「パイドロス」でソクラテスが弁論術の批判をしていますが、弁論術とはなんですか??ソクラテスがつかっている問答法とどうちがうんですか?いまいちよくわかりません。おしえてください。

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A 回答 (5件)

はらはらするな(笑 盛り上がるのはいいけど(祭


ソクラテスって史実的にいたの?プラトンの創作人物じゃないんだ?
まあどっちでもいいけど。
処世術という言葉がそっからきてるとは驚き!知らんかったわ。今さっき別の質問で使ったばっかりだよ、その言葉!
でも、救世術の方がずっと大事だな(笑
ソクラテスの問答法は、ソクラテスがたずねるんだよ。基本的に。
で、相手の奥底を徐々に徐々に導いてくる。で、相手が、もう出す物がありません(泣、。ってなったら、ソクラテスの仕事は終わり。
弁論術、いかに相手を黙らせるかはソクラテスと同じだけど、到達点がゼンゼン違う。ソクラテスに黙らされると進化するが、弁論術で表層をいじったって、根本にある虚に気付く事は無い。
余裕の自信ナシです。(笑

PS:他の解答者の話し聞くの楽しいな!こんなgooみたいな学校があったら、俺は学校やめてなかったのかもな(笑←今年、自信満々で辞めました!(爆 
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また補足としてパイドロスでも登場する法廷弁論家のリュシアスが


エラトステネスの告発を、政治的な弁術で無罪にされてしまう歴史的な事実も
あります。弁論術がプラトンによって書かれるにはそのような背景が
あるのです。おそらくアリストテレスの『弁論術』によって整理された
論理学的な分類学とを混同されているのかもしれませんね。
たしかにソフィストがすべて詭弁をろうしていたわけではありません。
あくまでもプラトンが批判しソクラテスに語らせる弁論術の中でという
ことを前提にしています。

それからパイドロスの最後の方には「書かれた言葉への不信」が語られています。
弁論術も問答法も「話す言葉」であることは注目しておきたい点です。
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哲学史として間違っておられるので言及いたします。


質問されている方はパイドロスにおける批判について問われています。
これはいわゆるプラトンの解釈に即したものを問われており、
辞書をひけばわかるような回答ではないことはたしかです。
弁論術が「論を弁ずる技術」などということは文字を見るだけで
わかるばかりか、一般的なイメージでも連想できることで
それをことさらくどくどと難しそうに説明する必要はないでしょう。

プラトンの著作はつねに現実的な問題についてのべられてきました。
特にパイドロスの成立した時期を考慮すると、社会的な構造の
問題もふくまれてこの弁論術は批判されているのです。たしかに
弁論術には、ヘーゲルが注目したような弁証法の萌芽もあります。
しかしそうした技術がいかなる意味において用いられているかということを
明らかにしなければ、プラトンの批判の意味は理解できません。
ただ「論を弁ずる技術」ならどうして批判する必要があるのでしょうか。
歴史的な意味合いから弁論術とは弁護するために生まれたものなのです。

しかしまさに<弁護するため>という「目的」によって論理というのは
使用するべきなのかどうか、本来は「目的」ではなく論理とは「探求」
そのものなのではないかと問い始めたのがプラトンの人物造形による
ソクラテスの問答法なのです。ですから同じ物であるという間違った見解を
述べている人がいますが、全く別の形式をもったものであると考えなくては
なりません。この混同は重大な誤解です

ソクラテスが言葉を「探求」しようとしたことは、ほんとうにプラトンを
読んだことがある人であれば誰もが感じることのできることでしょう。
議論を差し向けられた相手が答えに窮するのは、言葉を本質的に
探求したことがなかったからなのです。「国家とはなにか」「勇気
とはなにか」「善いことはなにか」なにげなく普段使っている言葉
そのものにソクラテスの疑問はむけられます。

こうして我々は、プラトンがのべた弁論術と問答法の違いを、その成立の背景も
ふくめて区別する必要があるということです。
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  少し違っている気がしますので、愚見を述べさせていただきます。
 
  「弁論術」というのは「自分を弁護する論を立てる術」ではないと思います。それは端的に「論を弁ずる(述べ・語り・説明し・主張する)技術」のことだったと思います。いかに自分に都合のよいように、論を述べるか、処世術とか世渡りの術としての弁論なら、世界中の文化であります。
 
  古典ギリシアで特に「弁論術」が問題になるのは、古典ギリシア文化が、際だって「合理的」であったからです。「合理的」であるためには、「論のすじみち」つまり「理(ロゴス)」を知らなければならない訳で、古典ギリシアにおいて、多くの、議論家が現れ、また、確かに裁判に勝つための議論術も教えたのですが、彼らは、「理=ロゴス」とは何かということを追求しました。これらの人たちをソピステース(普通、ソフィストと言います)と呼んだのですが、彼らは、人間の言語や理屈や論理を様々に研究し、色々な議論の仕方や論の立て方を発明しました。
 
  その色々な論の立て方次第では、白を黒とも、美を醜とも相手を納得させるような論が立てられたので、人間は論次第で、ものごとを真偽を自分で決めることができる、真とか善などの基準は、客観的にあるのではなく、人間の心のなかにあり、それを論によって操ることのできる人間に一切の基準はあるということで、プロタゴゴラスというソピステースは、「人間は万物の尺度である」とも言ったとされます。
 
  古典ギリシアの弁論術の興隆と展開は、「合理性」とは何か「論理的とは何か」「真とは何か」「理性とは何か」などの問題について、大いに考察し、豊かな成果を生み出しました。ソークラテースは、ソピステースの一人である、もっとも偉大な、最大のソピステースなのです。プラトーンが述べるソークラテースの議論も、随分詭弁と紛らわしいものがたくさんあります。
 
  ソピステースたちが、色々な議論の方法を開発し、実用化したので、「論理」とは何かという考察や反省が進んだのです。しかし、ソークラテースは、最初、自然哲学者で、それからソピステースとして活躍し、最後には、「愛智者」になったのですが、ソピステースとしての彼は、自身、詭弁を述べていたとも云えます。ソークラテースは、プラトーンの著作に出てきますし、クセノポーンの回想記にも出てくるはずですが、その他に、当時有名だった「喜劇」にも、登場人物として出てきます。そこに出てくるソークラテースは、息子を弟子入りさせると、詭弁を論じて、とんでもない者に変わって帰って来たとか、または、色々あやしげな物質をまぜたりして、奇怪なことをやっている錬金術師みたいなイメージでも出てきます。
 
  プラトーンやクセノポーンが伝えるソークラテース像とは、相当に違った姿で出てきます。これは、ソークラテースが、自然哲学者で、自然の研究もしていたし、ソピステースとして、詭弁活動にも励んでいたことを示します。
 
  ソークラテースはしかし、違う活動もする訳です。それは、伝承では、彼の友人が、デルポイにあるアポルローン神の神託所で占ってもらったところ、「ソークラテース以上の智者はいない」という答えが出たので、ソークラテースは「自分が、この世で最高の智者とはどういう意味か」ということを考え始めたのが契機だともされます。
 
  ソークラテースは直感的に、あるいは明敏な智慧で、ソピステースたちの論のなかに、虚偽議論としか思えないものがあることを見抜いていました。ソピステースたちは、「正しい議論方法」と「虚偽の議論方法」の両方を開発したのです。どれが正しく、どれが間違っているかなどの系統的な区別や、また「正しい論理」とは何か、というのは、アリストテレースの「論理学」で、古典論理学として、それから二千年以上、1世紀ほど前、記号論理学が出てくるまで、論理学といえばこれだとされていた、アリストテレースの古典論理学に、その分類というか、区別が出てきます。こういう論理学という書物を著すことができたのは、ソピステースたちが、たくさんの議論や論の立て方を開発したからです。
 
  例えば、弁論術のなかで、「詭弁論理」とされるものは、「虚偽論」に色々な虚偽の論のパターンがありますが、「言葉の曖昧さ」を利用した虚偽弁論もあるし(二つの意味がある言葉を使って、場合場合で、都合のよい意味の方を使うとか)、一見もっともらしいが、よく考えると、最初の前提に、結論がすでに入っているもの(「論点先取の虚偽」と言います)、また「偉大なペリクレースもこのように述べている」とか、権威に基づいて、一見、真に思わせ、人を納得させる虚偽弁論(これを、「権威による論証の虚偽」と言います)、また人々の同情を買い、「このような善良で、ポリスに献身した人について、その罪を問うのは、寛大な人のなすことではない」などと主張することも、有罪か無罪かという観点からは虚偽論法になります。ただ、これは「情状酌量」ということで、現代の刑法でも、別に虚偽ではなく、残っていますが、論理から言えば、一種の虚偽です。被告人の態度とか、弁護士の弁論の腕前で、有罪のはずが無罪になったりするのは、やはりおかしいのですが、どれが詭弁か、どれが正しい論証か、実際には判断が難しいのです。……推論法での誤謬というのもあります。例えば、「アテーナイでは、古来より男は清廉潔白で、更に市民たる者は、清廉潔白が旨とされてきた。このわたしはまさに男であり、まさにアテーナイの市民である。このわたしが何故、清廉潔白でないことがあろうか」などは、推論規則で間違った推論とされます。これも詭弁論法ですが、色々飾りを付けて、こういうことを主張すると、本当のように思えてきます。
 
  それはとまれ、「弁論術」そのものは、功罪あいなかば、というより、功績の方が大きかったのです。ソークラテースはしかし、当時の考えからは、「少し古い倫理観」を持っていたのです。あるいは、あまりにも新しい「人間観」でしょうか。両方共云えるのです。ソークラテースは、ソピステースらしく、あくまで「論で考えよう」という態度を崩しませんでした。その一方で、自分は博学博識で智者(ソポス)だと思っていたが、デルポイの神託以来、反省して考えてみると、自分で色々なことを突き詰めて考えると、他人を納得や説得させられても、自分は「納得できないこと」が無数にあることを自覚したのです。
 
  そこで、ソークラテースは、智者を自称しているソピステースの元に行き、色々な問題で、「わたしはよく分からないので、教えてほしい」という風に質問して行きます。そうすると、相手は回答するのですが、ソークラテースはそれに納得できないで、答えの欠陥や疑問点を、「論」によって質問します。そうすると、「論の術」を売り物にしているし、実際、自分でもプライドを持っていた相手は、これに対しても回答します。しかし、ソークラテースは、それでも納得せず……という過程になって、最後に、相手のソピステースも、「分からない」という返答になります。つまり、「自分は智者でない」ということを、他の聴衆の前でも明らかにせねばならなくなったのです。(この結果、ソークラテースは、ソピステースたちから恨みを買い、また彼らのパトロンでもあった有力者や貴族からも恨みを買い、後にでっちあげの裁判の被告席に立たせられます)。
 
  ここで、ソークラテースが議論した相手は、彼らなりの「論理」で議論したのだということが重要です。議論のベースとなる、手順あるいは共通了解の基盤があったのです。ソークラテースはそれを知り尽くしていたので、相手の論に、疑問を呈することができたのです。つまり、ソピステースの弁論術は、決していい加減なものではなかったのです。
 
  ソークラテースはしかし、ソピステースの弁論術では、究極の問題の「答え」はでないと言うことに気づき確信します。それなのに、ソピステースたちは、自分を「智者」と称し、そう自負し、人間はいかに正しく生きればよいのか、祖先などの残してくれた倫理の規範をどう生かせばよいのか、本当に難しい、答えが得られない問題について、真剣に考えようとしていない、これでは、駄目ではないか、というのがソークラテースの弁論術批判です。「智者(ソポス)」でなく、「愛智者」であらねばならないというのが、ソークラテースの考えなのです。
 
  ソークラテースの問答法は、弁論術と基本的には同じものです。違うのは、弁論術は、「何かの目的を証明するため」に使われ、その結論の真偽は、真か偽か、それらしい論が立てられれば、更にそれ以上を問うことはしなかったのに対し、ソークラテースは、「答えがない」ことを実は知っていたし、相手の答えに対し、疑問を提示すると、疑問も合わせて相手は考え直し、最初とは違う見解が出てくるので、問答によって、「新しい考え」を得る、生み出す技術だとも云えたので、「問答法」とも言うのです。問題によっては、問答法で、正解の出るものもあったでしょうが、でないものもあったのです。「真」とか「善」とか、究極的に答えはない、またその他の色々な問題でも、答えのないものがたくさんある、ということを知り抜いていたソークラテースの議論は、観衆が、「見事だ、その通りだ!」と言って、拍手喝采すれば、それで終わりというのとは違ったのです。後者は弁論術の目標です。しかし、ソークラテースの目的は、「思いこんでいる知識」に疑いの心を与え、自分で考えることを導く論法であったのです。そこで、これを、「問答法」とか、「産婆術」だとか言ったのです。
 
  ソークラテースの「産婆術」については、以下の参考URLの質問のわたしの回答(No.5)も参照してくだされば幸いです:
  >No.223578 質問:ソクラテスの産婆術について説明しなさい。
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=223578
  

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=223578
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古代ギリシアでは裁判の時、自分が弁護人となっていました。


不正なことをしたとしても、上手にみんなを説得できれば
評決で勝つことができたのです。平たく言えば口のうまい
人であれば、真実を捻じ曲げても生きていけるというわけです。
この自分を<弁>護する<論>の立て方の<術>を
教えた人たちがソフィストと呼ばれる人で、いわゆる世渡りのコツを
教えたのでした。これが処世術ともよばれる弁論術です。

では弁論術と問答法ではどのように違うのでしょうか。それは
ソフィストのやり口をみれば自ずからわかってきます。
当時、言葉の使い方は、おなじ語でも、いろいろな使い方をしました。
それというのも古代ギリシアの世界は一つのまとまった国ではなく、
小さなポリスとよばれる独立した都市のあつまりだったからです。
それぞれの都市での言葉の意味の違いがあったのです。
それは同一のポリス内部でも影響して、言葉は無軌道に使われていました。
このような意味の違いを利用して、弁論術は意味の抜け穴をつくり
詭弁を正当なものにしていったのです。ソクラテスはこれでは
人が生きるべき真実というものが揺らぎ、弁のたつ人がどんな
虚偽でも自分のためだけに正当化できることを批判して、
言葉の定義というものをもとめるようになったのです。

何気なく、自明のように使っている言葉に対して、それを徹底的に
どのような意味で、どのような用法でつかっているのか?
そのように無限の問いを投げかけることで、言葉への曖昧な態度を
めざめさせて、使うべき言葉がほんとうはどんな意味なのかを
探らせようとしたのです。ですから問答法とは精神分析にもにていて
問い掛けることで、自分の語る言葉を意識することができたのです。
お産婆さんが、出産に手伝うようにソクラテスは対話する相手が
真実を生み出すことを問うことで手助けしたのだともいえます。
ですから問答法は産婆術ともよばれるのです。

一言でまとめると弁論術とは自分を弁護する方法であり
問答法とは言葉の本質を探究する方法です。
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Qプラトンが描いたソクラテスは史実の姿???

プラトンが描いたソクラテスは史実の姿???

プラトンの国家、ソクラテスの弁明を読んで、ソクラテスの史実の姿に興味を持ちました。

国家やソクラテスの弁明に描かれるソクラテスの姿は、大体、史実、ありのままと考えていいのでしょうか。
それとも、プラトンが描くソクラテスというものは、大部分が、史実とはかけ離れた空想の産物なのでしょうか。

Aベストアンサー

史実という考え方自体が、近代的考えです。

古典時代の人々が、食べていた食べ物を「今の目線で」
「まずい」とか「料理の仕方が洗練されていない」とかと評価できないのと同じで、歴史的に「それはそれ」とまず、さらっと読むことが大事です。

史実という事で言うと
ヘロドトスとトゥキディデスの比較がよく話題となります。
ヘロドトスは、「物語」の作家
トゥキディデスは「史学」の著者とされます。

さて
「伝記」は、「歴史書」なのでしょうかそれとも「読み物」なのでしょうか?どちらかというと「奇跡をつづるといった側面が強いと思います。少なくとも「記述するにふさわしい数奇な内容」のはずです。

この時代に書かれた書籍は
基本的には、「伝説的読み物」といったほうがいいと思います。

トゥキディデス=史実重視の見方・政治的意図で書かれた文章=プログラムは、例外中の例外です。

比較の対象として「クセノフォン」のソクラテス伝をよんでみるのもよいのかもしれませんが、「思想」としては、プラトンのほうが優れています。人から人へ伝えていくといった視点からも明らかに勝っています。

また、「弁明」のほうは、史実に比較的近いということも出来ます。ソクラテスの弟子=プラトンが書いたことですから、内容(こんな感じだったんだろうなというイメージ)だけ
持っていけば
いいと思いますが、

でも、全てが夢物語ではありません。

「聖書のでたらめ」を信じている人たちが、党派的に「哲学全般に対して批判・弾圧を繰り返してきた」という歴史的事実にも着目してください。肩の力を抜いて取り組んでください。

プラトンは、自分に対して「辛口」になることが出来る思想のヒトツです。キリスト教はその逆。

史実という考え方自体が、近代的考えです。

古典時代の人々が、食べていた食べ物を「今の目線で」
「まずい」とか「料理の仕方が洗練されていない」とかと評価できないのと同じで、歴史的に「それはそれ」とまず、さらっと読むことが大事です。

史実という事で言うと
ヘロドトスとトゥキディデスの比較がよく話題となります。
ヘロドトスは、「物語」の作家
トゥキディデスは「史学」の著者とされます。

さて
「伝記」は、「歴史書」なのでしょうかそれとも「読み物」なのでしょうか?どちらかとい...続きを読む

QソクラテスVSエピクロスの問答を夢想してみる。

ソクラテス→エピクロス
肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である。
その点で、肉体的快楽を寧ろ「苦」と考えるようになるためには「無知の知」が必要である。
「快楽」と「知」はリンクするものなのだ。
こんなことをソクラテスはエピクロスに言ったりするでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

言ったりするかしないか、という質問にピントを絞ります。
とすると、答はどちらかというと否定的になります。
それも、ソクラテスとエピクロスが根本的に時代が違う人だからというような理由でもなく、ソクラテスという人物はプラトンなどが脚色しているからというような理由でもありません。たらればだからくだらないとも言いません。

ソクラテスは誰彼ともなく捕まえて議論するような人であったというのが本当ならば、まずエピクロスにいきなりこうだと突きつけることはないと思います。最初にエピクロスがどのように考えているかを聴取した上で、それに反駁するのが彼の流儀ですから。
では、エピクロスは、肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えているのだということを導き出さなくてはならないのですが、いかにも世間で誤解されそうなエピクロス像による判断であって、エピクロスは実際はそのような主張をしていません。

エピクロスの私生活は確かにねーちゃんに言いよりまくっていたようですし、それは事実だと思いますが、その私生活をことさらにバッシングしたのが対立派閥のストア派の人達です。そして、このストア派の連中があることないこと言ったおかげでエピクロスの教説に実際触れたこともないのにエピクロスはしまりのない快楽主義で堕落している、と人々が近寄らなくなってしまっているのです。
以前もエピクロスが唯物論者だからダメだとか言っている人がこのサイトにいましたが、全くの無知で、彼はデモクリトスの論を継承する原子論者ではあるものの、霊魂についても語っていますから唯物論ではありません。また、無神論だとかいう人もいますが、この人もエピクロスが神について語った箇所を全く読んでいないのです。

さて、エピクロスはどのように考えていたか。
身体の健康と魂の平静さが至福なる生の目的、と主張しています。
身体の健康が肉体的快楽であり、魂の平静さが精神的快楽だとするならば、エピクロスは両方を同様に大事なものとしているのです。
だから、ソクラテスがもし「肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である」と言ったら、「そうだね。両方大切だね」などと言いかねない。そうすると、ソクラテスは精神的快楽の方を上に見なしたい論客ですから、これはちょっと困ると思うのです。

ソクラテス「でも、肉体的快楽は苦ではないかね」
エピクロス「苦のこともあるが、苦でないこともあるよ」
ソクラテス「少しでも苦があればそれは苦ということにならないかね」
エピクロス「どうして苦痛にばかりこだわるかね。快楽は確かに第一の善であると私も考えている。しかし、快楽であればなんでも貪るようなことはしないよ。快楽のために多くの不愉快なことが結果として起こるようであれば、あえて快楽を得ようとしない。それに、苦痛だって悪いときまったものでもないんだ。苦痛を長時間耐え忍ぶことが大きな快楽を我々にもたらすなら、多くの苦痛の方が快楽よりすぐれていると私は思うよ」

そうなんです。
エピクロスは欲望の塊の人じゃないんです。
快楽についてつきつめて考えればこそ、むしろ質素な精神で生きた人です。
「快楽とは、一部の人たちが(われわれの説に)無知であったり、またこれに同意しなかったり、あるいは誤解して考えているように、放蕩者たちの快楽や、(性的な)享楽のなかにある快楽のことではなくて、身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないことに他ならないのである。というのも、快適な生活をもたらすのは、酒宴やどんちゃん騒ぎをひっきりなしに催すことでもなければ、少年や女たちとの(性的な)交わりをたのしむことでもなく、また魚その他の贅沢な食事が差し出すかぎりのものを味わうことでもなくて、むしろ、すべての選択と忌避の原因を探し出したり、また、極度の動揺が魂を把えることになる所以のさまざまな思惑を追い払ったりするところの、醒めた分別こそが、快適な生活をもたらすのである。」(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第10巻)
わずかなパンと水で充足する人になれと言ってたようですよ。

ソクラテス「しかし、そのことに気づくためには<無知の知>が必要なのではなかったかね」
エピクロス「<無知の知>というより、私の場合は思慮が必要だと説いて回っているんだよ」
ソクラテス「思慮」
エピクロス「そう。思慮だ。知識を愛する哲学よりも、思慮だ。ここから総ての徳が生まれる」
ソクラテス「なるほど。あなたの中では快楽と知はリンクするものなのだね」
エピクロス「疑うまでもなくだよ」

無理に会話に織り込むとこんな感じになるわけですが、ソクラテスはデマに惑わされる人ではないですから、エピクロスの主張を聞いた上で、ご質問のようなことはあえて言わないのではないでしょうかね。
ソクラテスの考えと(世間に誤解されている姿でなく真の)エピクロスの考えはかなり近いように、(エピクロスを奉じる)私には思われるんですが。
(もし私が強引にソクラテスとエピクロスを意図的に近づけようとしているという批判があるならば、それは甘んじて受けますが)

言ったりするかしないか、という質問にピントを絞ります。
とすると、答はどちらかというと否定的になります。
それも、ソクラテスとエピクロスが根本的に時代が違う人だからというような理由でもなく、ソクラテスという人物はプラトンなどが脚色しているからというような理由でもありません。たらればだからくだらないとも言いません。

ソクラテスは誰彼ともなく捕まえて議論するような人であったというのが本当ならば、まずエピクロスにいきなりこうだと突きつけることはないと思います。最初にエピクロス...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Qソクラテスの幸福主義

ソクラテスは理性に伴った道徳に従って善く生きることこそが最高の幸福であると言いましたがこれは現在でも通じることでしょうか?
通じているのであれば幸福に生きるには?の答えは、理性に伴った道徳に従って善く生きることと言うことになるのでしょうか?

Aベストアンサー

こんばんは。


「回答案の一つ」ということでいいのでは?
((抜粋)「「愛する」ということは、「誰にでも簡単に出来る」というものではない」)

Qソクラテスの死の意味について教えてください。ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

ソクラテスの死の意味について
教えてください。
ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

Aベストアンサー

無知を自覚していない人は無知だ等という自説を説いたソクラテスは、政治家達の反感をかい、異分子として排除するため裁判にかけられ、死刑判決を受けます。が、もし、ソクラテスが自分の考えを説かずに、今後一切黙れば、死刑を見逃し生かしてあげよう、という条件を言い渡されます。が、ソクラテスは、自説を曲げ、お上に従って生きても、それは生きているとは言えない、植物人間と同じだ、それならば、死刑を受け入れる事を自ら望んだのです。つまり、ソクラテスは魂を売り渡し、飼い慣らされた豚になるよりも、自分の信念を貫き通す事を選んだのです、死を持って。そこにソクラテスの意思の強さ、ソクラテスの死の尊さがあるのです。支配に屈しない、元祖パンクロッカーと言えます。かっこいいですね。私も踏襲しています。自分が正しいと信じた事を貫き通します。それにより多少石が飛んで来る事があっても。でも、本当の強さと自信があれば、そんな小石はものともしません。ソクラテスのように、命を落とす事に比べたら。。

Qソクラテス

こんにちは。

レポートでソクラテスの無知の知と医療を関連させてレポートを書かなければいけないのですが、どのように関連付けたらいいのかわかりません(´・ω・`)

どなたか軽くでいいので、どういう風に書けばいいのかアドバイスをいただけたら嬉しいです。

よろしくお願いします!

Aベストアンサー

要するにジャブでしかないけど、こんなのは?

「ある患者の状態が自分の知っている病気の例に該当しない。

で、適当に知ったかぶりしてカルテ作って、たらいまわしにしたら

患者さんは重大な疾患だった」

こんな感じじゃないの?


無知の知 って 何にも知らないことを知っているんだから、

知ったかぶりのしようがないでしょう?


詳しく行くのなら、講師先生に聞くのが本筋だよ~。

(=^. .^=) m(_ _)m (=^. .^=)

代数学の元非常勤でしかないからね。一応、アリストテレスをかじった。

Qソクラテスの罪とは

その罪について 罪であるかどうかも含めて 論じてください。自由な見解をおしえていただきたいという趣旨です。

ウィキペディアには こうあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」、を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は、相手の考えを向上させることができる対話であったが、当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」、ということを暴くことになった。相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった。このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられることになった。
・・・・・
無知の知
ソクラテスはアポロンの宣託を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。 また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は、自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで、「産婆術」と呼ばれている。 但し、ソクラテスは対話の中でしばしば様々な事柄に関する知識を持っており、その知識に自信を持っているように思える節もある。また、ソクラテスは、部分的には無知を装っているとする見方もある。
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その罪について 罪であるかどうかも含めて 論じてください。自由な見解をおしえていただきたいという趣旨です。

ウィキペディアには こうあります。
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ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」、を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は、相手の考えを向上させることができる対話であったが、当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言ってい...続きを読む

Aベストアンサー

他の方が顛末を述べているので、私は他の部分を。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.html

10 あたりから。

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」に対するソクラテスの反論が載ってます。


多数決で決まったことは真理とは限らない。
それでもソクラテスはそれが最善だと考えた。

何故なら独裁者が腐ってしまったら、どんな悪法もまかり通り、人は独裁者の顔色を見て暮らさなければならない。

しかし、大勢が全員が腐るということは、大量の水が腐りにくいのと一緒で、なかなか起こらない。

では一人の独裁者が決めたことよりは、多数決で決めた方がまだマシってことで、民主主義 つまり多数決で決めたことに従うべきで、自分もそれに従うのが、正義を希求するものにとっての取るべき態度だってわけです。


つまり正義を擁護する立場であれば、多数決で決まったことに従って、正義の擁護者たることを示さなければならない ってわけです。

自分が正しいとかどうかじゃなく、たとえ処刑されようと正義を擁護した者であることに変わりはない ってわけです。


でもそこには寛容さが極端に欠如した状態が如実に現れている。

そこが彼の罪。

自分が間違うように人も間違う。
自分が他者から寛容ゆえに許され生きるためには、他者に対しても寛容でなければならない。
そうしなえれば、いつか自分の不寛容さで自らに死を招く。


ってのが、後に生まれる思想になる。


妥協と譲歩は違うんですよね。
プラトンは潔癖主義者だったのか、妥協を許さなかった。
でも、もう一つある、譲歩。
道を譲るってこと。
道を譲るのは負けを認めたから譲るんじゃない。

「どうぞ お先に」という余裕の表れでもある。

プラトン 余裕無かったんでしょうかね。
彼は知らないということを知っていると言っていたが、自慢できるもんじゃない。
譲歩を知らない無知者。

あ、、、プラトン先生ににらまれそう。 笑

他の方が顛末を述べているので、私は他の部分を。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.html

10 あたりから。

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」に対するソクラテスの反論が載ってます。


多数決で決まったことは真理とは限らない。
それでもソクラテスはそれが最善だと考えた。

何故なら独裁者が腐ってしまったら、どんな悪法もまかり通り、人は独裁者の顔色を見て暮らさなければならない。

しかし、大勢が全員が腐るというこ...続きを読む

Q仏陀は禅問答をしなかった?

仏陀の肉声に比較的近いとされる「ブッダの言葉」などの
原始仏教の本などを読んでいるのですが、清澄平明で論理的だと感じました。

これは後世の禅宗の「隻手の声」などの不条理で不透明な質問・答えとは
だいぶ異なる世界だと思うのですが、なんでこんなに違うんでしょうか?

いちおう拈華微笑という話もありますが、これは後世の創作として、
やっぱり仏陀本人は禅問答のようなことは決して言い出さないと思うのですが、
どうでしょうか?

Aベストアンサー

おっしゃる通り、釈尊は禅問答をすることはありませんでした。「真理の言葉」などを読めば分かると思いますが、釈尊の問答のスタイルは、基本的に弟子の質問→釈尊の返答(またはその繰り返し)ですから。その疑問が解消されるまで、質問者の能力に応じ、できるだけ平易な表現を用いて、時に比喩を用いて、釈尊は質問に答えていましたから、禅宗の禅問答のような雲をつかむような奇妙な問答が起こる道理がありません。
また、釈尊の立場は、基本的に「形而上学的・哲学的な問答は修行の妨げになる」という立場ですから。

そもそも、中国の禅宗は、仏教(大乗仏教の中でも特に、空思想を説く般若経)だけではなく老荘(老子と荘子)思想の影響を強く受けて成立しました。禅問答は、清談と言われる老荘思想に関する議論の延長上に発生したもので、インド起源のものではなく、あくまで中国的、中国仏教特有のものです。これが仏教の基本的立場だと考えると、仏教を見誤ります。

また、釈尊の説法がどのようなものであったのか、それをうかがえる面白いエピソードが残っています。
ある時、頭の働きが大変鈍い仏弟子(ど忘れをして名前は思い出せませんが…)がいました。同僚の仏弟子に「これが預流果(よるか)だ、一来果だ(どちらも修行者の悟りの段階)」と果物を差し出され、その弟子をバカにしたのです(修行の成果を表わす「果」には、「くだもの」という意味がある)。で、同僚にバカにされたその仏弟子はますます混乱して、悲嘆にくれるわけですよ。その弟子の姿を見て、釈尊が次のように言います。
「よく洗った白い服を、よく洗った手で、毎日、こすりなさい。」
そのお弟子さんは、釈尊に言われたとおり、毎日、白い服を洗った手で擦るわけです。すると、綺麗な手でも長い間こっすっていれば、ついには、白い服が汚れますよね。で、服についたその汚れを見て「欲望・煩悩でこの身は汚(よご)れる、汚(けが)されるのだ」と悟るわけですよ。
このように、釈尊の説法スタイルは、その人の理解能力に合わせて、できるだけ平易に説いたとされています。
また、こんなエピソードもあります。
子供をなくした母親が釈尊に子供を生き返らせてくださいとお願いに来るのです。その時、釈尊は、「分かった、子供を生き返らせてやろう。生き返らすためには、芥子(けし)の実が必要だから、それをもらって来なさい。ただし、その芥子の実は一度も死者を出したことのない家のものでなければならないよ」と言います。
その母親は喜んで、芥子の実をもらいに、色々な家を訪ねるのですけれども、一度も死者を出したことのない家なんかどこにもあるはずがありませんよね。で、何軒も何軒も訪ね歩いている内に、その母親は死んだ子を蘇らそうとする自分の行為の無意味さに気がつくわけですよ。
これらを禅問答というのなら「釈尊は禅問答をした」ということになるのでしょうが、謎かけ問答のような、いわゆる禅問答とはまったく次元の違う問答ですよね。

こうした釈尊の説法スタイルは、釈尊が入滅するときに弟子たちに発した言葉にすべて象徴されていると思います。
「あの時、如来に質問したおけば良かったと後悔しないために、質問したいことがあったら、今のうちに尋ねなさい」
入滅の場に立ち会った人たちが誰も質問しないのを見てから
「すべてのものは移りゆく。怠(おこた)ることなく修行につとめなさい」
と言い残して、息を引き取ったそうです。

おっしゃる通り、釈尊は禅問答をすることはありませんでした。「真理の言葉」などを読めば分かると思いますが、釈尊の問答のスタイルは、基本的に弟子の質問→釈尊の返答(またはその繰り返し)ですから。その疑問が解消されるまで、質問者の能力に応じ、できるだけ平易な表現を用いて、時に比喩を用いて、釈尊は質問に答えていましたから、禅宗の禅問答のような雲をつかむような奇妙な問答が起こる道理がありません。
また、釈尊の立場は、基本的に「形而上学的・哲学的な問答は修行の妨げになる」という立場ですか...続きを読む

Qソクラテスの精神力

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。

「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。
これは、とんでもない精神力のように見えます(よく「ソクラテスは人間くさい哲学者」という言葉を見ますが、私には「人間離れ」しているように感じます)。

そこでお聞きしたいのは、ソクラテスの哲学や行動の詳細やそれが正しいかどうかはさておいて、彼はどのようにしてこれほどの精神力を身に付けたのか、という研究はどのくらいされているのでしょうか? あるいはまた、ソクラテスを学ぶことで死の恐怖を解消できた人はどのくらいいるのでしょうか?

世の中、死の恐怖より辛いことは沢山あることは分かっていますが、自分の生活において、せめて死の恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要な場面が結構あるので(結局パニックになってしまうのですが)、哲学への興味というより、自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。

「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。
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Aベストアンサー

 こんばんは。補足、ありがとうございます。

>推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。

 不思議なのは、「ちょっと読んだくらいでは分からない」と仰っているにも係らず、

「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるものだ!」というところにインパクトがあったのですが。もし、ソクラテスが死を知っていたとしたら、他の人間は死を知らないのにソクラテスは知っている、従ってソクラテスは知者である・・・ということになって、「無知の知」の出番がなくなってしまうのではないでしょうか?」

 と仰っている点なのですが、実はこの本をよくご存知なのではありませんか? つまり、僕の言説の間違いを正しく指摘し、

>「わからない」にも、単に知識を獲得すればわかるものと、そう簡単にはいかないものがあるのではないでしょうか?

 と仰っているように、後者の「そう簡単にはいかないもの」こそが「死」だというふうに、質問者様自らでお答えになった。
 どうでしょうか、精神力を強めるヒントはつかめましたでしょうか。

 こんばんは。補足、ありがとうございます。

>推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。

 不思議なのは、「ちょっと読んだくらいでは分からない」と仰っているにも係らず、

「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるも...続きを読む

Qこの批判の姿勢についての批判をお願いします。

批判するときには相手の受けていれているドグマ、相手の自己矛盾などなどを基盤として、、、つまり相手の土俵にたって行わなくてはならない。
同意(肯定)するときも同じように相手の土俵にたって行わなくてはならない。
そうでなければお互いが自分の宗教論争と同じく、全くもって何も産まないものとなってしまう。

私ではなくあるところで聞いたのですが、なるほどとは思ったんですね。もしかしたらアタリマエのことかもしれませんが。

これに対して批判があるとすれば問題点の指摘からお願いします。ただ、問題点の指摘の最後にはよりよりと思う批判のあり方について書いていただけると助かります。

Aベストアンサー

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個の考えを述べたとしても先ほど上げたように最初の2つがすでに矛盾していて、それと次の3つの考えを元に他の95の考えが構成されていたとします。(3)そういった場合批判するにおいて最初の2つで十分となりませんか? (4)そういった批判においてはあなたが先ほどおっしゃった、十全に理解というのとは少し齟齬が生じる可能性のある言葉となるような気がします」

主に(2)(+(3))で示される内容が「相手と同じ土俵に立つ」ですね。
言い換えると、
「相手の考えのうちのごく一部の問題点をベースにする姿勢を、そしてそれだけを「土俵に立つ」
と表現していたということになり、そしてそれに(1)の内容を加えたのがこのスレッドの質問文になると考えてよいのですね。


だとしたらこのスレッドにおいてこの解釈が314hさんの中でぶれています。
それがいちばん分かりやすいのはNo7さんとの質疑においてです。
以下、説明します。



No7さんは、
>相手の土俵に立つ必要はないと思います。
と仰っていますが、その次の文では
>相手の土俵を一部(もしくは全部)包含していればいいと思います。
と述べています。

No7さんがお書きになった前の文が否定文となってしまったのは、単に314hさんが土俵について明確な定義をしなかったためなので、後の文だけに注目します。するとNo7さんが意味されたであろう「土俵」についての考えは、上述の314hさんの「土俵」の考え方とほとんど変わるところはありませんね。

そしてその説明なのですが、No7さんへの「回答へのお礼」の欄では、「土俵」とは、「世界のうちにあるもの」であり、「世界観」という言葉で表されるものであり、「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」、と述べていますね。さらにもう少し後では、「霊能者(などの特殊能力者)は除外して考える」旨の記載もあります。

この中で「世界」、「世界観」とは多義的な言葉であり、実際はその内容についての説明を要するものです。したがって文脈上はこれらの文の後に続く箇所、すなわち「キリスト教世界、イスラム教世界、ギリシャ神話の世界などといいますがそれを構成している人間の認識方法は不変ですよね」という箇所、つまり「古の多神教世界、あるいは現在の世界宗教である二つの一神教を信奉する人類の中で、霊能者などの特殊能力者以外の人間に共通した世界」、あるいは「それらの人類に共通で、かつ不変の認識方法を有している世界」という意味内容が、「世界観」を限定しかつ説明したものとして読む者には受けとめられます。

この世界観について、314hさんは、「土俵は前の方もおっしゃってくださったように世界観です」とおっしゃっていることになります。

言うまでもありませんが、この「回答へのお礼」の欄で述べられている「土俵」に関する説明は、No19さんの「回答へのお礼」の欄で述べられていたもの(上述)と明らかに異なります。

またNo7さんの回答につづいて述べてられている古典力学、相対論の例ですが、私は適切だと思います。物理学における革新的進歩を、「新たな世界」が開けたと314hさんは表現しましたが、しかしそれらを記述した人物(17世紀イギリスのニュートンや20世紀西欧社会のアインシュタイン)と、それらの成果を享受した人々において、いったい「認識すること」や、その生活していた「社会」について、古代ギリシャ人と現代のキリスト教徒、イスラム教徒ほどの差異はあったでしょうか。十分に「共通した世界観」の範疇に入ると思いますが、それでも314hさんは同じ土俵であるとは認めておられませんね。

これでは、わからない。
同一人物に対する質疑においてすら、「土俵」の概念が首尾一貫しておりませんので。
「ぶれ」という表現を使いましたが、この相違は「ぶれ」以上のものであり、また「齟齬」として片付けられるものではないと思いますよ。

さらに付け加えます。
このNo7さんへの「回答へのお礼」の箇所で314hさんが用いた「土俵」なる概念は、きわめて広大な世界を意味しています。広大すぎて、「同じ土俵に立つ」ということが、古今の全人類(除外・霊能者、シャーマン)とすら思えてくるため、前提自体が無意味のないものに思えてきますし、そのいっぽうで広大過ぎる世界の中の各要素(人種、国籍、宗教などなど)の隅々まで「同じ」であることを要請してしまう非常に厳しい条件だと解釈されてしまう怖れもあります。この後者の解釈の下に回答されたのがNo8、No9の方々といえるでしょう。


さて
No9の方はそれを「100%」という数字で表していますが、そのすぐ後で、
「普通は99%以下の理解で相手を批評する」と述べており、その意味するところはNo19さんとの質疑で示された「土俵」の定義とほぼ同じ内容であると私は解釈します。
同様にしてこのスレッドを通覧すると、No2さんも「土俵」に関する考えはほぼ同様ですし、No5さんも、「「相手のドグマに立つ」のではなく、「相手のドグマを理解して…」」と仰っており、ドグマという語を用いていても基本的には314hさんと同じ理解をしているものと思われます。

したがいまして314hさんが欲していた回答も、それらの方々の回答の一部にすでに記述されているものもあるのでは。


以上が前段です。
後段はシンプルに当初の質問に対してお答えします。
その回答内容はNo20の2行目と変わりありません。

「相手の立場に立つというのは、批判する際に気にかけたらいいひとつの心構え」でしょうね。

説明します。
ある言説Aの正当性に関してし、相手が提示したa(1)からa(n)の証拠や説明が仮にあったとしても、たったひとつの証拠bによって言説Aが否定されれば、それで十分に反論は成立します。よって相手と同じ土俵に立つ必要はありません。つまり質問の文は必要条件とはなりません。

また相手と同じ土俵に立っていれば十分かと言うと、相手の矛盾点、論理思考の飛躍や誤謬などが見出せない場合、同じ土俵に立っていても反論は成功するどころか、その糸口さえ見出せないでしょう。したがって十分条件とも言えません。
要するに御質問の文は必要条件でもないし、十分条件でもない。言わば単なる参考事項にすぎません。というわけです。でもまあ実社会ではたいへん役に立つやり方だと思いますよ。

よりよい方法。
そんな万人、そしてあらゆるケースに共通な魔法のやり方があるんでしょうか。あるならすでに誰かが発表していそうなものです。
ただこのスレッドのように言葉の意味がぶれていては要らぬ混乱の元です。そこはきちんとしなければなりませんね。またお互いが議論しあっているテーマに関して、言葉にはなっていない前提があることにも注意が必要でしょうね。相手を打ち負かすことを目標にし、なおかつ建設的に議論したいのなら、相手が気づきにくいそこにも一応配慮しておくといいと思いますよ。


なお、
私はこのサイトでの質問や解答には慣れていませんが、確か「質問の補足」という機能があったのでは。今後は各回答者の「お礼」の欄に断り書きをするのではなく、この機能を使って分かりやすい位置にしっかりとした補足を書き足すように配慮されたらいいと思います。

No20です。
再回答です

まず確認します。
「相手の土俵に立つ」

このフレーズの意味を一番詳しく述べているのは、No19さんに対する「この回答へのお礼」の欄の中の記載でよろしいのでしょうか。
下にそこの箇所を引用します。

No19さんの回答より
「同じ土俵に立つ、などといわずに、相手の基盤なりを十全に理解する、…(中略)…だめでしょうか」

314hさんの「この回答へのお礼」の欄より。
「(1)いいとは思いますが哲学的批判すべてについて当てはまる姿勢を追及したいと考えています。(2)例えば相手が100個...続きを読む


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