最近見た本に出ていたのですが、掘立柱建物址って柱がいくつもあるのかと思ったら4本で一つと数えてありました。掘立柱建物址ってたくさん柱が縦横にならんでいるものかと思っていたのですが、4本の柱で掘立柱建物址と呼ばれるものがあるのですか?教えてください。

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A 回答 (1件)

図面によると・・・柱数4本にも見えますが、素朴に考えれば3本でも屋根はかかるのですから、次のステップは4本柱でしょう。



図面でも1辺が1間(スパン数1)の屋根のようですから、柱は4本しか見えません。

http://www.asahi-net.or.jp/~PQ5Y-FJE/kuzugami2_0 …

大阪枚方の「九頭神遺跡」ですが、普通小さいものでも2間×2間、多いのは2間×5間、他の地方では2間×7間が多いようです。

・・・私は4本を一つ・・・と言うより、一件というのなら理解できますがどうなんでしょう。。。
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三内丸山遺跡について教えて下さい。
6本の巨大柱が立っていた、と想定されるそうですね。3本が向きあって並んでいたとか。
この6本は、どちらの方向を指して並んででいたのですか?
(冬至の日の入りとか、夏至の日の出とか聞いていますが)

Aベストアンサー

三内丸山遺跡の巨大列柱と太陽の方向については下記のレポートがあります。

三内丸山遺跡の六本柱と太陽
ursa.phys.kyushu-u.ac.jp/jsession/2009haru/01_sandai.pdf

上記のレポートには以下のように書かれています。(図と写真もあります)
柱の方向と日の出・日の入りの方向に2.0°のずれがあるが,私
たちは,柱の使用目的として次の仮説を立てた。
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ご参考まで。
http://mentai.2ch.net/psy/kako/966/966957061.html

Q縄文人骨の数え方

発掘した人骨はどの程度揃っておれば“一体”と数えるのですか。

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11月17日放映のNHK-TV 「サイエンスzero」では「数千体見つかっている」
となっています。

弥生人骨でも「約4千体」「約千体」の開きがあります。
よろしくお願いします。

中日新聞「浜松・只木遺跡が県史跡の指定解除へ」
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20131026/CK2013102602000092.html

高校生のためのおもしろ歴史教室 講談社『日本の歴史02』(発行2000年)
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/national_history05.html

Aベストアンサー

No.2の続きです。

●ナント、これが考古学の常識ですか。
○いえ、そんなことはありません。
 どちらにしても「数字の元になった根拠」が提示されていないので「正しいかどうかわからない」というのが事実です。

●考古学会や大学等などで「人骨○体」と把握している数を集計したものと思いますが
○まず学会や大学で個体数をカウントすることは通常ありません。
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

近くの古墳公園で埴輪を見て以来、不思議な魅力に魅せられてしまいました。
そして、何より驚いたのは大きさと数の多さです。
製作工房で多くの専門の工人の手によるものだと直感しました。

2について。
朝日新聞で読みましたが、埴輪は、わが国特有のものだそうです。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201201190251.html
埴輪は3世紀に日本列島で生まれ、数百年にわたって用いられた日本列島の古墳特有の副葬品だ。朝鮮半島南部でも一部出土した例があるが、それは、日本列島から移り住んだ人々が作ったと言われている。典型的な「倭(わ)系」遺物だ。

下記論文でも同様です。「古墳の周濠の意義」抄録。
http://ci.nii.ac.jp/naid/120003501393

6について。
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橿原日記(個人のHP)
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_08_01.htm 
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「人物埴輪の顔がみな穏やで優しい」のは、葬送儀礼に関わっているからだと思います。
しかし、泣いたり笑ったりしている埴輪もあるそうです。

上智大学教授 北條勝貴氏のサイト
http://d.hatena.ne.jp/hojo_lec/20110530/1307584797 

5について。
南関東と畿内とに交流があったと推定されています。
昭和女子大学文化史研究「南関東における埴輪の受容」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000985385

4について。
どうなんでしょうか。私も知りたいです。
埴輪が立った状態で見つかった例があるのでしょうか。
調べた限りでは、土中から掘り出したか、倒れて散乱していたかです。
ただ、古墳頂上部にあったものは、盛り土の流出を防ぐために、下部を埋めてしっかりと立てた、とされていますね。
古墳頂上部ではなく、地上の墳丘脇の「造出し」に置かれた埴輪では、並べるだけだったのか、どうでしょうか。

近くの古墳公園で埴輪を見て以来、不思議な魅力に魅せられてしまいました。
そして、何より驚いたのは大きさと数の多さです。
製作工房で多くの専門の工人の手によるものだと直感しました。

2について。
朝日新聞で読みましたが、埴輪は、わが国特有のものだそうです。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201201190251.html
埴輪は3世紀に日本列島で生まれ、数百年にわたって用いられた日本列島の古墳特有の副葬品だ。朝鮮半島南部でも一部出土した例があるが、それは、日本列島から移り住んだ人...続きを読む

Qフランス王の呼び名、ルイの番号はなぜフランク王国から数えるの?

フランスの王様はルイ16世など、ルイばっかり多いです。普通、○○△世なら、その王朝の何番目、という意味だと思いますが、なぜ、フランス王はカロリング朝(フランク王国)→カペー朝(フランス)→ヴァロワ朝→ブルボン王朝まで、ルイの番号を通算するんでしょうか?ルイ1世はルートヴィヒ1世 (フランク王)=ローマ皇帝でフランス王国自体が存在しません。血のつながりだったら、ユーグカペーの子孫なんだから、カペー朝から数えるべきでしょう。(フランス王国も成立した訳でもあります=権力弱いけど)なぜ、フランス王はフランク王からルイ〇世と数えるのでしょうか?

詳しい人がいたら教えてください。

Aベストアンサー

#2です。お礼ありがとうございます。

>けっこういい加減ということなんでしょうか。
いい加減ということはないでしょうが、かなり複雑であることは間違いないでしょう。

お礼の内容でいえば、まず東フランク王国はカロリン朝ルートヴィヒ4世で系統が断絶し、一代限りのフランケン朝を経由してザクセン朝になります。

この王朝を「東フランク王国の継続」とみるかどうか、だと思います。
で、もうひとつの問題が王朝をつくる「王」と皇帝そして教皇の関係性がこの時代非常に不明確である、ということも頭に入れておく必要があると思います。

で、結論から言えばザクセン朝は名前こそ「東フランク王国」だけど、実質的にはカロリング朝とはまったく別の国、ということでしょう。
カロリング朝が断絶するとフランケン朝のコンラート1世が立ちますが、これは諸侯の間で選挙が行なわれ選ばれた王だったわけですが、ザクセン公やバイエルン公などの有力諸侯との軋轢やマジャール人などの侵攻に悩んでいました。で、コンラート1世は子供がいなかったので死ぬときに「東フランク王国の継続を優先」してザクセン公を指名し、次のザクセン公からザクセン朝になるわけです。

このザクセン公がハインリヒ1世として戴冠するときに「マインツ大司教の塗油の礼」を拒否したというエピソードがあります。マインツ大司教の塗油の礼、はそもそもフランク王国を創始したピピン3世が教皇から塗油の礼を受けたのが始まりで、フランク王国の継嗣は塗油の礼を受けることが慣わしでした。東フランク王国でもフランケン朝コンラート1世まではこの礼を行なっていたので、ここで王朝だけでなく国家そのものが変化することになります。
一般的にこのザクセン公ハインリヒ1世から「ドイツが始まった」とされます。
(塗油の礼:ヨーロッパでは古代から王位に着く者に油を注いでそれを認める儀式があり、旧約聖書にも記述があり、キリスト教でも礼として行なわれています)

したがって、質問者様のいう
「バイエルンのヴィッテルスバッハ家では神聖ローマ帝国の順番で名乗らずに、バイエルン公の順番で○○世としていたようです。」
にはもう一段階あって、ハインリッヒ1世の息子でザクセン朝ドイツ王だったオットー1世(神聖ローマ帝国初代皇帝:大帝)と、ヴィッテルスバッハ家の初代であるオットー1世は別の人で、血筋もほとんど関係なく、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にバイエルン公として任じられた人になります。

神聖ローマ皇帝から任じられた家系が、皇帝と同じ順番で数えることはできない、というのが理由のひとつ

もうひとつはそもそも「皇帝」は王ではない、ということ
ローマ時代から皇帝というは事実上の独裁君主であっても、王ではありませんでした。ローマ時代はあくまでも「終身の特別官」であり、必ずしも世襲ではありませんでした。

神聖ローマ帝国においても建前上は「選挙君主制」をとっており、それは彼らからすれば「ローマ時代の伝統通り」だったわけです。実際には有力家系が皇帝になればあらゆる手を尽くして世襲するのですが、代が途切れると選挙制に戻ってドイツ王が選ばれるわけです。
ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世はあくまでもヴィッテルスバッハ家の4番目のルートヴィヒということであり、その人がたまたま選挙君主制でドイツ王に選出された、ということにすぎません。そしてルートヴィヒ4世は世襲で5世にドイツ王を継がせる事が出来ませんでしたので、5世はヴィッテルスバッハ家の5番目のルートヴィヒでバイエルン公だった、ということになります。

あくまでもこの時代、皇帝は「選挙制」が建前ですから、皇帝の名前で継いでいかなかったのはそういう理由でしょう。フランス王はカペー朝が世襲を3百年ほど続けることで専制君主制というか絶対王政の基礎を作っていったために、王朝=国家として番号を数えることができるのにたいして、ドイツは神聖ローマ帝国の成立そのものが諸侯による選挙王制だったために、国家として統一した番号をふるのが難しい、という側面があるのだと思います。

ですから、ものすごくややこしい、わけです。
結局のところフランス・ドイツという枠ではなくヨーロッパ全体を見渡したときに、中世は諸侯の領地がせめぎあっていた、という現実が重要なのだと思います。ローマが崩壊し、イスラムとの戦いの中で、ローマの最後の名残だったフランク王国が分裂崩壊し、諸侯の中でも有力だった家系が王朝を開いていったのがフランスであり、世襲制の正統性を示すためにもカロリング朝の敬虔王ルイ1世から数えているのだと思います。血筋が変わっても「フランスの王」である実態は変わらないため、正統性を表すためにもフランス国の始祖から数えていたのでしょう。

逆にドイツはフランク王国が崩壊し東フランク王国になってもごたごたします。ひとつには「ローマ帝国の伝統」という考え方があって、選挙王制などを大切にしたことが大きいのかもしれません。または諸侯の勢力が西フランクの地域よりは拮抗していたのでしょう。

そのために、ドイツの統一の方法はフランスと異なり絶対君主が出にくい状態で経過したため、各諸侯は自分達の先祖から数えた番号を大切に扱ったのだと思います。そして諸侯の中にはドイツにもフランスにも入らずに諸侯領を死守した人たちもいて、ベルギーとかオランダなどはその名残がありますし、ルクセンブルグやモナコなどはいまだに諸侯領のまま維持しているわけです。

ですから国家という単位であることはまあ基本としても、日本人の感覚だと「なにをもって国家とするのか」が問題点になってしまいます。
諸侯領も国家の範囲ですし、そこから大きく発展して王朝を持った家系なら家系=王朝として数えられるわけですし、そういう点でいえばフランスは国家が家系を越えて存続したために、ローマ皇帝がもつカエサルと同様に番号がカロリング朝から数えられるようになったのでしょう。

非常に蛇足ですが、フランスとドイツは仲が悪いですね.フランスは10世紀にはフランスの原型が出来ていて、王様の番号もそこから数えている「由緒ただしき国」なのに隣のドイツは「東ローマ帝国の名残」とか「フランク王国時代の領地を取り戻す」と言って、フランスにちょっかいを出し続けていたわけで、これらの違いも君主国が成立しているのか、諸侯領の集りなのか、と言う違いが大きいのかもしれません。
ま、フランスもイギリスにちょっかい出し続けて仲が悪いですけどね。

#2です。お礼ありがとうございます。

>けっこういい加減ということなんでしょうか。
いい加減ということはないでしょうが、かなり複雑であることは間違いないでしょう。

お礼の内容でいえば、まず東フランク王国はカロリン朝ルートヴィヒ4世で系統が断絶し、一代限りのフランケン朝を経由してザクセン朝になります。

この王朝を「東フランク王国の継続」とみるかどうか、だと思います。
で、もうひとつの問題が王朝をつくる「王」と皇帝そして教皇の関係性がこの時代非常に不明確である、ということも頭に...続きを読む


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