ドイツ統一(1990/10/3)でソ連軍にドイツは撤退費を払いましたが、多分膨大な金額だったろうと思います。これに対してドイツ国民から文句は出なかったのでしょうか?

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A 回答 (1件)

ドイツの統一に関連した諸問題の討議及び決定が行われた2プラス4会議(東西ドイツ、米ソ英仏)において、2プラス4条約(ドイツ問題の最終的規制に関する条約)が署名され、同時に駐東独ソ連軍の撤収が同意されていますが、ソ連軍の撤収にかかる費用を当時の西独が負担するという約束をしたかどうかは定かではなかったかと思います。



ただ条約締結に先立つ1990年9月に、西独コール首相とソ連ゴルバチョフ大統領は両国における金融上の協定を結んでいます。
ゴルバチョフは当時のソ連国内の経済改革を確固たるものにするために160億ドイツマルク程度の借款を含めた経済援助を求めましたが、コールはこれを150億ドイツマルクに抑えて要求を呑んでいます。

無理に考えればこれらの経済援助に駐東独ソ連軍の撤収費用も含まれているかもしれません。そうなると国家間の取り決めであり、また経済援助という名目も考えると、旧西独国民がこれらの決定に対してそれほど目くじらを立てることはなかったかと思います。

統一なったドイツ連邦の国土にいつまでもソ連軍が居座ることを考えれば、金で解決する手法も仕方がないと考える国民が大多数ではなかったかと思います。ある意味立場は違いますが現在の日本が日本に駐留している在日米軍に、多額の思いやり予算と称した用心棒代を払っている現状にどこか似通っているといえなくもないですね。
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Qソニーがプラズマを撤退した理由は何故?

今から4年くらい前でしょうか、松下の工場(茨木工場)ではビクターや東芝やシャープや富士通のプラズマテレビをOEM生産していたらしいのですが、

ソニーが早々とプラズマテレビから撤退した理由は何故なのでしょうか、

それとビクターや東芝やシャープが撤退した理由は何故なのでしょうか、

お詳しい方、ご教示よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ご存知の様にテレビ分野でソニーはブラウン管に固執するあまり薄型テレビの分野で大きく遅れを取り、自社での完全生産体制確立に失敗(パネルを他社から仕入れざるを得なかった)し価格競争にも破れ深刻な状態にありました。(2003年のいわゆるソニーショック)
どのみちソニーは何らかの大きな決断を下す必要に迫られていた訳です。
そこで2004年にプラズマからの撤退を表明し、経営資源をS-LCD(ソニーとサムスンの合弁会社)でパネルを自社生産可能な液晶分野、リアプロジェクションテレビに注力する事にしたわけです。
その結果、新ブランドBRAVIAは一定の成果を挙げる事が出来ました。

この時期は薄型テレビ分野における転機のひとつであり、それまでプラズマと液晶で住み分けされていたものが、液晶の大型化に目処がついたこともあってどちらを主力に据えるか、あるいはさらに次の技術へ進むかが明確になって来ました。
液晶の勝ち組頭であるシャープは当然液晶に注力。東芝も液晶へ。ビクターはリアプロジェクションテレビに注力しつつ他社パネルで売りやすい液晶を生産。

といった感じです。

ご存知の様にテレビ分野でソニーはブラウン管に固執するあまり薄型テレビの分野で大きく遅れを取り、自社での完全生産体制確立に失敗(パネルを他社から仕入れざるを得なかった)し価格競争にも破れ深刻な状態にありました。(2003年のいわゆるソニーショック)
どのみちソニーは何らかの大きな決断を下す必要に迫られていた訳です。
そこで2004年にプラズマからの撤退を表明し、経営資源をS-LCD(ソニーとサムスンの合弁会社)でパネルを自社生産可能な液晶分野、リアプロジェクションテレビに注力する事にした...続きを読む

Qヴィットリオ・ヴェネトの戦いのオーストリア軍と1945年のソ連進攻に際しての日本軍

1918年の第一次大戦終結時の、イタリアが、休戦して武装解除を待っているオーストリア軍に対して大勝利したのは、抵抗がなかったからでしょう。なぜ1945年の日本軍のように、武装解除を待つ状態でも抵抗したようにしなかったんでしょうか?抵抗していたら、イタリアは失地を回復できないまま休戦を迎えることになり、戦後交渉がやりやすくなるのではないでしょうか。内部崩壊して軍そのものが消滅していたのでしょうか?

Aベストアンサー

ヴィットリオ・ヴェネトでのイタリア軍の勝利は、オーストリア軍の油断と、既に軍の撤退が開始されていた為です。

オーストリア政府の休戦の決定により、オーストリア軍は、連合国軍に休戦を要請し、既に一部の部隊は撤退を開始していました。
当時、オーストリア国内は各民族が独立を求めており、混乱状態にもなっていました。そうした状況と長い戦争による厭戦気分の為、オーストリア軍の兵士は戦意が低下し、早く帰郷したいとも願っていました。また、指揮官達は軍の帰還による国内安定が早期に必要と判断していました。
その為、オーストリア軍は、占領地からの撤退行動を開始していたのです。イタリア軍が休戦締結後に攻撃を開始してくるとは思っていませんでした。
戦意が無い上に、休戦が結ばれたと思い、その上撤退に入っていたところを、攻められた結果があの敗北です。

この戦いに兵士として従軍していたイタリアの若き文学者プレッツォリーニは、あまりにもヴィットリオ・ヴェネトの勝利がイタリア軍によって過大に飾られた為に、真実を民衆に伝える為に、1920年にその名も「ヴィットリオ・ヴェネト」という本を執筆し世に出しています。
私は読んでいませんが、そこには実際の戦いは、もはや戦意がなく国内に撤退しようとしていたオーストリア軍にイタリア軍が襲い掛かったものであり、軍が喧伝しているような華々しい戦いで、戦果をあげたものではないと指摘しているそうです。

なお休戦を無視して攻撃に出たイタリアの意図は、戦後を睨み連合国の一員としてより大きな発言権や権利を主張する為に、大きな勝利を上げておきたかったからだと言われています。

ヴィットリオ・ヴェネトでのイタリア軍の勝利は、オーストリア軍の油断と、既に軍の撤退が開始されていた為です。

オーストリア政府の休戦の決定により、オーストリア軍は、連合国軍に休戦を要請し、既に一部の部隊は撤退を開始していました。
当時、オーストリア国内は各民族が独立を求めており、混乱状態にもなっていました。そうした状況と長い戦争による厭戦気分の為、オーストリア軍の兵士は戦意が低下し、早く帰郷したいとも願っていました。また、指揮官達は軍の帰還による国内安定が早期に必要と判断...続きを読む

Qフジテレビがプライドを撤退した理由

コメンテーターの勝矢氏がフジテレビがプライドを撤退した本当の理由があるみたいな事をラジオで言っていて、その本当の理由を言わなかったんですけど、その本当の理由を知ってる人いませんか?

Aベストアンサー

一般に言われているのは、プライドの人気が沸騰したためプロモーター(興行主)側が強気になり、テレビ放映権を法外な値段で吹っかけたためということだったと思うんですが、もう一つの理由として、そのプローモーターと暴力団の癒着が噂されたためだということです。

プロレスやボクシングもそうですが、各地方でそれらのスポーツ興行を行うには、地元の有力な暴力団へ何がしかの挨拶(つまり金ですね)をするのが昔からの因習となっています。

ただプライドの場合は動く金の額が大きすぎたため、全国規模の暴力団がその興行権を横取りしようと動き始めたのを、フジテレビ側が嫌ったと聞いています。
別の見方をすれば、プロモーター側が進んで暴力団と手を組んだともいいますが、それは定かではないそうです。

ただあれだけ人気のあった格闘技番組の放映権をフジが手放したのですから、視聴率獲得にあえいでいる他のテレビ局が黙って見ている事はないはずです。どれだけの金を払ってでも自分たちが放映権を得ようとするはずなのに、どこも動きを見せないということは、その黒いうわさの信憑性を逆に裏づけているともいえます。

個人的には例のブラジルの金の亡者兄弟たちの言いなりになって常識はずれのファイトマネーを払い続けたことが、プライドのそもそもの間違いであり、つまづきの始まりだったと思います。

一般に言われているのは、プライドの人気が沸騰したためプロモーター(興行主)側が強気になり、テレビ放映権を法外な値段で吹っかけたためということだったと思うんですが、もう一つの理由として、そのプローモーターと暴力団の癒着が噂されたためだということです。

プロレスやボクシングもそうですが、各地方でそれらのスポーツ興行を行うには、地元の有力な暴力団へ何がしかの挨拶(つまり金ですね)をするのが昔からの因習となっています。

ただプライドの場合は動く金の額が大きすぎたため、全国規模...続きを読む

Q終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機

終戦間際にソ連軍は、旧満州に侵攻し、関東軍司令部をはじめとする日本側機関から文書や資料を貨車28両でモスクワに運んだとされている、と数年前にある雑誌で読みました。
これらの文書・資料は、ソ連邦の崩壊前後から公開されるようになり、日本の研究者がモスクワ詣でをして、調査・研究しているとのことです。
これらの文書・資料は、今となっては「史料」としての価値があると思いますが、ロシアの言い分は「戦利品」らしいです。

これらの文書等を返還要求できる権利が日本にはあると思うのですが、法的な根拠はあるのでしょうか。
日本政府は、ロシアに対して公式に返還を要求したことはありますか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 1956年の日ソ共同宣言で全ての請求権を放棄していますが…。
 (返還要求は出来ない筈)

日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言
     (略)
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に、放棄する。
     (略)
   http://www.hoppou.go.jp/library/document/data/19561019.html

 勿論「ロシアが好意で返します」なんて事が絶対に有り得ないと言う訳では有りません…。

Qアメリカ軍がフィリピンから撤退した本当の理由は?

アメリカ軍がフィリピンから撤退した本当の理由は?
ピナツボ山噴火の後くらいで駐留費用の協議が決裂し、アメリカ軍はフィリピンから撤退したと記憶しているのですが、本当に費用の問題だけだったのでしょうか?
素人目には沖縄よりいい位置のような気がするので、費用だけとは思えないのですが

Aベストアンサー

 基地の重要な要素はその位置だけではありません。そこで行なわれる訓練や装備の修理、整備が滞りなくできるかどうかもそれに劣らず大切なことで、特にアメリカの艦船にとって、横須賀、佐世保は必要欠くことのできない基地になっており、日本各地にある空軍基地も全く同じです。この点から考えると基地の周辺にある優秀な技術を有している工業地帯の技術力が米軍にとっては絶対に欠かせない要件なのです。

 米軍は朝鮮戦争でこのことを痛感したのです。米軍のハードルの高い仕様をクリアできる製品を期日までに必要な数量を確実に提供できるのは日本お置いて他にはないのです。

 スービック基地はピナツボ火山噴火で大きな被害があり、それを修復するのに莫大な費用がかかる上、上記の要件をこの基地が満たしていないのでむしろこれが渡りに舟となって基地を撤収することにしたのです。

Q第二次大戦中、日本軍が撤退まぎわに台湾軍属のアキレス腱を切って連合軍が使えないようにしたってホント?

昨日ネットで見た連合軍兵士の手記によると、「ニューギニアに上陸し、攻撃すると日本軍は撤退していった。 その跡に杭に縛り付けられている人間がいて、生きていて台湾人と分かった。労働力として連れてこられたと思われる。足首(lower leg)を切られていて、たぶん、連合軍に労働力として使われないようにしたんだろう」と書いてありました。でも、当時、台湾は日本領土で、台湾人は日本人だったはずです。 連合軍に救出されれば、台湾に帰って「日本軍にひどいことをされた」といいふらすでしょうから、そんなバカげたことを日本軍がしたでしょうか? もし、中国語が分かれば自分で調べるのですが、分かりません。 で、質問は、1)史実かどうか 2)日本人の台湾人に対する考えは、そのようなものだったのか? の2点です。

Aベストアンサー

1)史実かどうか

おそらく史実ではありません。
他の方が述べられたように、あえて拘束してアキレス腱を切るより
殺害した方が簡単です。普通に考察すれば、負傷で後送できないので
置いて行かれたと考えるのが妥当です。
ただし、日本軍にも多くの人員がいたので絶対に無いとは言えません。

歴史を検証するうえで、検証を経ていない証言は資料ではなく
あくまでも参考にすぎません。
本気で史実かどうか検証するためには、本人や第三者への聞き取り、
当時その付近に展開していた日本軍と徴用された台湾人軍属から
該当すると思われる人物など調べる必要があります。
そのような検証をしないうちは、あくまでも一つの証言です。



2)日本人の台湾人に対する考えは、そのようなものだったのか?

台湾人への蔑視はありました。
近年の台湾は一般的に親日といえますし、日本は台湾統治時代に
それなりの政策を行っていました。八田與一や六氏先生、
明石元二郎、後藤新平のアヘン対策などなど、よく見かけます。
では、台湾人が日本人として扱われたかというと違います。

台湾統治と朝鮮では、同じ植民地統治として明確に差別されました。
帝国大学である京城帝国大は併合後14年に対し台北帝国大は33年、
朝鮮王には皇女が嫁ぎ、伯爵(宋秉畯)に叙せられた人もいます。
志願兵の受け入れは朝鮮が1937年で台湾が1941年、朝鮮人には
許可された陸軍士官学校は台湾人は入学できない(海兵は両方不可)、
悪名高い(当時は日本人になりたくて請願された)創氏改名も、
台湾では(改姓令)許可制で3%しか認められないなど
(注:朝鮮では姓の扱いが日本と違うので創氏は強制ですが、
申告制の改名は20%)多くの待遇の差が挙げられます。
台湾では発展に取り残された民族も多く、それに対する差別も
それなりにありました。
その中で起こったのが有名な「霧社事件」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(Wikiですが閲覧注意です。残虐な写真があります)
朝鮮で有名な三一事件では、警官が惨殺されたり役場が焼き討ちに
あいましたが、死刑判決は無く、ほぼ全員が数年で釈放されましたが、
霧社事件は逮捕された者は全員留置中に死亡し、生き残った300人弱は
僻地へ移住させられるなどで、天皇陛下が事件の根本に原住民への
侮蔑があるともらしたとされています。

台湾では、二二八事件以後戒厳令が敷かれ、外省人による統治が
行われました。このことを「犬(日本のこと)が去って豚が来た」
と揶揄されたように、中華民国よりましだけど日本の統治も
良い点ばかりでは無いと思われていると考えます。
(他国の植民地政策よりは良かったと思います)



手記の記述について考察するなら、戦時中でも日本に協力的な部族も
敵対する部族もありましたが、徴用は高砂義勇隊に代表される
親日派が多く、献身的な働きをしたとされています。
よほど差別主義の隊長か怠惰な台湾人でない限り考えにくく、
この意味なら、ご質問の回答は(ニューギニアの戦地で)
「台湾人を差別した行為とは考えにくい」ということになります。

1)史実かどうか

おそらく史実ではありません。
他の方が述べられたように、あえて拘束してアキレス腱を切るより
殺害した方が簡単です。普通に考察すれば、負傷で後送できないので
置いて行かれたと考えるのが妥当です。
ただし、日本軍にも多くの人員がいたので絶対に無いとは言えません。

歴史を検証するうえで、検証を経ていない証言は資料ではなく
あくまでも参考にすぎません。
本気で史実かどうか検証するためには、本人や第三者への聞き取り、
当時その付近に展開していた日本軍と徴用された台湾人軍属...続きを読む

Q三菱電機が携帯電話から撤退した理由なぜ?

三菱電機が携帯電話から撤退した理由なぜ?
一部報道に、三菱電機がFOMA対応(第3世代?)の基地局の送信機、受信機は完成していたが変換機(変復調回路など)開発の遅れで、三菱電機の開発が完了した時点にはすでに他社の機器が市場に出回っていて、市場への参入が出来ない状況で携帯電話事業からの撤退を余儀なくさせられたとありましたが、基地局を頑張って多く作ればいいのではないでしょうか?それとも
基地局はなにか登録(許可申請など)が必要なんでしょうか?
三菱製の携帯を使っているものとして残念でなりません、お分かりの方ご教示願います。

Aベストアンサー

撤退するのは”携帯電話端末”ですよね? むしろ、基地局はこれから強化する、と発表していたと思いますが・・・。

携帯電話端末、I-modeが出始めた頃から多機能化が進み、開発費が膨大になってきています。一方、販売台数は伸びが止まってきています。こういった状況では、撤退も判断の一つだと思います。業界再編、これからも進むでしょうね。

Q進駐軍が米軍ではなく、ソ連軍だったとしたら

敗戦後の進駐軍が、米軍ではなく、ソ連軍だったとしたら。
Q1.日本はどうなっていたでしょうか?
Q2.日本共産党の宮本顕治氏の運命は?
以上2点について教えてください。

Aベストアンサー

 昔の革新とか、左翼の思想の方はそういう成り行きを是としていたと理解しております。
 私達にとっては、単にアメリカとソ連の違いでしかなく、日本人は、日本国民は器用にやってきたと存じます。
 開発が或はもっと遅くて、自然がのこっているかもしれません。
 そのほうがいいですね。
 天皇や皇族、その他の上層特権階級のうち、身のこなしのうまい人は、うまく結託できたでしょうね。いわゆるソ連の支配権力者と。
 天皇制は維持できない。廃絶。天皇の名において、とかなんとか法律の裁可と公布の署名、御名御璽はない。
 天皇関連の意識は継続していない。それはある意味徹底できている。
 宮本顕治さんがソ連からの独自路線を持つにいたるかどうかは不明ですが、そうなれば粛清。
 野坂参三は手をずうっと切れなかったみたいですね。
 ただそれだけの、やわらかい人なのでしょうね。
 だから、お金をもらっていたとしても、別にいけないこととされないでしょうね。
 ソ連の崇拝は続いたのでしょうね。でもソ連と違う仕方を考案してうまくやっていくのが日本人です。
 革新の方もあぁいう、そしてこの試練はないだろうが、別の試練があった。以外にソ連批判勢力となりうる。
 そんなことどうでもいい、儲けと利益だけの人はべったり。それは今と同じ人種。同じ遣り方。資本主義でも自由主義でも、そういう人は同じ。アメリカでもソ連でも、変わらずに載っていく。
 宗教や伝統が継続できないかもしれない。民俗心性や心情が痛手を受けるかもしれない。
 でもアメリカも謀略的にずいぶん金抜きをしてきていますからね。むしろまともに否定されたら、水面下でもっとちゃんと続いていた可能性がある、つらいけれども。
 そしてどっちにしろ、物事への片目を隠されている状況は変わらない。
 私はソ連でもよかったし、アメリカでもよかった。
 昭和は偉大で、民族、そして国として、物心両方で最高に盛り上がった時代であり、状況であったが、息の詰まる軍部優先や権力機構はとても生きられない。兎も角それだけは終わって欲しかった。終戦時、7歳だが、とても虚弱児、内面的、特徴的な子どもは呼吸はできやしない。
 普通、一定レベル、はみ出さない、標準。大勢への一致。
 号令一つで、規定のことはやれなければいけない。
 これが終わった、終戦ではない敗戦は結果としては不幸中の幸いでもあった。大人、女性、特に幼子や病人を抱える家、戦災で丸裸の人はとてもたいへんだったが。
 焼けなかった人、近郷の農業者、などは私たちの両親からみたら、天国と地獄ではなかったろうか。
 最初の進駐軍はそういう人に親切であった。ソ連がそうだったか、それは不明。そして個性とはみ出しをあの、スターリンが認めるか。
 異端は生き難いのではないか。あのスターリン治世下では。
 レーニンならもっと東欧ももっと違っていましたでしょう。
 それなら、アメリカより完全にいいのではないだろうか。
 

 昔の革新とか、左翼の思想の方はそういう成り行きを是としていたと理解しております。
 私達にとっては、単にアメリカとソ連の違いでしかなく、日本人は、日本国民は器用にやってきたと存じます。
 開発が或はもっと遅くて、自然がのこっているかもしれません。
 そのほうがいいですね。
 天皇や皇族、その他の上層特権階級のうち、身のこなしのうまい人は、うまく結託できたでしょうね。いわゆるソ連の支配権力者と。
 天皇制は維持できない。廃絶。天皇の名において、とかなんとか法律の裁可と公布...続きを読む

Q【OLD NAVY(オールドネイビー)が日本から撤退した理由を教えてください】GAP(ギャップ)の下

【OLD NAVY(オールドネイビー)が日本から撤退した理由を教えてください】GAP(ギャップ)の下位、廉価版の姉妹ブランドでしたがなぜ日本人に受け入れられなかったと思いますか?

Aベストアンサー

GAPのような値段、でもGAPじゃないし(世間の人はGAPの子会社という事を知らない)
じゃあGAPのほうがいいやん、って感じで売れなかったから

ユニクロやZARAとかよりも高かったしね

ユニクロで1980円の白のポロシャツ
GAPで2980円の白のポロシャツ
どこか判らない2500円の白のポロシャツ(実はOLDNAVY製)

どれ、買います?

実際に何回か店に行ったことはあったけど、それほど安いと思った事は無かったよ

Qドイツ軍の第2装甲軍について質問です。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認できます。
さらにウィキペディアのクルスクの戦いのページにある部隊配置地図では
指揮官部分に"SHIMIDT"と記載、おそらくルドルフ・シュミット上級大将のことでしょうが
彼は1943年4月に第2装甲軍司令官を更迭されているはずです。
クルスクの戦いの起こった7月に彼が指揮官なのは時系列が合いません。

F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、
第2装甲軍が参加していたはずのクルスクの戦いは8月22日まで続いたはずです。
ウィキペディアの情報をそのままたどると、
第2装甲軍は1941年バルバロッサ作戦においてモスクワに向けて進撃し
その後1942年にははるか1500km南方のバルカン半島に派遣、
さらに1943年夏に再び1500km北でクルスクの戦いに参加し、
激戦のさなかもう一度1500km南下してバルカン半島に戻ってきたということでしょうか?

いくらなんでもむちゃくちゃすぎると思うのですが、これは事実ですか?
それともウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認でき...続きを読む

Aベストアンサー

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%9C%9F%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%81%E7%B5%84%E7%B9%94%E7%B7%A8%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%88%A6%E6%AD%B4%E3%81%AE%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0-%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%84/dp/4499229243/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1377357679&sr=8-3&keywords=1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84

つまり、この「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」の内容が正しければ、

>1942年にバルカン半島に送られ、

の部分は誤りとなる可能性があります。

また、パウル・カレルの「バルバロッサ作戦」やエーリッヒ・フォン・マンシュタインの回想録「失われた勝利」等を見ると1942年1~3月、7月に第2装甲軍が東部戦線でソ連軍と戦闘しているのがわかりますから、少なくとも1942年を通して第2装甲軍がバルカン半島にいたという事はないという事がわかります。それに、クルスク戦においても第9軍の側面防御を請け負う援護部隊としての役割だった事などもわかります。

そのウィキの記事が何を元に書かれたか、それが信頼性の高い資料によるものなのかが問題だと思います。


●なお、
>F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、

この部分について、ハインツ・グデーリアンの回想録「電撃戦」(1974年版)の別冊資料集では、F軍集団は「1943年8月22日~26日」となっています。


●余談ですが
>はるか1500km

ドイツ装甲師団は東部戦線で戦った後、兵士の休養と兵器の再装備のため、フランス等で数ヶ月過ごす事が珍しくありませんでした。
一例を挙げると、東部戦線にいた第7装甲師団は1942年5月にフランスに向かい、そこで休養と再装備をすませると12月には東部戦線に復帰しています。
東部戦線からフランスまでは軽く2000キロを超えている距離です。

●なお第2装甲軍に所属している部隊もそれなりに変わっています。
1941年11月にモスクワを目指して進撃していた第2装甲軍には、装甲師団として
第3装甲師団、第4装甲師団、第17装甲師団、第18装甲師団が所属していましたが、
クルスク戦前の時点では、この4個師団は既に所属しておらず、所属していたのは、
第5装甲師団、第8装甲師団、第12装甲師団でした。
この3個師団は第2装甲軍がF軍集団に配属された時、第2装甲軍から外されそのまま東部戦線に残されています。


■>ウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。
回答・・・その可能性はあります。

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%...続きを読む


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