似たような質問の繰り返しで恐縮です。
「真の自分」という言葉は、自分自身の、内的自意識・魂・こころ・人格、それらの概念をすべて含む
ものと考えてください。(どうも「真の自分」をぴたりと言い表せる言葉がないです)
みなさん、自分の「真の自分」を考えたとき、それは理性だと思いますか? 感情だと思いますか?
それとも両者を従える超越者だと思いますか? 「真の自分」は真実在だと思いますか?
それとも物理化学現象が作り出す幻影だと思いますか?

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A 回答 (66件中41~50件)

stomachmanがユングと言いたくて言えないのは、そのトンでも性のせい。

(「元型」は何でもアリみたいでどうも....オカルト系の話に至っては「やめてくれぇ。」)さすが、ozapanさんの解説は分かりやすいや。でも「電波」は、やばい病気の初期症状ですから病院に行きましょうね(^^;

 さて、mori0309さんご注文の、ゲーデルに関連する、自己言及の困難性についてちょっとやってみましょう。たとえ話から。数は数字で表す以外にも、その性質を言って指定することができます。「最小の素数」だとか、「最初の完全数」だとか。「2の平方根」なんてのは、性質によってしか表せませんね。では数を自然数に限ることにして、P:「23もじいないではあらわせないさいしょうのかず」って幾つでしょう。使う言語を指定すれば、この命題Pの意味は厳密に定まります。実際、使う文字をひらがなと数字に限定して、「あ」「い」.... 「8」「9」「ああ」「あい」「あう」... 「さいしょうのそすう」「さいしょうのそすえ」「さいしょうのそすお」..... と並べていけば、23文字以内で表せる数が網羅できます。(数学的言語を定義することで、これをホントに厳密にやるのも可能です。)実際Q:「1もじではあらわせないさいしょうのかず」ならそれは10ってことですね。Pを満たさない数を網羅できる。その個数は有限(<(使える文字の種類)^23)である。にもかからわず、もし命題Pで一個の数Nが指定できたとすると、その数Nは23文字以内の命題であるPで表せる訳だから、Pを満たさない。だからNはPが指定する数ではありえない。つまり、Pは数を指定しない命題です。もう一回Pを読んでみましょう。なんだかおかしいですね。
 「自分」というものを考えている「自分」が、考えの対象である「自分」を対象化すること(ozapan先生の用語では「主題化」)には、究極的にはこれに似た困難性があります。意味があるように見えて実は何物をも指さない命題、というのが出てきても、ちょっと見分けがつきません。言語の意味を精密に定めてもこのざま(Pの例)ですから、用語それぞれが様々な分析・解釈を許すような状況では手に負えなくなるのは当たり前。その上、考えの対象である「自分」が静的ではない。動き回っているプロセスそのものなんですから。
 自分じゃなく他人の心を考察すること(「超数学」に対応)は或る程度可能でしょうが、行動主義・機能主義的な壁、つまり主観的にどう感じているかを無視してしまうことになるのでは詰まらない。
 どうやら、答を求めるのではなく、「わからなさ」をいじくっていろいろな蘊蓄を楽しむ、というのが正しい態度のようであり、自己言及するなら、この意味でこのシンポジウム(本来、酒酌みながら議論を楽しむこと)も誠に「健全(sound)」です。

 次に、mori0309さんの仰る「真実在=高め、導くもの」て概念ですが、これは面白い問いだと思う。こうしてOkWebに質問を投げていらっしゃること自体、mori0309さんが、これが普遍的な、誰にでもあるものと考えていらっしゃることが分かります。ところが自堕落にやってるstomachmanは普通自覚しない。自覚した記憶もはっきりしない。いや、もともとないかもしれない。超自我やコンプレックスの影響を除くと、見あたらない。ことに「高める」という方向性がない。
 信仰を持っていらっしゃる方(特に大人になってから(現世利益じゃない)信仰を真剣に始めた方)の場合には、多分「神」の概念がこの役割をしているんじゃないでしょうか。逆に言えば、宗教には(必ずしも悪い意味ではなく)思考停止の機能があって、「私は誰?」「明日はどっちだ?」みたいな悩みを吸収してくれる。mori0309さんがそういう状態にないことは明らかで、かつ、「高め、導くもの」を実感していらっしゃる以上、神道の神のようなものかな、と思ったんです。
 そこで、まずは皆さんが自分の中にそういう存在を実感していらっしゃるのかどうか、それを知りたいと思うようになりました。どうでしょう?

この回答への補足

stomachmanさん、ありがとうございます。いつも感謝しています。

> Pは数を指定しない命題です。「自分」というものを考えている「自分」が、考えの
> 対象である「自分」を対象化することには、究極的にはこれに似た困難性があります。

どこまでいっても、自分を見る自分を見る自分を見る自分を見る自分を・・・・になって
しまうのですね。でも過ぎ去った過去の時間にいる自分を見つめる自分は「超数学」の立場
にいるということができるのでは? たとえそれが1時間前の自分であっても。
数学的命題に順序の要素はあっても時間の要素はないと考えてよいですか? 過去の事象を
自己参照して、それを自分の体系に取込むというようなことは数学的に記述できるのでしょ
うか?
(回答のお願いではないです。あんまりこの欄のQ/Aを長く続けると怒られそうなので)
(でも気が向いたら教えてください、、、ムシがいいですね)
(質問になってないですか。別に質問を立てろというのならそうします)

> 自分じゃなく他人の心を考察すること(「超数学」に対応)は或る程度可能でしょうが、
> 行動主義・機能主義的な壁、つまり主観的にどう感じているかを無視してしまうことに
> なるのでは詰まらない。

外部からの観察や分析がどんなに精緻であっても観察される当人の主観的な「経験そのもの」
を知ることはできないということですね。やっぱり外からジロジロ見つめる行為は不毛なの
ですね。とすると、やっぱり学問には理性と感性は必須だな~

>「真実在=高め、導くもの」mori0309さんが、これが普遍的な、誰にでもあるものと考えて
> いらっしゃることが分かります。「高め、導くもの」を実感していらっしゃる以上、神道
> の神のようなものかな、と思ったんです。
> この神がsuper-ego(これが生き霊か死霊か、ともかく祖先と繋がるものであることは
> 暗示的ですね)であるのか、egoの持つ倫理であるのか。stomachmanはsuper-ego説を
> 採ります。      (語数上、すこし文章を編集させていただきました。mori0309)

最初の「真の自分」という言葉が不適切だったんです。私は、ごく普通に誰もが持っている
「素直で自分をよく見つめていて自分に嘘をつかない自分」のことを言いたかっただけです。
それは悪に対する単なるブレーキ装置のようなものではなく、自分を「いい方向」に導いて
くれる、包容力の強い「よき自分」です。みじめな自分、みにくい自分をゆるしてくれます。
「ありのままのお前でよいのだ。だから自分を助けるように周りの人も助けてやれ」 そう
勇気づけてくれます。言葉が天から降ってくるわけではないです。「真の自分」が心の
中心に現れてきたとき、私自身が「真の自分」になっています。
でも皆さんも、そうなのではないでしょうか。失意や窮境から立ち直るとき、かならず
こころのなかでそういうことが起こっているのではないでしょうか。

「真の自分」の正体は祖霊かもしれないという説には、うなずきたくなります。文学的な美
を感じます。人間の歴史とはロウソクからロウソクへの炎(情愛)のリレーのようなもだと
思うことがありますから。 何千年、何万年と絶やすことなく受け継がれてきた炎を、私も
また後代へつたえていくランナーの一人なのだ。そういう想いは私を内面から熱くします。
理念化した倫理が「真の自分」であるとは思えませんし、またそれが「真の自分」になって
はならないと思います。理論化した正義は必ずと言っていいほど狂暴な支配抑圧装置となり
自他を滅ぼしてしまうと思います。

感性が真理や本質をとらえたとき、それが美として感じられるのではないでしょうか?
(話が拡散してしまいますね。ますます怒られそう。今度新たに質問をたてます)

なんだかドエラく恥ずかしいことを書いてしまいました。mori0309がどこの誰だか永久に
分かりませんように。

補足日時:2001/01/18 03:12
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この回答へのお礼

stomachmanさん、ありがとうございます。
すこし作文の時間をください。(スミマセン)

お礼日時:2001/01/16 01:08

 Mori0309さん忙しそうだから…ちょっと待ってたんですが…いっちゃおうかな…なんか…止まってるし…


 つーわけで、いきます。

 まず、ユング問題から。
 僕の知る限りで、mori0309さんの言う「真実在であるような真の自分」というものに、もっとも近いイメージを持つのが、ユングの語る「自己 Selbst」であると思われます。個人的な好悪は抜きにして、説明します。
 「自己」は「元型 archetype(注)」の一つで、数ある元型のうち、比較的後年になって提起されたものです。特徴は、
・数ある元型の中でも、「ペルソナ」「アニマ(アニムス)」「影」と並んで、人格の中で中心的な役割を果たすもの。
・人格全体を組織的に統合する原理としての役割を果たすものであり、人格の目的である「個性化(自己実現)」に大きく寄与する要素である。
・先天的な形で集合的無意識の中に刷り込まれているが、ある程度「個性化」が進展するまでは潜在的なものであり、これが顕在化するのは中年期以降であることが多い。
…といったあたり。
 注目していただきたいのは、まず、「自己」が「自我 ego」とは区別されている点。自己は自我に対して、無意識のレベルから絶えず「個性化」へ向けた働きかけを行っていますが、自我がこれに気づかず、無視していると個性化が円滑になされない。逆に、自己と自我が親和的関係を結べている場合、人格は高いレベルで完成されていくのです。(仏陀とか、イエス・キリストがそういう人だったそうです。)
 また、「ペルソナ」とも区別されます。「ペルソナ」は「仮面」という意味で、要するに「他人向け・社会向けの顔」、対外的人格の要素です。この「ペルソナ」という元型に、経験の内容が加わっていって、人格の「外面」が形成される。そういう意味では、フロイトのいう「超自我」に重なる部分が大きい。
 言い換えれば、ふだん自覚できている「自我」とは別のもので、しかも「自分の中に内面化され再生産された他者」でもない、ということです。どうです? Mori0309さんの「真の自分」イメージに近いでしょ?
 もし興味が持てるようでしたら、ユング関連の書籍でもひもといてみてはいかがでしょうか。日本国内では河合隼雄さんが第一人者で、信頼が置けます。わかりやすいし。簡便なものとしては、C・ホールとV・ノードバイ共著の入門書があります。ユング自身の著作も、たいてい翻訳されています。難解で、しかも高価ですが。
 ただし、ユングに関して著述している人たちの中には、アヤシイ人たちもいっぱいいます(僕自身は、そもそもユングからしてアヤシイと思ってる)。懐疑的精神・批判的精神をお忘れなきよう。

 さてしかし、「オッカムの剃刀」ってのがあります。「同じ程度に合理的に説明することができるのなら、余計な仮定や仮説が少ないものの方が正しい」という論法。これはこれで濫用すると危険なのですが、しかしいくらなんでも、ユングにはこの剃刀で切れる要素が多すぎる。体脂肪率50%超のデブデブであります。「中年期以降の《自己》の顕在化」にしても、
「あー、年とれば、誰だって人間丸くなるわなー」
…で、済むのではないか、と。それを、例えば、中年のオヤジになってただ単に世間に妥協して俗物になり果てた(ああ…なんか、自分で書いてて痛いぞ…)場合には、「うーん、あんまり《自己》じゃない…」と「診断」し、逆に、突然人間愛に目覚めて職をなげうって「国境なき医師団」に参加し、弾の飛び交う中で点滴チューブを運びまくる生き方を選んだりした場合には、「おお、これこそ《自己》!」とか「診断」する…。…要するに、後から取ってつけた主観的評価なのではないか。後から見て「うーん、立派だ」と思える要素を実体化・擬人化して「自己」と呼んでいるに過ぎないのではないか。
 「説明のための虚構 explanatory fiction」が、これを糊塗するための別の「虚構」を呼び、かくして「虚構のための虚構」が暴走している世界、それがユング心理学の世界だと言ったら言い過ぎでしょうか。

 ユングの話が長くなりました。すいません。頭の中で電波が「書け、書け」と言うもので…。
 ここで少し話を一般化します。少々、視点を哲学よりにズラし、前にuploadした書き込みも踏まえて「自分」論の私見も示すことにします。ですから、Mori0309さんへの直接の回答からは、ちょっと逸れてくるところもあります。
 まず出発点となる、そしてある意味で(僕なりの)結論でもある一言をば。
「《自分》とは、《自分》の、ある特殊な状態である」…です。
 古来、多くの哲学者たちが指摘してきたように「知」の始まりは「驚き」です。当たり前に見ていたものが、何かの拍子に異形の姿で立ち現れる。で、「なんだこりゃ?」と「知」が働き始める。「自分」というものについても、同じなのではないでしょうか。おそらく、人間誰もが成長過程のある時期に問うていることでしょう。「おれって、何者?」「あたしって、誰よ…」と。
 その時、何が起こっているのか。まず、強さの多少はあれ、「自分」というものについて驚いています。当たり前の自分が、当たり前でなくなっているのです。起きて、メシ食って、学校行って、帰って、遊んで、フロ入って、寝る。そういう、半ば自動化された日常の、単線的で平板な、しかし安定して危うさのない、そういう状態から、「自分」がどこかで逸脱しているわけです。
 きっかけはさまざまでしょう。かーちゃんに叱られてとか、カノジョにフラれてとか、職場の人間関係で悩んでとか、日本の将来に漠然と不安を覚えてとか、世界の現状に悲哀を感じてとか、宇宙百三十億光年の広がりに茫然としてとか…いろいろでしょう。Mori0309さんも、たぶん、「自分」をして「自分」を主題化せしめるような「何か」を、感じるか経験されるかしているのではないですか? SEとして多忙な毎日を送っている、その日常の間隙に、ふと入り込んだ不安の種…みたいなものを。
 といって、僕も人生相談モードに入りたくはありませんので、そっちのことはmori0309さん自身に考えてもらいたいと思います。
 とにかく、他の対象と同様に、「自分」なるものも、そうした驚きに媒介されて主題化されてくるということです。
 ところが、その「自分」というヤツ自体は「他の対象と同様」ではない。他の対象と違って、「客観」の札を貼った棚に収めきることが、決してできない。「今、自分が何を考えているかを内省する」とか、ある程度はできます。でも、「内省されている自分」を「内省している自分」は、「客観棚」にはしまえません。もっとがんばって問いつづけても、しまいきれない「自分」は残ります。(山口雅也さん『ミステリーズ』所収の短編ミステリーに、似たような話があります。けっこう面白かったです。)
 そうした、「自分」をどんどん削っていって「客観棚」にしまい込んでいくという「本当の自分」へのアプローチは、きりがありません。こういう感じに、問題が無限循環に陥ってしまう場合、たいていは問いの立て方自体が間違っているのであり、やり続けても意味のある結果は出ないものです。実際、この「削って削って」の結果出てくる「自分」なんて、抽象的で無内容な観念でしかない。「自分という、自分の一つの状態」にすぎない。まぎれもなく「自分」の一部であるものを捨象した残りかすでしかない。
 じゃあ考え方を逆にしましょう。削っていく引き算ではなくて、全体をつかむ方に。つまり、「自分とは?」などとは決して主題化しようとしないような、ふつうの日常的な状態まで含めて「自分」と捉えてみましょう。
 この状態では、「自分」は「自分」にとって透明な、「見えない」ものになっています。意識されないということです。周囲の世界と自分とが、ごく自然に噛み合っていて、まったく齟齬がない。ノーテンキに生きています。「自分」なんか意識しない。…でも、これだって、まちがいなく「自分」の一つの状態です。ここでは、いわば、もう「自分」なんていない。「自分」がそこに溶け込んでいる「世界」だけがある。つまり、「削って削って」をやって、凝視された一点としての「自分」とは、まったく対極的な様態の「自分」の在り方ということです。
 さて、これで両極端が出揃いました。これら両極端の状態の間を、「自分」は行ったり来たりしているわけです。
こうした両極端の状態を取りうる存在としての「自分」は、「量子のようなもの」と比喩的に表現するのが一番わかりやすいのではないかと思います。「波動でもあるもの、粒子でもあるもの」と。「量子は波である」と表現すれば、それは間違いではないが、一つの抽象であり、「量子は粒である」と表現すれば、これも間違いではないが、やはり一つの抽象です。人間も同様ではなかろうか、と。例えば、横浜スタジアムの外野席で突然ウェーブが起こり、それが伝わってきたとき、愛するベイスターズが勝っているので気分がノリノリになっているozapanは思わず腰を浮かせてしまうわけです。また、ゆうべ殺虫剤で弱らせたゴキちゃんを、そのままにしておいて今日ふんづけてしまった。あーなんてバカなんだ、オレは…と、苦く深い自己嫌悪と共に「自分」と直面するozapanも一方にはいる。が、そのどちらか一方だけが「真のozapan」ではない。どちらか一方に固定して捉えることはできない。
 そういう意味では、世界に溶け込んでいる間に「自分」の中に入り込んできた他者の要素も、広く捉えれば、やはり「自分」にはちがいない。
「みんな…僕の中にいるんだね…」
…なんだか、エヴァンゲリオンの最終回のようなオチになりましたが、そういうことだろうと思うのです。
 要するに「自分」ってそういうものなんですから、ある考えを抱いたとき、「本当に自分の考えなのか、それとも、自分の中の他人が無意識的に影響しているのか…」とか、あんまり考えない方がいいのではないかと思います。考えるだけ無駄でしょう、おそらく。そんなこと考えるより、その考えを進めたり、検証したり、練り上げたりすればいいんです。何かうまくいっているときは、むしろ、その事柄の中に「自分」が溶けている方が普通でしょう。音楽家の故・武満徹さんも、「自分が」曲を「作る」のではなく、音が「向こうから語りかけてくるのを待つ」のだと言ってました。逆説的ですが、そうした形で「自分が消えている状態」のときこそ、「自分」が最高に輝くこともあるのだと思います。

 さて、短く済ませると言いつつ、長くなりました。どうも…書き始めると止まらなく…で…電波が…みんな電波が悪いんです。電波のせいなんです。うう…

注:元型というのは、個人の意識レベルでの経験によって獲得された「内容」を得て発動する、集合的無意識に刷り込まれた「器」のようなもの。「老賢人」とか「大地母神」とか「永遠の少年」とか「悪魔」とか「英雄」とか「樹」とか「太陽」とか「風」とか、もう、やんなっちゃうくらいいっぱいある。これらの「器」が経験を通じた「内容」を得て発動するというのは、例えば、「英雄」の元型を持った人がネガティブな経験を重ねると、ヒトラーみたいな人になってしまうとか、そういうこと。…なんだかなあ…。

この回答への補足

ozapanさん、たいへん詳しい解説と持論の展開、本当にありがとうございます。
私はここ十年ほど変わり映えのしない生活をしていたので、このまま年老いていくのかと
寂しく思っておりましたが、OKWebを知ってからというもの、世界が急に広がった
ようで毎日が新鮮です。ここを通じて未知の方と語り合うことは、本を読んで知識を得る
のとはまったく違う新しい興奮と喜びです。(おかげで仕事に集中できませんが、、、)
素人ですので初歩的な質問や反論をお許しください。
●> 監視の獄吏を内面化して「自分で自分を見張るようになる」ということです。これが
> 主体。
ozapanさんご自身はフーコーの説を認めておられるのですか? 私は他の回答者の方の補足
にも書きましたが、そういう保身のための自己防衛意識が「真の自分」の形成基盤である
はずがないという意見(直感)の持ち主です。人間って、そういう「個」としての存在じゃ
なくて「情愛でつながった集合体」としての存在なのではないでしょうか。
●> 集合的無意識?あるわけねーじゃん、んなもん。シンクロニシティ?ぐーぜんだよ
> ぐーぜん
文学趣味の小生としては、この種の話の誘惑にいつも負けそうになります。でも、電磁波
だって真空中を『無媒体で』伝わりますから、人類や民族が深いところで何かを共有して
いて無意識裡に連絡を取りあっているという仮説も許されるのでは? それと自分にとって
は「正銘の奇跡」としか思えない偶然の一致(神の導きと警告)が今までの人生で二度あり
ました。(40年以上も生きていれば、そういうこともありますよね。やっぱり安直はいけ
ないですよね。自戒、、、)
(この「奇跡的偶然の一致」が人間の心のなかに神を作ってしまうのでしょうか?
 だとしたら、何だか虚しいです。真理はもっと深いと思うんですけどねえ、、、)
●>「真実在=高め導くもの」という捉え方で言うとユングが挙げた元型の一つ
> 「自己(Selbst)」や、あるいはエリクソンの言う「自己同一性(アイデンティティ)」
> でしょうか。「生きる目的」みたいなものを提示しています。一言で言えば「自分らし
> さを作っていく」みたいなことですが
「自己実現」ということですか? 私の感じでは「真の自分」を深めていくということは、
「自分らしさを作っていく」のではなくて「より普遍的な存在に近づいていく」という
ふうに思えるのですが。
●>「存在は本質に先立つのだ!自分の本質は自分で作れ!」というわけです。でもこれっ
> て先に挙げた「文学的主題としての自分」と同じようなものですね。
私も自分で質問しておきながら議論の困難性を感じはじめています。結局、私の問いは文
学的な主題にしかなりえないのでしょうか? 「存在は本質に先立つのだ!自分の本質は
自分で作れ!」と言われると「ん!そうにちがいない!我々人間は自由なのだ!」と思っ
てしまいます。そしてまた、個々の人間が勝手に自分の本質を創っていくのではなくて、
人類全体(さらに言えば生物全体、宇宙全体)で、本質を模索しているのだ思ってしまい
ます。「宇宙史は宇宙の自己認識(自己創造)の旅なのではないか」と、ときどき思います。
それは何か数学の発展史と似ていて、そこでは発見と創造が同じ意味を持っていて、である
から無秩序でアナーキーな(音楽的でない)発展は許されない。「真理」は「創造」されて
いくのではあるが「発見」された時点で、それが「先験的」なものであったと知らされる。
(私の言ってることメチャクチャですね。素人はこれだから困る。そろそろ退場かなあ)
でも、時間の前後(因果関係)とか空間的な内在・外在という人間の単純な二分論的認識特
性の限界を超えないと、新しい文明段階には入っていけないという気がするのですが、、、
●>「自己 Selbst」は人格全体を組織的に統合する原理としての役割を果たすものであり、、、
> 自己は自我に対して無意識のレベルから絶えず「個性化」へ向けた働きかけを行って
> いますが、自我がこれに気づかず、無視していると個性化が円滑になされない。逆に、
> 自己と自我が親和的関係を結べている場合、人格は高いレベルで完成されていくのです。
> Mori0309さんの「真の自分」イメージに近いでしょ?
はい。近いような気がします。
『集合的無意識のなかの自己(Selbst)が自我に(ego)対して「個性化」を働きかける』
『「個性化」とはegoに見出されることによって自己(Selbst)が「集合」から「個別」の
状態になること』と理解してよいでしょうか? 「個性化」の意味がいまひとつ分かりま
せん。ozapanさんは集合的無意識自体の存在は否定しておられるのですよね?
ということは「自己 Selbst」などは無いというお考えですか?
●> 要するに、後から取ってつけた主観的評価なのではないか。後から見て「うーん、
> 立派だ」と思える要素を実体化・擬人化して「自己」と呼んでいるに過ぎないのでは
> ないか。
そういうもの言いに、どうしても不毛なものを感じてしまうんです。私にとっては「真の
自分」は後からでっちあげたものではなくて、いつも、つねに存在している、何かしら
大きな存在です。
、、、でも、こういう文章を書いていると、「真の自分」は出て来ないんですよねえ。
これを書いている人は、私の「真の自分」ではないです。
●>「本当に自分の【考え】なのか、それとも自分の中の他人が無意識的に影響している
> のか」とかあんまり考えない方がいいのではないかと思います。考えるだけ無駄で
> しょう。そんなこと考えるより、その【考え】を進めたり、検証したり、練り上げた
> りすればいいんです。何かうまくいっているときは、むしろ、その事柄の中に「自分」
> が溶けている方が普通でしょう。逆説的ですが、そうした形で「自分が消えている状
> 態」のときこそ「自分」が最高に輝こともあるのだと思います。
「人生相談モードはゴメンだよ」ということなので、聞き流してください。
私は今の会社に入った初めから、一流のSEになろうと思って、それなりに努力もしてきた
のですが、仕事が終わって外に一歩出ると、SEの仕事への興味は彼方に去ってしまって、
好きな本を読んだり、好きな音楽を聴いたり、そちらのほうに夢中になります。何事も中途
半端なままなので、いっそのことモノ書きになろうと思って、それなりに準備や勉強を始め
ようとすると、決まって違う自分が現れて「それはダメだ」というのです。そして考え込ん
でしまうのです。「オレはいったい何者なのだ」「オレが本当に、本当に望んでいることは
いったい何なのだ」という果てしない自問自答に陥ってしまうのです。「その【考え】を進
めろ」と言われても、その打ち込むべき【考え】の対象が決まらないのです。いつも「真の
自分」に禁止されてしまうのです。(以上、独り言でした。突っ込まれても回答は不可能です)
●> 頭の中で電波が「書け、書け」と言うもので…。
その正体は何者なのですか? ユングのことを笑えませんよ。(^o^)(愚問でした)
●このQ/Aの中盤以降で話題になっている「理性(論理)と感性(感情)と自己」論、
「良心・倫理心」論についても、お考えを聞かせていただければうれしいです。
(01-12早朝に、みなさんの回答への補足をさせていただいております)
●これを書いた時点でstomachmanさんの回答はまだ読んでいませんでした。

補足日時:2001/01/15 00:24
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横からちょっと一言・・・




ここのファンになってる一人です。
皆さんのようにたくさんの言葉をつかって、表現できませんが・・・
ただ、なぜかここの質問に対するレスが気になるんです。
stomachmanさんは、次にどう切り返してくるんだろうか・・・とか
他の人はまたどんな意見を掲げてくるのか・・・
一人一人の意見に対して、mori0309さんはなんて答えるんだろうか~?
ここをのぞきにくるとどれもコレも『ふむ、ふむ・・・そんな考え方もできるんだ!面白いぞ!!』なんて、読者気分です。

真面目に語られているstomachmanさんもこのまえどこかで、成人式の事に関して
少し触れておられた中で、射撃の腕前がどうのといってられたのが・・・・
すっごいジョ―クの利くお茶目な面があるんだなって・・・・ウケました。
そんなこんなもあわせて、読んでて楽しんでいるものもいるので
できることなら今しばらく閉じずに続けていってください。
体力がいることとは思いますが・・・・

割り込んで勝手なこといってごめんなさい。
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この回答へのお礼

ありがとうございま~す。littlekissさんのいろいろな発言も読ませていただいてま~す。
とても面白くて参考になります。No.69654が好きです。
> 今しばらく閉じずに続けていってください。体力がいることとは思いますが・・・・
質問者冥利に尽きます、、、(今日もウチに帰れな、、、)

お礼日時:2001/01/12 20:30

stomachman、今度は回答ではなく応援です。


わーい。また走り出したぞ! 質問者別回答数ランキングならmori0309さんて絶対グランドマスターですね。
mori0309さんは「これは議論の場ではないのでは」と心配していらっしゃいますが、いやいや、いろんな意見があり、いろんな観点がある。それがみんな回答なんですよ。こういう使い方ってアリです。
皆さん楽しんでます。心おきなく議論を展開してくださいね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そう言っていただけると、すこしホッとします。
こういうテーマを、こんなにいろいろな方と、こんなに深く議論するのは、生まれて
はじめての経験です。なんだか、いつも錯覚してしまうんです。どこかの場所に、
みなさんが集まっていて、ワイワイ優雅に楽しくおしゃべりしているところを、、、
でも、みんな、私と同じように、てんでバラバラの場所にある、自宅や職場で、書類や
雑誌にうずもれながら、窮屈な姿勢で、カチャカチャ、キーボードを打ってるんだよね。
でも、しかし、やっぱり《サロン》は《幻影》じゃなくて《真実在》だな~

お礼日時:2001/01/12 20:00

 おじゃまします。


 本当に難しい問題で、一つ一つの発言を読んでいると大変勉強になります。ちょっと混ぜてください。

 以下、僕の意見ですが、二部構成でお送りします。
一つ、問題の広がり・重層性を整理するこころみ
二つ、それを踏まえた私見
 ちょっと長くなるかもしれません。

1.問題の広がり・重層性
 「自分とは何か」という問題の難しさは、その問いが波及しうる領域やレベルが、非常に多角的・重層的なものであることが原因の一つだと考えます。以下、ざっと挙げます。
・文学的主題としての「自己」
・主体としての「自己」(哲学的)
・心理学的な意味での「自己」
・身体論でいう「自己」
 …まだあるかもしれません。が、とりあえず、こんなもんで。
 最初の、文学的主題としての、というのは、個々の作品の中で造形されるものですから、ここでは議論の対象から外したいと思います。これを「自分の生き方」という意味で捉えても、それは個々の人が置かれた状況・立場の中で考えていくものですから、やはり外します。
 二番目。うわ、大変…(いきなりやめたくなってきた)。
(気を取り直して…)まず思い浮かぶのが「われ思う、ゆえにわれあり」(デカルト)。判明明晰でないものをガンガン疑っていっても、そうして疑っている思惟の主体は疑えない。だから、これは確実だ、と。…ただし、現代の視点から言うと、その「疑う」という行為自体、脳内における生化学的過程として解体できるわけで、そうした疑念がmori0309さんの当初の質問には含まれているようです。僕としては、そうした「還元」もまた説明の一つではあると認めようと思います。が、あまり意味はない。思惟を担うのがセロトニンやらドーパミンやらの作用であるとしても、まとまった意識や思考がセロトニンで組み立てられているわけではない。「1万円札は紙だ」と喝破したところで「貨幣とは何か」を論じられないのと同じことです。
 もう一つ、行為主体・意志主体としての「主体」があります。倫理的な局面で語られるものです。これはあまりmori0309さんの当初の質問には関係なかったんですが、その後の話の流れで「良心」とか「超自我」が問題になってますので触れた方がよさそうです。この「主体」に関しては、伝統的な「自律=自由」の主体観、ニーチェによるこれの破壊、フーコーの『監獄の誕生』などにおける否定的内面化を通じた「主体」成立論などがあります。
 まず「自律的主体」を簡単に要約すると、「他によってではなく、自分自身を原因およびとして行為する主体」といった感じになるでしょう。バリエーションは色々あります。アリストテレスでは「不動の動者」。「自分以外の者を目的とせず、他の一切が自分を目的として運動するもの」、ほとんど神様です。あるいは「自分が決めたルールに自ら従うのが自由だ」とか。この捉え方は、特にドイツ観念論で洗練されます。カントは「自然法則、および道徳法則の立法者たる理性的存在者一般」として主体を称えていますし、ヘーゲルも「われなるわれわれ、われわれなるわれ」とか言って自律的主体のスケールを共同体レベルまで広げています。
 が、こうした主体観に対して、ニーチェの「~とは誰か」という問いの立て方は破壊的な威力を発揮します。例えばカントは、人間を含む理性的存在者が「自然法則と道徳法則の両方を立法したのだ」と言いますが、そんなものを立法した覚え、あります? 僕はないです。そんなスゴイこと、したことない。…つまり、カントが語る主体とは、現実に存在する個別的・具体的な人間の誰でもありえない存在だったわけです。もちろんカントは、人間誰もがそうした主体なのだと主張したのですが、このことは「誰もそうした主体ではありえない」というのと、同じコインの裏表になってしまっています。結局、抽象的観念でしかない。いくら校長先生が卒業式で「主体的な人間になってください」と言ったって、「そんなのムリだよ」ってことになります。だからこれも「真の自分とは」という問いの答えにはなりにくいと思います。あまりにも空々しいでしょ?
 で、フーコーの主体論。これ、述べる必要はないと思ったのですが、「叱られ経験→超自我形成」というのと枠組みが似ているので取り上げます。フーコーは近代的自我ないし主体の成立を、監獄で象徴させています。「監視塔を中心に円形に配置された獄舎。すべての獄舎の扉・窓は、中心の監視塔に面している。監視塔の視界は三百六十度。しかし半透明ガラスがはめてあって、囚人たちからは監視の獄吏を見ることができない」という状況。ここに置かれた一人一人の囚人は、獄吏が自分を見ているのかどうかわからないわけです。見られていないかもしれないし、見られているかもしれない。こうした中で、囚人たちは「見られているものと考えて」行動するようになります。つまり、監視の獄吏を内面化して、「自分で自分を見張るようになる」ということです。これが主体。…ここでの主体は、それ自体で自立的なものではなく、否定的に作り出された非実体でしかない。主体なんて、こういうもんなんだ、というのがフーコーの議論です。おおざっぱですが。ニーチェの場合、「それでもなお主体であるためには」という志向が残っていますが、フーコーに至っては「自分自身の主人である」という意味での主体になることに不可能が宣告されているようです。
 三番目。心理学的なもの。
 これはずいぶんと話題になっているようです。今のところはフロイトですか。超自我はたしかに「自己の内面に入り込んだ他者」だというふうに、stomachmanさんと同様に僕も理解しています。利己的遺伝子の利他的ふるまいにたとえたのもわかりやすい。
 ただ、フロイトって、人間観がペシミスティックなんですよね。けっこう早い時期からタナトス(死の本能)なんてことを言い出している。死の本能? そんなもん、あるんかいな? …僕の私的な考えでは、自殺願望・破壊衝動・闘争欲求などなどは、人が置かれた状況や、その人の精神状態などによる因果関係で大体は説明できるものであって、そういうのを「死の本能」なんて言って実体化するのはおかしい…と思うんですが。…これ以外にもエディプス・コンプレックスとその克服を通じた超自我形成過程の説明には、明らかな男女非対称がある。噴飯ものと言っていいくらいムチャクチャな議論…どうもフロイトは、あんまり信用できません。スキナー(アメリカ・行動主義心理学)あたりになりますと、「説明のための虚構にすぎない」とか言ってバッサリ切り捨ててます。都合のいいつじつま合わせ。そういうとこ、あると思います。フロイトには。
 で、mori0309さんの「真実在=高め、導くもの」という捉え方で言うと、近いのはユングが挙げた元型の一つ「自己 (Selbst。Egoではなく)」や、あるいはエリクソンの言う「自己同一性(アイデンティティ)」でしょうか。両者とも、純粋な科学としての心理学というより、少し倫理学に片足を突っ込んだようなところがあって、「生きる目的」みたいなものを提示しています。一言で言えば「自分らしさを作っていく」みたいなことですが。これらになりますと、フロイトよりは自我の能動性に大きな役割が認められているように思います。周囲の社会と自我とが、相互媒介的に作用して作られる「理想の自分」、そしてそれに近づこうとする生の営み、という形。「存在は本質に先立つのだ! 自分の本質は自分で作れ!」というわけです。でも、これって、先に挙げた「文学的主題としての自分」と同じようなものですね。なんだかなあ…。
 あ、ちなみに言うと、僕はフロイト以上にユングは信用してません。その筋の人にはメチャメチャ怒られるでしょうけど、あれ、エセ科学だと思ってます。トンデモ系の方々にとって居心地のよい砂上の楼閣。「集合的無意識? あるわけねーじゃん、んなもん」「シンクロニシティ? ぐーぜんだよ、ぐーぜん」というのが僕の立場。おもしろいのは認めるんですが。
 さて、最後に四番目。
 身体論です。身体論と言えば市川浩さん。精神と肉体を単純に二分するのではなく、渾然と一体となった相において人間を眺めてみるというものです。この立場の議論になると、身体というのは必ずしも「皮膚に包まれた肉体」という客観的な実在とは一致しません。鷲田清一さんが『普通を誰も教えてくれない』で使っている例ですが、例えば、怪我をして杖を使い始めたとき、どうしても違和感を感じるけれども、慣れてくるにしたがって、「感覚」が杖の先にまで伸びていく、なんてことがあります。他にも、公共の場所(図書館など)で、いつも自分が座っている席に他人が座っていると、なんだかムカつく、とか、テレビ中継でヘリコプターから撮った映像を見ると、自分も飛んでいるような眩暈を感じる、とか。要するに、「身体」は、意識の状態いかんによって、可塑的に広がったり縮んだりする、ということです。
 「単なる思い込み」かもしれません。が、これはこれで、自分というものありようの一つにはちがいないでしょう。

 第一部は、これでおしまいです。長くて本当にごめんなさい。で、結局、何が言いたかったかというと、「真の自分とは…?」という問いの立て方だと、ざっと挙げただけでも上記のような多岐にわたる領域のどこから考えたらいいのかわかんなくなっちまう…ってことです。議論が進むにつれて、だんだん明らかにはなってくるのでしょうが…。
 問いの立て方って、けっこう大事です。問いの立て方次第で、思いもよらぬほど生産的な思考が生まれる場合もあれば、逆に、何かを決定的に見えなくしてしまうことだってある。…という、そういうことを言いたかったわけです。

 二部は機会を改めます。そっちは短くて済むはずです。
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この回答へのお礼

ozapanさん、長大な論考文、ありがとうございます。
しばらくのちに、お返事させてください。

お礼日時:2001/01/11 14:47

stomachmanさんにお答えします。



感性と感情。私は感性⊇感情と見ています。

理性とは意思・知性に関する点
感性とは欲求・感情・情緒に関する点
(新明解国語辞典・第三版[三省堂]1981より引用)
と言われています。

理性・感性以外にも実際にはtabioさんのおっしゃるように本能も加わります。

本能は生きるための欲求を与えます。これがなければ理性・感性だけでは人が活動をする根源的理由がありません。ですから理性・感性は本能を制御してはいるが、支配まではしていないでしょう。

私は「真の自分はこれだ!」と言い切れるほど単純だとは思いません。理性・感性・本能等が渾然一体となったものが真の自分だと思いますし、それは形あるものでもないと思います。

昔は非常に嫌いだった「我思う。故に我あり」という言葉が非常に的を得た表現であり、また、仏教の全ては「無」というのも正しいと考えます。
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皆さん、すさまじいほどの回答を寄せられているんですね。


私など、及びもつかない論理的なお説ばかりです。
ただ、真の自分とは「良心」ではないかとありましたので、
私なりの思いを寄せてみます。

「心」というものを考えたときに、特にその構造を考えたとき、
私は重層構造をなしているのではないかと思うのです。
簡単に言えば、ラッキョかタマネギのようなものです。
まず、表皮に理性というものがあります。
表皮をめくれば、感覚・感情という層が出てきます。
それをめくれば、次に本能という、とても分厚い層が出てきます。
本能という層をめくれば、心の一番核となっている「魂」
というものになります。次はありません。

人間は生まれてすぐ、誰も教えていないのに、
母親のオッパイにムシャぶりつきますよね。
これは本能のなせるわざです。
エゴ(利己)と言い換えてもいいかと思いますが、
この本能は肉体を維持していくのに絶対に必要です。
赤ちゃんはやがて、五感(感覚)が発達していきます。
同時に感情も芽生えてきます。
その後、3歳か5歳ぐらいまでに前頭葉が発達し、
理性の原形が形成されます。知恵熱が出るのは、そのためです。
この時点で、私の言う「心」のベースができあがるのです。
以降、人は成長するにつれ、置かれた環境、または考え方などによって、
エゴの層、感覚・感情の層、特に理性の層の厚みを増していきます。

老年期に入ると、今度は逆になります。
まず、理性が薄れてなくなり、感覚や感情だけで行動したり、
ものを言うようになります。怒りっぽい老人が多いですよね。
また、感情や感覚に固執するあまり、世間から頑固だと言われたりします。
もう少し齢を重ねると、その感覚や感情も薄れてなくなり、
本能だけがむき出しになります。ボケ老人が、今ご飯を食べたことを忘れて
「ご飯はまだかいな」と言ったりしますね。本能だけになってしまったのです。
本能がなくなれば、もちろん死を迎えるわけです。

さて、ここで本題に戻らなければなりません。
今言う心の重層構造のなかでは、最初から存在して、齢を経ても消えないもの
がありました。「魂」というものです。「魂」と言えば、ヘンな捉え方をされ
かねないので、「良心」と言い換えてもいいかもしれません。
または、キリストが言うならば「愛」、仏陀が言うならば「慈悲」というもの
です。あるいは、「真・善・美」なるものと言ってもいいかもしれません。
しかし、先ほどから言っているように、この魂というものは、三層の分厚い皮
で覆われているために、なかなか表に出てきません。ただし、これがフイに表
面に出てくることがあります。真なるもの、善なるもの、美なるものに触れた
ときです。
坐禅やヨガなどで悟りに至ったとき、つまり、真なるものを知ったとき、
随喜の涙がこぼれると言います。
また、何年か前の冬、アメリカで飛行機が離陸か着陸に失敗し、凍てつく川に
墜ちたことがありましたね。あのとき男性の乗客が、子供だったか女性を先に
救出させ、直後に沈んで亡くなった事件がありました。テレビを見た人は、
おそらくほとんど全員が、善なるもののあまりの美しさに、理屈抜きに深い感
動をしたと思います。
あるいは、美しい景色を見たときも、人はなぜかしらん、涙をこぼすときがあ
ります。

長くなりそうなので、端折ることにして……。

つまり、そういうものが真の自分だと、私は思うのです。

蛇足ながらに────、
言葉遊びになるかもしれませんが、ヨガの世界では、悟りの境地に達したときのことを、真の我に達したという意味で「真我」に至ったと言うそうです。

もっと続けようと思いましたが、ちと疲れてきたので、この辺にしておきます。

この回答への補足

tabioさん、ありがとうございます。
> 最初から存在して、齢を経ても消えないもの「魂」というものです。「良心」と言い換えても
> いいかもしれません。または、キリストが言うならば「愛」、仏陀が言うならば「慈悲」という
> ものです。あるいは、「真・善・美」なるものと言ってもいいかもしれません。
人が生まれながらにして持っている人間の本質は、何かしら「美しくて善なるもの」だというわけ
ですね。私は、人が生まれながらにして持っているものは「美しくて善なるもの」そのものではなく
「美しくて善なるもの」にふれると、それをすばらしく鋭敏に吸収する受容器のようなものと感じて
います。親や家族が愛情によって「美しくて善なるもの」を宿させる(入魂)のだと思います。
人間に育てられないと人間になりませんから。(でも、こんなことは本質論には関係のないことで、
私もtabioさんも、同じことを言っているのだと思います)
> おそらくほとんど全員が、善なるもののあまりの美しさに、理屈抜きに深い感動をしたと思い
> ます。あるいは、美しい景色を見たときも、人はなぜかしらん、涙をこぼすときがあります。
本当にそうですね。真・善・美が私たちのこころに起こさせる感動は共通のものだと思います。

ところで
> 坐禅やヨガなどで悟りに至ったとき、つまり、真なるものを知ったとき、随喜の涙がこぼれる
> と言います。ヨガの世界では、悟りの境地人の世から離れてに達したときのことを、真の我に
> 達したという意味で「真我」に至ったと言うそうです。
この種の話は、どうも私には納得できないのです。人の世から離れた自閉世界で修行していったい
何が悟れるのだろうか。肉体をいじめて恍惚を得ているだけではないのか。そんなふうに考えて
しまうのです。(こんな言い方をしてごめんなさい。でも昔からもっている感想なんです)

補足日時:2001/01/12 03:12
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この回答へのお礼

tabioさん、回答ありがとうございます。小生SEをしておりまして超多忙なので、しばしお時間を
ください。かならずお返事します。mori0309

お礼日時:2001/01/10 10:08

> そうですね。

「真の自分」とは「良心」のことであり、それは個人の脳のなかの具有物ではなく
> 社会の人々と共有しているものなのですね。そういう気がしてきました。世の中の人々は、皆、
> 良心によってつながっているのですね。
> (心理学や大脳生理学に、このしくみの説明を求めることはできるのでしょうか)

これは社会学の分野です。
また、心理学で扱うものの中に認知機構の分野があります(心理学という言葉を挙げるわりには不当に軽視している雰囲気を感じますが)。
どうも心理学をオカルトっぽく捕らえているように見えてしまっているのですが…
自分の都合の良いものだけで一刀両断しようとしているあたりもオカルトっぽいです。

> 小林秀雄サマは「そういう思想は人間の生きる勇気を奪う思想だ」とおっしゃっておられまする。

小林秀雄を知らないのですが、それも社会との相対からの“派生”の上に、主張に対する論理的説明がなされていない単なる感情的な言葉の引用に見えます。
「真の自分」に対する質問なのにおかしくないですか?


ところで、

(人類)愛 = 慈悲

こう言いかえれば抵抗を感じる人は減ります。


P.S.
「オカルト」と書いて気づきましたが、「それはエクトプラズムだ!」といいながら、エクトプラズムを説明しない疑似科学と同じ様相を呈しているなと思いました。
科学ではエクトプラズムとは何だろうと仮説を立てたり研究する行為自体であって、「それはエクトプラズムだ!」といった時点で科学では無くなるんです。
#24519のNo.77538あたりが少し参考になると思います。

この回答への補足

marimo_cxさん、ありがとうございます。
反論めいたことをすこし述べさせていただきます。(回答していただいてるのに、すみません)

> 小林秀雄を知らないのですが、それも社会との相対からの“派生”の上に、主張に対する論理的
> 説明がなされていない単なる感情的な言葉の引用に見えます。「真の自分」に対する質問なのに
> おかしくないですか?
「人の生きる勇気を奪う思想だ」というのは感情的な文学表現であると言われれば、そのとおりです。
小林秀雄は「やくざな文士(本人弁)」であって学者ではないです。しかし、真理をつかむのは
「論理的理性」だけでしょうか?「文学的感性」は真理に近づけないのでしょうか。小林は彼独特の
およそ論理的でない文学表現で人・歴史・芸術を語りました。そして、現代の学者や学問の傾向を
一貫して、次のように批判しました。人間や社会や歴史をモノを見るようにジロジロ見つめ、
「あたたかい目でも向けたら客観性が台無しになる」とでも言わんばかりである。何と冷たくて不毛
であることか、と。
marimo_cxさんに、何度か「論理的説明」を求められて、ちょっと戸惑いました。私は文理両道で
ありたいと思っているのですが、どちらかというと感性人間で、理論書を読むよりも、詩歌などに
親しむことのほうが好きです。文学的表現で哲学を語るのは、ダメでしょうか。ニーチェもキルケ
ゴールも哲学を文学的に語りました。(私を彼らに比すのは滑稽千万ですが)
私は定義とか論証ということに弱いです。というよりも「定義」は対象を殺して剥製化する作業の
ように思えるのです。言葉というものは無理に定義せず、語感や詩的イメージを人々のあいだで共有
すべきものだと考えてしまうのです。

> (人類)愛 = 慈悲 こう言いかえれば抵抗を感じる人は減ります。
慈悲というのは、私の語感では、神や仏がもっているもので、個人としての人間は、慈悲を受ける
側だと思うのですが、どうでしょう。神の慈悲は、人間の良心よりさらに上位にあるような気がし
ます。神がstomachmanさんのいう「心の中にある倫理的他者」なのか、それとも宇宙における真実在
(こればっかりですね)なのか、いまのところ私にはまったく分からないです。

いろいろ言ってしまってすみません。OKWebは議論の場ではないと分かってはいるのですが。
(議論することで私の理解を深めさせていただいてますので、お許しください)

補足日時:2001/01/12 02:24
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この回答へのお礼

marimo_cxさん、ありがとうございます。しばしお時間をください。

お礼日時:2001/01/10 10:11

nonkunさんに質問。


理性・感性に対して感情はまた別物だと思うんですが、nonkunさんのお説では、感性と感情は区別されないんでしょうか?
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理性と感性についてだけ私の意見を。



理性=論理的、連続的思考
理論的に順序だてて物事を進める。筋道が大切。

感性=感情的、空間的思考
思考の根本は感情。処理は画像的。思考の飛躍も。

理性も感性もどちらも上でも下でもないと思います。

あまりにも感情的になったときに制御するのが理性。
あまりにも理性的になったときに制御するのが感性。

#理性的=血も涙のない状態とでも思ってください。

1つのモノだけが頂点に立つとそれ自体を制御するモノがなくなり、暴走したときに手がつけられませんからね。

これって独裁と民主主義に似てません?

この回答への補足

nonkunさん、ありがとうございます。
> 理性も感性もどちらも上でも下でもないと思います。
> あまりにも感情的になったときに制御するのが理性。
> あまりにも理性的になったときに制御するのが感性。
> これって独裁と民主主義に似てません?
「ん!そうにちがいない!」です。「そうだ!その通りだ!」と思いました。
●論理(理性)世界には真と偽(正と誤)しかありません。真(正)とみなされなかった
ものは捨てられたり抹殺されたりします。矛盾は許されません。
●感情(感性)世界では直感による「~らしい」「~かもしれない」というあいまいが
許され、多様性や表面上の矛盾がそのまま「生の姿」として容認されます。
●両者は容易に相容れようとはせず、しかも両者のどちらか一方だけが正しいということも
ほとんどありません。この矛盾があるからこそ、知性は「形式的体系」ではなく、自己を
認識することも可能なのだと言えるのではないでしょうか。とすると、「真の自分」は
両者の言い分に公平に耳を傾ける上位者だと思うのですが、どうでしょうか。
(世の中に文理両刀使いが少ない訳ですね)

補足日時:2001/01/12 02:30
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この回答へのお礼

nonkunさん、いつも回答ありがとうございます。しばしお時間をください。

お礼日時:2001/01/10 10:12

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 つまり 人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。

 【Q:暴力とは 相手の意志を無視することだ】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8286426.html

 から まさに――自由意志の振る舞いであるとともに――理性による産物である。



 糺してください。

Aベストアンサー

B様、こんばんは。


>「人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。」

いやいや。
「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」とは、


>「なぜなら 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。」

まあ、なんてますか。
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一種の、まあ、「禁じられた「自力救済」」です。

・・・ところで、やはり「「自力救済」は禁じられている(→理性の産物)」わけで、
・・・そうした「法の網」をかいくぐって、「自力救済」を実現してしまう!?というところに、
一種の、まあ、「してやったり!」を覚える事は、あるのかもしれません。


>「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」」

では、「水戸黄門」という勧善懲悪的なドラマにおける、
登場人物(たち)のチカラ(と、その淵源)関係について、ご説明ください。

Aベストアンサー

その「世の中」を広くする事が、その「原理」を
理解する上で効果的と考えた僕は、協力隊と海外
コンサルとして、8年間かけて世界11ヵ国で働き、
20ヵ国旅しました。
途上国暮しは、夜が長く、複雑な日本社会と距離を
おけるので、思索するのは絶好です。

Q円周率(π)が超越数であるということの意味は? そして真理とは?

数学カテゴリで質問しようかと思いましたが、やっぱり哲学カテゴリにしました。
以前、「ゲーデルの不完全性定理ってわかりやすく言うと何?」と質問したとき
回答者の方から『不完全性定理のストレートな解釈は「自動的に定理を枚挙する
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そこで質問です。

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に、体積比はきれいな有理数値です。なのにどうして円周率(π)は有理数でも無
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【質問2】円周率(π)が超越数であるという「真理」は、造物主が創ったものなど
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回答者の方から『不完全性定理のストレートな解釈は「自動的に定理を枚挙する
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 nが偶数: V[n] = (r^n) {π^(n/2)}/{(n/2)!}
 nが奇数: V[n] = (r^n) 2 {(2π)^((n-1)/2)}/{n!!}
   (ただしn!!= n (n-2) (n-4) ... 1 )
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V[4]=(r^4) {π^2}/2
であり、円や球の体積との比を取るとπの因子が残ってしまいます。逆にn=1次元でも
V[1] = 2r
だから、πの因子が残ります。(1次元の場合の体積とは、直線上に中心Oを取り、そこからrの距離にある2つの点に印を付けて、その2点間の距離を測った物です。)
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・n次元球の体積に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=19508

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・非ユークリッド幾何に関する若干の議論は: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=30830

質問2
 とても重要な観点だと思います。「真理」という所を「概念」と呼んでみては如何でしょうか。数学にはいろいろな性質を表す言葉が導入されます。そしてそのような性質同士の関係を問う、などの問題を考える訳です。しかし(普通の数学の場合)これらの性質は、全部集合論の記号と論理式に完全に還元して表現することができます。素数であるとか、超越数であるとか、ゲーデル数であるとか言うのは、言ってみれば人間が発明した「概念」であり、本来は論理式のパターンに過ぎないものに名前を付けることによってヒトが創造した、と考えることもできます。
初めに言葉ありき。
 逆に「数の性質は初めからそこにあって、それを探求して発見して行くんだ」というケンキョな考え方もあり、どちらかと言うとこっちの方が普通でしょう。
・質問3に関しては: http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=24901

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 超越数って、なんかスッゴイ名前を戴いちゃって、完全に名前負けしてます。超越数とは「整数係数の多項式=0」という方程式の解にならない実数のことです。整数係数多項式とは係数に整数しか許さず、足し算、引き算、かけ算だけで構成される式(だから、冪を使って表現しても、冪の肩に乗るのは自然数の定数だけです)。だからまあ、一番「易しい」たぐいの方程式でしょう。「与えられた円と同じ面積の正方形を定規とコンパスで描け」と言われてもできない。定規とコンパスだけで平面上に点を決める操作...続きを読む

Q真の宗教と真の科学

 
真の宗教は科学に頼らないし、真の科学は宗教に振り回されない。
宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教である。
宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。
宗教と科学はそれぞれ次元の異なる別々の世界だからである。
宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
 


 

Aベストアンサー

真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。

真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。


従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。

Q【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。自分が死んだ時点で世界が終

【哲学】世界の中に自分がいるのではなく、自分の中に世界が存在している。

自分が死んだ時点で世界が終わる。

世界は己自身の中にあり、世界は内と外に存在する。

これらの言葉の解釈を発見した者は死を経験しないだろう

やっと気付いた「自分が世界に存在する」ではなく「世界の正体が自分」な件
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4900063.html

どう思いますか?

Aベストアンサー

自分が死んだ時点で世界が終わる。

この考えだと死を悟った者の中に不届き者がいて、運悪く核兵器のボタンを握っていたとしたら他の皆も運命共同体であの世行き。

それに近い人は過去に居たはずですが、今のところそこまでの愚か者は居ない。死ぬ間際は案外「自分が世界に存在する」に寄って亡くなる方が多いと考えます。


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