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第二次世界大戦で、ソ連軍としてナチスドイツと戦っていたウクライナ人と、ナチスドイツ軍としてソ連と戦っていたウクライナ人がいましたが、後者のウクライナ人はユダヤ人を迫害していました。
同じウクライナ人が、なぜソ連とドイツに分かれて戦っていたのですか?
また、ソ連側のウクライナ兵と、ドイツ側のウクライナ兵は、どうやって分かれていたのですか?

今でも、対立構造はあるのですか?

質問者からの補足コメント

  • それこそ、ウクライナは東部と西部で分かれていたのですか?

      補足日時:2022/04/05 10:54

A 回答 (2件)

さて本題です。

内容は主に次のドキュメント小説からです。
Die Illusion - Rotarmisten in Hitlers Heeren Jürgen Thorwald
(幻想 ヒットラー軍団下の赤軍兵士 ユルゲン・トーァワルト
(1950年代の作品?))

独ソ戦初頭のドイツ軍の快進撃を、ドイツ軍の近代的な兵器と電撃攻撃に
よるとして、あれこれ議論している軍事おたくの説は数限りありません。

しかし、見落とされている大きな要因として、スターリンによるソビエト
軍将官の大量粛清と将校と兵達の間の反スターリン(反ソ連)感情も挙げ
られています。
将官の大量処刑による指揮系統の乱れと前線兵士の戦意の無さです(歴史は
繰返す!?)。

ソビエト軍捕虜は500万人と見積もられ、その内60%が餓死、病死、処刑
されたと言われています。
これほど大量の捕虜が出た背景は、反スターリンと反ソの意思から、ドイツ
軍に協力してソビエトを開放しようと考えた兵も多かったからです。

しかし、ドイツ人のスラブ人に対する蔑視感情と、特にヒットラーの強烈な人種差別主義から彼らの願いは取り上げられる事無く、大多数は餓死に追い
やられました。
前線が膠着状態に陥ると、兵員不足の危機感を抱いたのはドイツ国防軍の
将官で捕虜内の志願者の前線投入をヒットラーに提言しますが、断られ
ます。
将官は止むを得ず彼らを志願者(HiWi=Hilfswillger、援助志願者)として
兵站などの後方支援に使い出します。
更に状況が悪化すると、彼らを西部(フランス側)戦線での兵士として
使い、西の兵力(ドイツ人兵)の一部を東に振り替えます。

ソビエトが反攻してくると、背に腹は代えられず、HiWiに武器を与え
旅団を編成し対ソ戦に投入しますが、時すでに遅く、装備も限定的で
役に立たず、歴史の中に消えて行きました。
その旅団の指揮官 Sergei Kusmitsch Bunjatschenko はウクライナ地域
の出身で将官の多くもソビエト南西部出身者でした。彼らのドイツ軍への
参加の理由は前の回答で述べた歴史的な背景と反スターリンからです。

ドイツ軍によるソビエト軍捕虜虐待の話は既に広く知られており、
ソビエト軍猊下のウクライナ兵はドイツ人に対する憎悪とスターリンへの
恐怖(前線離脱の兵は即銃殺との話が残っている)から進軍する他に
無かったのです。

敗れたドイツ人に対する残虐行為は、捕虜の大量餓死・処刑に対する
報復行為だと言われています。

本の表題 Illusion は<思い違い◆現実を誤って知覚することからくる、
誰にでも起きる間違い。>という意味があります。


ネット記事からの引用
<西ドイツ政府捕虜史委員会の報告。
「ドイツの公式文書によると、1944年5月1日の段階で、ドイツに
捕まったソ連人捕虜500万人以上の内、200万人以上が死亡し、
他に100万人以上が行方不明になっていた。行方不明者の大部分は
死んだか、処刑されたかで、逃亡したのは僅かに過ぎない。この時点で
生きていたソ連人捕虜の数は100万人を切る。・・・」

ティモシー・スナイダー著「ブラッドランド、上巻)の記述。
ドイツ軍は、310万人ものソ連兵捕虜を死に至らしめた。・・・
ドイツ占領下のソ連領では飢餓が広がって、戦争中、数百万人の民間人が
餓死した。こうしたドイツの残虐行為は、ソ連国内へと伝わってゆき、・・・徹底抗戦するようになった。そして、大戦後半、ソ連軍が
ドイツ本土に達すると、報復とばかりに、ドイツ人に対して略奪、婦女
暴行、虐殺の限りを尽くした。>
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<ソ連軍としてナチスドイツと戦っていたウクライナ人と、ナチスドイツ軍


としてソ連と戦っていたウクライナ人がいました。>は事実です。
<後者のウクライナ人はユダヤ人を迫害していました。>は正しくはあり
ません。

どちらに所属したウクライナ人にも、ユダヤ人に対する蔑視感情を持つ
々は多かったのですが、ナチスの様にユダヤ人撲滅というような過激な
ものではありませんでした。


<同じウクライナ人が、なぜソ連とドイツに分かれて戦っていたのですか?
また、ソ連側のウクライナ兵と、ドイツ側のウクライナ兵は、どうやって
分かれていたのですか?>に答えるためには、ウクライナとロシアの歴史を
1000年ほど遡らなければなりません。

9~13世紀の期間、今のウクライナ地域にキエフ大公国という国が
ありました。この国が徐々に北に勢力圏を伸ばし、12世紀の中ごろには
今のモスクワ周辺にまで拡大しました。

モンゴルの侵攻によりキエフ公国は消滅しますが、モンゴルが撃退された
後の地域に色々な国が興っては消えて行きました。
その一つがロシア帝国です。ロシア帝国は勢力圏を南に伸ばし、豊かな
穀倉地帯であったウクライナ地帯を傘下に治めました。
この地域の民族の軍事共同体またはその共同体の一員が「コサック」です。

<18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の
先兵、国内の民衆運動の鎮圧などを行った。>
注意すべき点は、ウクライナ地域の住民は本来の意思に反して、帝政ロシア
に組込まれ、その先兵として使役されて来た事です。
(司馬遼太郎の「坂の上の雲」に「ロシアの世界最強と言われるコサック
騎兵を打ち破った」のような記述が出てきます。本当に戦意はあったので
しょうか。)

ロシア帝国は滅び、ソビエトがそれに取って代ります。
ウクライナはソビエト内の一共和国となります。
しかし、ウクライナの民族主義は根強く残りました。スターリンはこれを
根絶やしにするために農業の集団化と厳しい収穫物の調達ノルマを課し、
1932~1933年には500万人程が餓死したと推測されています。


話は長くなりましたが、ウクライナはロシア発祥の地でありながら、
ウクライナの人々にはロシアによる圧政の記憶が残っている事を
質問に答える前に書きました。回答は次の回まで待ってください。

ウクライナ国歌には「自由」と「我らコサックの子孫」という言葉が
繰返し出てきます。これらが第二次大戦時の分裂した行動と今回の侵略に
対する抵抗を理解する鍵となるかもしれません。
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