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秀吉の天下統一は北条攻めにより完成しました。
北条氏はどうして最後まで秀吉政権に屈しようとしなかったのでしょうか?
周囲が次々と秀吉側に組してゆくわけですから、とても危険な状況ではなかったのでしょうか。

よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。

しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと
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北条氏は、「秀吉政権との戦いを引き分けに出来る」と思っていたからといわれています。



北条家は当時、自国の西に位置して親戚関係もある徳川家や東北地方で勢力を拡大している伊達家と、
同盟に近い関係にあったといわれています。

北条家の計算によれば、対豊臣の戦における背面を伊達家が掌握して、
正面を北条・徳川同盟軍が戦線を維持して、長期戦に持ち込む。
そうすれば、成立して日が浅い豊臣政権から造反者(島津家等)が出てきて多方面から豊臣政権を攻撃するようになる。
すると、豊臣政権は北条家に、有利な条件で講和を申し込まざるをおえなくなり、
「豊臣政権の天下統一が遠くなる。」となるはずだったのです。

実際には、北条家に味方してくれる者がいなくて逆に包囲戦をされて敗北しました。
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ひとつは関東という「僻地」にいたので中央の情勢に疎かったというのがあったと思います。

当時は、メディアのような存在がなかったわけですから、秀吉がどのくらいの登り調子であるか判断を誤ったところがあったと思います。
また、戦って負けを受け入れるならまだしも、戦いもせずに降伏するのはやはり戦国大名としてのプライドの問題もありますね。もし戦いもせずに降伏して所領を没収されたら、それこそ「こんな目に遭うならどうせなら戦っておきゃあよかった」と思うでしょう。

あとやはりことわざにもなった「小田原評定」でしょう。戦うべきか、否か。どっちつかずでだらだらと会議だけを続けてしまったことが最大の敗因でしょう。戦うなら戦うでそれなりの準備をすればまた多少も違っていたかもしれませんが、どっちつかずの態度が続いた結果ああいうグダグダの結末を招いたと思います。
ちなみに、日本史ではこれと全く同じ過ちが約400年後に繰り返されました。1990年に湾岸危機が発生したとき、日本の役人は何度も会議を繰り返し「日本がこの湾岸危機に何ができるか」を話し合いましたが、何ひとつ決めることが出来ませんでした。ついには、この日本の役人の会議は外国のマスコミにも「オダワラ・カンファレンス」と呼ばれる始末で、ようやく90億ドルの提供を決めたときには「トゥーリトル・トゥーレイト(少なすぎて、遅すぎる)」といわれる始末。挙句の果てに湾岸戦争後にクウェート政府がアメリカの新聞に出した祖国解放の感謝の全面広告の中にある感謝する国家の中に「Japan」の文字はなかったという「国際的に大恥をかかされる」結果となりました。
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既に多くの回答者様がお答えになっている徳川との同盟のことがありますが、私はやはり「小田原城」につきると思われます。

この巨大かつ堅ろう、広大なため城内に田畑、商家があるなどいままでの持久戦での無敗を過信した結果、「小田原に籠城すればいつか敵も疲弊し互角の戦が出来る」と進言した家臣も多かったのではないでしょうか。上杉、今川などとしのぎを削ってきた家柄から秀吉ごとき、との見くびり(島津氏もそうでした)があったとも考えられます。
合議制があだになっているのでしょう。
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補足すれば、北条氏の認識とすれば「世は戦国乱世」と考えていたと思います。


戦国時代は下克上で、一介の浪人が天下をうかがうことも可能だが、足元をすくわれてあっという間に落ちていく。
豊臣秀吉も今でこそ勢いがあるが、早々に滅びるであろう、そんな猿のような成りあがり者に名門北条氏が頭を下げるのは面目に関わる、兵を向けるといえば、東海道の大大名徳川家は反対してくれるであろうし、東北の諸大名や上杉などの名門大名は味方してくれるし、大阪が手薄になれば毛利などが攻めるから、多分大丈夫じゃないのかな・・・という気分はあったと思います。
確かに戦国の常識では、農繁期は戦が出来ませんし、長く領国を空ければ他国の侵攻を受ける、まあ半年ほど頑張れば諦めて撤退しちゃうよ・・・という楽観論、その上で大阪の猿退治は任せとけという勇ましい酒飲みの話が盛り上がり、臣従したほうがと言えば、お主それでも武士の端くれか、この臆病者めと罵倒され、言い出せない、そんな状況を見たお隣の意地悪爺さんの真田昌幸がちょっかいを出して、手を出せば秀吉様に言いつけてやるぞと罵詈雑言、余計引っ込みがつかなくなった。
こんな感じだったのでは。
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戦国大名としては甘い見方ですけど、勝算はあったと思います。


北条氏直の妻の督姫は徳川家の娘であり、暫く凌げば家康が寝返って味方してくれる、また伊達政宗なども味方に加われば、十分大阪方を退かせられると考えていたのでしょう。
当時の日本は新幹線など無い時代ですから、今で言えばアフリカか南米のどこかの国が攻め寄せてくると言われても現実感がありませんし、とりあえず持ちこたえれば同盟関係にあるアメリカ(徳川家)が助けてくれると信じてしまいませんか。
ただ、家康は三河の人質から大大名に成りあがり、その過程で自分の妻子も犠牲にする冷徹さをもった武将ですから、自分にメリットがなければ動かないということは容易に想像できますけど、平和ボケしていると見えないのでしょう。
そして秀吉の力を過小評価していた。
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北条家は戦国大名の草分け的な存在で,


一目置かれていたというプライドもあったのだと思います。
合議制による決定の遅さが主要因ではないと思います。

地元出身者として言えば,
もう少し早く降伏し,
関が原以前に徳川家についていれば,
長い繁栄が約束されたんだろうな,と思います。
実際に氏直は豊臣家の大名として,北条家再興の話があったようです。

転封されて小田原には いなかったかもしれませんが。
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Aベストアンサー

たしかに興味深いテーマですね。
多くの歴史小説では「勝者」となった秀吉側にスポットライトがあたっており、毛利側の状況についてはあまり確かな認識はないようですね。

定かではありませんが、確か秀吉との和睦のとき、すぐさま毛利方にも「本能寺の変」についての情報は入ったようです。もし、毛利方が後を追いかけようとすればできる状況であり、実際、当主の毛利輝元のおじであり、毛利全体の意思決定をしていた、「吉川元春」などは主戦論を主張していたようです。しかしながらここでもう一人、元就の子供で輝元のおじである「小早川隆景」という人が慎重論を展開し、彼の主張が通ったようです。

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私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

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江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
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120万石程度であれば、秀吉の死後家康が突出することもなかったと思います。

Aベストアンサー

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気がします。


というわけで、家康を関東に移封すれば上方の安全確保に繋がる、と秀吉が考えた場合、なんとかこの実力者のヘソを曲げることなく引っ越してもらうには、大盤振る舞いも止む無しではないでしょうか。本拠地移転やそれに伴う家康の家臣への言い訳?の為にも。


>結果ライバルをより強大化させてしまいました。
豊臣政権の繁栄、まではいかなくても存続を最優先にした場合、家康なんか肥らせとけばよかったんです。いくら肥ろうと大坂城の西の丸に入ろうが、ほっときゃよかったんです。あんな挑発をしている内は「豊臣家の筆頭大老」でしかなく、豊臣家の実力者ではあっても日本のトップには登れなかったんだから。

寧ろ挑発に乗った方々こそ、家康に日本のトップになるチャンスを進呈した方々。結果から見れば挑発に乗りやすい面子を除けなかったことが、秀吉の失策な気がしますが。

結果論でしかないのは重々。長文失礼。

う~ん、失策ですか。

個人的には、秀吉としては三河など5ヶ国から家康を追い出したかったんじゃ?と言う気がしなくもありません。大坂や京都により遠い関東に家康を追い出すことで、豊臣政権の中心地を"距離の防御壁"のようなもので守ろうとしたんじゃないかなーと。

その証拠、ではありませんが旧・徳川領には豊臣派的な大名を詰め込んでますし。家康に調略を面倒にするためか、かなり細切れに配置してますよね。まー配置された大名は関ヶ原ではほぼ家康方になるわけですが、そこは秀吉を責めちゃいけない気が...続きを読む


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