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キリストは人類の罪を背負って死んだと聞いたことがあります。一体なんに罪を背負ったのでしょうか?神を普及させた罪ですか?

A 回答 (10件)

キリスト教の中心教義のひとつに、「人は生まれながらにして、神に対する『原罪』を背負い、イエスは十字架での死をもってこの罪を贖った」という内容があります



質問の答え、「イエスが一身に背負った罪」は、この『原罪』なのですが、その内容は、旧約聖書の創世記に記されており、簡単に説明すると以下の通りです


神によってつくられた、最初の人間である、アダムとイヴは、エデンの園(楽園)で暮らしていました
しかし、ある日、邪悪な蛇に唆されて、神から食べることを禁じられていた、「知恵の木の実」を食べてしまいます
この実を食べると、善悪を知ることができ、神のような存在になると言われていたのです
この行為が、神の怒りに触れ、二人はエデンの園から追放されてしまいます
さらに、アダムには労働の苦しみが、イヴには子を生む苦しみと男への従属が、罰として課せられました

つまり、「知恵の木の実を食べた」という行為が『原罪』になります
この『原罪』は、遺伝によって、すべての人に受け継がれ、人は生まれながらにして神に対する『原罪』を背負っている、と考えられるようになったのです


また、この原罪を贖うのが、『贖罪』です
新約聖書には、ご存知の通り、イエスが十字架にかけられたことで、贖罪が行われたと書いてあります
旧約聖書では、贖罪羊(スケープ・ゴート)などが犠牲(いけにえ)として捧げられることで、贖罪とされていました
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アダムとエバが最初に犯した罪です。



エホバの証人の「聖書から論じる」にはこうあります。

『定義: ヘブライ語聖書やギリシャ語聖書の本文によれば,文字通りには,的を外れることです。神はご自分の理知ある被造物が到達すべき的を設けられます。その的を外すことは罪で、それはまた不義もしくは不法です。』

パウロはこう書きました。
「すべて罪を習わしにする者は,不法をも習わしにしています。それで,罪は不法です。あなた方はまた,かの方(キリスト)が現わされたのは[わたしたちの]罪を取り去るためであったことを知っています。そして,彼には罪がありません。 彼と結ばれたままでいる者はだれも罪を習わしにしません。罪を習わしにする者はだれも,彼を見たことも,知るようになったこともありません。 子供らよ,だれにも惑わされてはなりません。義を行ないつづける者は,かの方が義にかなっておられるのと同じように,義にかなっているのです。 罪を行ないつづける者は悪魔から出ています。悪魔は初めから罪をおかしてきたからです。神の子が現わされたのはこのためです。すなわち,悪魔の業を打ち壊すためです。」‐ ヨハネの第一の手紙 3:4‐8

定義の続きです。
『罪とは、すべて神聖な、神の性格や基準、道やご意志と調和しない事柄です。それには,間違った行ない,なすべき事をしないこと,不敬虔な言葉,汚れた考え,あるいは利己的な欲求もしくは動機などが関係することもあります。聖書は受け継いだ罪と故意の罪,人が悔い改めている一度の罪の行為と罪を習わしにすることとを区別しています。』

ですから、罪とは、神の考えからそれる事を意味しているようです。

参考URL:http://watchtower.org/j/
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「イエス・キリストの十字架刑での死は人々のあらゆる罪(原罪を含む)を清めるための代償となっている。

」ということだと思います。

これは、罪を犯した場合は代償として瑕のない動物の血によって神に許しを請うということの究極のもの(人間というか完璧な神の子)で、ユダヤ教からきているそうです。

日本でもお供えものをしたり、人身御供や百度石など命や労を供して神に何かを願ったり、怒りを静めようとするようなものだと考えると分かりやすいと思います。でも、これらのルーツはどこらかきているか調べると案外キリスト教、ユダヤ教になったりするかもしれません。これは単に私の推測ですので・・・。

さらに、「イエス・キリストは処刑後3日目に復活した神の子である。」このことを自分に罪があることを自覚した上で信じることがキリスト教であると思われます。

 自分に罪があることを自覚し、「許してください。もうしないようにします。」と悔い改めて、イエス・キリストの十字架での死の意味と復活を信じるならば、神の前ではいかなる罪も許されるのがキリスト教であると思われます。

 つまり、キリスト教は、ジェフリー・ダーマーのような連続強姦殺人犯だろうがなんだろうが、基本的に誰でも、どんな罪を犯していようと無条件に許されるというおどろくべき宗教だと思います。(もちろん、普通の国であれば、法律に違反すると、その法律を知らなかったとしても、当然なんらかの罪に問われ、罰せられます。)
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アダムとイブがエデンの園で神との約束を破り、禁断の実を食べた罪です。

そのためエデンの園を追放され、不完全な人間になり寿命があるようになりました。不完全な者から生まれてくる子孫もその罪を背負い不完全な人間になります。
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実はいくつも話があり、どれが本当の歴史なのか、誰一人も知らない というのが真実のようです。




聖書通りのイエスという人物が実在したか。
私はノーだと思います。
福音書だけでも矛盾がいくつもあり、どれが本当の話なのかわからないまま どの話も聖典に載ったまま現在にいたっています。


イエスがギリシャ語にて説教をしていたのなら、ギリシャ語による新約聖書を信じていいでしょうけど、設定はイエスはイスラエル本国で活動していたユダヤ人。

マタイの聖書は稚拙でよく意味がわからないとされます。
なぜ よくわからないのか。
ヘブライ語をギリシャ語に直訳しているから。

例えば「目利き」と言えば、物の価値がわかる という意味ですが、英語に<直訳>したらどうなるでしょう。

これと同じことが聖書に起こっている。
「わたしは受けなければならないバプティスマがある。」 
これだとイエスは磔刑になることを予測していたと推測される。
ヘブライ語に戻すと「私は与えなければならないバブティスマを持つ」。
磔刑になることを予測していたのではなく、裁くということを宣言したくだり。

このように誤訳づくしの内容が書かれているのが、今の新約聖書。

何故このようなことが起こったのか。
口伝で伝え文章で宣教をしないという方針がユダヤ教にはあったのですが、崩壊の危機にさらされたとき、口伝の内容を知っている人が殺されても、文書を保持すれば伝承していけるという考えからユダヤ教は文書化されていった。

ですが口伝で直接理解の度合いによって伝えるという手法が文書によっては取れないので、読み手によって解釈がまちまちになりだした。


後のキリスト教に発展するグループもそう。
ヘブライ語で伝わっていた話を、ギリシャ圏に住むユダヤ人に伝えるためには、ヘブライ語を彼らは知らないので、ギリシャ語に翻訳して伝える必要があった。

しかし、ヘブライ語による伝承を変えてはならないという制約があった。
仕方なくギリシャ語に直訳したわけです。
「目が悪い」というヘブライ語の意味はケチという意味。
ギリシャ語においても「盲目」を指す語彙にした。
ギリシャ語の盲目という語彙にはケチという意味は無い。
従って「イエスは盲目の人を癒した」と直訳したまま伝えることになってしまった。

それを聞いた人は「奇跡だ。神だから盲目の人の目が見えるようにできたんだ 信じれば自分も」となってしまった。


何を信じればなのか。
直訳されていて本来の意味を伝えていない言葉を信じて、それが何の意味があるのか。


元のイエス語録の意味はなんだったのか。
それを知る必要は無いのか。

誤訳されて奇跡の魔法使いとなってしまったおとぎ話を信じて、それをみんなにも信じてもらうために暴力で布教までして、一体それが何の意味があるのか。


勝った宗派が今に伝える聖書以外、少数ながら生き残っている福音書もある。
その信者も現在いる。


かたやトマスの福音書、ユダの福音書などは、聖典化するにあたって根絶された思想です。



で、イエスが人類の罪を背負って死んだとした派が、すばらしい思想だったから生き残ったのではなく、暴力を駆使し、別の伝承を伝える派を弾圧し迫害したため残っただけ。


初期の教父アウグスティヌスが原罪という概念を確立し、人にはどうしても消えない原罪があったが、神であるイエスが人間の姿を借りて人間界にやってきて、原罪を消すために十字架にかかった という話になってしまった。

それで人間には原罪が無くなったとなり、これを「よい知らせ」として世に知らせるというのが 福音(エヴァンゲリオン=good news)。
という派が暴力で勝ち抜いたので、そういう話になったまで。


キリスト教では原罪に関して言及しており、アダムとイヴが引き起こした罪が原罪であるとしています。
イヴは神が「食べてはならない」とした智恵の木と蛇に騙されて食べ神に呪われた。
アダムは神の言いつけを聞かず、人間の女性であるイヴの言うことを聞いたため、神に呪われた。

二人とも第一に神をもってこず、イヴは蛇、アダムはイヴを第一にもってきてしまった。

これが罪でイエスがその最も重き罪を肩代わりしてくれた というのが今の主流派の伝えるもの。


ですが、宗派によってはこの神は低レベルの神だとする派もある。
何故ならこの世に依然として不幸が蔓延しているから。
完璧とはほど遠い低俗な神で、本当の神は別におり、捕囚されてしまった人間を解放するため、蛇を遣わした という派もある。

蛇は古代では叡智の湾曲表現として使われていた。


捕囚されたものを開放するため、という思想だったものが人々を「人類には消せない罪があり、その罪をイエスが担って死んだ。 あなたがたのために死んだんです。 <反省しなさい!>」 とまた人を罪びとにして捕囚し閉じ込めた。


ループしている。

仏教ではこの無限ループから脱出することを解脱といったと思います。

トマスの福音書を読むと、まさにイエスが言ったことは無限ループからの解脱に該当する。
トマスの福音書だと、無限ループを好み自らチョイスして無限ループに入るもの罪人としているように思えます。

そして今の主流はイエスを拒否して無限ループを自らの意思で選んだと思えます。

イエスを拝みながら、イエスに背を向け、永遠の地獄を選んだことになります。
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イエス・キリストといいますが、イエスが名前、キリストは「救世主」を意味する称号なので、以下イエスということにします。


>>キリストは人類の罪を背負って死んだ
「人類の罪」とは「全人類の罪」のことで、イエスの罪ではありません。イエス以外のすべての人の罪のことです。キリスト教は人間を罪ある存在と捉えています。すでに#4さんが「原罪」について書かれていますが、この「原罪」という概念はキリスト教を理解するには欠くことの出来ない重要な概念なのでまずはこれについてすこし勉強してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
アダムとイブの罪を以後生まれてくるすべての人が背負うことになったわけです。イエスの死は、そうした人類の罪をふたたび贖(あがな)うためになされたものとキリスト教徒は解釈します。すなわち、イエスを信じることにより、じぶんたちの罪が清められ、永遠の生が約束されるのです。
 イエスは彼に反感を持つユダヤ人祭司たちによってローマ当局に訴えられ、十字架にかけられるのですが、その時の罪状はローマに対する反逆だと考えられます。十字架の上には「ユダヤ人たちの王」という言葉が刻まれました、「ユダヤ人たちの王」と称したということですね(イエス自身そんなことは言ってないのですが)。
 メル・ギブソン監督の映画「パッション」は聖書に忠実にイエスの受難を描いており、キリスト教を理解するのにお勧めです。
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原罪・・・人間が生まれただけで、背負っている罪


のためだと思います。
イブが約束事を破らなければ、私たち人間は、存在することもできなかった(楽園に永遠に2人で、暮らしていた)
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罪を背負わなかった、そう理解しています。



罪というのは罪の意識が作り出すものです。実際に存在しません。

カルマで考えれば、ありえますが、実際は人類のカルマは人類が作り出したものであり、自ら蒔いた種なのですから、教えどおり、人類自ら刈り取ることを教えたと理解すべきです
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キリストは人間ですが、神の子です。

マリアから生まれたけれど、ヨゼフと関係があって生まれた子供ではなく、神とマリアの子です。人間ですが、神なので罪は犯していないことになっています。

イエスの周りにいた律法学者とか、弟子たちとかは裏切ったり、自分の利益になるように行動したりという罪を犯しました。
実際にいつの時代のすべての人間がそういった罪を犯しているわけです。
イエスはそういった人間の罪を償うために死んだとされています。
神を普及した罪ではないと思います。
イエスの考えに不満を持っていた人にとって、イエスの罪は自分たちの考えとは違うことを言ったということにすぎません。
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簡単に説明すると・・


キリスト本人の罪ではなくて、キリストと縁のあったひとたちが、行った宗教的な罪、仏教的には悪業を背負って十字架にかけられ、死んだという意味です。

例えば、これ聞いた、見たという程度の知識なのですが
盲目だったかな、目の悪いひとを治してあげたとかという記載が、あったと思ったけど、この場合、その盲目のひとが、目が、悪い、見えないくしている罪をキリストが、背負ったが、ために見えたということになりますよね。
哲学的には"カルマ"とも読んでいますが。
つまり、こういうことです。
以上
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