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人間って、他人と比べて幸せの度合いを計るらしいのですが、これらについてもう少し詳しく知りたいです。
どんな情報でもかまいません。どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (9件)

いつぞやは「ミラー現象」の件では大変失礼いたしました。



さて、今回ご質問の「幸福相対性理論」ですが、よく言われることとして、「人の不幸は蜜の味」という言葉があります。また、「隣の芝生は青い」という言葉もあります。いずれ劣らずよく用いられる言い回しです。

自分を客観的に見ることができるか、というと、それはよほど悟りきった人でないとできないことでして、どうしても主観というものが混じってきてしまいますから、結局自分の幸福というのは外から自分を見つめてという風にはいかないのが現実です。同様に、内から主観だけで自分を見つめて、というのもうまく行かないものです。自分の性格や思考など自分の主観ではこれっぽっちもわからないというのが実際のところです。

自分の他に何もない状態(孤独状態)であるとすれば、自分の他に何かがあるということを知らないうちは、比べることもなく、不幸せも幸せもないかもしれませんが、自分の他の何かがあるということを知ってしまったら、あるいは想像でも思いついてしまったら、結果としてその人は自分のおかれた孤独という状態を不幸な境遇として考えるのです。これがおそらくシンプルな段階であると思います。

そこから発展していくと、もうすでに他者がいることがわかりきっている。それゆえ自分が孤独状態にあることを知っている。しかし、それをなんとかして打ち消そうとして、幸福というものを見つけるのです。他人よりも優れている部分を探すことによって、優越感を持ち、それを幸福と見なすのです。同時に他人よりも劣っていることに気がつくことがあるかもしれません。その時は劣等感がその人を不幸にさせるのです。

つまり、人間は幸福の本質でないところを幸福と見なして現実逃避しているということではないでしょうか。
だから、クラスで1番の成績になっても、村一番の大金持ちになっても、どこか虚しいものが心の中に残っているものです。それが孤独というものです。

「人間は幸福になるために生まれてきた」ということを聞きます。おそらく、シェークスピアの「人間は泣きながら生まれてきた」というくだりからの連想でしょうが、幸福になるためということは、初期状態は幸福ではないのです。むしろシェークスピアが言うところによれば不幸な状態です。

さあ、そうすると、幸福になるにはどうすればいいかというと、道は2つほどあります。1つは現状に満足しきること。これは満足しているふりを演じる一生です。果たして幸福かという疑問もありますが、本人がそう思っているのならいいとしましょう。もう1つは新たな幸福という概念を作ること。幸福というものを自分に合わせて定義すれば、何も恐くありませんが、これも本人の現実逃避という面があります。

人がにこにこしているのをやっかんだり、人が不幸そうなのを見てほくそえんだり、これが社会の現実というものです。しかし、それは結局妄想上の「幸せ」であって、本当の幸せではないようです。この真の幸せとは何かということをめぐって、さまざまな幸福論や宗教が現れましたが、結局万人が見て同等に「本当の幸せ」と思うものはなく、万人の共通項としての「幸せ」は他人と自分を比較することによって成立するということになってしまいます。

「同病相憐れむ」という言葉について最後に触れておきましょう。お互いが同じ高さ(それも幸福ではなく不幸)に立っていることで、相手の気持ちがわかる、というものです。健康な人と病人の場合、健康な方が病人をあわれむのは、自分が不幸でないということをわかった上で、その嬉しさを隠し調節するためのものです。世の中では立場が同じ人同志より立場が違う人同志(例えばgingakeiさんと僕のように質問者と回答者、とか)の接触の方が多いですから、ここぞという時に「同病相憐れめる」んだと思います。

これが永年の僕の観察の途中経過です。おそらく間違っていることもあるでしょうが、ご容赦ください。
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この回答へのお礼

nabayoshさん、こんばんは。

>いつぞやは「ミラー現象」の件では大変失礼いたしました。

いえいえ!とんでもございません!!。実は僕自身も、「ミラー現象」っていうのかな~?なんて思いながらも、質問したんですヨ。
それに、nabayoshさんから回答もらって、ますます勝手に気に入ってしまい(笑)、
同様の質問↓で、専門用語でないと知りながらも回答しました!。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=195996
で、その後、nabayoshさんからの「鏡面現象」について回答があったことは分ってたんですが、お返事どうしよう~?と思いながら、今日まで来てしまいました。
こちらこそ、心配かけてしまいごめんなさい!!。

話変わって、本題に入ります。

そういえば、ぴったりの言葉がありましたね!(笑)。
>「人の不幸は蜜の味」「隣の芝生は青い」
すっかり忘れてました!。

>『結局自分の幸福というのは外から自分を見つめてという風にはいかないのが現実です。同様に、内から主観だけで自分を見つめて、というのもうまく行かないものです。自分の性格や思考など自分の主観ではこれっぽっちもわからないというのが実際のところです。』

全くおっしゃるとおりです!!。客観的に自分を見るということは、本当に難しいですし、まず出来ないです!。不可能じゃないかななんて思う時もありましたよ。
海外に行った時も(旅行ですけど(^^ゞ)、一人で日本にいる時の自分を見つめてみたことがあるんですが、まず出来ません!!。

>「しかし、それをなんとかして打ち消そうとして、幸福というものを見つけるのです。他人よりも優れている部分を探すことによって、優越感を持ち、それを幸福と見なすのです。同時に他人よりも劣っていることに気がつくことがあるかもしれません。その時は劣等感がその人を不幸にさせるのです。」

あ゛ぁぁ~、もう劣等感だらけですよ!爆(^_^;)。
それで気にするとなると、ますます不幸だななんて思っちゃいますね。

>人がにこにこしているのをやっかんだり、人が不幸そうなのを見てほくそえんだり、これが社会の現実というものです。

ありますあります。僕なんか「なんだってニコニコして、ほんとシアワセだな」ってよく言われるんですよ。
それは、あなたとこうやって久しぶりに飲めたから、楽しいんですよ!って説明するんですが、よくあることなんで、なんで誤解されるんだろ~って、ますます気が滅入ってしまいます。

>「同病相憐れむ」という言葉について・・・。

実は、僕はケガとか病気が本当に多いんですよね。それで、ムチウチとかヘルニアで痛いんで、それを健康な人に話しすると、絶対にわからないんですよ!!。
気持ちの問題ってしかまずいいません!!。
でも、同じようにケガや病気になった人と話をすると、意外に盛り上がります!。爆笑!!
「同病相憐れむ」
まさにぴったりですね!。こういうことわざがあったなんて、今回初めて知りました。(情けない・)

nabayoshさんの回答も、また大変解かりやすいですね。全て頷きながら読ませて頂きました!!。
それなんで、間違ってる部分はもちろんあるかもしれないですけど、僕にとってはは、ホントないですヨ!。(^^)

今後も、これは大変参考にさせて戴きます!。
nabayoshさん、本当にありがとうございました!!。

お礼日時:2002/05/12 01:04

こんにちは。

gingakeiさん。

他人と比べるのがなんにせよ、そうやって自分というものの社会における位置づけをしているのでしょうかね。
誰が見ても幸せとしかいいようのない人がいたとしても、はたして本人自身は不幸のどん底かもしれないですよね。
他人と比べて満足しても、何か満ち足りてなかったりというのは幸せではないような気がします。
何が幸せかは自分で判断することであって、世間一般がその人の幸せを決めることではないので、比べるという行為をするのは勝手だけれど、私からすると無駄な行為ですね。比べている暇があったら、自分にとって幸せと感じることをどんどん実行してたとえ周りから不幸に見られようと、いっぱい幸せを感じちゃっているほうがいいし、結局周りにもとても幸せにみえるようになるのでしょう。
比べる相手と同じ世界で同じ幸せを求めているのが幸せならそれはそれで個人の自由だからいいとは思いますが。
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この回答へのお礼

nanapoonさん、こんばんは。

>他人と比べるのがなんにせよ、そうやって自分というものの社会における位置づけをしているのでしょうかね。

そうですね。幸せを計る‘物差し’って、この世に存在しないから、他人と比べるしかないんでしょうね。

>自分にとって幸せと感じることをどんどん実行してたとえ周りから不幸に見られようと、いっぱい幸せを感じちゃっているほうがいいし

ほんとだ・・・・・。自分という人間は、自分以外には存在しないんだから。。。
実は、僕は他人の目を結構気にする方なので、悩んで行動出来ないことが多いんですよ。
でもそう言われてみると、他人のこと気にしないでみると(もちろん限度はありますが)
自分にとって幸せの指針がどの方向に向くのか、自ずとわかってくるような気がしてなりません!。

nanapoonさん、貴重なご意見を聞かせて頂きまして、本当にありがとうございました!!。

お礼日時:2002/05/20 23:48

>実は、僕はケガとか病気が本当に多いんですよね。


>こういうことわざがあったなんて、今回初めて知りました。

では、病気がらみで、もう1つ知られた言葉を紹介しましょう。

「怪我をしたことのない奴に限って、他人の怪我を馬鹿にする」
再度登場、シェークスピアのロメオの言葉ですが、これは「同病相憐れむ」とリンクさせて考えるといいと思います。「同病じゃないものは相憐れむことはできない」という意味ですね。
そして、この言葉もミックスさせてみましょう。
「のどもと過ぎれば熱さ忘れる」
病気や怪我は、治ってしまうとケロッとしてしまい、自分が病気や怪我であったことを忘れてしまうものです。また、同様に、他人の病気・怪我も、治ってしまうともはや大した意味を持たなくなるのです。
これを全部まとめると、「今の同病者こそが唯一相憐れむことができる」わけです。

実は僕は4月初頭に怪我をしまして、10日間ほど入院していました。
今はその怪我の後遺症が右手の痛み(関節を曲げると痛む)、顔面の損傷となって残っております。
しばらくは個室におり、意識不明の状態でした。
今生還しているだけでもこれは有難いことであると思っています。

意識が戻った時、しっかりとケアしてくれた看護婦さんのことを今も思い出します。
怪我をした自分への腹立ちから、イライラする部分が強くなりました。
僕はそのイライラを誰かに訴えたいと思ったのですが、看護婦さんにするわけにはいきませんでした。
なぜなら、彼女は「同病者」ではないという認識があったからです。
これは、「同病じゃないからわからないだろう」ということではありません。
同病でもないのに、と思われても世話をするというのが看護婦の仕事であるということから、思い直しました。
確かに彼女は「同病者」ではない。しかし、僕も彼女のように「看護婦という職業病」ではないということに気がついたのです。
「看護婦」=「苦労のある仕事」ということを理解していたので、特にどうということもありませんでした。

退院してから、周囲との温度差を非常に感じることになりました。
退院した時は右手にまだギプスがついており、見た目にもわかるはずなのですが、普段の友人はおろか母親まで冷淡でした。

彼らは苦労しているんだろうか。自分が楽しけりゃいいと思ってやしまいか。それに悩みが果たしてあるんだろうか。

そう思ったら、非常にねたましく思えてきました。
世の中、プラスだけじゃなくてマイナスも現実です。マイナスという現実から逃げて、プラスしか見ない能天気な人が世の中にはどれだけ多いことか。そういう人は苦しい人への思いやりというものを持てないのか。

自分にマイナスを感じるからこそ、人間だなと思います。
他人のマイナスを見て自分のプラス「相対性幸福」を求めるのは、確かに人間の一側面ではあると思いますが、人でなしだな、と感じました。

僕は「マイナスを感じている人間らしい人」を「プラス」にできるようになりたいと思っています。心の広い銀河系になりたいものです。

この回答への補足

僕も投稿を控えた時期があったんですが、nabayoshさんの回答があんまり見かけなくなって、どうしてるかな~?なんて思いながらも、またこのサイトをちょくちょく利用し始めたんですよ。
でも意識不明までいったなんて・!。だいじょうぶですか!???。腕と顔面と聞いたんで、おそらくあれでしょうけど・・・。もし同じケガだったら・・・、とにかく僕もひどかったです。
>怪我をした自分への腹立ちから、イライラする部分が強くなりました。
わかります気持ちまでも本当にやられますから。。。僕はまだまだ治らないですけど、逆に治ったという人もたくさん見てますんで、どうか無理なさらないで下さい。
あと2,3日前だったかな?急にジメジメした天気になった時は、また別の治らないケガがあって、ほんと痛かったです(>_<)。すみませんまた後ほどお礼します

補足日時:2002/05/13 03:08
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この回答へのお礼

>「怪我をしたことのない奴に限って、他人の怪我を馬鹿にする」

まったくその通りです。悔しくて悔しくてたまらないけど、これが現実ですもんね。
もちろん、全ての人が馬鹿にするわけではないですが・・・。
でも、こういう言葉があったなんて、かなり救われました。。。

>今はその怪我の後遺症が右手の痛み(関節を曲げると痛む)、顔面の損傷となって
残っております。

ということは、頚椎もやられたのかなと思ったんですが・・・
全然違うケガだったら、ごめんなさい。

それと、入院中の、nabayoshさんのメンタル面のことですが、
僕も、過去に何回も入院したことがあるんで、痛いほどわかります。
でも、看護婦さんに、そのように思いやりを持つことは、なかなか出来なかったですね。。。
(話が飛びますが、でも、とっても良い看護婦さん達ばかりのところもありました。)

>退院した時は右手にまだギプスがついており、見た目にもわかるはずなのですが、普
段の友人はおろか母親まで冷淡でした。

いったい何が友達なのか、信用って何なのか、わけわからなくなってしまいますよ。。。
ケガや病気のしたことのない奴って、本当にわからないですもんね。。。

>彼らは苦労しているんだろうか。自分が楽しけりゃいいと思ってやしまいか。それに
悩みが果たしてあるんだろうか。
>そう思ったら、非常にねたましく思えてきました。

僕も全く同じ思いです。それで、相手を変えることは出来ないので、自分の心を変えることに頑張るしかないのですが、
やはり自分との葛藤にどうしようもなく、悔しくてどうしようもありませんでした。
何でこう世の中って、不条理なことが多いんでしょうかね。。。

>僕は「マイナスを感じている人間らしい人」を「プラス」にできるようになりたいと思っています。

nabayoshさんともちろん会ったことはないですが、このように文章だけのやりとりだけでも、充分に伝わってます!!。

>心の広い銀河系になりたいものです。

現実は・・・、名前負けしております。。。!笑(^_^;)。

何度も、胸が引き締められるところがあり、また力強いお言葉をたくさん戴いて、感謝でいっぱいです。
nabayoshさん、本当に有り難うございました。

p.s 会ってみたい人には、なかなか会えないんだよなぁ~。。。

お礼日時:2002/05/19 03:29

こんばんは、gingakeiさん。


立派なこれぞという回答は出来ませんが、40年余生きてきて私なりに見えてきたことについて書かせていただこうと思います。

「幸福である」と人から一般的にいわれる状況はこんな感じでしょうか?
「非の打ち所のない学歴を取得している」「裕福である」「容姿に恵まれている」「社会的な名誉を得ている」「人が羨む職業についている」

反対に「不幸である」と一般的に言われるのはこれらの裏返しの状況以外にはこんな感じでしょうか?
「身内が犯罪により収監中」「息子の家庭内暴力、引きこもりにより家庭が崩壊寸前」「夫が酒飲みで浮気性で暴力を振るう」「努力して得た仕事上の手柄はなぜか常に他人のもの」などなど・・・。

では、これらの前半の状況が重なれば人は「幸福」、後半の状況が重なれば「不幸」なのでしょうか?
否、他人がどんな判断を下そうと「幸福であるかはその人自身が決める」のです。(これは私の大好きな言葉です)前半の状況であっても「不幸」と嘆く人はいますし、後半の状況においても「幸福」だと感じる人はいます。

ただ悲しいかな、普段生活のあらゆる場面において人は自分の幸福を再確認しようと思う時、「他人よりいかに不幸でないか」という物差しをもって測りたがります。ここのサイトの回答にもよく見られるのですが、悩んでいる人に「五体満足(ここまで露骨な言い方は少ないにしても)なのだから、甘えず感謝して前向きに努力しよう」という言い方がなされる時があります。
もちろんまったく「悪意」がないのは分かるのですが、ハンディキャップを持った方々が物差しになっているということを考え胸が痛むことがしばしばあります。

「一応の成功をおさめたが、ライバルの立場はまだ一段上」と考えれば達成の幸福感は減少するでしょうし、反対に「うちは水害にあったが、家財は無事だ。何もかも失ったお隣に比べれば」と考えれば被害に対する不幸感(こういう言い方はあまりしませんがあえて)は減少するでしょう。

本当に人間は悲しく醜いものですが、弱い己を納得させ生きて行く上ではやむを得ないとも思います。下のご回答にもありましたが、「他人という物差しなしに客観的に自分を見つめること」はどんな己に厳しい人間でも絶対に出来ないです。ですので、私は正直な日記と称するものが嫌いです。99パーセント客観的に書いているように見せかけても残りの1パーセントには必ず欺瞞が生じているからです。(有名な作家のものはなおさらそうです)

人は社会的生き物である自分を見ようと思う時には必ず「自分以外の他人」という鏡を必要とします。時には歪んだ鏡に映してしまうことがあるかもしれません。でも何枚もの鏡に自分を映すことで、初めて自分が見えてくるというのが現実だと思うのです。
ただそれに捕らわれることなく幸福を求めていくのが人間だということも出来るのではないでしょうか?

私が振り返ってみて「ああ幸福だ」と感じた瞬間(長いタームではありません。不思議なことに)を二つ挙げさせて頂きます。
一つ目は、学生時代、恋も勉学も何もかもうまくいかなくなって北海道に逃げるように旅行に行った時のこと。ボロボロの精神を抱えながら最果ての岬で何時間もぼんやりしていたのですが、ふと見上げた雲間から一筋陽光がさして自分を照らした時、何者にも捕らわれない言いようのない「幸福感」を強烈に感じたのです。
「自分は生かされているのだ」というとても不思議な感覚でした。

もう一つは赤ん坊である我が子を腕に抱いた時、無垢な微笑を親である自分に
向けてくれた時です。「この子には私が必要なのだ」責任感と同時に非常に強い幸福を覚えた瞬間でしたね。

長々とまとまりのない駄文を書き連ねてしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございます。

この回答への補足

特に、学生時代の貴重なお話と、赤ん坊を抱いた時の貴重なご意見は、とても感動しました。
本当にありがとうございました。

補足日時:2002/05/20 23:57
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この回答へのお礼

gomuahiruさん、こんばんは。
過去にgomuahiruさんから回答して戴いたのは・・・、とりあえず今覚えてるので
は、年賀状の質問の時です!。
あの時も大変ありがとうございました。(^^)

>「幸福である」と人から一般的にいわれる状況はこんな感じでしょうか?
>「非の打ち所のない学歴を取得している」「裕福である」「容姿に恵まれてい
る」「社会的な名誉を得ている」「人が羨む職業についている」

ぅわ~、どれ一つ当てはまるものはないですね~爆笑(^_^;)
でもでも、全く仰るとおりです!!。
これに当てはまる人達を見ると、本当に羨ましくなりますし、ホント言うと、気持ちが
しょげちゃいますね。。。。(こんなことではイカン!けど・・・。)

>反対に「不幸である」と一般的に言われるのはこれらの裏返しの状況以外にはこ
んな感じでしょうか?
>「身内が犯罪により収監中」「息子の家庭内暴力、引きこもりにより家庭が崩壊
寸前」「夫が酒飲みで浮気性で暴力を振るう」「努力して得た仕事上の手柄はなぜ
か常
に他人のもの」などなど・・・。

ん~~~、この辺は、、、僕の思うところとちょっぴり違うかな。。?
というのは、この辺の問題は、何とか努力・工夫すれば解決出来ると思うんですよ。
それで、僕が不幸だと思うことの一つは、命に関わることです。。。
でも違うかな~?。(まだまだ考え中)
でもでも、何回も読んでたら、gomuahiruさんの意見もその通りだとも思ってきまし
た。
すみません、ちょっとズレました。。。

>否、他人がどんな判断を下そうと「幸福であるかはその人自身が決める」ので
す。(これは私の大好きな言葉です)

相田みつをさんの詩で、ぴったりの“ことば”がありますね!!。

>もちろんまったく「悪意」がないのは分かるのですが、ハンディキャップを持った
方々が物差しになっているということを考え胸が痛むことがしばしばあります。

そうですね。やっぱり、その悩みの大きさというのは、本人以外はなかなかわからな
いですもんね。。。
アドバイスする方は、本当に気を付けなければいけませんね。

>本当に人間は悲しく醜いものですが、弱い己を納得させ生きて行く上ではやむを得
ないとも思います。

やむを得ないと言いつつも、毎日毎日、ちょっとしたことで一喜一憂している自分には、情けなくなってきました。。。

>「一つ目は、学生時代、恋も勉学も何もかもうまくいかなくなって北海道に逃げる
よう
に旅行に行った時のこと。ボロボロの精神を抱えながら最果ての岬で何時間もぼんや
りしていたのですが、ふと見上げた雲間から一筋陽光がさして自分を照らした時、何
者にも捕らわれない言いようのない「幸福感」を強烈に感じたのです。
「自分は生かされているのだ」というとても不思議な感覚でした。」

そのぐらい貴重な体験はないですが、なんとなく、わかるような気が致します。。。
実は僕も、「生かされている」という思いがよぎることが、しばしばあるんですヨ。
人生投げやりになりそうな時、身内でもそう回りでもそう、相手のことを考えると、
「あぁ、おれは生かされてるのかな・・・」なんて思いにふけて、また立ち上がれることがちょくちょくがあります。

>「もう一つは赤ん坊である我が子を腕に抱いた時、無垢な微笑を親である自分に
向けてくれた時です。「この子には私が必要なのだ」責任感と同時に非常に強い幸福
を覚えた瞬間でしたね。」

独身なんで経験はないですけど・・・、でも、これもわかる気がします・・・。
そうそう、それと思い出したことがあるんですが、
人に何か働きかけているときこそが、人間にとって、一番生きている実感が湧く時だそうですね。
そうなると、我が子を胸に抱いて、自分が必要だと感じた時は、これまた何ともいない、何にも代えがたい幸福感に包まれるでしょうね。
これが人間の求めている究極の幸せなのかも・・・。

>人は社会的生き物である自分を見ようと思う時には必ず「自分以外の他人」という
鏡を必要とします。
>ただそれに捕らわれることなく幸福を求めていくのが人間だということも出来るの
ではないでしょうか?

これこそが、先ほど話してくれた、「我が子を胸に抱いて、生の実感(幸福)を感じる」ことのように思えてきました。。。

>長々とまとまりのない駄文を書き連ねてしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございます。

こちらこそ、貴重なお話を聞かせて頂きまして、本当にありがとうございました!。
まさかこんなに深いものになるとは思ってもいなかったんで、聞いて本当に良かったです!。
gomuahiruさん、ありがとうございました!!。

お礼日時:2002/05/17 22:14

NO 4のgokurakuyamaの再登場ですがお許しを。


お釈迦さまの話にもし興味があるのでしたら、人間の幸せというものをテーマにして漫画で書かれた本がありますので紹介します。

もしご興味がなければ無視してください。

仏教学者『ひろさちや』氏 原作. すずき出版から「仏教コミックス」が出ています。
例の牛の話は「仏教生き方相談」の巻に出ていました。
色々「仏教死に方相談」とか「一休さん」「仏教の質問箱1」から「2・3・4」とあり、ginngakeiさんの質問の原点みたいな教えが入っています。
全部で40数巻出版されています。
わかりやすく絵も丁寧で読みやすいですよ。

もしよろしかったらどうぞ。
「すずき出版」参考URL添付しておきます。

参考URL:http://www.suzuki-syuppan.co.jp/top/top.html
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この回答へのお礼

マンガなら、なんとか読めそうですね~。(f^^) ボリボリ
かくゆう僕も、仏教で好きな言葉なんかあったりして、例えば、「顔施」とか。
あと、よくお寺の門なんかに、そこの住職さんが日替わりで詩みたいなものを書いてあるのを、通りがかりで見る時があるんですけど、なんか良いですよね~。
それと、紹介して戴いた本ですが、本屋さんに行ったときにでも、ちょっと見て見ますね。
gokurakuyamaさん、どうもありがとうございました!。

お礼日時:2002/05/11 23:51

ginngakeiさん、ばんばんのいちご白書以来でお久しぶりです。


多少仏教にかかわるものですので、お釈迦さまのお話になりますがお許しを・・・。

ある日お釈迦さまが弟子や信者の前でこんな話を始められました。
インドの片田舎にある男が住んでいました。
その男はたくさんの牛を飼っていました。
(当時のインドでは飼っている牛の数で貧富が決まる社会でした)
ある日男が牛の数を数えてみますと99頭いました。
もう一頭で100頭になると思い何度も数えなおして見るのですが、何度数えても一頭足りません。

そこで男は遠いところにすんでいる昔の友だちを思い出しました。
ある日男はぼろぎれをまとい、見るからにみすぼらしい格好をして旧友を訪ねます。
そして、明日の生活もままならず貧乏で困っていると泣きながらうそぶくのです。
友だちはびっくりします。
僕は君の事なんかすっかり忘れて暮らしていたのに、君は覚えていてくれた。
しかも、そんなに貧しく困っているとは知らなかった。

友だちは奥さんと相談して一晩その男を泊めて食事をごちそうし、帰りに一頭しかいない自分の牛を男に譲ってあげます。

男はほくそ笑みながらその牛を連れて自分の家へ帰っていきました。

話はそこで終わり、お釈迦さまはこう続けられました。
「あなた方はこの男と旧友とどちらが幸せになったと思うだろうか?」

そんなの決まってますよね。
計100頭の牛を持つ男の方が、牛が全然なくなった旧友よりも経済的に幸せになったのに決まっている。と・・・・。
弟子や信者は口々にそう言いました。
しかしお釈迦さまはこうおっしゃいました。

その男はうまくだまして牛を100頭に増やす事が出来たが、こんな事をして牛を手に入れたら、次も間違いなく110頭、150頭の牛が欲しくなる。
欲望は果てしなく広がる。手に入れても手に入れても、もっともっと欲しくなる。

しかし、その友だちはどうだろうか?なけなしの牛を譲った事で生活は大変だろうが、また努力して一頭の牛を買い一生懸命働くだろう。
「友は私が譲った牛で幸せに暮らしているに違いない」と思いながら・・・・。

『何が大事か、本当の幸せとは何か?。よくよく考えてい来るように』という言葉でお釈迦さまは結ばれました。

長い話になり大変恐縮です。
参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

gokurakuyamaさん、こんばんは。
「いちご白書」の質問のときは、大変ありがとうございました!。
おかげで、momosioさんの質問では、早速“メッセージソング”と使わせて頂きましたヨ!。

さて、本題の、その牛の例え話は、かなり深いですね。。。
‘深い’というよりは、なるほどな~~~って、思い知らされました。
>「欲望は果てしなく広がる。手に入れても手に入れても、もっともっと欲しくなる。」
これはそうかもしれませんね。自分で自分をコントロールしないと、ただただ欲望を満たすだけの人生になってしまいそうですからね。

「情けは人の為ならず」
しかしこの社会で、どうなのかな~?って疑問に思うときがあるんですが、
この例え話を聞いて、ちょっとシアワセ気分です!。(^^)

gokurakuyamaさん、いろいろとお話を聞かせて頂きまして、大変ありがとうございました!!。

お礼日時:2002/05/11 23:42

私もよくわかっていないのですが


ブッタとシッタカブッタ 小泉吉宏/メディアファクトリー
なんて本を読むと
なんとなく自分が何を探しているかわかるようになります。
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この回答へのお礼

ひろ君さん、回答して戴いてありがとうございます!。
なんかその題名って、シャレなのかちょっと笑っちゃいますね。(^^)
是非機会があったら見て見ます!。
どうもありがとうございました!。

お礼日時:2002/05/11 23:19

こんばんは~


私達、人間は・・自分以外のものに対して、自分と比較をする習性があります。
背は高いか低いか・顔はきれいか? ○○か? お金持ちであるか?貧乏な生活を送っているか??などいろいろな比較をしたがります。
比較をしても どうって事はないのですが、優劣をつけたがる性質があるようです。

例えば、幸せの度合いについても・・ひとそれぞれ、生まれ育った環境も違い、状況も違うのに・・何を基準として 幸せの度合いを計るのでしょうか???

この世の中、お金があるから幸せとは限らないし・・お金がなくても、心が豊かで充実した生活をしている人もいるし・・

他人と幸せの度合いを計るなんて できない???と思います。
価値観の違いでも随分違ってくると思います。

ちなみに自分は他人と比べるのではなく、 本心から幸せだと思います。

理由は、(1)健康で仕事ができている。(2)毎日の食事が困らずに食べることができている。(3)主人と仲良く、生活が出来ている。(4)好きなペットと暮らしている
(5)帰るところがある(寝る場所)など基本的な欲求が満足にされているので幸せだと思います。

普段の生活に追われ・・自分が幸せであることを実感している余裕は、なかなかないのだと思いますね。それらのものが自分から 離れていった時、改めて幸せであったなぁ~と認識させられるのかもしれませんね。

ちなみに4年前、実父が亡くなった時、あ~守られていたんだって実感しました。
本当に”なくなって初めて自分は親の愛に恵まれて幸せだったんだって・・実感しました。”

ちなみに、私の幸せの”ものさし”は、年を重ねるごとに、現実に存在するものでなく、心・気持ち・などの精神面に向けられています。

幸せとは、若い頃は物の充足に目が向けられていましたが、年を重ね、心の充足なんだと実感しています。

いまこうして、幸せであると言える自分であることに感謝しています。
私は、別に宗教をしているものでは、ありません  (*^_^*)

    物欲のなくなってきたこの頃です。
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この回答へのお礼

binmichikoさん、こんばんは。

>「私達、人間は・・自分以外のものに対して、自分と比較をする習性があります。」
あっ、これです!。よく聞くことは!。
それでなんですが・・・、いきなりですみません!。これって、心理学者が発表したと思うんですが・・・
いったい誰が研究して、発表したんでしょうか??。
本なども何か知ってたら、紹介して戴けませんか?。

>「それらのものが自分から 離れていった時、改めて幸せであったなぁ~と認識させられるのかもしれませんね。」

これはあります。。。その時になってみて、初めて幸せだったことに気が付くんですよね。

>ちなみに、私の幸せの”ものさし”は、年を重ねるごとに、現実に存在するものでなく、心・気持ち・などの精神面に向けられています。

これには正直言って参りました。。。今まで全然気が付きませんでしたよ。
なるほどです。。。

まぁ、僕もこうやってパソコンやってられるぐらいだから、
シアワセって思わなきゃパチ当たっちゃいますね・・・(^_^;)。

binmichikoさん、貴重なご意見を頂きまして、大変ありがとうございました!。

お礼日時:2002/05/11 23:06

例えばですが、自分が欲しいモノがあって


友達の家に遊びに行ったらたまたまそれを友人が持っていて
「いいなぁ~。」と思う事はありますね。
幸せの度合いとまではいかないけど、そこに
「うらやましいなぁ」っていう感情は起きますね。

それが、「幸せの度合いを測るものさし」と直結するとは
思えませんが、そんな些細な事でも、自分の実情と
比較してしまう事はありますね。

あとは、「ないものねだり」という感情です。
「自分もこうなりたいのだけど、それもままならず
今現在の自分がいる。」と言うときは、つい自分の
ままならぬ欲求を満たされず、好きな事に熱中している友人の
環境などについて「うらやましいなぁ」
と自分とつい比較してしまう事もあります。

でも、結局「自分にとってなにが幸せなんだろう・・・。」
と私なりに突き詰めて考えると、確かに相手と比較もしますが
結局は、「自分の幸せは自分で見つけるしかない。」
(パートナーがいれば、その人とも話し合いをして考えます)
という結論に達します。

つまり、とりあえず目に付いたモノで「自分の欲求を満たすもの」
(モノに限らず、生き方とかも含めて)を持っている人と
比較はしますが、なんだかんだと言っても、最後は
「そういう意見も踏まえながら自分スタイル」を確立する。
これこそが自分の幸せだと私は思います。
しかも、それが「自分の手でつかめたときの気持ち」は
他人と比べて「いいなぁ~」と指をくわえて見ていたときの
何倍も幸せだと思います。自分の将来の糧になるのも
こういった方法で手に入れたモノにはかないません。
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この回答へのお礼

>「そんな些細な事でも、自分の実情と 比較してしまう事はありますね。」

ありますあります。ほんとはずかしいことなんですけどね。

結局、自分の幸せとは何かということを自ら定めないと、関心のないことでも、他人の幸せを見てうらやましくなったり、地に足がつかなくなってしまいますね。

>『「そういう意見も踏まえながら自分スタイル」を確立する。
これこそが自分の幸せだと私は思います。』

今さらですが、全く仰るとおりだと思います。
改めて大変参考になりました。carlton1967さん、ありがとうございました!。

<みなさんへ>
このことについて、心理学者の誰が言ったんでしょうか??。
あと、これらについて書いてある本など紹介してもらえたら、大変嬉しいです。

お礼日時:2002/05/11 02:00

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