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ペリーが開国要求をしたことで、幕府の体制がゆるがされたのは、攘夷派が反乱(?)のようなことをしたからなのでしょうか?

また、攘夷派が討幕派に変わったのは、野蛮人から日本を守るために開国を受け入れようとする幕府に反乱していた攘夷派がどうせなら倒してしまえという考えで討幕派に変わったのでしょうか?

ご回答頂けると嬉しいです。

A 回答 (4件)

ペリーによる日本開国要求は平和で暮らしていた日本を力ずくで開国させた。

これを「ペリーの日本強姦」という(産経新聞2006.12.49)。
幕府の弱腰から欧米勢力の脅威に対処するための日本強化運動として維新運動がスタートした。当初は幕府、天皇の二元体制論と幕府を中心とする一元論に分かれいた。
その後以下の諸要因によって、維新運動は尊王攘夷から勤皇・倒幕へと変って行く。

1.徳川260年の間に朱子学の影響で武士、大町人、庄屋階級の百姓に天皇尊崇熱が浸透していた(尊王思想)。
2.平田国学の王政復古による国家改造論が尊王思想の拡大に拍車をかけた。
3.幕末の志士を魅了した一君万民思想(天皇の下では、将軍・大名といえども民の一人という思想)が抑圧されていた階級に広がった。
4.孝明天皇は非常な攘夷論者であった。

幕末期において、維新運動エネルギーは勤皇・倒幕エネルギーへと変貌して行った。
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この回答へのお礼

お礼が遅れまして申し訳ありません。
ここに統一させてもらいます。

なるほど、原因はたくさんあるのですね・・・・・。
勉強になりました、ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/08 00:24

ペリーの開国 → 幕府体制の弱体化


弱体化していたのが、露わになったというのが実情では。
武士階級の生殺与奪権を握っているのが、幕府の強さの証明になります。三大改革といわれた天保の改革の段階で、上知令を発しました。江戸・大坂の周りの土地を、全部幕府直轄にしようというもの。これに失敗。張り子の虎になりました。
阿部老中は、それまでの親藩・譜代体制から、有力外様も政権に入れ、幕府を強化しようとして、ペリーの要望に対してどうすべきかというのを下問した。外様も政権に取り込むため。
だが、阿部老中は死んでしまい、残ったのは、「外様の俺たちも、政治発言してもいいんだ」という意識。
幕府に取り込まれることなく、外様が自由に行動できるようになってしまった。
そのために、幕府体制の弱体化はさらに進んだ。
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 幕藩体制がゆらいだ直接の理由は阿倍正弘を筆頭とする幕閣が孝明天皇の勅許を得ずに日米和親条約を結んだことでした。

しかし、それは幕府が従来は各藩や調停に政策に対する意見を求めたことなどなかったのに、ペリーの要求に対してのみそれをやったというところに幕府の力の衰えが感じられます。
 やはり260年もの間の太平に慣れて幕藩体制が緩んで来ていたのでしょう。

 攘夷派の最大のよりどころは孝明天皇が攘夷論者であったことでしょう。従来の幕府なら嘗ての紫衣事件のようにしっかりこれを押さえ込んだのですが、当時の幕閣にはその意欲と迫力に欠けていましたね。天皇という地位が持つ神通力を幕府は軽視していたように思えます。
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攘夷派->討幕派への転換は。

。。。

そもそも「攘夷」は、日本という国は、神国(天皇の国)であり野蛮な外国人を排斥し、日本は日本で純粋さを守ろうとする考えではないかと。

で、当初は鎖国を国是としていた幕府と共同で攘夷を行おうとしていたが、幕府の現実路線への転換を天皇への裏切りと受け取った尊皇派(天皇こそが国の統治者として正当であり、幕府はその権限を横領している悪者)と結びつくことによって、攘夷を成し遂げるには、弱腰な幕府を倒して天皇親政体制を作る必要がある。との結論に達したのかと。

まあ、建前は色々あっても、底流には西国外様諸藩の幕府への恨みとか、権力掌握への野心あふれる中下級公家勢力とか複雑に絡みあっているので、倒幕してみたら、手のひらを返すように活発な外交を行うところが皮肉と言えば皮肉ですね。
※一応、攘夷をするにも相応の国力を持たなければならないので、それまでの期間限定だ。という主張もあるのでしょうが。。。
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