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西洋音楽の日本での受容について調べているのですが、
このことと開国後の軍事システムが密接に関係していることがわかりました。
西洋音楽が日本に伝わり、その後組織的に発展されるようになったのは、開国後に西洋軍事システムと共に輸入されたことを発端としているようです。
1854年に長崎海軍伝習所においてオランダ人教師から軍事学の一環として行進の際に隊の足並みをそろえるため、集団秩序における合図・号令のために西洋式のラッパや太鼓を使用したのが西洋音楽の始まりだそうなのですがここで質問です。

1.開国以後伝習所において初めてラッパなどで隊を整えるという方法を学んだということはそれ以前はラッパなどがない状態だったという意味だと思うのですが、
 ではどうやって隊に所属する大勢の兵たちを統率していたのですか?
 それとも、もともと隊で行動するという戦い方が日本にはなかったということですか?
 (武士は一対一の戦法をとっていたという話はなんとなく聞いたことがあるのですが・・・)

2.開国以前は海軍は存在しなかったのですか?
 (でも、鎖国中の対外政策としてあったとは思うんですが・・・)

よろしくお願いいたします。

A 回答 (7件)

1.戦国モノのドラマや映画なんかでホラ貝を「ブォォ~」と吹いているところを見たことがあると思います。

主にホラ貝や太鼓などを用いていたようです。おそらく、あらかじめこのリズムが来たら前進、とかこのリズムが来たら現状を維持せよ、とかを決めておいてそれで連絡していたと思います。
開国以前の日本古来の軍制と近代西洋式の軍制では全く違います。そもそも、現在のラッパで整列させたりという方式は16世紀のマウリッツ公が行った軍事革命を起源にしています。それまでは、西洋の軍隊でもラッパひとつで整列させたりすることはなかったのです。わかりやすくいえば、今みたいな厳しい訓練をしていなくて、もっとゆるゆるだったんです。この辺りを説明しようとするとそもそも軍隊とは・・・というところから話をしなければならないのでそれは止めておこうと思います。

2.当時の日本に海軍はありません。
徳川家康は、万が一反乱を起こされても幕府が倒されないために要所には徳川一族や長年の家臣を配置して容易に江戸に反乱軍が近づけないようにしました。しかし、それでもひとつ懸念がありました。それは、海軍を使えば東京湾から容易に江戸に近づけることです。そこで家康(徳川幕府)は各藩に海軍(水軍)を持つことを禁じました。そして、イザというときに海軍を作らせないために大型船の製造そのものを禁止したのです。後に江戸が世界有数の巨大都市となるとそれでは不便なので千石までの大きさの船ならOKということになりました(これがいわゆる千石船です)。ただし、マストは1本だけという制限つきです。そのために、日本の船はマストが折れると漂流するしかないという脆弱なものとなったのです。
そもそも、海軍の存在意義とは何ぞやというと「自国商船の保護」なのです。商船隊があって、その商船隊が海賊や敵国の海軍から襲撃されないように自国も海軍をそろえるわけです。江戸幕府は鎖国をしていて外国との交易がありません。当然、日本の商船隊も存在しません。だから、海軍は要らなかったのです。
解体新書が出た頃(江戸時代後期)に林子平(はやし・しへい)という人が「海を通じて我が国はオランダともひとつに繋がっている」と警告し海軍と海上・海岸防衛の必要性を説きましたが、船に乗ったことがない幕府上層部に海軍の存在意義が理解できるはずもなく「御政道に対する批判」と捉えられて彼の著書を焚書にしてしまいました。
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この回答へのお礼

大変丁寧な詳しい回答どうもありがとうございます!

なるほど、「音」とはそういうふうにして戦闘中に使われていたのですね。おもしろいです。
マウリッツ公という人のことは知らなかったので、調べてみました。
オランダ人だったということですが、鎖国中に出島でオランダと貿易していた頃
時期的にもそういった最新鋭軍事学の情報が日本に入ってくるチャンスがあったと思うのですが
実際には、受容が始まったのは開国後の伝習所でですよね?
出島での貿易というのは、そんなに制限されていたものだったのでしょうか?

「千石船」の話も大変興味深く読ませていただきました。
何の気なしに今まで目にしていた浮世絵などに描かれている日本の舟というのは確かにマストが1本だけですね!
そういった理由があったことを知って、おもしろいなあと思いました。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/06/21 19:45

No3です。

  追加の質問にお答えします。

長崎伝習所でオランダ海軍士官が教授にあたったのは幕府のお雇い士官で単身赴任でオランダ軍隊が常駐していたわけではありません。 
当時外国軍人を雇えるのはオランダしかなかったのです。

外国軍隊の日本常駐は明治以降、各地の外国租界に相当する地点に外国人保護を目的として認められました。 この為各地で紛争が起きています。  有名な堺事件はフランス海軍の水兵が日本人と喧嘩になりこれを収めようとした土佐藩兵と争いになってフランス兵が殺傷されました。  
フランス領事は関係した土佐藩兵全員の死刑を要求し、切腹に立ち会いを要求しましたがあまりの光景に驚き早々に退場しその後の処刑は中止となりました。

水軍時代の初期は海賊が水軍に変化する時代で徴税に応じなければ略奪することもありました。  通行税を納めれば水軍の旗印を掲げ保護下にあることを他の海賊、水軍に知らせました。
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この回答へのお礼

大変わかりやすい的確なご回答どうもありがとうございます!!

なるほど、世に言うあの「お雇い外国人」はこんなところでも活躍していたのですね。
彼らは明治以降になってから来ていたのかと思ってました。
この時代にすでにいたのですね!!

水軍時代の海賊って、海賊と言うぐらいなのでもっとあたりかまわず略奪をしているものと思ってました。
しかもその後に水軍に変化するとは、思ったほど野蛮な人たちではないのですね。
おもしろいです。

ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/23 00:34

#4です。

江戸時代というのは、基本的に「成長を認めない社会制度」です。武士の所得は基本的に上がりませんから、もし社会が成長すると町人が力をつけ相対的に武士の立場が弱くなり身分制度そのものをゆるがしかねません。実際、それがにっちもさっちもいかなくなって江戸幕府は滅亡したわけです。
さて、そんなわけですから、外国からの書籍の輸入となると非常に(色々と)厳しいものがあります。享保の改革で暴れん坊将軍吉宗がキリスト教以外の書籍の輸入を基本的に解禁にしました。しかし、そうはいっても読める人がいない。後にある町人が長崎の通詞(通訳)の話をまとめたエッセイを出したのですが、そこで「おらんだいろは」と題してアルファベットを書いたのがマズかった。たちまちのうちに禁書になり、版元も含めて厳しい取締りを受けました。
後に杉田玄白、前野良沢らはあの解体新書を出版しますが、医学書であるにも関わらずこれの発売は当局を刺激しかねないかなり命がけの出版でした。えっ、私はポルノの話をしているんじゃないですよ。洋書の話をしているんです。
国学者から蘭学はしばしば「蛮学」と揶揄されましたし、解体新書の登場で杉田玄白らは「オランダ外科」を名乗り始めて「外科」「内科」という言葉が生まれますが、それは西洋医学は医学の「外」であるという意味合いもあったようです(ですから後に江戸で初めて「オランダ内科」の看板を掲げた人は漢方医の猛攻撃を受けて廃業に追い込まれました)。
洋書の翻訳にはやはり辞書が欠かせません。初めての蘭和辞典「ハルマ和解」の登場が1796年ですよ。それでも、特に軍事関係の輸入はかなりデリケートな問題です。幕府は、当然西洋軍事技術の導入なんてする理由がないですね。もしどこかの藩が西洋軍事技術を取り入れた訓練などしていたらたちまち「謀反の企みあり」とお取潰しは逃れられません。
それでも日本にとって考え方を改めざるを得ない衝撃的事件が発生しました。アヘン戦争です。当時日本よりはるかに大国であった清帝国がイギリスに一方的にやられたというのは当時の知識人に大変な衝撃を与えました。そして、高島秋帆の進言でアヘン戦争の翌年に日本初の西洋式軍事演習が江戸の外れで行われました。その軍事演習があまりに江戸っ子に衝撃的だったのでその場所が「高島様の平ら」転じて高島平と地名になってしまったくらいです。
しかしその高島秋帆もあの悪名高い鳥居耀蔵によって投獄されてしまいます。幕府が海軍の必要性を痛感するにはペリーの登場をもってからです。

江戸幕府は武家政権ですから、交易を奨励することは町人の力をつけることになるので基本的に交易には消極的です。それに、逆に言えば交易をするとこちらの情報も相手に伝わるということです。あのシーボルト事件のようにね。
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この回答へのお礼

二度にわたる丁寧なご回答、ありがとうございます!!

「成長を認めない社会制度」という定義が大変わかりやすく納得しました。
なるほど、そんなにも皆敏感になって取り締まっていたのですね。

eroero1919さんの読みやすい文章にも助けられました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/23 00:12

素人です。


1.大部隊(数千)を整列・行進させるために、リズムを刻む小太鼓などを用いたのは、ナポレオン戦争の頃ではないでしょうか? それ以前は、全軍の合図としての音響はあったのでしょうが、横隊で、足並み揃えて敵弾の飛び交う戦場を前進(映画「戦争と平和」などに出てくるあのシーン)させるというのは、徴兵制度が生まれ、専門の兵士以外の大量動員が可能になってからのことだと聞いたことがあります。
日本の場合、10万人規模の軍隊と言っても、実際には各武将の寄り合い所帯です。その意味では、全軍を組織的に統括する音響は鉦、太鼓などかなり大雑把なもので良かったのではないでしょか。そもそも戦争自体が17世紀には無くなっていますし。
2.海軍という名前ではありませんが、幾人かの方がご指摘のように、幕府にも水軍はありました。御舟手奉行が世襲の旗本で「向井氏」と言います。役目は江戸湾の警備で、対外的な防衛という発想は無かったようです。
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます!

なるほど、そうですね。
開国以前は日本にはそういった音によった統制はないものと思い込んでいたので
大雑把なものだったとは言え、すでにそういう概念が存在していたということで
皆さまのご指摘には目からウロコでした。

蛇足ですが、色々調べていたら「御舟手」と名のつく町や地名がたくさんあるのが
おもしろいなぁと思いました。
水軍の名残かもしれないですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/21 19:53

音響による統制はかなり古くから日本でも行われていました。


しかし細かく定められてはいませんでした。  こらは統一された国軍ではなかった為です。

各藩バラバラでしたが押し太鼓といって敵陣に隊伍を組んで接近する場合などの歩調を整える工夫はありましたし信号にホラ貝を使用しました。
いずれにしても小部隊の集合隊ですから特に必要がなかったのです。

西洋では軍の規模も大きく統制は重要でしたから、音響の利用も細かく定められたのです。  軍楽隊の使用はオスマン帝国軍に始まったといわれます。  
前進、集合などは太鼓で、退却はラッパなど、前進も並足、駆け足、全速など音調を変化させました。

2.海軍というほどではありませんが日本でも各地に水軍といわれる組織はありました。 海上における軍隊で通行税をとったり警備を請け負うことを行っており熊野水軍とか毛利水軍(瀬戸内の水軍の集合体)が有名です。 倭寇もこれに含まれるでしょう。
これらは手漕ぎの和船か帆船で蒸気機関を備えた鉄船は明治維新後の海外からの輸入にたよりました。  それ以前は長崎の海軍練習所で江戸幕府がオランダ海軍士官を教官に雇い武装帆船により養成をしていました。
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この回答へのお礼

大変わかりやすい回答どうもありがとうございます!

他の皆さまも指摘されていますが、日本でも昔から音による統制というのは存在していたのですね。
おどろきました。
西洋軍事学が輸入されてから、西洋太鼓がわりと早いうちから実戦で使用されるようになったのは
もともと日本にそのような概念がありとっつきやすかったからなのかもしれないなと思いました。

「海」軍でなく「水」軍という言い方が
その規模の大きさを反映している気がしておもしろいなと思いました。
調べてみたら、領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで
大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかったとのことで、
その頃の太平の世の中が偲ばれました。

長崎の伝習所でオランダ人が教授にあたったということですが
鎖国中もオランダは出島に軍を駐留させていたのかご存知ですか?
それとも開国してから軍を駐留させるようになったのですか?
(不平等)修好条約をオランダと結んだわけではないのに
なぜオランダ軍がそこにいるのか疑問に思ったのですが・・・

お礼日時:2007/06/21 19:26

1:洋式軍事の結果


散兵方式が受容されたので、それまでより軍事行動単位は小さくなりました。
関ヶ原の戦いでは、だいたい2千~3千名が集団で軍事行動を取っていますが、最初に西洋式軍事組織を受容した長州と幕府との戦い、第二次長州征伐では、散兵の長州VS密集兵の幕府側となっております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E5%85%B5
19世紀に欧米では散兵が主流に。
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます!

なるほど。
第二次長州征伐の話、おもしろいですね。
このときは新戦法をとった長州側が(事実上)勝っているのですね。(色々な因果関係があるようですが)
もともとあまり歴史は得意ではなく好きではなかったのですが、
こういうことを知り始めるとおもしろくて止まらなくなってきてしまいます!

お礼日時:2007/06/21 18:51

1a 明治時代以前から、陣太鼓、法螺貝等音による部隊の統制は行われていました。


   複数の人間に、同時に指示するものとして、音は重要な役割を果たしていました。
  どちらかというと、銃砲を使用した戦い方を教わった、ということだと思います。

2a 開国以前にも、「水軍」という形で、海軍は存在しました。
   しかし、鎖国政策で、外国との接触を断ったので、外洋海軍として発達しなかったし、その必要もなかったということだと思います。
   「明」で、鄭和の大航海といわれる探検が行われたのに、当時の皇帝が禁止したため、海軍かできなかったのと同じでしょう。
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この回答へのお礼

回答どうもありがとうございます!

なるほど、昔から音による統制というのは行なわれていたのですね。
いくら規模が(西洋軍に比べて)小さかったとは言っても
やはりそのようなまとめ役がいないと団体行動は成り立たないですものね。
砲術については何も知識がなかったのでちょっと調べてみました。
http://www.egawatei.com/houzyutu.html
もしよろしければご覧になってみてください。
鄭和の大航海の話も始めて知りました。
大航海時代前の快挙なのに、あまり知られていないのは残念だと思いました。

お礼日時:2007/06/21 18:18

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