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自分の頭の中で考えるとき、文字を使用していますよね。頭の中で自分の声が響いている=聞いているのは自分だけ、といった風に。分かりやすい例を言えば、恋心を告白しようと思う異性がいて、最初のデートに臨むときに、相手がこう言ったら自分はこう言おう、と何度となくシュミレーションをしたりします。そのときは明らかに言葉のやりとりをします。思考は言葉を媒介にします。
さて、このサイトを閲覧している読者諸賢に(これは皮肉な表現ではありません。為念)お聞きしたいのは、「文字を媒介にしない思考はあるでしょうか?」ということです。
どうも私はそういうことがあるような気がします。書かれた文字を読むようなゆっくりしたスピードではなく、速読の達人のように、一瞬にして考えをまとめることがあるようなときがあります。そういうとき、思考の入り口と出口が短絡するのではなく、途中のプロセスをきちんと辿りながら、まるで条件反射のように結論に辿り着く。殆どが未知の問題への反応ではなく、日常生活のルーティンでの対応だと思いますが、文字を読むような思考ではなく、ある種に「感じ」(文字では言い表せません)を媒介にした「思考」ではないかと思います。
皆さんはそういう経験はおありでしょうか?おありでしたらその内容を表現していただければ幸いです。
ただし、今回は「失語症患者の思考」や「言葉を覚える前の赤ん坊の思考」、「言葉を持たない人種の思考」といったものを前提にしておりません。あくまで日本語を日常言語として使用している高校生以上の方で、拙文の意味を理解された方の「思考」を対象としています。
また、以上の問題意識に応えている書籍がありましたらご紹介いただければ有難いです。
A 回答 (17件中11~17件)
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No.7
- 回答日時:
質問者様のおっしゃることはよくわかります。
インスピレーションのことではないでしょうか。
私もよくそういう経験をします。
人生に困難を感じたときに、一生懸命、どうすれば克服できるか、どうすればもっと自分を幸福な状態に出来るか、自分の改良点は? 心のゆがみは? この苦しさは自分の内面の何を反映したものなのか?・・・などなどを問いかけているとき一条のインスピレーションが入ってきました。
それと共に、心の中に言葉が沸き起こりました。
それが自分自身の思考でないことは、はっきりわかりました。
しかも、私では思いつかないような格調の高い、諭されるような、慰められるような、励まされるような内容で、その理念の高さに大変感激し、納得し、感謝しました。
それ以来、何か心に悩みが起こったり、迷いが生じた時には必ず真摯に質問することにしています。
そしてインスピレーションからどれだけ助けられているか分かりません。
インスピレーションは心の中に言葉として湧き起こったり、心の中に映像として浮かんだり、文字(大抵漢字)として浮かんだり、ときには音声として聞こえてくることもあります。
とここまで書くと我ながら、精神分裂病者の症状に酷似している・・と苦笑してしまいますが、私は日常生活では精神的にも肉体的にも何ら、病的なものは抱えておりません。
インスピレーションは注意を払うほどに、如何にこの世がインスピレーションで満たされているかに気が付きます。
自分が今どんな人と会うべきか、何を読むべきか、何が安全で何が危険か・・ちょっとしたことでもインスピレーションが働いていると思います。
人は、意識的にせよ、無意識的にせよ、いつも絶えず何かのインスピレーションを受け取っていると思います。
気が付いていない人が多いと思いますが。
インスピレーションには意識的に送られて来るものと、こちらが心の状態によって拾ってしまうものとの二種類があるようです。
まともな、徳の高い、自分の向上に結びつくようなインスピレーションを受け取るためには、自分の心から怒りや憎悪をはらわなくてはいけません。
心に濁りがあるとき、これはまずい・・というような、ますます心をおとしめていくような、暗い波動のインスピレーションをキャッチすることがあり、はっと気が付いて、心の状態を正常にもどし、冷や汗をかきます。
又、周囲の人に暗い悪意の波動を出す人がいても、影響を受けないように、そのような波動はいつもスルーするようにしています。一種の修行だと思っています。
心の状態が何より大切だと思っております。
このようなところで参考になりましたか。
ご回答ありがとうございます。
インスピレーションはこれからもっときちんと考えていかなくていけない項目だと思います。
ただ、私の質問意図は、そう重要でない人生局面でのことでしたから回答者さんの回答内容については、別の機会に考えてみたいと思います。
No.6
- 回答日時:
例えば、目の前にピカソの絵があったとします。
「この絵を見て、どう思う?」と聞かれたとします。思考はどう動くでしょうか?
以下のように思考が動いたと仮定しましょう。
(1)「うーん、何が描かれているのかわかんないや」
(2)「でも、ここは、顔のようだな」
(3)「あっ、もしかすると、これは鼻かなぁ」
(4)「でも、目の位置が変だな」
さて、思考(1)を遂行するのに、何秒かかったでしょうか?
「うーん、何が描かれているのかわかんないや」と頭の中で言ってみて、その時間から、4、5秒かかったと考えるでしょうか? 確かに、「頭の中で言ってみる」時間は、4,5秒かも知れませんが、「頭の中で言ってみること」と「実際に考えること」とは同じでしょうか? 違うと思います。
何故、違うかというと、もし、思考が「うーん、何が描かれているのかわかんないや」と言ってみるように進行しているとすると、「う」「ー」「ん」「、」「何」「が」.....の一個一個の音を生成しているとき、思考は何を考えているのかが問題になります。しかし、「う」や「ー」や「ん」や「、」の一個一個には、意味がありません。意味は、「うーん、何が描かれているのかわかんないや」という塊で初めて成立します。
すなわち、実際の思考は、「うーん、何が描かれているのかわかんないや」と頭の中で言ってみる前に完了しているはずです。その完了している思考を言語化したのが、「うーん、何が描かれているのかわかんないや」になるのだと思います。これは、例の(2)、(3)、(4)でも同じことで、先ず、言語化される前の思考が遂行され、その後で、それを言語しているのだと思います。
従って、結論としては、思考の実体は、非言語で、それを意識化する段階で言語に変換しているのだと思います。
ご回答有難うございます。
>思考の実体は、非言語で、それを意識化する段階で言語に変換している
ということですが#3の方の考えとぶつかる考えですね。
確かに、例えば雄大で美しい心奪われる景色を見て時間を忘れる体験をしたとき、わたしがその見た景色から受け取った「何か」は、体験している真っ最中は非言語のものですよね。それは誰しもが同じ感慨を得られるというものではなく、その体験を受け入れる器たるわたしの受信感度のレベルに依存する体験ですね。しかし、その体験を何らかの感想を付け加えて、例えば親しい友人に話す場合は、当然、日本人たるわたしは(別に日本人である必要はないけれど)日本語の文法と統語法に従い表現を組み立てます。それは明らかに「思考」の産物です。
さて、例示されている「うーん、何が描かれているのかわかんないや」という「感想」「思い」は、そのとき非言語化された「印象」として存在しているわけで、「うーん、…」と言語化された過程で意識の俎上に上ります(この表現、ほとんどトートロジー(汗))。
わたしの考えでは非言語である「印象」や「感じ」は「思考」ではなく、「思考」の材料であるということです。言語は世界を分節化しあるルールに従い構成されます。そこに意識が介入します。その意識が「思考」であると思うのです。
わたしが問題視しているのは、そういった非言語化された「印象」「感じ」ではなく、あくまで非言語化された思考があるか否か、ということです。具体的に例示すると、車を運転していて「この道を右に曲がると目的地が見える」という思考が、ある瞬間に行われる場合があるだろうか、ということです。それは、身体の状態が空腹のときに「お腹すいた」と瞬間思うのは違うと思うのです。「お腹がすいた」はそういう状態がまずあって、それが言語化された表出です。「お腹がすいた」状態は言語化しなくても感じられるものです。それは言語を媒介にしなくても感じられます。しかし、「この道を…」は自分のそれまでの体験が背景にあって、目的地に行きたいという意志があれば「意向」として意識に上ってきます。そのとき「この道を…」は意味の塊として出現し、言語化されなくても自分の思考として「ある」と考えるのです。つまり、言語を媒介しない「思考」としてある。そうは考えられないでしょうか?
No.4
- 回答日時:
言語によって表象不可能なものを考える、という思考は文学の領域で常になされてきたと思います。
おそらくnever-nessさんは、文学的領域ではなく、純粋に思考の領域で発言なさっている気もするので、いささか的外れかと、危惧しますが、そうでしたらごめんなさい。
言いえぬもの、言葉では言い表せないもの、それは、強引に既知の言語の中に当てはめてしまうと、大抵ある種の感覚であり、感情であり、印象であったり、あるいは憧れであったりすると思います。
フランス語では雨という語は少ないですが、その雨を詩の中で、小説の中で、様々な語や様々な状況と組み合わせることにより、もともと語の持っていなかった新たな意味を発生させるというのは、フランス文学の中ではよくあることです。この話は文学全般に拡張できると思います。
そして、そうした言い表せぬものを中心に思考を展開し、表現した小説なり、詩なり、というのは、言語を超えた思考を目指していて、そうした作品の読者の方も、そうした言語による構築物を通して、ある言語化しえないものを感じ、それについて思考する、ということはあると思います。
というか、偉大な文学作品は、常に言語を用いて、新たな表現の可能性を模索するわけで、既成の文化的コードの中で使用法の決められた言語というメディアでは表現不可能なぎりぎりの点を常に目指すのだと思います。
文学作品は当然言語を用いていますが、その作品の原点であり目ざしている一点には、ある非言語的なある思考が存在する、と。
しかし、哲学の領域からは、しばしばこうした文学的探求はすべていかさまだ、という批判がなされます。
そういう世界は、分かる人にはわかる、分からない人にはわからない、という話になり、そもそも分かっていると自負している人の間でも共通了解が得られない、ということもあります。
それは「ここではない何処か」というロマン主義的な夢の一つの形態に過ぎない、と。
個人的な感想ですが、プルーストやジョイスやカフカの作品をよんで、ひどく衝撃的なのは、彼らの作る言語的構築物が、言語を媒介としない思考を伝えようとする試みだと、感じられるからではないか、と思います(私がそこに読んでいるものは、単なる「感覚」ではなく、「思考」だと直感的に思います)。
的外れでしたらすみません。
ご回答有難うございます。
>言語によって表象不可能なものを考える
ということ自体十分魅力的なお考えだと思います。当方の、哲学的思考よりも文学的なそれに傾きやすい性向があり、お示しの内容について、私なりのご返事を差し上げたい誘惑に駆られます。ただ、今回は、哲学カテということで、「ある種の文学が言語を媒介しない思考を伝える試みである」という点については、場を改めて考えて参りたいと思います。
No.3
- 回答日時:
とりあえず日本語の話として進めれば、われわれは日本語という記号によって概念と思考を結ぶ体系のなかで生きていて、たとえば「雨」が雨である認識は「あめ」という言葉とともにもたらされるわけです。
言葉がなければ、自分に落ちてくる水玉を超えた「雨という概念」は持ちようがない。また雨がもたらすイメージは、言語によって違います。日本語に雨を表す語彙がきわめて多いことは有名ですが、それは裏を返せば、たとえばフランス語にはさまざまな雨の概念が「存在しない」(まさに存在しない)ということです(質問文などを読むに、never-ness様には釈迦に説法な話でしょうが)。
「まるで条件反射のように結論に辿り着く」にしても、「インスピレーション」を得るにしても、入力と出力はもちろん言葉にならざるを得ませんし、それらの発動条件もやはり言葉です。「ある種の「感じ」」さえ、いままで日本語の記号体系のなかで生きてきたからこそ生まれる「感じ」に他ならないと言えるわけで、結局言葉に依存しています。
われわれは雨が降れば反射的に傘を差します。それすらも、雨や傘の概念がわかっていなければ不可能な行為であり、それらの概念は言葉によってもたらされます。あらゆる概念が言葉に依存する以上、言葉なくして思考することはできないと考えます。
※おすすめの本
・ロラン・バルト『エクリチュールの零度』『表徴の帝国』
・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
・丸山圭三郎『ソシュールの思考』
・野矢茂樹『他者の声 実在の声』『こころと他者』
このあたりでしょうか。
ソシュール『一般言語学講義』は、ややこしい上に編集者の誤解・曲解が多いのでお薦めはしません。
ご回答有難うございます。
>あらゆる概念が言葉に依存する以上、言葉なくして思考することはできないと考えます。
問題はこの一点に集約されると思います。確かに概念は言葉で言い表せます(全ての概念については-今は保留します)。言葉での言い表しは時間の幅を必要としています。つまり「述べる」のに時間を要するということです。そして「思考する」のもある程度の時間を必要とします。わたしが考えているのは、この時間の制約を飛び越える「思考」が存在しないか、ということです。
「概念が言葉に依存する」ということは承知しています。でも…、なにかひっかるものがあるのですね。
大急ぎで付け足すと、わたしの言うこの「思考」は宗教的真理を「不立文字」といったように秘教的な、その意味で選ばれた者のみが秘儀に参入し授けられる秘蹟とか、修行の果てに悟りを開いたその内容といったものを指すものではありません。
大変デリケートなニュアンスを言い表すには当方の能力が大幅に足りないようで情けないですね(泣)。
ソシュール『一般言語学講義』は「苦手」です。野矢茂樹のタイトルに魅かれますね。ご紹介ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
哲学的なものではありませんが、ソフトウェア技術の世界では
UML(Unified Modeling Language)という言語があり、これは
文字も一部使いますが、基本的にはソフトウェアの設計図法です。
文章では伝わらないものや伝えにくいものを図として視覚的に
表現するわけですが、描き方に規則を与えることで言語として
仕立ててあって、開発者はそれを描きながら考えに考えて
設計を行います。
機械などでもあることかと思いますが、設計図や実物を見ると、
「ああこれはこういう工夫をしたのね」とか、「ああ、これは
こういう理由でこうなったのね」といったように、元の設計者の
思考を追っていけることができることが多々あります。
要するに、何かの図や、物の状態が情報を持っていて、それを
解釈する側に理解するだけの素養なり準備があれば、文字以外の
様々のものでも情報の伝達手段や記憶の手段として働くものが
あると考えています。
回答ありがとうございます。
何かの図や物の状態が情報を持っていて、それを組み合わせて思考を図式化するということは一種の言語ということになりますね。それは確かに文字自体を使用した思考ではないものの、思考のプロセスはその記号なりをトレースして行われるのでしょう。つまり思考のプロセスとして入り口があり、その次の道筋があり、最後に出口に辿り着くということですね。
では、こういった記法に慣れた場合、設計図を見たときに一瞬でそのプロセスを理解するということはあるのでしょうか?
No.1
- 回答日時:
私は「ある」と思います。
インスピレーションというのでしょうか。
何かを考えあぐねている時に、突発的に、非常によいアイデアがひらめくことがあります。
言葉による思考は論理的なプロセスを経て結論を得ますが、そうではなく、全く別のところからアイデアが出るんです。
後で思考してみると、「理にかなった案」もしくは、「検討すべき部分はあるが、修正すれば良案」である事が多く、いずれにしても、新しい視点を得られるようです。
経験則なので「ある」としか言えませんが、言葉による思考が追いつかないほど、「思い付く」のが速いのかもしれません。
回答ありがとうございます。
そうですね。「インスピレーション」がありましたね。何かがひらめいてあとから言語による説明(?)が加えられる、といった現象が確かにあります。言語化のプロセスを意識上のものと考えると、ひらめきは意識下のものなのでしょうか。言葉によらない思考があることは確かですが、それがどのようなメカニズムであるかわからないのが不思議ですね。
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