアンサー

付け足しです。1941年6月に関してはこうなるかと思います。
   陸軍
1・ドイツ(保有師団数・車両・航空機・経験で圧倒)
2・ソ連(保有師団数・車両・航空機はダントツ)
3・日本(動員中兵力と航空力が優れる。車両面では遅れ気味)
4・米国(保有兵力は少ないが、航空力は優れる)
5・英国(植民地大国の強み、兵力と車両保有数が優れる)
6・イタリア(兵力こそ多いが士気及び弾薬が枯渇)
番外・フランス(降伏したため植民地軍しかない)・中国(組織だっていない)
   海軍(カッコ内は建造中の数)
1・米国…戦艦17(10)・空母6(5)・巡洋艦及び補助艦が多い
2・英国…戦艦13(2)・空母7(3)・巡洋艦及び補助艦が多い
3・日本…戦艦10(3)・空母8(10)
4・イタリア…戦艦6(2)・空母(2)
5・ドイツ…戦艦2(1)・装甲艦2・旧式戦艦2・空母(1)・潜水艦多数
6・ソ連…戦艦3(4)・潜水艦多数
番外・フランス…戦艦5(1)・空母1(降伏したため評価不能)

44年7月になると
   陸軍
1・米国…工業力で車両・航空機がダントツ
2・ソ連…兵員の数と車両は多い
3・ドイツ…総動員体制に突入したため生産力が急上昇
4・英国…米国の援助で戦力が回復
5・日本…歩兵と航空機は多いが、車両が不足
番外…フランス(亡命政府)・イタリア(停戦後の再編成中)
   海軍
1・米国…戦力がダントツ
2・英国…ドイツ軍の潜水艦攻撃は収まり制海権を回復
3・日本…なんとか戦力を維持している状態
4・ドイツ…風前の灯
5・トルコ・アルゼンチン・ブラジル・チリ…戦争していない
番外…フランス(亡命政府)・イタリア(停戦)・ソ連(壊滅)

付け足しです。1941年6月に関してはこうなるかと思います。
   陸軍
1・ドイツ(保有師団数・車両・航空機・経験で圧倒)
2・ソ連(保有師団数・車両・航空機はダントツ)
3・日本(動員中兵力と航空力が優れる。車両面では遅れ気味)
4・米国(保有兵力は少ないが、航空力は優れる)
5・英国(植民地大国の強み、兵力と車両保有数が優れる)
6・イタリア(兵力こそ多いが士気及び弾薬が枯渇)
番外・フランス(降伏したため植民地軍しかない)・中国(組織だっていない)
   海軍(カ...続きを読む

Q日本の軍事力は第一次大戦時どのくらいだったのでしょう

1914-1918年当時日本の陸軍軍事力というのは各国と比べてどのくらいだったのでしょう。どの国と同じくらいかという意味で。欧州列強にはとても並べないでしょうが、イタリアぐらいとは並んでいたのでしょうか。また海軍だけとればどうなのでしょう。

Aベストアンサー

イギリスは、第2次までずっと主力艦の数では郡を抜いて多いです。性能も第1次大戦時最高クラスでした。海軍力で1位はイギリスなのは確定です。
ドイツも同様です。ただしイギリスよりは艦船数が劣るため2位です。
アメリカは、南北戦争以降ほとんど戦争に関与しなかったという国家です。そのため、欧州やその影響の強い日本海軍とは別の進化をしていた海軍です。ただ、国力の面で圧倒的なので、保有数は多いです。3位は確定ですね。

日本なのですが、とりあえず日露戦争で勝利したものの、いまだ欧米と比べると見劣りします。国力の面では言わずもがななのですが、技術力でもかなり背伸びの感があります。
金剛なのですが、イギリスで建造されたものですね。技術会得の要因もありますが、いまだ最新鋭となると「海外発注」という状態です。当時それをおこなっていたのはトルコなんかが代表ですね。
特に鋼材技術は大きくいびつであり、金剛のドリルは有名ですね。イギリス製の金剛の装甲に日本製のドリルを使ったらドリルが欠けたというものです。これって案外深刻な話です。
比叡以降は日本で作ったものですね。4隻そろえば一応世界最強の巡洋艦隊とはなるのですが、戦争は1艦隊でするものではないです。

艦船の数で上回っていても技術の面で欧州には及ばないため、肩を並べるのはかなり厳しいかと思います。イギリスを仮想敵国扱いして技術を磨いていたフランスと、そのフランスを敵対視していたイタリアよりも下かとは思いますがいわゆる陸軍国のオーストリアとなら・・・ロシアは日露戦争の大敗北で新型艦建造に大きく出遅れているため、論外かと。

陸軍に関してですが、これは第1次大戦で、大きく様変わりします。日本は欧州戦域でいわゆる「近代戦」を行っていません。アメリカは一応行ってはいるのですが・・・この差は大きいです。第2次大戦で大きく響くことになります。
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よって、第1次大戦中であっても、近代戦による改変を行わなかった日本軍は大きく遅れをとっています。

航空技術力では、やはり欧州には大きく遅れをとっています。技術力のタッチアップは特に深刻で、第2次大戦まで尾を引く状態となります。

イギリスは、第2次までずっと主力艦の数では郡を抜いて多いです。性能も第1次大戦時最高クラスでした。海軍力で1位はイギリスなのは確定です。
ドイツも同様です。ただしイギリスよりは艦船数が劣るため2位です。
アメリカは、南北戦争以降ほとんど戦争に関与しなかったという国家です。そのため、欧州やその影響の強い日本海軍とは別の進化をしていた海軍です。ただ、国力の面で圧倒的なので、保有数は多いです。3位は確定ですね。

日本なのですが、とりあえず日露戦争で勝利したものの、いまだ欧米と...続きを読む

Q貴族や騎士・兵士は何人ぐらいが妥当でしょうか?

貴族や騎士・兵士は一国あたり何人ぐらいが妥当でしょうか?

異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件で、本当におおまかな数(“少なくとも○人は居て、○人以上だと多い”程度)で良いので妥当な数をお考え頂けないでしょうか。
ちなみに騎士はほぼ騎兵で、歩兵は傭兵を雇うのが一般的ということでお願いします。
■A国
絶対王政
国土面積:約2100万平方キロメートル(現在のロシアと中国の間くらいです)
人口:約5000万人
爵位:公爵、辺境伯、伯爵、子爵、男爵、準男爵、士爵
10以上の国を併呑し、統一して誕生した大国。
貴族は文官と武官に別れ、文官は領地を持たず武官は領地を持っている。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる一代限りの爵位。
軍は国の軍(王の常備軍?)のみ。ただ、全員が王都にいるわけではなく、王族を守る近衛兵と、王都を守る兵、国境を守っている兵(全て騎士)に別れる。王都と国境以外の街は、領主が雇った警備兵(庶民)が常駐する。稀に警備兵から騎士に取り立てられる者がいる。戦時中のみ傭兵を雇う。
海洋貿易が盛んで、海軍がある。海軍は貿易航路と海岸沿いを守っている。
同程度の規模の敵国と国境(山と川)を接していて、現在は冷戦中。

■B国
絶対王政
国土面積:約100万平方キロメートル(現在のエジプトくらい)
人口:約255万人
爵位:公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、士爵、名誉士爵
軍事的に強い国ではない。隣国の二国(東西の国)と三国軍事同盟を結んでいる。
あまり裕福ではなく、極端に貧乏でもない。海が無い。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる爵位。世襲制。名誉士爵は伯爵以上の位を持つ者が、何かしら国に貢献した者に与えられる一代限りの位。免税と、街に入る際の優先権が与えられる。
軍の形は海軍が無いこと以外はA国と同じ。
同盟のため東西の守りは薄く、南の国境を重点的に固めている。北は砂漠で、国が無い。

以上です。
そもそも上記の条件の時点で無理があるという場合は、そちらもご指摘いただけたらと思います。


それとタイトル外のことなのですが、上記の設定で色々考えた結果、全世界の人口が二億人ちょっと程度になってしまいました。
ちょっと人口が少なすぎるかなと思うのですが、いかがでしょうか……。もしわかるなら、合わせて答えていただけると嬉しいです。

貴族や騎士・兵士は一国あたり何人ぐらいが妥当でしょうか?

異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件...続きを読む

Aベストアンサー

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊は約35万人。
ロシア・・・・人口約1700万人。軍隊は約22万人。
プロイセン・人口約200万人。 軍隊は約3万9千人。
スペイン・・・人口約600万人。 軍隊は約3万人。

○なおヨーロッパの人口は1600年(16世紀)でも約1億人程度だったそうです。
ちなみにその頃のヨーロッパの人口の約四分の一は、ハプスブルク家の領地に住んでいたと推定されています。

○軍隊における兵士の数は、当然、その国のおかれた周辺の状況にもよってくるでしょう。
戦争状態にあったり、敵対国家が隣接していれば大きな軍が必要になりますし、周辺全てが友好国ならば、軍の大きさも抑え目になる場合もあるでしょう。
前述した1700年頃の人口と軍隊規模からは、人口の約0.5%~約2%程度が兵士であった事がわかります。
ただし、これも絶対というわけではなく色々なケースがあります。
特に傭兵を雇う場合、資金があればかなりの軍を維持できます。
16世紀、「北方の獅子」と呼ばれたスウェーデンのグスタフ2世王は、ドイツに進攻し軍事的成功をおさめ、15万人の軍隊を率いています。
しかし、そもそもこの頃のスウェーデンの人口は約100万人程度しかなく、15万人もの兵士のうちスウェーデン人はその約2割の3万人程度でしかなく、他は現地のドイツ人やイギリス人などの傭兵だったそうです。
ただ、傭兵を雇えばお金がかかります。
グスタフ2世王は現地ドイツの味方の貴族や都市から寄付金を募り、味方でないところの都市や、貴族からは、攻めない略奪しないと約束して、安全保障費を払わせ、軍を維持する資金を得ていたそうです。
ただし、傭兵を雇用し資金繰りに苦しみ失敗した例もあり、それがハプスブルク家です。
前述した16世紀におけるハプスブルク家の領地の人口は約2500万人ですが、この頃、ハプスブルク家の軍は、傭兵を主体に30万人を超えました。戦争も多く戦費も嵩みます。その結果、国の財政は殆ど破綻しています。

■そういうわけで、知恵を絞り、歴史に学び、工夫すれば、かなりの軍を作品内で動員する事が可能になるかと思います。
良い作品ができますようお祈りいたしております。

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊...続きを読む

Q『更迭』と『罷免』の意味

皆様、こんにちは。

最近何かとよく耳にする『更迭』と『罷免』ですが、意味が同じように思えてなりません。(他にも『解任』などもあったりして)

どちらも、『人を辞めさす』という意味で間違いないと思いますが。
gooの国語辞典で調べると、『罷免』は単に辞めさす事。
『更迭』は他の人に変える事とでてきます。
だとしたら、『更迭』の用法としては『○○を△△に更迭する』という形となると思うのですが、新聞やTVなどメディアでは『○○を更迭』と使っている気がします。
これは単にメディアがきちんとした使い方をしていないという事なのでしょうか?

なんだかうまくまとまりませんが、『更迭』と『罷免』について分かりやすい用法や明確な違いをご存知の方がいらっしゃれば是非教えて下さい。
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

罷免--免職と同じで、辞めさせる事. **を罷免する。はやくいえば首
解任---任を解く  課長の任、地位を解く。**さんを解任するはその人の任(地位)を解くで、**さんを辞めさせるという事ではない。結果的には首もあるでしょう.
更迭---人を変える。**を更迭する。--に***を更迭でもいいし、**を更迭するでも、どこへ行こうが更迭をされる事実がわかれば、いいのだから、**を更迭でもかまわいと思います.地位を下げられる人もあり.

Q陸軍大臣と参謀総長はどっちが偉い

旧陸軍において、
陸軍大臣は国務大臣なので天皇を「輔弼」する立場。つまり天皇に助言するだけで決定権はありません。また統帥権の独立のため軍事作戦には口出しできませんでした。
対する参謀総長は、軍事作戦は主導的に決定し、作戦立案後に天皇の事後承諾を得ていましたが、
こう考えると、参謀総長のほうが陸軍内では偉いように思いますが正しいでしょうか。

Aベストアンサー

陸軍大臣は予算の獲得など行政折衝のトップ
参謀総長は有事の作戦立案など陸軍外務のトップ
教育総監は陸軍内務のトップ

です。この3人を陸軍3長官と言い、同格です。
その活動目的は全て違いますのでどれが偉いということはありません。ちなみに天皇を補佐するのは軍事参議官という予備役将軍たちです。

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q中国共産党が国民党に勝利した要因は?

第二次世界大戦終了後、中国では毛沢東率いる共産党と
蒋介石率いる国民党とが内戦をしていたそうです。
どうして共産党が勝利することができたのでしょうか?
貧弱な兵器しかない印象がありますが。
また、ソ連が一時支配していた旧満州地域はどうやって折り合いをつけたのでしょうか?
ソ連が引き下がったのが不思議です。
一悶着なかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>第二次世界大戦終了後、中国では毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党とが内戦をしていたそうです。

正確には、日中戦争以前から内戦がありました。
日中戦争・第二次世界大戦中は、国民党・共産党は「抗日」目的のため停戦していたのです。大同小異・呉越同舟です。
この戦時下、国民党・共産党軍が作成した「抗日プロパガンダ写真」(TIME雑誌等の写真を歪曲修整し、反日意識を高めた)が、現在の抗日資料館に展示している写真です。
(実物写真と歪曲写真を比べると、興味深いですよ)
日本敗戦後、停戦状態が終わり再び内戦になりました。

>どうして共産党が勝利することができたのでしょうか?

先ず、国民の大多数を占める農民・労働者の支持を得る事が出来なかった事でしよう。
中国歴代王朝も、彼らの支持が無くなると滅亡しています。
(歴代王朝滅亡から新王朝樹立間に、各時代1000万人前後が犠牲になっています)
それと、解放軍(八路軍)兵士に農民出身者が多く「思想統一を行った」事です。
貴族・資本家・地主などから搾取された彼らは、共産思想に夢を見た訳ですね。
今までの辛酸を「仕返し」の力と変えたのでしよう。
反対に、自由主義者(有識者)は、「反革命」の下に大量虐殺を行っています。
旧満州国の首都・新京では「八路軍が30万人住民全員を殺害」していますよ。(当時のアメリカの新聞記事及び生存者談)
(現中国の教科書には「無血入城」となっていますが)
「思想的に一致団結した一枚岩の軍隊」と「自由な思想・意見を持った軍隊」では、戦う前に結果が見えてます。
それと、経済的な強烈なインフレでしよう。
戦費調達で、大量に紙幣を発行したので「紙幣は紙屑」になったのです。

>貧弱な兵器しかない印象がありますが。

八路軍は、ゲリラ戦が得意なんです。
ゲリラ戦には、近代兵器は必要ありません。
また、人海戦術が可能でした。
ベトナム解放戦線(ベトコン)もゲリラ戦が得意で、米国・韓国軍を破って(ベトナム戦争に)勝利しましとよね。
※ベトナム人従軍慰安婦と韓国軍人との混血児が、約15000人存在しています(ベトナム政府調査)。
※韓国政府は認めていないので、金大中・ノムヒョンがベトナムを訪問した時に謝罪・賠償を拒否しました。

>ソ連が一時支配していた旧満州地域はどうやって折り合いをつけたのでしょうか?ソ連が引き下がったのが不思議です。

旧満州地区(中国東北部)は、もともと清王朝の領土でした。
ソ連としては、分捕った領土を渡す気持ちは一切ありませんでしたが、米ソ対立の下で中国共産党と争いを避けたかったようです。
同じ共産党政権同士、アメリカに対抗する必要があったのです。

>第二次世界大戦終了後、中国では毛沢東率いる共産党と蒋介石率いる国民党とが内戦をしていたそうです。

正確には、日中戦争以前から内戦がありました。
日中戦争・第二次世界大戦中は、国民党・共産党は「抗日」目的のため停戦していたのです。大同小異・呉越同舟です。
この戦時下、国民党・共産党軍が作成した「抗日プロパガンダ写真」(TIME雑誌等の写真を歪曲修整し、反日意識を高めた)が、現在の抗日資料館に展示している写真です。
(実物写真と歪曲写真を比べると、興味深いですよ)
日本敗...続きを読む

Q帝国主義時代に列強の軍隊が植民地の軍隊に敗れたことはありますか?

帝国主義時代に列強の軍隊が植民地の軍隊に敗れたことはありますか?


圧倒的な軍事力で列強は世界中の国々を植民地にしましたが、近代的な装備の列強の軍隊が植民地の軍隊に敗れてしまったことはあるのでしょうか?あれ程戦争を繰り返していたのですから負けた事もあるはずです。

Aベストアンサー

回答者の皆さんが殆ど回答されてしまったので

帝国主義の始まった契機と言われるオーストリア・ハンガリー発の恐慌の起きた1873年から第一次世界大戦に至る時期に限定すると

対有色人種の帝国主義戦争では
1879年1月に起きたズールー戦争でのイサンジュルワナの戦いではないかと

ダンフォード率いる英軍2800名が槍を主武器にするズールー族10000の奇襲を受け
イギリス白人兵670人と黒人徴募兵471人が戦死し敗退
(ズールー側も1000人以上戦死)
なおズールー戦争では英軍に志願していたナポレオン3世の子息も戦死しています

エチオピアのアドワはよく引き合いに出されますが
あの時はエチオピア側が仏露から伊軍より新型のライフルを大量供与され
伊軍もアスカリ(現地兵)中心でまともな地図もなく迷っていた時に圧倒的多数で攻撃されたので仕方ないですね

帝国主義戦争で帝国主義国家側がさんざんたる敗北を喫したのはボーア戦争でしょ
ボーア人は自らをアフリカーナと呼ぶように先住民を自負していましたが
農民服に私物帽子にライフルという民兵主体で英軍からボーア(百姓)と馬鹿にしていましたが
大苦戦し、特に1899年12月のブラックウィークと呼ばれるようになる1週間で
何れも英軍側が兵力的に優位にあったにも関わらず3連敗しました
・ストームベルクの戦い
英軍ガタクル将軍率いる3000名がボーア軍800人に壊滅させられ捕虜634名を出す大敗

・マゲルスフォンテインの戦い
対マフディー戦争など戦闘経験豊富なワウチャウプ将軍率いる英軍旅団4000人がボーア軍に伏撃され
死傷者971人を出し敗走(ボーア側死傷者250人)

・コレンソの戦い
太平天国の乱鎮圧やズールー戦争に従軍経験ある英軍ブラー将軍率いる18000人が
ボーア軍ボタ将軍率いる5000人に迎撃され敗北、ブラー将軍は重傷、戦死150、負傷756、捕虜240
(ボーア側死傷者27人)

長文失礼致しました

回答者の皆さんが殆ど回答されてしまったので

帝国主義の始まった契機と言われるオーストリア・ハンガリー発の恐慌の起きた1873年から第一次世界大戦に至る時期に限定すると

対有色人種の帝国主義戦争では
1879年1月に起きたズールー戦争でのイサンジュルワナの戦いではないかと

ダンフォード率いる英軍2800名が槍を主武器にするズールー族10000の奇襲を受け
イギリス白人兵670人と黒人徴募兵471人が戦死し敗退
(ズールー側も1000人以上戦死)
なおズールー戦争では英軍に志願していたナポレオン3世...続きを読む

Q男爵領、伯爵領の規模って

西欧の貴族の男爵領、伯爵領等について。

男爵領や伯爵領等の貴族の領地の基準は何で決まるのでしょう?

ここまでが男爵領、これ以上が伯爵領、侯爵領というような基準を知っている方がおられたら教えていただきたいのですが。

Aベストアンサー

爵位と領地の広さは関係ありません。
男爵領を持つ領主を男爵と言い、伯爵領を所有する領主が伯爵となります。
そもそも男爵とは、昔からその地を収めていた豪族にあたります。
子爵は、上級領主から派遣された者がその地に根づいた者、伯爵は、国王や上級領主から叙勲された者をいいます。
ですから、昔から広大な所領をもっている土豪は、広大な領土を持つ男爵となります。
12世紀ごろ南フランスのカルカッソンヌ子爵は、カルカッソンヌ・ベジエ・アルビなど広大な領土を支配していました。
それは、フォア伯爵領の2倍にもなり、アンジュー伯爵領やブリターニュ公爵領にひってきする面積になりました。

Q大砲の最大射程距離は何キロですか?

大砲の最大射程距離は何キロですか?
戦艦大和の主砲の最大射程距離は40キロで瀬戸内海から撃つと四国を超えて太平洋に着弾するというのを聞いたことがあります。
以下質問です。
1.現在の大砲で最大射程距離を有するものは何ですか。距離はいくらですか?
2.火薬を使わず、リニアモータのような方法で弾丸を発射するという研究はあるのですか?

Aベストアンサー

スエーデンとノルウェーが開発した「アーチャー」自走榴弾砲で射程は 30 km (普通の砲弾)~60 km (エクスカリバー誘導砲弾).
あと, アメリカ海軍がレールガンを開発中. 目標は 64 MJ 級. とりあえず現在 8 MJ クラスは実験されている.
と, どちらも「フューチャー・ウェポン・21世紀 戦争の真実」 (ディスカバリーチャンネル) から.


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